寂寥のスープ
読了時間の目安 約43分
文字数 17,218文字
煙草の煙と喧しいBGMが、暖房のむっとした空気と混ざり合って薄暗い店内の天井あたりに畝る。僕は慣れた手付きでポケットからスマホを取り出し、時間を見た。
午前二時十七分。閉店の四時までまだたっぷり一時間以上もある。片付けの作業まで数えれば、労働の終わりはもっと先にある。なんだか余計に疲れたような気がして、ポケットにスマホを戻す。そしてその事実から目を逸らすように店内を見渡した。
うちは小さなバーだ。四つあるボックス席のうち、三つは埋まっていてそれぞれに盛り上がっているが、カウンター席はゼロ。カウンター担当の僕は手持ち無沙汰で、かれこれ二時間は騒々しい店内で一言も発さず、無意味な置物と化していた。
今この瞬間に僕が消えるイリュージョンを披露しても、誰も気づかないだろう。
「ナルくぅーん、お茶とアイスぅ!」
奥のボックス席でお客さんと赤ら顔を並べるママが、必要以上に黄色い声音で僕にオーダーを送る。ああ、僕が消えれば少なくとも酒の割り物や氷をテーブルに届ける奴がいなくなるから、もしかすれば気づく奴もいるかもな、なんてことを考えながら、ピッチャーとアイスペールをママのいる席へ運んだ。
「それにしてもナルくんはいつも仕事に淀みがないねえ、エライよ、エライ! そんで、今日も笑顔がカワイイね!」
ママの隣で上機嫌に酔っ払っている常連の社長が、注文の品をテーブルに置こうとして屈んだ僕の頭をわしゃわしゃっと雑にかき混ぜた。そう言われるまで、僕は自分が笑顔を浮かべていることに気づいていなかった。
「ママもさぁ、どこでこういういい子を見つけてくるの? ウチに欲しいくらいだよ」
「もーう、リョーさんったら若い子見つけちゃ、片っ端からいい子って言うんでしょ。ナルくんはうちの大事なカウンター係さんだから、あげられないわ!」
「いやあ、誰でもってわけじゃないよ、ほんとほんと。ねえ、ナルくん?」
社長は蕩けきった笑顔で、同意を求めるように首を傾げる。このお気楽な人身売買にどう答えればいいものかわからなかったが、どうせ酔っ払いだと高を括り、あーだのうーだのといった母音を間延びさせながらそそくさと席を辞した。早く安全地帯のカウンターへ帰りたかった。
しかし不思議とこういうタイミングは重なるもので、他の席からもおしぼりだのお菓子だの煙草だのと注文が相次ぎ、その合間に帰る客が現れもして、なかなかカウンターに戻れなかった。
そうして数々の雑用や注文をやっと捌いてカウンターに戻った僕は、すっかり手癖として染み付いた動作でスマホをまた盗み見た。午前二時四十二分。これだけ動けば時間もそこそこに過ぎただろう、という期待を嘲笑うような虚しい数字に、肩の重みがドンと増した。
うちの店はガールズバーのようなショットバーのようなスナックのような、いい加減な形態の店だった。どんなジャンルに属しているのか働く僕ですらわからない店だったが、こんな時間でも必ず女の子が接客する店として客には重宝されていた。
だからこんな時間でもまだ客は来る。勤労意欲にも愛店精神にも乏しい僕にとって客なんて来れば来るほど面倒なだけだが、特に三時を過ぎてから来店する客は最悪だ。そんな時間まで歓楽街をのたくっているような客は厄介者しかいないし、四時閉店がルールではあるものの、たった一時間で客を帰すほどママは奥ゆかしくない。早くて五時、遅ければ六時、もっと悪ければ七時ということもざらにある。
BGMとしてループするEDMがクラブのように喧しく、この場にいるだけでみるみる体調が悪くなる。こんな仕事をしているくせに、夜にも強くない。十二時を過ぎれば睡魔が精神を蝕み、ただ立っているだけで大きな苦痛を感じてしまう。
一刻も早く家へ帰りたい。お腹も空いたし、足も痛いし、眠くて眠くて仕方ない。
どうして僕はこんな仕事をしているんだろう? 嫌なら辞めればいいのに。
辞めてどうする。どうせどこにも行くところなんてないのに。
疲れてくるとつい繰り返してしまう堂々巡りの思考。就活に失敗し、定職に就きそびれてから四年。心底合わない仕事だと思いながら、社会に踏み出す勇気を持てないままズルズルとこのバイトを続けていた。
同級生たちがみんな悩んだり苦しんだりしながらも、なんだかんだ社会に溶け込んで上手くやっていることは、SNSを通じてなんとなく知っている。モラトリアムに半身を置き忘れてしまった薄馬鹿は僕だけだ。彼ら彼女らとはすっかり疎遠になって、学生時代に繋いだフォローを窺うくらいしか繋がりはない。
この店だって立派な社会の一部のはずだ。なのにどうにも、僕は社会の仲間入りをするのに失敗したような、爪弾き者にされたような気持ちにしかなれなかった。
かつて席を並べて笑い合って、馬鹿なことをやって騒いで、夜通し喋り倒した友人たちは卒業からそれっきり一度の連絡もなく、ただSNSのタイムラインだけは今日も彼らが元気に生きて、一生懸命な人生を送っていることを実況してくれる。そこに僕の収まるスペースはなかった。
眩しくて、羨ましくて、恥ずかしくて、悔しくて、なによりなに一つ言うべき言葉が見つけられなくて、日々更新されるタイムラインにリプライ一つ飛ばせない。学友だった人々は、今や遠い遠い遥かな異国の住人のようだ。
ああ、身勝手な自己嫌悪が押し寄せてくる。もう嫌だ。帰りたい。寝たい。頼む、もう誰も来ないでくれ――そう願った矢先、カランカランと扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませぇー!」
スタッフ全員の声が木霊する。僕も同じように諳んじながら、さっとスマホを見る。二時五十三分。いやらしいほど畝る時間の遅さ。見なければよかった。
反吐を戻しそうな思いでおしぼりを数本用意しつつ、棚からアイスペールやグラスを取り出す。視界の端で人数と顔を確認する。
最悪だ。太い身体に下品さの漂う脂ぎった顔。愚痴と説教が長いことに定評のあるゲンさんだ。
「いやあ、こんな時間に悪いねえ」
悪いと思ってるなら来るな。そんな恨めしさをおくびにも出さないよう気をつけながら、ゲンさんのボトルを思い出す。確か鏡月と黒霧島、あとマッカラン。この人は日によって飲むものも飲み方も違う。先読みしづらいところも嫌いだった。
「ぜーんぜん良いわよぅ、ゲンさん! あら、一人? 珍しいね」
酔っているとは思えないほど機敏な身のこなしでボックス席から抜け出したママが、ゲンさんの上着をクロークに仕舞う。
「アフターするつもりだった子が酔い潰れちゃってさあ。このまま帰るってのもね、って思って、一杯だけね」
「じゃあカウンターのほうがいっか。ナルくーん、お願いね!」
ずっと空席だったカウンターに、よりにもよってゲンさんが一人。世界で一番嫌な1on1だ。僕の精神は下限を知らず落ち込んでいく。それでも嫌だと言うわけにもいかず、どっかと座る彼におしぼりを渡した。
「ゲンさん、今日はなんになさいます?」
「そうだなー、もう今日は大分飲んだからなぁ……生もらおうかな」
予め用意したものが全部無駄になったことに心の中で舌打ちしつつ、冷蔵庫から冷えたグラスを取り出してサーバーからビールを注ぎ、ゲンさんの前に差し出した。
「ナルくんもなんか飲みなよ」
「はーい、ありがとうございまーす」
ありがとうと抜かした今の僕は笑顔なのだろうか。自分の表情筋の具合すら測れないままほとんど緑茶の焼酎割りを作って、ゲンさんのグラスにカチンと合わせる。
「じゃ、ゲンさんいただきまーす!」
「ういういー、かんぱーい」
どうやら相当飲んできたというのは本当らしい。グラスには口をつけただけで、泡の位置がほとんど変わっていない。もう飲めないほど酔っているくせに、なぜ飲めもしないものを飲みにわざわざバーへ来るのか。その謎を解き明かす日はきっと永遠に来ないだろう。
「ナルくんってさあ、幾つだっけ?」
「あー、二十五ですね」
「二十五かあ……。ふうん……」
何気ない質疑応答のやり取りでなにが気に入らなかったのか、ゲンさんはくぐもった声を漏らしながらギロリと睨むような視線をこちらに向けた。
まずい流れだ。彼がこうやって唐突な質問をぶつけてくる時は、決まってなにがしかを語りたい時だ。
それもそれとして、自分で自分の年齢を改めて口にすると、一層気が重くなった。
二十代の半分近くをこんなところで過ごしている虚無感。唯一の居場所を〝こんなところ〟としか評せない不甲斐なさ。僕はなんでここで働いてるんだっけ。
「っていうことはさあ、ナルくんってさとり教育なわけ?」
ほら来た。
この胡乱な目つき。絡みつくようなじっとりした声音。今日は愚痴&説教モードだ。
「んー、まあ、そっすね……」
なにも否定できない。まずい。すぐに話を逸らさないと長々と説教を聞かされる。
しかし磨り減った自律神経が悲鳴を上げる脳みそは、ロクな話題を思いつかない。
「じゃあさあ、ナルくんならわかるかな? 最近の子の気持ちっていうかさあ……」
「気持ち……っすか? えーっと、例えばどんな……」
「んー、なんてーの? 言われなきゃなにもやらない、とか、こっちに話を合わせようとしない、とかあ……まあプライベートを大事にしたい世代ってのはわかるけどさ、もうちょっとこう、仕事に対して熱意って言うか、学ぶ姿勢みたいな? もう少し積極的にならんもんかなって」
酔いのせいか曖昧な言葉尻がふわふわしているものの、とりあえず〝漠然とした若者像〟を批難したいのだと理解した。
年長者が自分より若い人間を謗る習性は古代ローマ時代の文献にも書いてあったそうなので、ゲンさんだけが特別にこういう意見を持っているわけではないのだろう。
ありふれていてわかりやすくて、聞かされる方はたまったものじゃない話。
こんな時間の歓楽街で、ゲロと一緒に吐ければそれでいい話。
でもゲロなら、トイレで吐いてくれねーかな。
「もうさあ、取扱説明書がほしいわけよ、こっちは。わからんもの、なに考えてんのか。やれって言ったことはやらない、わからないことは聞きに来ない、ちょっと残業を頼もうもんならプライベートがどうたらこうたらって。仕事もしねえくせにさあ、言い訳だけはいっちょ前なんだよね。俺も若い頃は仕事できてたわけじゃないけどさ、もう少し素直だったと思うがねえ」
ゲンさんはグラスに口をつけてビールを飲むふりをしながら、饒舌にべらべらと捲し立てる。愚痴、説教、自分語りのスーパーコンボだ。
ゲンさんの経歴にも、部下だか取引先の人間だかわからない〝漠然とした若者〟にも、欠片ほどの興味も湧かない。かなり薄めて作ったはずの緑茶割りから香るアルコールが、どんどん強くなっていく。不愉快な酩酊に身体が拒絶反応を見せているが、異議を差し挟む余地もなく捲し立てる異物の前でできることもなく、ちびちびと毒薬のようなそれを流し込むしかなかった。
「ナルくんはさあ、どうなの? 将来のこととか、考えるの?」
なにもかもを聞き流そうとした矢先、致死性の毒が塗られた矢が僕の眉間を穿った。
将来――。
ただひたすらそれに憧れを思い描いて、期待していた僕がいたはずだ。それに向かって走っていた僕だっていたはずだ。そういう記憶は確かにある。
なら、今ここに立って苦々しく毒を啜る僕は――こんな酔っ払いのおっさんに語る夢さえない僕は、誰だろう?
こんな将来になるはずじゃなかったなんて、安い後悔。
僕は、どのくらい過去から間違えたのだろう。
「いやぁ、っすねぇ……」
おいおい、いくら窮していたって「っすねぇ……」はないだろ。なにか紡ぐ言葉が、続ける会話があるだろ? あるはずだ、あるはず、なにか、なにかが――。
――なにもない。
不意にぎゅうっと鼻の奥が痛んだ。まさか、まさか、泣きそうになっているのか。
他のみんなは明るい太陽の下、一生懸命働いて、キャンプに行ってバーベキューして、ディズニーランドで遊んで洒落たカフェに行って、結婚して子供が生まれて。同じ学校に通って同じように生きていたはずなのに、どうしてこうも人生の速度が違うのだろう。
目まぐるしい彼らと、泥のように停滞する僕。見えないほど遠くへ行ってしまった彼らに掛ける言葉すら見つけられなくなって。深夜の歓楽街の隅で無意識にニヤつくことだけが取り柄になった僕。その差に泣こうとしているのか。
「へいへーい、なに盛り上がってるのお?」
その時、するすると近寄ってきたママが流れるような動作で、ゲンさんの横に座った。
「んー? 今の若い子はよくわかんないなって話だよ」
「あー、若い子ねー。まあ難しいよね。あたしもよくわかんないもん」
「ママはさあ、どうしてるの? 若い子の教育ってさ」
「んー、細かいこと言うのやめたかな。あんまりやいやい言ってもさ、小うるさいババアだって思われるだけだもん!」
「ハハハ! ババアって、ママいくつよ!」
「は? 十八ですけど? ねーねーゲンさん、あたしも一杯飲みたい」
「未成年が飲酒するのぉ? まあまあいいや、ナルくん、好きなの出したげて」
「ひぇーい、じゃあドンペリ、ピンクでぇ!」
「うぉおい、とんでもない店だな、ここはぁ!」
ママの軽妙なジョークに、辛気臭かったゲンさんの顔がパッと華やいだ。さすが、身一つで酔客を相手に何年も商売をしている人は頭の作りが違う。どう見ても泥酔しているようなのに、ほんの少しのやり取りで客の心をくすぐるテクニックは衰えない。
しかもゲラゲラ笑って注意が逸れた隙を縫って、ママは僕にパチパチっと二度ウインクを送った。これは『もう飲みたくないから、レモンサワーに偽装したレモネードを出せ』という合図だ。それに呼応して酎ハイのサーバーを動かす素振りを交えつつ、手早く作ったレモネードをママに差し出した。
「はーい、ゲンさんカンパイねー。いただきまーす」
「はいはい、カンパーイ」
カチンと儀礼的にグラスを合わせるゲンさんに、疑う様子はない。意地の悪い時であればアルコールチェックなどと言ってママのグラスを引ったくり、この偽装を見破ることもあるが、今日はそういうことを思いつかないくらい出来上がっているようだ。歓楽街特有の下らない騙し合いに嘆息しながら、ゲンさんの伝票にしっかりとレモンサワーの料金を書き込んだ。
「んまーい! この時間に飲むレモンサワー、サッパリしてマジうまい」
「あーあー、もうおっさんじゃん。もうちょっと可愛く飲めないの?」
「この時間はもうむーりー。可愛さとか、十一時くらいに品切れになった」
「あーそー。んでさあ、ママはどう思うの、最近の若い子について」
「えー? 若い子、ねえ……」
まったくアルコールの含まれていない偽装レモンサワーをちびちびと啜りながら、胡乱な瞳でぐるりと店内を見渡し、最後に僕の目をちらと見た。
「まあ、人それぞれじゃない? 若いからこういうヤツ、って感じには考えないけど」
ママの視線はゲンさんと僕との間を行ったり来たりする。きっと〝若者〟に含まれる僕に配慮して、言葉を選んでくれているのだ。
そんな優しさがなぜか、僕の心を余計にチクチクと刺激する。
「まあまあ、確かにね……」
ゲンさんは自分の考えに賛同を得られなかったせいか、心持ち不機嫌そうな表情を浮かべてまたビールを飲むふりをした。そんな些細な変化を目ざとく見抜いたママは、大仰な溜め息を吐きながらグラスをドンとカウンターに置いた。
「でもまあ、確かにちょっとわけわからんって子もいるわよね。どういう神経してんのっていうか、なに考えて生きてんのって言うかさ」
ママが翻意した途端、ゲンさんは大きく頷きながら身を乗り出した。
「そうそう! ちょっと叱ってやりゃあぶすったれて。俺も若い時は生意気も言っただろうけど、素直さがもっとあったと思うんだよ。口を開けばやれパワハラがどうの、プライベートがどうのって。仕事とプライベートを分けんのは大事だよ? でもさ、時間がぶった切れてるわけじゃねえんだからさ、ある程度は繋がってきちゃうわけよ。どんなに気遣ったって、完全に分けることはできないわけ。わかる?」
ゲンさんは我が意を得たりとばかりに、さっき僕にも言ったことを流暢に繰り返した。ママはうんうんと頷き、そうね、とか、そうそう、と肯定を交えながら、さりげない動作で煙草に火を点けた。それを咎めることもなく、ゲンさんはさらに続ける。
「なんつうのかな、欲ってもんを感じないんだよね。金がほしい、恋人がほしい、車がほしい、ってさあ、人間には大事なことでしょ。それがないから仕事がテキトーでさ、今のままでいいやって思うんだろうなあ」
そう言い終わると、すっかり泡の飛んだビールをぐいっと煽った。
いつの間にかゲンさんの目尻には、少しだけ涙が溜まっていた。僕には共感できないが、彼にはよほど悔しい問題なのだろうか。あるいはただ酔っているだけかも。酒ではなく、自分に。
ママは紫煙をふーっと吹き出して、どこを見るでもない遠い目をしながら頬杖をついた。
「まあ、欲は大事だからね……。したいこと、ほしいもの、目指すもの……それがなきゃ、仕事なんてやってらんないわね」
「執着しねえんだよな、あいつらって。しがみついてやるぞ、ここで踏ん張ってやるぞってもんが全然ない。だからちょっとイヤになったら簡単に辞めちゃうし、万事そういう感じだからさ、じゃあお前、なにが大事なんだよって聞いても、なんも出てこないんだよな。プライベートプライベートつって、その空き時間でなにしてんだって、別になんもしてないんだ。執着がねえから」
「いわゆる〝さとり〟っての? 無欲って言えば聞こえはいいけど、つまり無趣味でしょ。プライベートってのも、ただ仕事から逃げるための時間ってだけで」
「そう、逃げてんだよな。あいつら、人生から逃げっぱなしなんだ」
酒の勢いに任せて加速し続ける二人の軽妙な会話は、その全てが機関銃のように僕をぶすぶすと貫通した。まともに二人の顔を見られなくなって、どんどん俯いていく。
不定形だった〝若者像〟に輪郭が与えられ、具体性が増していく。古代ローマから脈々と続く酒肴の話だったものが、恐ろしいほどに現実味を帯びていく。背中や脇に汗がびちゃびちゃと滞留する。
歓楽街の隅で、たかが酔っ払い二人の世間話。午前三時十二分。
二人にとっては普段感じている、ほんの些細な日常の不満の一つであって、しかしそれが僕にとっては閻魔大王の前で行われる弾劾に等しかった。
〝僕 〟のことを言っているつもりじゃない。
でもきっと〝若者たち 〟のことを言っている。
それはつまり、回り回って僕が責められているのと同じだ。
見も知らない誰かを的にしているようで、その誰かを〝あいつら〟と不定の代名詞に置き換えると、意図せずともその範囲は拡がる。欲もなく適当な仕事でその場を凌いでいるのはお前だ、そうやって人生から逃げっぱなしなのはお前なのだ、と。
ママとゲンさんの顔を盗み見た。
ゲンさんの涙ぐんだ横目も、ママのばつの悪そうな伏し目も、僕を見ていた。
そうか、そうだよな。ここじゃ僕こそが若者代表だ。でなければ僕に若者の在り方なんて問わなかっただろう。質問の体をしていても、目的は決まっていた。暗に僕をスケープゴートにしたかったのだ。面と向かって言えばパワハラになってしまう、誰かの代わり。
それに気づかないほどママは鈍くない。百戦錬磨の会話術を持つ彼女は、その標的になった僕を確かに救出しようとした。一度だけ反論したのがそうだ。
でも所詮は客と店。客の機嫌を損ねてまで突っ張るほど大事な局面ではない。僕が穴だらけになって立つ瀬があるのなら、今日のところはそれでいいと判断したのだ。
気色の違う二つの視線。でも本音のところで共通している意思。だから解り合える。
悪意でなく、割と本気で不思議がっている。
なぜ、なぜ〝若者たち 〟は――。
「だからさあ、つい聞いちゃうんだよ。お前ら夢はないのって。将来どうすんのって」
必殺の一撃。僕の自尊心はその言葉で、木っ端微塵に吹き飛んだ。
どうすんの? そんなもの、僕こそ知りたい。どうすればよかった? いつ、どうして、間違った。夢がなければ、欲するものがなければ、生きていてはいけないのか。
ただ息をするだけで満足していては、いけないのか。
向かう場所がなければ、ここに居てはいけないのか。
ママは煙草をギュッと揉み消し、カラカラと笑いながら大仰にお手上げのポーズをした。
「宇宙人よ、宇宙人! あたしたちとは違う生き物なの、そういう個性なの! 認めてあげて、ゲンさん!」
少し陰鬱になった雰囲気が、その一言で雲散霧消した。ゲンさんもつられるようにゲラゲラと笑って、またビールをぐいっと煽った。
「なるほどなー。嫌だねえ、俺もついにおじさんになっちゃったってことか! どうだいナルくん、俺たちってもうおっさんとおばさんかな?」
そう問いかけるゲンさんになんと答えたのか、もうわからなかった。
ただ酔いと雰囲気で外れた箍は外れたままになるのか、僕が発した言葉でもやはりゲラゲラと笑っていた。
宇宙人。その言葉を何度となく反芻する。
銀河の果てほどに、この人たちとは距離があるのだ。
この人たちと同じ時代、場所を共有しながら、なに一つ解り合えない。
だって二人は目の前でおかしそうに笑うのに、僕は泣きそうなのだ。どうして泣けてくるのかさえ、わからないのだ。ただ信じられないほどの疎外感があった。社会の爪弾き者という自覚の所以は、どうやらここらにあるらしいということだけわかった。
それから上機嫌になったゲンさんはカラオケを三曲歌い、ビールを半分以上残して帰った。それに続くように他の客たちも次々と引いていって、閉店十五分前には誰もいなくなったので、今日は早仕舞いということになった。
「みんな、今日もおつかれー」
最後の客を見送ったママが店内に戻った時、先程までいっぱいに浮かべていた愛想はどこへ消え失せたのか、殺し屋のような顔になっていた。ボックスで接客をしていた女の子たちもぐったりと酔って、みんな無言でスマホを弄っている。
けたたましかったBGMが切れ、客もいなくなった店内は同じ店とは思えないほど静まり返って、僕がグラスを片付ける音だけがカチャカチャと侘しく響いた。
小さい店に特有の雑用一人という体制は、退店間際のこの時間が一番物悲しい。酒と色欲で満杯になっていた場所が、定刻を過ぎれば誰にも必要とされていない廃墟のようになるからだ。自分の居場所が虚しく飾られたところだと、つくづく思わされる。
亡霊のような表情で座り込む女の子たちを横目にあくせくとゴミを片付け、金庫のお金を精算して、手早く退店の準備を済ませる。
「ママ、終わりました」
今日の売上をまとめた茶封筒を、カウンターの隅で煙草を吸っていたママに差し出す。ママはそれをぶっきらぼうに受け取って、さっと厚みを確かめる。
「ま、今日はこんなもんか。よーし、じゃあみんな、帰ろー」
雑に煙草を揉み消したママが立ち上がると、みんなもそれに無言で続いて、バラバラと店を出ていく。別に仲が悪いわけではない。酔いと疲労で返事や挨拶を発することさえ億劫になっているだけだ。
そうわかっていてもこの有様は悲惨としか言い様がなく、蟹工船に乗せられた船乗りのようなその哀愁が、僕の肩にもずんずんと重みを増していく。
店の外に出ると、十二月のきりりと冷えた空気が僕の身体をすり抜けた。
うちのような店に送迎の車なんて上等なものは、もちろんない。みんなタクシーで三々五々に帰るのだ。店の前で口々にお疲れ、またねと言いながら散らばっていく彼女たちの背をぼんやり見送りながら歩き出そうとしたら、ママに呼び止められた。
僕の横を通り過ぎながら右手を上げ、停めたタクシーに乗り込みながら言った。
「さっきの、別にあんたのこと言ったんじゃないよ。だからあんま深く気にすんなよ」
酒焼けした低い声はナイフのようで、胸をドスッと突かれた気がした。
わかっている。ママには従業員として十分に可愛がってもらっている自覚はある。
だから感じた疎外感をそのままに、もうずっと離れていようと思った。解り合おうと思うから辛くなる。
下手に歩み寄らないでくれ。あなたと僕は宇宙の果てほどに遠いのだから。
バム、とタクシーの扉が勝手に閉まった。
窓を半分ほど開けて、酔いの醒めない瞳をこちらに向ける。
「あんた、なにで帰るの? タクシー代出そうか」
やめろ。あなたが優しく、人の上に立つ人間として十分な器量を持つ人なのは知っている。きっと隠し切れないくらい僕の顔がしょぼくれていて、心配してくれているのだろう。
でも、やめてくれ。僕はあなたにゲンさんのサンドバッグとして捧げられたのだ。
今更憐れまれたって、余計に惨めなだけだ。
「……大丈夫です、地下鉄で帰ります」
「そお? 始発までまだかなりあるけど」
「腹減ったんで、牛丼屋でも寄って時間潰します。大丈夫です」
「そっ、じゃあ気をつけて帰ってね。おつかれ」
それだけ言い残し、ママの乗ったタクシーは軽やかに走り去っていった。
大丈夫大丈夫って、なにが大丈夫なんだろう、などと考えつつ、寒風に首を縮めながら暗い早朝の道を歩き出した。
牛丼屋に寄ると言ったのは嘘だ。僕の家はここから歩いて四、五十分くらいで着ける距離にあるので、帰れないことはない。始発まで酔客に混じって牛丼屋で時間を潰すなんて真っ平だ。
歓楽街の人影はさすがにまばらだが、それでもまだチラホラと彷徨う人々がいる。
午前四時も回った今頃、こんなところでのたくっている彼ら彼女らは何者だろう。
何者であれ、きっと地球人なのだろう。僕とは違う人々だ。
歓楽街を抜けて、ほとんど車の走らない大通りに沿って歩く。
冴えた空気には湿った匂いが混ざっていた。少しでも気分を上げようと耳にイヤホンをねじ込み、好きな音楽を流してみるが全く心に響かず、すぐに外してしまった。
この上なく、惨めだった。
ああやって漠然としたまま滅多打ちに遭うことは、なにも今日が初めてではない。
土地と商売の性質上、客のほとんどはある程度の金や社会的地位を持つ、言ってみれば僕より〝上〟の人ばかりだ。それでも社会という大きな枠組みの中ではやはりちっぽけでもあるから、僕みたいな〝下〟の者を気軽に突きに来るのだ。
僕が他人に誇れるなにかを持っていれば、こんな思いをすることもないのだろう。
自分で自分の居場所をきちんと作れる人なら、こうはならないのだろう。
なにも持たない空虚さを孕んだままあんなところで突っ立っているから、そうすることができる人からすれば、あれこれ言いたくもなるのだろう。
びゅうと一際強い風が吹き付ける。
寒さで耳が痛くて、悲しくて寂しくて、空腹だった。
なんでもいい、誰でもいいから、甘えてしまいたかった。
でも午前四時に地球を彷徨う宇宙人に、そんな宛はなかった。
せめて温かいものが食べられればいいけれど、こんな時間に開いている飲食店は限られている。どこか、ないか。なにか、ないか。
歩きながら考えを巡らせているうちに、駅裏にあるラーメン屋を思い出した。
ラストオーダーが四時半のそのラーメン屋は特別美味しい店ではないが、僕の勤める店が終わった後でもやっている唯一のところだ。店長が柔和なお兄さんで、ゆるく会話してくれるのが心地よく、こういう季節になるとつい寄りたくなる。本当は毎回でも寄りたいところだが、店の終わる時間が伸びてしまったり、金銭的に余裕がなくて行けなかったりするので、一週間に一度行けるかどうかという頻度だ。
スマホで時間を確認すると、まだラストオーダーまで少しあった。
僕は少し速歩きになって、冬の街を足早に切り抜けた。
「らっしゃい! おっ、ナルくんじゃないですか! 久々ですねえ」
店に入ると、温まった空気や空腹をくすぐる匂いとともに、元気な店長の声が出迎えてくれた。客はおらず、バイトの女の子が閉店の準備を始めかけていた。
「ごめんね、毎度遅くて。帰ったほうがいい?」
「全然余裕っすよ。いつものにします?」
嫌な顔ひとつせず、手元はもういつも頼んでいるとんこつラーメンの準備に取り掛かっていた。僕みたいなたまにしか来ない客の名前を覚えていてくれたり、その注文まで覚えて手早く進めてくれたりする優しさに心を解されながら、じゃあそれで、と返した。
しかし今日は店に入る直前、また心が打ち砕かれるものを見てしまった。
「あのさ……戸に貼ってあったんだけど、あれ……」
「ああー……そうなんすよ。この辺、区画整理の対象になっちゃって」
「じゃあ、ほんとになくなっちゃうんだ、ここ……」
華麗な手さばきで麺の湯切りをする店長の顔は、苦々しげに歪んでいる。横で洗い終わった丼をゆっくりと片付けているバイトの女の子も、残念そうな声をあげた。
「なくなっちゃうっていうか、移転なんですけどね。まあ、ここがなくなっちゃうっていうのは変わりないか……」
僕が店に入る前に見つけたのは、一ヶ月後このラーメン屋が入る長屋ビルが取り壊しになるため移転するという知らせと、その移転先の地図だった。その場所はここから一ブロックほど先なので、それほど遠くになるわけでも、永遠になくなってしまうわけでもないのだが――僕は改めて店の光景を見回す。
油で汚れた黄色い裸電球。すっかり茶色くなった壁一面のサイン色紙。
たぶん十年くらい前のアサヒスーパードライのポスター。くたびれきった丸椅子。
どれもこれも煤けていて、時代に取り残されたような雰囲気があって、全体的にピンボケしたようなセピア色の店だ。初めて来たのは確か一年くらい前だけど、もっとずっと前からこの店に通い詰めていたような愛着がある。
この建物は取り壊される。移転先は真新しくなるだろう。
同じ店であって、同じ店ではない。
たとえば今日みたいな追い詰められた夜にフラッと立ち寄れば、それだけで心を解きほぐしてくれる――ここはそういう大切な場所だったのに。
「あいよっ、とんこつラーメン、一丁上がり!」
カウンターの向こうから店長の逞しい腕が伸びてきて、目の前に湯気を立てるラーメンが自信満々に置かれた。どう見ても大盛りだった。
「店長、これ……なんか多くない?」
僕が恐る恐る確認すると、店長は悪びれない顔でニカッと笑った。
「あーすんません、手ぇ滑っちゃったんすよ。だから今日は無料で大盛りってことで」
「ええっ、マジすか。いいのかなあ」
「ぶっちゃけ、半端に麺余っちゃって。だからプレゼントっす、プレゼント」
ヘラヘラと笑う店長の言葉は、どこまでが本当なのかわからなかった。
でもラーメンを無料で大盛りにしてくれたことよりも、僕という一個人をちゃんと認識して、好意的に接してくれるということが、なにより嬉しかった。
「あーっ、店長、またそんなことして。オーナーにチクっちゃお」
「いいよー。そんじゃあミヨちゃんが一昨日、めっちゃ遅刻してきたことも言うわ」
「やめてやめて、うそうそ! 絶対言いませんって!」
女の子は店長の腕をポカポカと叩きながら、可愛らしい笑い声を上げた。
ミヨちゃん――店長がそう呼ぶのを聞いて、僕は初めてここに勤めている顔なじみの人々の名前を覚えていないことに気づいた。
店長とミヨちゃん、それと今日はいない副店長と、前歯のないお兄さん。
この四人のうち、誰かがいたりいなかったりする。
「今日、副店長と、あの……もう一人のお兄さんは?」
カウンターに置かれた小瓶の蓋を開け、おろしニンニクを山のように盛って、熱々のラーメンを啜りながら訊く。
「あー、二人とも今日は休みっすね」
「あの二人も問題児ですよね。副店長はメニューにないものを勝手に作っちゃうし、小島さんは釣り銭の計算をいっつも間違えちゃうし。この店でまともなのはあたしだけかぁ」
「はあ? 遅刻王のお前がなに言ってんの? そう考えるとこの店、やべーヤツしかいねえな」
濃厚なニンニクと豚骨の香りが口いっぱいに広がるのを感じながら、夫婦漫才のような二人のやり取りに笑ってしまった。
確かに前歯のないお兄さん――小島さんはいつも釣り銭の計算が怪しくて、お釣りが十円か二十円多かったり少なかったりすることがあった。決して褒められたことではないが、電子マネー全盛期のいま、そんなやり取りができるのは貴重なことだと思っていた。副店長は余った野菜だのラーメンの具だのを炒め物にして、訳のわからない料理を出してくることがあった。それが妙に美味しくて、でもその時々に適当だから、それは二度と食べられないメニューなのだ。
楽しくて、嬉しくて、暖かくて――来月にはなくなってしまう。
そう思うと空腹を心地よく満たしていくラーメンの味が、どこか痩せて感じられた。
「そんな問題店が移転かあ。でもこの前来た時は、あんなお知らせ……」
寂しいという思いが、つい口を衝いて出る。
すると店長もミヨちゃんも、また少し悲しげな表情になった。
「……オーナーがクソなんですよ。客足が遠のくとかなんとか言って、ギリギリまで引っ張って」
「まあ、俺はなんとなくわかるけどね。なんていうかさ、この店だからいいって言う人もいるじゃん。そういう人が離れちゃうんじゃないか、みたいな」
「新しい店は相当キレイになっちゃうし、ついにレジも置くらしいですよ」
「レジすらねえ店って今時、ヤバすぎるでしょ。だから小島がいっつも間違えんだよ」
「でもそれって人情じゃないですか? たまに間違えるくらいがよくないですか?」
ミヨちゃんは僕より若そうなのに、随分古風な考え方だった。二十歳にも届いていなさそうな幼さを漂わせながら、人情を口にするとは思わなかった。
「うーん、それもわかるような、メチャクチャなような……」
店長もその意見に苦笑しながら、鉢巻のように巻いていたタオルを取ってわしゃわしゃっと頭を掻いた。冬だというのに汗びっしょりで、厨房を一人で守り続けた格闘の証が浮かんでいる。
「ま、新しい店の方じゃ、もうこんなメチャクチャなやり方はできんだろうね。在庫も売上もきちんとデータ化して、パソコンで管理するらしいし。まあ、それが普通なんだけど」
「えー、いいじゃないですか、こういうメチャクチャなラーメン屋があったって」
ミヨちゃんは口を尖らせながら、椅子やテーブルの拭き掃除を黙々と進める。
それから少しの間を置いて、ぽつりと零した。
「……あたし、この店、大好きなんだけどな」
その言葉を聞いた途端、ラーメンを運び続けていた僕の箸が止まった。ぎゅううっと眉間が痛んだ。誤魔化すためにラーメンを掻っ込み、口の中を少し火傷した。
「しゃーねえ、これも時代の流れってもんだ」
時代の流れ。店長が何気なく言ったその言葉は、社会に乗り遅れることをあたかも大罪のように糾弾された悲哀を嘆いているように聴こえた。
いつだったか、この二人の来歴を聞いたことがある。ミヨちゃんは元家出少女で、彼氏をとっかえひっかえしながらセックスを家賃にして渡り歩く生活に嫌気が差し、この店のアルバイトに応募した。同じように夜働くならキャバクラや風俗のほうが割はいいが、散々自分を売りつくし、これ以上はまともな仕事で活計を立てていきたいから、という理由で働いている。
店長は高校を中退してから建設系の現場仕事を続けていたが、ブラック極まる職場環境の激務で心身をボロボロに傷つけ、ついに腰のヘルニアを患って辞めざるを得なくなった。ならば立ち仕事のラーメン屋なんて向いてないように思えたが、そう指摘すると「仕事選べる立場じゃねえっすから」と快活に笑っていた。腰痛が酷い時はコルセットに頼ったり、接骨院で処置をしてもらったりすれば次の休みまでは保たせられるから、なんとかやっていけるらしい。
たかが一杯のラーメンが出てくるだけの店にも、信じられないほど複雑微妙なドラマがある。副店長も小島さんも、いろいろな過去があるに違いにない。歓楽街で打ち上がった雑魚みたいに死にかけて将来を見失っている僕なんかが、激動に打ち据えられる人生を必死に生きる彼らと出会う奇跡は、このラーメン屋でしか起き得なかった。
そしてそんな奇跡の価値を知ろうが知るまいが、僕はここで癒やされ、明日への活力をほんの少し充填して、もう少し生きていくことができたのだ。
それももう終わり。この一杯を食べ終えれば――二度と戻らない過去になる。
食の細い僕の胃袋は、食べ慣れない大盛りにはち切れそうだった。でもたとえ麺一本、汁一滴すら残したくなかった。時代の流れだなんて漠然としたモンスターにこの店を思い出に変えられてしまうなら、それに抗えないなら、せめてこの味を刻み込んで店を出たい。
しかし豚骨味は今や喉元まで逆走の兆しをみせていた。いつもの癖で山盛りにしたニンニクもいけなかった。濃厚な味の多重奏は実際の質量を数倍に膨れ上がらせて、三杯も四杯も食べているような気持ちにさせてくる。
無理して食べているのが伝わってしまったのか、店長が心配そうな声を上げながらコップに水を注いでくれた。
「ナルくん、無理しなくていいっすよ。余りもんを押し付けちゃっただけなんで」
「店長、さっきの絶対大盛り以上にぶち込んだでしょ。明らかに麺クソ多かったもん」
「いかんなー、ちょっとやりすぎちゃった」
僕を気遣う店長やミヨちゃんの優しげな表情が、ジンと身に沁みる。なけなしの男気を振り絞って、勢いのままにズズズと麺を胃袋へ押し込んだ。
「こんな時間にカロリーを摂取できるだけ贅沢だよ。ありがとう、ご馳走様」
スープだけになった丼をミヨちゃんに渡して、財布を取り出す。一礼を返してくれた彼女が本格的に閉店作業を進め始めたので、本当はもう少し話していきたかったが、長居しないほうがいいと思って席を立った。
「ういっす、とんこつラーメン一つ、七百円です!」
店長がハキハキと会計する。名残惜しい気持ちとともに、千円札を差し出す。
なにかの山場を迎えているような場面に接しても、反吐を戻しそうな食道の感覚に辟易しているばかりで、ちっともドラマチックじゃなかった。
店の外に出ると、雨が降っていた。
ここへ来る時に感じた湿っぽさは、雨雲の匂いだったらしい。
「ありゃりゃ、降ってきたな。ナルくん、傘持ってます?」
戸口まで見送りに来てくれた店長が、早朝の曇天を見上げながら訊いた。
「いや、雨が降ると思ってなかったんで。でも大丈夫だよ。家、近いし」
「そんな、冬の雨に濡れたらダメっすよ。ミヨちゃーん、適当な傘持ってきてー」
店長が店内に向かって呼びかけると、はいはーいと軽快に返事したミヨちゃんが奥で物を探る音が聞こえた。それからすぐに、ほとんどゴミ寸前のビニール傘を持って走ってきた。店長はその傘を見るなり、思い切り顔を顰めた。
「げえ、なんだそりゃ。もっとマシなのないの?」
露骨な苦言を呈しながら渋々受け取る店長に、ミヨちゃんもふくれっ面を返す。
「この前オーナーがなんだこのゴミ山は、とか言って、全部捨てちゃいましたもん。ギリギリ残ってたのがこいつだけなんですよ」
「ったくたまに来たと思いや、碌なことしねえな。ナルくんごめん、こんなんでよかったら持ってってくださいよ」
そう言って照れくさそうに笑う店長とミヨちゃんの顔は、寒く湿気った冬空の下でひどく眩しく見えた。正直なことを言えば、こんな後の処理に困りそうな傘なんていらない気もしたが、二人の善意をたって断る勇気はなかった。
「ありがとう。じゃあ、借りていくよ」
借りていく。咄嗟に出たが、いい言葉だと思った。
嘘でも幻でも、またここに来るという意思表明。
叶わなくたっていい。いまできる抵抗はせいぜいこれくらいだ。
ボタンを押すと、傘は壊れたロボットみたいにギシギシと軋んで、ぎこちなく拡がった。
「それじゃ、おやすみなさい」
「はーい、おやすみなさい」
店長たちに別れの挨拶を告げて、踵を返す。歩き出す。
東の空には、まだ夜明けの気配すらない。
傘は見た目よりきちんと役目を果たして、僕を雨から守ってくれた。
透明なビニールを通して映る、雨にぼやけた街を見ないふりしながら、家路を歩く。
あの場所が消える。無邪気に手を滑らせて突然大盛りのラーメンを出してしまう店長も、にこやかに滅茶苦茶な炒めものを作る副店長も、釣り銭を間違えては笑って誤魔化す歯抜けの小島さんも、可愛い笑顔で働き者の看板娘ミヨちゃんもいなくなる。
無性に涙が溢れてきて、めそめそと歩いた。
明け方の雨に冷えた空気はひどく寒くて、温まったばかりの身体がすぐに芯まで冷えてしまった。泣きながら漏らしたゲップはてんこ盛りにしたニンニクの臭いがひどくて、センチメンタルな気持ちをぶち壊しにした。それでも後から後から、涙は止まらなかった。
そしてふと、死にたくなった。
彼らに会えないから、ラーメンが食べられなくなったからではない。安息できる場を喪失し、それはこの先、きっと何度も訪れること――それを自覚した途端、希死念慮が英国紳士のような嫋やかさで僕の腰に手を回し、ぴったりと身を寄せてきたのだ。
冷たい雨。ニンニク味のゲップ。半壊した貰い物のビニール傘。
誰もいない駅裏の交差点。暈けた信号機の光。黒く曇った暁空。
妙な取り合わせだが、それらは確かに僕の生きる気力を削ぎ取る魔力を持っていた。
宇宙の果てから迷い込み、行く宛をまた失った僕。
暗黒に満ちた無重力空間を絶え間なく押し流されるように、仄かな希死念慮を推進力にして、僕はどこへ行く? どこへ行けばいい?
死にたくなっているのは本当だ。でもきっと、死にはしない。山も谷もない穴ぼこだらけの人生に蹴躓き、尽きない疑問に一つの答えも出せないまま、ほとほと嫌になったあの店に、明日も何事もなかったかのような顔で出勤する。それが僕の行き先――行きたい先ではないと、押し流されているだけだと知りながら。
不意にスマホが震えた。五時二分。
こんな時間に宇宙の果てへ届いたメッセージは、いつ登録されたのかわからないグルメポータルサイトのポイント通知だった。3ポイント貯まっていて、あと半年で有効期限が切れるらしい。そのままアスファルトに叩きつけたい思いと、それに伴う出費を秤にかけ、極めて打算的にその衝動を失った僕は、スマホを静かにポケットへ収めた。
意気地なし。なにも持っていないくせに、失うリスクをまだ恐れている。
生きて心を削られるリスクを、死んで命を亡くすリスクを恐れ、流され流れるだけ。
それが、わかったって、だから、なに?
隣の英国紳士が嘲笑う。死んでもいいよ、と嘯く。そうなのかもしれない。
にわかに篠突き、視界が烟る。暗く冷たい朝。
僕は希死念慮に寄り添ったまま、ずぶずぶと冠水していく道をゆっくりと歩き続ける。
家はまだ少し、遠かった。
寂寥のスープ
読了時間の目安 約43分
文字数 17,218文字
煙草の煙と喧しいBGMが、暖房のむっとした空気と混ざり合って薄暗い店内の天井あたりに畝る。僕は慣れた手付きでポケットからスマホを取り出し、時間を見た。
午前二時十七分。閉店の四時までまだたっぷり一時間以上もある。片付けの作業まで数えれば、労働の終わりはもっと先にある。なんだか余計に疲れたような気がして、ポケットにスマホを戻す。そしてその事実から目を逸らすように店内を見渡した。
うちは小さなバーだ。四つあるボックス席のうち、三つは埋まっていてそれぞれに盛り上がっているが、カウンター席はゼロ。カウンター担当の僕は手持ち無沙汰で、かれこれ二時間は騒々しい店内で一言も発さず、無意味な置物と化していた。
今この瞬間に僕が消えるイリュージョンを披露しても、誰も気づかないだろう。
「ナルくぅーん、お茶とアイスぅ!」
奥のボックス席でお客さんと赤ら顔を並べるママが、必要以上に黄色い声音で僕にオーダーを送る。ああ、僕が消えれば少なくとも酒の割り物や氷をテーブルに届ける奴がいなくなるから、もしかすれば気づく奴もいるかもな、なんてことを考えながら、ピッチャーとアイスペールをママのいる席へ運んだ。
「それにしてもナルくんはいつも仕事に淀みがないねえ、エライよ、エライ! そんで、今日も笑顔がカワイイね!」
ママの隣で上機嫌に酔っ払っている常連の社長が、注文の品をテーブルに置こうとして屈んだ僕の頭をわしゃわしゃっと雑にかき混ぜた。そう言われるまで、僕は自分が笑顔を浮かべていることに気づいていなかった。
「ママもさぁ、どこでこういういい子を見つけてくるの? ウチに欲しいくらいだよ」
「もーう、リョーさんったら若い子見つけちゃ、片っ端からいい子って言うんでしょ。ナルくんはうちの大事なカウンター係さんだから、あげられないわ!」
「いやあ、誰でもってわけじゃないよ、ほんとほんと。ねえ、ナルくん?」
社長は蕩けきった笑顔で、同意を求めるように首を傾げる。このお気楽な人身売買にどう答えればいいものかわからなかったが、どうせ酔っ払いだと高を括り、あーだのうーだのといった母音を間延びさせながらそそくさと席を辞した。早く安全地帯のカウンターへ帰りたかった。
しかし不思議とこういうタイミングは重なるもので、他の席からもおしぼりだのお菓子だの煙草だのと注文が相次ぎ、その合間に帰る客が現れもして、なかなかカウンターに戻れなかった。
そうして数々の雑用や注文をやっと捌いてカウンターに戻った僕は、すっかり手癖として染み付いた動作でスマホをまた盗み見た。午前二時四十二分。これだけ動けば時間もそこそこに過ぎただろう、という期待を嘲笑うような虚しい数字に、肩の重みがドンと増した。
うちの店はガールズバーのようなショットバーのようなスナックのような、いい加減な形態の店だった。どんなジャンルに属しているのか働く僕ですらわからない店だったが、こんな時間でも必ず女の子が接客する店として客には重宝されていた。
だからこんな時間でもまだ客は来る。勤労意欲にも愛店精神にも乏しい僕にとって客なんて来れば来るほど面倒なだけだが、特に三時を過ぎてから来店する客は最悪だ。そんな時間まで歓楽街をのたくっているような客は厄介者しかいないし、四時閉店がルールではあるものの、たった一時間で客を帰すほどママは奥ゆかしくない。早くて五時、遅ければ六時、もっと悪ければ七時ということもざらにある。
BGMとしてループするEDMがクラブのように喧しく、この場にいるだけでみるみる体調が悪くなる。こんな仕事をしているくせに、夜にも強くない。十二時を過ぎれば睡魔が精神を蝕み、ただ立っているだけで大きな苦痛を感じてしまう。
一刻も早く家へ帰りたい。お腹も空いたし、足も痛いし、眠くて眠くて仕方ない。
どうして僕はこんな仕事をしているんだろう? 嫌なら辞めればいいのに。
辞めてどうする。どうせどこにも行くところなんてないのに。
疲れてくるとつい繰り返してしまう堂々巡りの思考。就活に失敗し、定職に就きそびれてから四年。心底合わない仕事だと思いながら、社会に踏み出す勇気を持てないままズルズルとこのバイトを続けていた。
同級生たちがみんな悩んだり苦しんだりしながらも、なんだかんだ社会に溶け込んで上手くやっていることは、SNSを通じてなんとなく知っている。モラトリアムに半身を置き忘れてしまった薄馬鹿は僕だけだ。彼ら彼女らとはすっかり疎遠になって、学生時代に繋いだフォローを窺うくらいしか繋がりはない。
この店だって立派な社会の一部のはずだ。なのにどうにも、僕は社会の仲間入りをするのに失敗したような、爪弾き者にされたような気持ちにしかなれなかった。
かつて席を並べて笑い合って、馬鹿なことをやって騒いで、夜通し喋り倒した友人たちは卒業からそれっきり一度の連絡もなく、ただSNSのタイムラインだけは今日も彼らが元気に生きて、一生懸命な人生を送っていることを実況してくれる。そこに僕の収まるスペースはなかった。
眩しくて、羨ましくて、恥ずかしくて、悔しくて、なによりなに一つ言うべき言葉が見つけられなくて、日々更新されるタイムラインにリプライ一つ飛ばせない。学友だった人々は、今や遠い遠い遥かな異国の住人のようだ。
ああ、身勝手な自己嫌悪が押し寄せてくる。もう嫌だ。帰りたい。寝たい。頼む、もう誰も来ないでくれ――そう願った矢先、カランカランと扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませぇー!」
スタッフ全員の声が木霊する。僕も同じように諳んじながら、さっとスマホを見る。二時五十三分。いやらしいほど畝る時間の遅さ。見なければよかった。
反吐を戻しそうな思いでおしぼりを数本用意しつつ、棚からアイスペールやグラスを取り出す。視界の端で人数と顔を確認する。
最悪だ。太い身体に下品さの漂う脂ぎった顔。愚痴と説教が長いことに定評のあるゲンさんだ。
「いやあ、こんな時間に悪いねえ」
悪いと思ってるなら来るな。そんな恨めしさをおくびにも出さないよう気をつけながら、ゲンさんのボトルを思い出す。確か鏡月と黒霧島、あとマッカラン。この人は日によって飲むものも飲み方も違う。先読みしづらいところも嫌いだった。
「ぜーんぜん良いわよぅ、ゲンさん! あら、一人? 珍しいね」
酔っているとは思えないほど機敏な身のこなしでボックス席から抜け出したママが、ゲンさんの上着をクロークに仕舞う。
「アフターするつもりだった子が酔い潰れちゃってさあ。このまま帰るってのもね、って思って、一杯だけね」
「じゃあカウンターのほうがいっか。ナルくーん、お願いね!」
ずっと空席だったカウンターに、よりにもよってゲンさんが一人。世界で一番嫌な1on1だ。僕の精神は下限を知らず落ち込んでいく。それでも嫌だと言うわけにもいかず、どっかと座る彼におしぼりを渡した。
「ゲンさん、今日はなんになさいます?」
「そうだなー、もう今日は大分飲んだからなぁ……生もらおうかな」
予め用意したものが全部無駄になったことに心の中で舌打ちしつつ、冷蔵庫から冷えたグラスを取り出してサーバーからビールを注ぎ、ゲンさんの前に差し出した。
「ナルくんもなんか飲みなよ」
「はーい、ありがとうございまーす」
ありがとうと抜かした今の僕は笑顔なのだろうか。自分の表情筋の具合すら測れないままほとんど緑茶の焼酎割りを作って、ゲンさんのグラスにカチンと合わせる。
「じゃ、ゲンさんいただきまーす!」
「ういういー、かんぱーい」
どうやら相当飲んできたというのは本当らしい。グラスには口をつけただけで、泡の位置がほとんど変わっていない。もう飲めないほど酔っているくせに、なぜ飲めもしないものを飲みにわざわざバーへ来るのか。その謎を解き明かす日はきっと永遠に来ないだろう。
「ナルくんってさあ、幾つだっけ?」
「あー、二十五ですね」
「二十五かあ……。ふうん……」
何気ない質疑応答のやり取りでなにが気に入らなかったのか、ゲンさんはくぐもった声を漏らしながらギロリと睨むような視線をこちらに向けた。
まずい流れだ。彼がこうやって唐突な質問をぶつけてくる時は、決まってなにがしかを語りたい時だ。
それもそれとして、自分で自分の年齢を改めて口にすると、一層気が重くなった。
二十代の半分近くをこんなところで過ごしている虚無感。唯一の居場所を〝こんなところ〟としか評せない不甲斐なさ。僕はなんでここで働いてるんだっけ。
「っていうことはさあ、ナルくんってさとり教育なわけ?」
ほら来た。
この胡乱な目つき。絡みつくようなじっとりした声音。今日は愚痴&説教モードだ。
「んー、まあ、そっすね……」
なにも否定できない。まずい。すぐに話を逸らさないと長々と説教を聞かされる。
しかし磨り減った自律神経が悲鳴を上げる脳みそは、ロクな話題を思いつかない。
「じゃあさあ、ナルくんならわかるかな? 最近の子の気持ちっていうかさあ……」
「気持ち……っすか? えーっと、例えばどんな……」
「んー、なんてーの? 言われなきゃなにもやらない、とか、こっちに話を合わせようとしない、とかあ……まあプライベートを大事にしたい世代ってのはわかるけどさ、もうちょっとこう、仕事に対して熱意って言うか、学ぶ姿勢みたいな? もう少し積極的にならんもんかなって」
酔いのせいか曖昧な言葉尻がふわふわしているものの、とりあえず〝漠然とした若者像〟を批難したいのだと理解した。
年長者が自分より若い人間を謗る習性は古代ローマ時代の文献にも書いてあったそうなので、ゲンさんだけが特別にこういう意見を持っているわけではないのだろう。
ありふれていてわかりやすくて、聞かされる方はたまったものじゃない話。
こんな時間の歓楽街で、ゲロと一緒に吐ければそれでいい話。
でもゲロなら、トイレで吐いてくれねーかな。
「もうさあ、取扱説明書がほしいわけよ、こっちは。わからんもの、なに考えてんのか。やれって言ったことはやらない、わからないことは聞きに来ない、ちょっと残業を頼もうもんならプライベートがどうたらこうたらって。仕事もしねえくせにさあ、言い訳だけはいっちょ前なんだよね。俺も若い頃は仕事できてたわけじゃないけどさ、もう少し素直だったと思うがねえ」
ゲンさんはグラスに口をつけてビールを飲むふりをしながら、饒舌にべらべらと捲し立てる。愚痴、説教、自分語りのスーパーコンボだ。
ゲンさんの経歴にも、部下だか取引先の人間だかわからない〝漠然とした若者〟にも、欠片ほどの興味も湧かない。かなり薄めて作ったはずの緑茶割りから香るアルコールが、どんどん強くなっていく。不愉快な酩酊に身体が拒絶反応を見せているが、異議を差し挟む余地もなく捲し立てる異物の前でできることもなく、ちびちびと毒薬のようなそれを流し込むしかなかった。
「ナルくんはさあ、どうなの? 将来のこととか、考えるの?」
なにもかもを聞き流そうとした矢先、致死性の毒が塗られた矢が僕の眉間を穿った。
将来――。
ただひたすらそれに憧れを思い描いて、期待していた僕がいたはずだ。それに向かって走っていた僕だっていたはずだ。そういう記憶は確かにある。
なら、今ここに立って苦々しく毒を啜る僕は――こんな酔っ払いのおっさんに語る夢さえない僕は、誰だろう?
こんな将来になるはずじゃなかったなんて、安い後悔。
僕は、どのくらい過去から間違えたのだろう。
「いやぁ、っすねぇ……」
おいおい、いくら窮していたって「っすねぇ……」はないだろ。なにか紡ぐ言葉が、続ける会話があるだろ? あるはずだ、あるはず、なにか、なにかが――。
――なにもない。
不意にぎゅうっと鼻の奥が痛んだ。まさか、まさか、泣きそうになっているのか。
他のみんなは明るい太陽の下、一生懸命働いて、キャンプに行ってバーベキューして、ディズニーランドで遊んで洒落たカフェに行って、結婚して子供が生まれて。同じ学校に通って同じように生きていたはずなのに、どうしてこうも人生の速度が違うのだろう。
目まぐるしい彼らと、泥のように停滞する僕。見えないほど遠くへ行ってしまった彼らに掛ける言葉すら見つけられなくなって。深夜の歓楽街の隅で無意識にニヤつくことだけが取り柄になった僕。その差に泣こうとしているのか。
「へいへーい、なに盛り上がってるのお?」
その時、するすると近寄ってきたママが流れるような動作で、ゲンさんの横に座った。
「んー? 今の若い子はよくわかんないなって話だよ」
「あー、若い子ねー。まあ難しいよね。あたしもよくわかんないもん」
「ママはさあ、どうしてるの? 若い子の教育ってさ」
「んー、細かいこと言うのやめたかな。あんまりやいやい言ってもさ、小うるさいババアだって思われるだけだもん!」
「ハハハ! ババアって、ママいくつよ!」
「は? 十八ですけど? ねーねーゲンさん、あたしも一杯飲みたい」
「未成年が飲酒するのぉ? まあまあいいや、ナルくん、好きなの出したげて」
「ひぇーい、じゃあドンペリ、ピンクでぇ!」
「うぉおい、とんでもない店だな、ここはぁ!」
ママの軽妙なジョークに、辛気臭かったゲンさんの顔がパッと華やいだ。さすが、身一つで酔客を相手に何年も商売をしている人は頭の作りが違う。どう見ても泥酔しているようなのに、ほんの少しのやり取りで客の心をくすぐるテクニックは衰えない。
しかもゲラゲラ笑って注意が逸れた隙を縫って、ママは僕にパチパチっと二度ウインクを送った。これは『もう飲みたくないから、レモンサワーに偽装したレモネードを出せ』という合図だ。それに呼応して酎ハイのサーバーを動かす素振りを交えつつ、手早く作ったレモネードをママに差し出した。
「はーい、ゲンさんカンパイねー。いただきまーす」
「はいはい、カンパーイ」
カチンと儀礼的にグラスを合わせるゲンさんに、疑う様子はない。意地の悪い時であればアルコールチェックなどと言ってママのグラスを引ったくり、この偽装を見破ることもあるが、今日はそういうことを思いつかないくらい出来上がっているようだ。歓楽街特有の下らない騙し合いに嘆息しながら、ゲンさんの伝票にしっかりとレモンサワーの料金を書き込んだ。
「んまーい! この時間に飲むレモンサワー、サッパリしてマジうまい」
「あーあー、もうおっさんじゃん。もうちょっと可愛く飲めないの?」
「この時間はもうむーりー。可愛さとか、十一時くらいに品切れになった」
「あーそー。んでさあ、ママはどう思うの、最近の若い子について」
「えー? 若い子、ねえ……」
まったくアルコールの含まれていない偽装レモンサワーをちびちびと啜りながら、胡乱な瞳でぐるりと店内を見渡し、最後に僕の目をちらと見た。
「まあ、人それぞれじゃない? 若いからこういうヤツ、って感じには考えないけど」
ママの視線はゲンさんと僕との間を行ったり来たりする。きっと〝若者〟に含まれる僕に配慮して、言葉を選んでくれているのだ。
そんな優しさがなぜか、僕の心を余計にチクチクと刺激する。
「まあまあ、確かにね……」
ゲンさんは自分の考えに賛同を得られなかったせいか、心持ち不機嫌そうな表情を浮かべてまたビールを飲むふりをした。そんな些細な変化を目ざとく見抜いたママは、大仰な溜め息を吐きながらグラスをドンとカウンターに置いた。
「でもまあ、確かにちょっとわけわからんって子もいるわよね。どういう神経してんのっていうか、なに考えて生きてんのって言うかさ」
ママが翻意した途端、ゲンさんは大きく頷きながら身を乗り出した。
「そうそう! ちょっと叱ってやりゃあぶすったれて。俺も若い時は生意気も言っただろうけど、素直さがもっとあったと思うんだよ。口を開けばやれパワハラがどうの、プライベートがどうのって。仕事とプライベートを分けんのは大事だよ? でもさ、時間がぶった切れてるわけじゃねえんだからさ、ある程度は繋がってきちゃうわけよ。どんなに気遣ったって、完全に分けることはできないわけ。わかる?」
ゲンさんは我が意を得たりとばかりに、さっき僕にも言ったことを流暢に繰り返した。ママはうんうんと頷き、そうね、とか、そうそう、と肯定を交えながら、さりげない動作で煙草に火を点けた。それを咎めることもなく、ゲンさんはさらに続ける。
「なんつうのかな、欲ってもんを感じないんだよね。金がほしい、恋人がほしい、車がほしい、ってさあ、人間には大事なことでしょ。それがないから仕事がテキトーでさ、今のままでいいやって思うんだろうなあ」
そう言い終わると、すっかり泡の飛んだビールをぐいっと煽った。
いつの間にかゲンさんの目尻には、少しだけ涙が溜まっていた。僕には共感できないが、彼にはよほど悔しい問題なのだろうか。あるいはただ酔っているだけかも。酒ではなく、自分に。
ママは紫煙をふーっと吹き出して、どこを見るでもない遠い目をしながら頬杖をついた。
「まあ、欲は大事だからね……。したいこと、ほしいもの、目指すもの……それがなきゃ、仕事なんてやってらんないわね」
「執着しねえんだよな、あいつらって。しがみついてやるぞ、ここで踏ん張ってやるぞってもんが全然ない。だからちょっとイヤになったら簡単に辞めちゃうし、万事そういう感じだからさ、じゃあお前、なにが大事なんだよって聞いても、なんも出てこないんだよな。プライベートプライベートつって、その空き時間でなにしてんだって、別になんもしてないんだ。執着がねえから」
「いわゆる〝さとり〟っての? 無欲って言えば聞こえはいいけど、つまり無趣味でしょ。プライベートってのも、ただ仕事から逃げるための時間ってだけで」
「そう、逃げてんだよな。あいつら、人生から逃げっぱなしなんだ」
酒の勢いに任せて加速し続ける二人の軽妙な会話は、その全てが機関銃のように僕をぶすぶすと貫通した。まともに二人の顔を見られなくなって、どんどん俯いていく。
不定形だった〝若者像〟に輪郭が与えられ、具体性が増していく。古代ローマから脈々と続く酒肴の話だったものが、恐ろしいほどに現実味を帯びていく。背中や脇に汗がびちゃびちゃと滞留する。
歓楽街の隅で、たかが酔っ払い二人の世間話。午前三時十二分。
二人にとっては普段感じている、ほんの些細な日常の不満の一つであって、しかしそれが僕にとっては閻魔大王の前で行われる弾劾に等しかった。
〝僕 〟のことを言っているつもりじゃない。
でもきっと〝若者たち 〟のことを言っている。
それはつまり、回り回って僕が責められているのと同じだ。
見も知らない誰かを的にしているようで、その誰かを〝あいつら〟と不定の代名詞に置き換えると、意図せずともその範囲は拡がる。欲もなく適当な仕事でその場を凌いでいるのはお前だ、そうやって人生から逃げっぱなしなのはお前なのだ、と。
ママとゲンさんの顔を盗み見た。
ゲンさんの涙ぐんだ横目も、ママのばつの悪そうな伏し目も、僕を見ていた。
そうか、そうだよな。ここじゃ僕こそが若者代表だ。でなければ僕に若者の在り方なんて問わなかっただろう。質問の体をしていても、目的は決まっていた。暗に僕をスケープゴートにしたかったのだ。面と向かって言えばパワハラになってしまう、誰かの代わり。
それに気づかないほどママは鈍くない。百戦錬磨の会話術を持つ彼女は、その標的になった僕を確かに救出しようとした。一度だけ反論したのがそうだ。
でも所詮は客と店。客の機嫌を損ねてまで突っ張るほど大事な局面ではない。僕が穴だらけになって立つ瀬があるのなら、今日のところはそれでいいと判断したのだ。
気色の違う二つの視線。でも本音のところで共通している意思。だから解り合える。
悪意でなく、割と本気で不思議がっている。
なぜ、なぜ〝若者たち 〟は――。
「だからさあ、つい聞いちゃうんだよ。お前ら夢はないのって。将来どうすんのって」
必殺の一撃。僕の自尊心はその言葉で、木っ端微塵に吹き飛んだ。
どうすんの? そんなもの、僕こそ知りたい。どうすればよかった? いつ、どうして、間違った。夢がなければ、欲するものがなければ、生きていてはいけないのか。
ただ息をするだけで満足していては、いけないのか。
向かう場所がなければ、ここに居てはいけないのか。
ママは煙草をギュッと揉み消し、カラカラと笑いながら大仰にお手上げのポーズをした。
「宇宙人よ、宇宙人! あたしたちとは違う生き物なの、そういう個性なの! 認めてあげて、ゲンさん!」
少し陰鬱になった雰囲気が、その一言で雲散霧消した。ゲンさんもつられるようにゲラゲラと笑って、またビールをぐいっと煽った。
「なるほどなー。嫌だねえ、俺もついにおじさんになっちゃったってことか! どうだいナルくん、俺たちってもうおっさんとおばさんかな?」
そう問いかけるゲンさんになんと答えたのか、もうわからなかった。
ただ酔いと雰囲気で外れた箍は外れたままになるのか、僕が発した言葉でもやはりゲラゲラと笑っていた。
宇宙人。その言葉を何度となく反芻する。
銀河の果てほどに、この人たちとは距離があるのだ。
この人たちと同じ時代、場所を共有しながら、なに一つ解り合えない。
だって二人は目の前でおかしそうに笑うのに、僕は泣きそうなのだ。どうして泣けてくるのかさえ、わからないのだ。ただ信じられないほどの疎外感があった。社会の爪弾き者という自覚の所以は、どうやらここらにあるらしいということだけわかった。
それから上機嫌になったゲンさんはカラオケを三曲歌い、ビールを半分以上残して帰った。それに続くように他の客たちも次々と引いていって、閉店十五分前には誰もいなくなったので、今日は早仕舞いということになった。
「みんな、今日もおつかれー」
最後の客を見送ったママが店内に戻った時、先程までいっぱいに浮かべていた愛想はどこへ消え失せたのか、殺し屋のような顔になっていた。ボックスで接客をしていた女の子たちもぐったりと酔って、みんな無言でスマホを弄っている。
けたたましかったBGMが切れ、客もいなくなった店内は同じ店とは思えないほど静まり返って、僕がグラスを片付ける音だけがカチャカチャと侘しく響いた。
小さい店に特有の雑用一人という体制は、退店間際のこの時間が一番物悲しい。酒と色欲で満杯になっていた場所が、定刻を過ぎれば誰にも必要とされていない廃墟のようになるからだ。自分の居場所が虚しく飾られたところだと、つくづく思わされる。
亡霊のような表情で座り込む女の子たちを横目にあくせくとゴミを片付け、金庫のお金を精算して、手早く退店の準備を済ませる。
「ママ、終わりました」
今日の売上をまとめた茶封筒を、カウンターの隅で煙草を吸っていたママに差し出す。ママはそれをぶっきらぼうに受け取って、さっと厚みを確かめる。
「ま、今日はこんなもんか。よーし、じゃあみんな、帰ろー」
雑に煙草を揉み消したママが立ち上がると、みんなもそれに無言で続いて、バラバラと店を出ていく。別に仲が悪いわけではない。酔いと疲労で返事や挨拶を発することさえ億劫になっているだけだ。
そうわかっていてもこの有様は悲惨としか言い様がなく、蟹工船に乗せられた船乗りのようなその哀愁が、僕の肩にもずんずんと重みを増していく。
店の外に出ると、十二月のきりりと冷えた空気が僕の身体をすり抜けた。
うちのような店に送迎の車なんて上等なものは、もちろんない。みんなタクシーで三々五々に帰るのだ。店の前で口々にお疲れ、またねと言いながら散らばっていく彼女たちの背をぼんやり見送りながら歩き出そうとしたら、ママに呼び止められた。
僕の横を通り過ぎながら右手を上げ、停めたタクシーに乗り込みながら言った。
「さっきの、別にあんたのこと言ったんじゃないよ。だからあんま深く気にすんなよ」
酒焼けした低い声はナイフのようで、胸をドスッと突かれた気がした。
わかっている。ママには従業員として十分に可愛がってもらっている自覚はある。
だから感じた疎外感をそのままに、もうずっと離れていようと思った。解り合おうと思うから辛くなる。
下手に歩み寄らないでくれ。あなたと僕は宇宙の果てほどに遠いのだから。
バム、とタクシーの扉が勝手に閉まった。
窓を半分ほど開けて、酔いの醒めない瞳をこちらに向ける。
「あんた、なにで帰るの? タクシー代出そうか」
やめろ。あなたが優しく、人の上に立つ人間として十分な器量を持つ人なのは知っている。きっと隠し切れないくらい僕の顔がしょぼくれていて、心配してくれているのだろう。
でも、やめてくれ。僕はあなたにゲンさんのサンドバッグとして捧げられたのだ。
今更憐れまれたって、余計に惨めなだけだ。
「……大丈夫です、地下鉄で帰ります」
「そお? 始発までまだかなりあるけど」
「腹減ったんで、牛丼屋でも寄って時間潰します。大丈夫です」
「そっ、じゃあ気をつけて帰ってね。おつかれ」
それだけ言い残し、ママの乗ったタクシーは軽やかに走り去っていった。
大丈夫大丈夫って、なにが大丈夫なんだろう、などと考えつつ、寒風に首を縮めながら暗い早朝の道を歩き出した。
牛丼屋に寄ると言ったのは嘘だ。僕の家はここから歩いて四、五十分くらいで着ける距離にあるので、帰れないことはない。始発まで酔客に混じって牛丼屋で時間を潰すなんて真っ平だ。
歓楽街の人影はさすがにまばらだが、それでもまだチラホラと彷徨う人々がいる。
午前四時も回った今頃、こんなところでのたくっている彼ら彼女らは何者だろう。
何者であれ、きっと地球人なのだろう。僕とは違う人々だ。
歓楽街を抜けて、ほとんど車の走らない大通りに沿って歩く。
冴えた空気には湿った匂いが混ざっていた。少しでも気分を上げようと耳にイヤホンをねじ込み、好きな音楽を流してみるが全く心に響かず、すぐに外してしまった。
この上なく、惨めだった。
ああやって漠然としたまま滅多打ちに遭うことは、なにも今日が初めてではない。
土地と商売の性質上、客のほとんどはある程度の金や社会的地位を持つ、言ってみれば僕より〝上〟の人ばかりだ。それでも社会という大きな枠組みの中ではやはりちっぽけでもあるから、僕みたいな〝下〟の者を気軽に突きに来るのだ。
僕が他人に誇れるなにかを持っていれば、こんな思いをすることもないのだろう。
自分で自分の居場所をきちんと作れる人なら、こうはならないのだろう。
なにも持たない空虚さを孕んだままあんなところで突っ立っているから、そうすることができる人からすれば、あれこれ言いたくもなるのだろう。
びゅうと一際強い風が吹き付ける。
寒さで耳が痛くて、悲しくて寂しくて、空腹だった。
なんでもいい、誰でもいいから、甘えてしまいたかった。
でも午前四時に地球を彷徨う宇宙人に、そんな宛はなかった。
せめて温かいものが食べられればいいけれど、こんな時間に開いている飲食店は限られている。どこか、ないか。なにか、ないか。
歩きながら考えを巡らせているうちに、駅裏にあるラーメン屋を思い出した。
ラストオーダーが四時半のそのラーメン屋は特別美味しい店ではないが、僕の勤める店が終わった後でもやっている唯一のところだ。店長が柔和なお兄さんで、ゆるく会話してくれるのが心地よく、こういう季節になるとつい寄りたくなる。本当は毎回でも寄りたいところだが、店の終わる時間が伸びてしまったり、金銭的に余裕がなくて行けなかったりするので、一週間に一度行けるかどうかという頻度だ。
スマホで時間を確認すると、まだラストオーダーまで少しあった。
僕は少し速歩きになって、冬の街を足早に切り抜けた。
「らっしゃい! おっ、ナルくんじゃないですか! 久々ですねえ」
店に入ると、温まった空気や空腹をくすぐる匂いとともに、元気な店長の声が出迎えてくれた。客はおらず、バイトの女の子が閉店の準備を始めかけていた。
「ごめんね、毎度遅くて。帰ったほうがいい?」
「全然余裕っすよ。いつものにします?」
嫌な顔ひとつせず、手元はもういつも頼んでいるとんこつラーメンの準備に取り掛かっていた。僕みたいなたまにしか来ない客の名前を覚えていてくれたり、その注文まで覚えて手早く進めてくれたりする優しさに心を解されながら、じゃあそれで、と返した。
しかし今日は店に入る直前、また心が打ち砕かれるものを見てしまった。
「あのさ……戸に貼ってあったんだけど、あれ……」
「ああー……そうなんすよ。この辺、区画整理の対象になっちゃって」
「じゃあ、ほんとになくなっちゃうんだ、ここ……」
華麗な手さばきで麺の湯切りをする店長の顔は、苦々しげに歪んでいる。横で洗い終わった丼をゆっくりと片付けているバイトの女の子も、残念そうな声をあげた。
「なくなっちゃうっていうか、移転なんですけどね。まあ、ここがなくなっちゃうっていうのは変わりないか……」
僕が店に入る前に見つけたのは、一ヶ月後このラーメン屋が入る長屋ビルが取り壊しになるため移転するという知らせと、その移転先の地図だった。その場所はここから一ブロックほど先なので、それほど遠くになるわけでも、永遠になくなってしまうわけでもないのだが――僕は改めて店の光景を見回す。
油で汚れた黄色い裸電球。すっかり茶色くなった壁一面のサイン色紙。
たぶん十年くらい前のアサヒスーパードライのポスター。くたびれきった丸椅子。
どれもこれも煤けていて、時代に取り残されたような雰囲気があって、全体的にピンボケしたようなセピア色の店だ。初めて来たのは確か一年くらい前だけど、もっとずっと前からこの店に通い詰めていたような愛着がある。
この建物は取り壊される。移転先は真新しくなるだろう。
同じ店であって、同じ店ではない。
たとえば今日みたいな追い詰められた夜にフラッと立ち寄れば、それだけで心を解きほぐしてくれる――ここはそういう大切な場所だったのに。
「あいよっ、とんこつラーメン、一丁上がり!」
カウンターの向こうから店長の逞しい腕が伸びてきて、目の前に湯気を立てるラーメンが自信満々に置かれた。どう見ても大盛りだった。
「店長、これ……なんか多くない?」
僕が恐る恐る確認すると、店長は悪びれない顔でニカッと笑った。
「あーすんません、手ぇ滑っちゃったんすよ。だから今日は無料で大盛りってことで」
「ええっ、マジすか。いいのかなあ」
「ぶっちゃけ、半端に麺余っちゃって。だからプレゼントっす、プレゼント」
ヘラヘラと笑う店長の言葉は、どこまでが本当なのかわからなかった。
でもラーメンを無料で大盛りにしてくれたことよりも、僕という一個人をちゃんと認識して、好意的に接してくれるということが、なにより嬉しかった。
「あーっ、店長、またそんなことして。オーナーにチクっちゃお」
「いいよー。そんじゃあミヨちゃんが一昨日、めっちゃ遅刻してきたことも言うわ」
「やめてやめて、うそうそ! 絶対言いませんって!」
女の子は店長の腕をポカポカと叩きながら、可愛らしい笑い声を上げた。
ミヨちゃん――店長がそう呼ぶのを聞いて、僕は初めてここに勤めている顔なじみの人々の名前を覚えていないことに気づいた。
店長とミヨちゃん、それと今日はいない副店長と、前歯のないお兄さん。
この四人のうち、誰かがいたりいなかったりする。
「今日、副店長と、あの……もう一人のお兄さんは?」
カウンターに置かれた小瓶の蓋を開け、おろしニンニクを山のように盛って、熱々のラーメンを啜りながら訊く。
「あー、二人とも今日は休みっすね」
「あの二人も問題児ですよね。副店長はメニューにないものを勝手に作っちゃうし、小島さんは釣り銭の計算をいっつも間違えちゃうし。この店でまともなのはあたしだけかぁ」
「はあ? 遅刻王のお前がなに言ってんの? そう考えるとこの店、やべーヤツしかいねえな」
濃厚なニンニクと豚骨の香りが口いっぱいに広がるのを感じながら、夫婦漫才のような二人のやり取りに笑ってしまった。
確かに前歯のないお兄さん――小島さんはいつも釣り銭の計算が怪しくて、お釣りが十円か二十円多かったり少なかったりすることがあった。決して褒められたことではないが、電子マネー全盛期のいま、そんなやり取りができるのは貴重なことだと思っていた。副店長は余った野菜だのラーメンの具だのを炒め物にして、訳のわからない料理を出してくることがあった。それが妙に美味しくて、でもその時々に適当だから、それは二度と食べられないメニューなのだ。
楽しくて、嬉しくて、暖かくて――来月にはなくなってしまう。
そう思うと空腹を心地よく満たしていくラーメンの味が、どこか痩せて感じられた。
「そんな問題店が移転かあ。でもこの前来た時は、あんなお知らせ……」
寂しいという思いが、つい口を衝いて出る。
すると店長もミヨちゃんも、また少し悲しげな表情になった。
「……オーナーがクソなんですよ。客足が遠のくとかなんとか言って、ギリギリまで引っ張って」
「まあ、俺はなんとなくわかるけどね。なんていうかさ、この店だからいいって言う人もいるじゃん。そういう人が離れちゃうんじゃないか、みたいな」
「新しい店は相当キレイになっちゃうし、ついにレジも置くらしいですよ」
「レジすらねえ店って今時、ヤバすぎるでしょ。だから小島がいっつも間違えんだよ」
「でもそれって人情じゃないですか? たまに間違えるくらいがよくないですか?」
ミヨちゃんは僕より若そうなのに、随分古風な考え方だった。二十歳にも届いていなさそうな幼さを漂わせながら、人情を口にするとは思わなかった。
「うーん、それもわかるような、メチャクチャなような……」
店長もその意見に苦笑しながら、鉢巻のように巻いていたタオルを取ってわしゃわしゃっと頭を掻いた。冬だというのに汗びっしょりで、厨房を一人で守り続けた格闘の証が浮かんでいる。
「ま、新しい店の方じゃ、もうこんなメチャクチャなやり方はできんだろうね。在庫も売上もきちんとデータ化して、パソコンで管理するらしいし。まあ、それが普通なんだけど」
「えー、いいじゃないですか、こういうメチャクチャなラーメン屋があったって」
ミヨちゃんは口を尖らせながら、椅子やテーブルの拭き掃除を黙々と進める。
それから少しの間を置いて、ぽつりと零した。
「……あたし、この店、大好きなんだけどな」
その言葉を聞いた途端、ラーメンを運び続けていた僕の箸が止まった。ぎゅううっと眉間が痛んだ。誤魔化すためにラーメンを掻っ込み、口の中を少し火傷した。
「しゃーねえ、これも時代の流れってもんだ」
時代の流れ。店長が何気なく言ったその言葉は、社会に乗り遅れることをあたかも大罪のように糾弾された悲哀を嘆いているように聴こえた。
いつだったか、この二人の来歴を聞いたことがある。ミヨちゃんは元家出少女で、彼氏をとっかえひっかえしながらセックスを家賃にして渡り歩く生活に嫌気が差し、この店のアルバイトに応募した。同じように夜働くならキャバクラや風俗のほうが割はいいが、散々自分を売りつくし、これ以上はまともな仕事で活計を立てていきたいから、という理由で働いている。
店長は高校を中退してから建設系の現場仕事を続けていたが、ブラック極まる職場環境の激務で心身をボロボロに傷つけ、ついに腰のヘルニアを患って辞めざるを得なくなった。ならば立ち仕事のラーメン屋なんて向いてないように思えたが、そう指摘すると「仕事選べる立場じゃねえっすから」と快活に笑っていた。腰痛が酷い時はコルセットに頼ったり、接骨院で処置をしてもらったりすれば次の休みまでは保たせられるから、なんとかやっていけるらしい。
たかが一杯のラーメンが出てくるだけの店にも、信じられないほど複雑微妙なドラマがある。副店長も小島さんも、いろいろな過去があるに違いにない。歓楽街で打ち上がった雑魚みたいに死にかけて将来を見失っている僕なんかが、激動に打ち据えられる人生を必死に生きる彼らと出会う奇跡は、このラーメン屋でしか起き得なかった。
そしてそんな奇跡の価値を知ろうが知るまいが、僕はここで癒やされ、明日への活力をほんの少し充填して、もう少し生きていくことができたのだ。
それももう終わり。この一杯を食べ終えれば――二度と戻らない過去になる。
食の細い僕の胃袋は、食べ慣れない大盛りにはち切れそうだった。でもたとえ麺一本、汁一滴すら残したくなかった。時代の流れだなんて漠然としたモンスターにこの店を思い出に変えられてしまうなら、それに抗えないなら、せめてこの味を刻み込んで店を出たい。
しかし豚骨味は今や喉元まで逆走の兆しをみせていた。いつもの癖で山盛りにしたニンニクもいけなかった。濃厚な味の多重奏は実際の質量を数倍に膨れ上がらせて、三杯も四杯も食べているような気持ちにさせてくる。
無理して食べているのが伝わってしまったのか、店長が心配そうな声を上げながらコップに水を注いでくれた。
「ナルくん、無理しなくていいっすよ。余りもんを押し付けちゃっただけなんで」
「店長、さっきの絶対大盛り以上にぶち込んだでしょ。明らかに麺クソ多かったもん」
「いかんなー、ちょっとやりすぎちゃった」
僕を気遣う店長やミヨちゃんの優しげな表情が、ジンと身に沁みる。なけなしの男気を振り絞って、勢いのままにズズズと麺を胃袋へ押し込んだ。
「こんな時間にカロリーを摂取できるだけ贅沢だよ。ありがとう、ご馳走様」
スープだけになった丼をミヨちゃんに渡して、財布を取り出す。一礼を返してくれた彼女が本格的に閉店作業を進め始めたので、本当はもう少し話していきたかったが、長居しないほうがいいと思って席を立った。
「ういっす、とんこつラーメン一つ、七百円です!」
店長がハキハキと会計する。名残惜しい気持ちとともに、千円札を差し出す。
なにかの山場を迎えているような場面に接しても、反吐を戻しそうな食道の感覚に辟易しているばかりで、ちっともドラマチックじゃなかった。
店の外に出ると、雨が降っていた。
ここへ来る時に感じた湿っぽさは、雨雲の匂いだったらしい。
「ありゃりゃ、降ってきたな。ナルくん、傘持ってます?」
戸口まで見送りに来てくれた店長が、早朝の曇天を見上げながら訊いた。
「いや、雨が降ると思ってなかったんで。でも大丈夫だよ。家、近いし」
「そんな、冬の雨に濡れたらダメっすよ。ミヨちゃーん、適当な傘持ってきてー」
店長が店内に向かって呼びかけると、はいはーいと軽快に返事したミヨちゃんが奥で物を探る音が聞こえた。それからすぐに、ほとんどゴミ寸前のビニール傘を持って走ってきた。店長はその傘を見るなり、思い切り顔を顰めた。
「げえ、なんだそりゃ。もっとマシなのないの?」
露骨な苦言を呈しながら渋々受け取る店長に、ミヨちゃんもふくれっ面を返す。
「この前オーナーがなんだこのゴミ山は、とか言って、全部捨てちゃいましたもん。ギリギリ残ってたのがこいつだけなんですよ」
「ったくたまに来たと思いや、碌なことしねえな。ナルくんごめん、こんなんでよかったら持ってってくださいよ」
そう言って照れくさそうに笑う店長とミヨちゃんの顔は、寒く湿気った冬空の下でひどく眩しく見えた。正直なことを言えば、こんな後の処理に困りそうな傘なんていらない気もしたが、二人の善意をたって断る勇気はなかった。
「ありがとう。じゃあ、借りていくよ」
借りていく。咄嗟に出たが、いい言葉だと思った。
嘘でも幻でも、またここに来るという意思表明。
叶わなくたっていい。いまできる抵抗はせいぜいこれくらいだ。
ボタンを押すと、傘は壊れたロボットみたいにギシギシと軋んで、ぎこちなく拡がった。
「それじゃ、おやすみなさい」
「はーい、おやすみなさい」
店長たちに別れの挨拶を告げて、踵を返す。歩き出す。
東の空には、まだ夜明けの気配すらない。
傘は見た目よりきちんと役目を果たして、僕を雨から守ってくれた。
透明なビニールを通して映る、雨にぼやけた街を見ないふりしながら、家路を歩く。
あの場所が消える。無邪気に手を滑らせて突然大盛りのラーメンを出してしまう店長も、にこやかに滅茶苦茶な炒めものを作る副店長も、釣り銭を間違えては笑って誤魔化す歯抜けの小島さんも、可愛い笑顔で働き者の看板娘ミヨちゃんもいなくなる。
無性に涙が溢れてきて、めそめそと歩いた。
明け方の雨に冷えた空気はひどく寒くて、温まったばかりの身体がすぐに芯まで冷えてしまった。泣きながら漏らしたゲップはてんこ盛りにしたニンニクの臭いがひどくて、センチメンタルな気持ちをぶち壊しにした。それでも後から後から、涙は止まらなかった。
そしてふと、死にたくなった。
彼らに会えないから、ラーメンが食べられなくなったからではない。安息できる場を喪失し、それはこの先、きっと何度も訪れること――それを自覚した途端、希死念慮が英国紳士のような嫋やかさで僕の腰に手を回し、ぴったりと身を寄せてきたのだ。
冷たい雨。ニンニク味のゲップ。半壊した貰い物のビニール傘。
誰もいない駅裏の交差点。暈けた信号機の光。黒く曇った暁空。
妙な取り合わせだが、それらは確かに僕の生きる気力を削ぎ取る魔力を持っていた。
宇宙の果てから迷い込み、行く宛をまた失った僕。
暗黒に満ちた無重力空間を絶え間なく押し流されるように、仄かな希死念慮を推進力にして、僕はどこへ行く? どこへ行けばいい?
死にたくなっているのは本当だ。でもきっと、死にはしない。山も谷もない穴ぼこだらけの人生に蹴躓き、尽きない疑問に一つの答えも出せないまま、ほとほと嫌になったあの店に、明日も何事もなかったかのような顔で出勤する。それが僕の行き先――行きたい先ではないと、押し流されているだけだと知りながら。
不意にスマホが震えた。五時二分。
こんな時間に宇宙の果てへ届いたメッセージは、いつ登録されたのかわからないグルメポータルサイトのポイント通知だった。3ポイント貯まっていて、あと半年で有効期限が切れるらしい。そのままアスファルトに叩きつけたい思いと、それに伴う出費を秤にかけ、極めて打算的にその衝動を失った僕は、スマホを静かにポケットへ収めた。
意気地なし。なにも持っていないくせに、失うリスクをまだ恐れている。
生きて心を削られるリスクを、死んで命を亡くすリスクを恐れ、流され流れるだけ。
それが、わかったって、だから、なに?
隣の英国紳士が嘲笑う。死んでもいいよ、と嘯く。そうなのかもしれない。
にわかに篠突き、視界が烟る。暗く冷たい朝。
僕は希死念慮に寄り添ったまま、ずぶずぶと冠水していく道をゆっくりと歩き続ける。
家はまだ少し、遠かった。