1.隕石なんて落ちてこない
― Then two girls ―

読了時間の目安 約93分
文字数 37,210文字

「本日までこのクソバカバカしくも穏やかで美しい世界のご愛顧、どうもありがとうございました。お名残惜しくはありますが、これにて滅亡とさせて頂きます。それではいつか、また会う日まで。さようなら!」
 九月二五日、金曜日。もう十月は目の前なのに、季節が移り変わるのを忘れたかのような残暑の厳しい朝だった。そんな雲ひとつない青空に、今日も今日とて元気ないっちゃん節(・・・・・・)炸裂する。
 妙に芝居がかった言い様なのに、さして中身のない言葉。それによって薄く伸ばされた絶望がクレープ生地のようなひだを作って拡がって、私たちをふんわり覆っていく。
 この世を満たす不条理に向かって叫んだ、甘ったるいチョコレートや生クリームのような(かしま)しさ。

 その上から容赦のない朝陽がいっぱいに降り注いできて、アスファルトごと焼き付けてくる。言葉はすっかり焦げ付いて、私の中で燻った。
 私たちは薄い汗を額に浮かべてうだうだと自転車を漕ぎながら、灰色の住宅街を高校に向かって駆けていた。鼻先には百日紅(さるすべり)の空気に混じり、私の前を走るいっちゃんの長い髪からシャンプーの香りが匂ってくる。
「や、だからさ、そーゆーのじゃなくてさ」
「じゃなかったらなんなのさ? 小生はね、もう飽き飽きしたんですよ。右見ても平和、左見ても平穏、左見右見(とみこうみ)天下泰平がどぅっぱどぅっぱですよ。こんな真っ平らな世の中じゃね、小生の出番はねえんだ。革命者が力を発揮するのはいつだって情勢不安な世紀末感がそこはかとなく立ち込めるような、お先真っ暗い世情になってからだ。

ゾゾエさんよ、おわかる?」
「それにしたって、おいそれと学校に遅刻していくのはマズイと思わない? もう一限目が始まって何分経ってるのやら……」
「そいつは言わないでくれよ。遅れた僕が悪かった。ただ言い訳がましくもなるが、これだけは申し述べておきたい。学校ってのは君のような愚民には必要な教育機関かもしれないが、僕のようにヒネくれた社会不適合者にとっちゃブタ箱だ。そんなところに毎朝早くから行かねばならぬこの暗鬱を、わかってほしいとは言わない。だからせめて遅刻だなんて可愛らしくもささやかな反骨精神くらい、許してちょんまげ」
 不意に吹いた風が制服のスカートをひらめかせ、いっちゃんの白く細い脚を眩しく晒す。

 せっかく可愛い顔をして、見た目はこんなにも女の子らしさに溢れているのに、次から次に飛び出す電波発言がその魅力を台無しにさせてしまう。天から与えられたチャームポイントを全力で無駄遣いする様に嘆息しつつも、調子を合わせる。
「ええ、許しました。だからちゃっちゃか漕ぐのです。いっちゃんはこれからブタ箱に収監される哀れな受刑者さんなんだね。それならお勤めは迅速かつ誠実に、だよ。模範囚にさえなればその後の人生は薔薇色はっぴっぴ。だから、とにかく一生懸命に走ってよね!」
「やれやれ不毛だぜ……はっぴっぴー!」
 わざとらしい大仰な言葉であれこれと騒ぎ立てているけれど、なんのことはない。ただ待ち合わせにいっちゃんが間に合わなくて、学校に遅刻するのが確定しているだけだ。

 私たちは数十分もすれば教室に辿り着いて、ねちっこい性格で定評のある数学の田村(たむら)先生にたっぷり五分はかけて嫌味を言われる。そして受験を命の次くらいに重要視している真面目なグループから、授業を遅らせた大罪の十字架に恨みのこもった視線で磔にされるだろう。
 だからといって別に世界が滅んだりはしない。多少ヘコむかもしれないけど、死ぬほどではない。明日になったら薄情に任せて、ありふれた日常のひとつとして忘れている。
 でもそれがふとした瞬間に頭をよぎったりして、またヘコむ。気分次第で、そうなる。
「でもさー」
 先を走るいっちゃんがとぼけたような表情で、肩越しに少し振り向いた。
「クソ几帳面に待ってなくったってさ、僕なんか置いてさっさと行けばよかったじゃん?」

 悪びれもせずそんなことを言ういっちゃんに少し腹が立ったので、自転車のスピードを上げ、追い抜きざまに軽く後頭部を叩いてやった。手のひらに軽い衝撃がぱあんと響いて、ざまあみろと心地良い。
 ふらついた細身のいっちゃんは少しの蛇行運転の後、息を切らせながら体勢を立て直した。
「おいっ、暴力に訴えるか! ここは民主主義の法治国家だぞ。拳じゃなく口先で戦え!」
「うるさい! 今日なぜ遅れて来たのか、神妙に理由を述べてみなさい!」
「外宇宙第七惑星エルトリオンの先遣調査班によるキャトルミューティレーションに引っかかってただけさ! 決して朝寝坊して、食パンが中々口に入らなかったわけじゃないぞ! このくだらない地球を、くだらないと思いつつも救っていたんだ! 奴らの通信機はがっつり破壊しておいた!

極悪非道でちょっとレトロな虐殺船団のご一行どもとマザーシップが来るのはちょっと先になったぞ!」
 いっちゃんがけたたましい声を張り上げながら、右手を高々と突き出す。
 なるほど、そういう理由なら仕方あるまい。私は偽りの優しさを塗り固めた声で応えた。
「そんな修羅場帰りのいっちゃんを、私が待ってなかったら誰が迎えるの? 英雄の凱旋がぼっちじゃ寂しいでしょ。感謝で泣き叫んだっていいんだよ」
「ゾゾエ、お前って奴ぁ……今度宿題で困ったら写させてやるからな!」
「ヘンな気を遣わなくていいよ、ウザいから」
「おい、いまウザいっつったか? 謗言(ぼうげん)はレギュレーション違反だぞ。いまの判定はナシだ。ノーカン、ノーカン!」
 追い抜いた背後から、いっちゃんの矢継ぎ早な大声がガンガン飛んでくる。

 蒸し上がった草の匂い、私の汗の匂いと風に混ざって、ぐるぐるになってどこかへ飛び去っていく。
 住宅地を抜けるとなだらかなスロープが見えてきて、川沿いの堤防の上に出る。
 小高くなったそこは遮られるものがなく、町内を一望できる。水辺を渡る生ぬるい風をかき分けて走れば、少し低くなった景色がぐんぐん通り過ぎていく。
 緩やかにカーブしていく川に沿って、堤防の道もゆるゆると曲線を帯びている。ぐぐっと東のほうへ吸い寄せられていく道行の途中、高くなった視界が開けて、家々のはるか向こうに駅前のビル群と、ひとつの大きな影が見えてくる。

 それは大きく、どこまでも高くそびえる黒い砲台。
 周りの風景に一切馴染むことなく、今日も斜めになって屹立(きつりつ)していた。

 誰も改めて話題にしない、私にとっても日常風景のひとつにすぎない。見慣れているし、ありふれている。
 けれど、ふとした瞬間に頭をよぎったりする。どうかすると、私の脳内に滑りこんでくる。
 たとえば、うっかり足を止めてしまった時なんかに強く引き起こされる現象。
 物理的に、精神的に、心や身体が静止してしまう時間というのがある。それがやってくると頭の中にこの景色が蘇り、独りでにあの砲台が動き出す。本物の稼動音なんて聞いたことはないけれど、ぐぐぐと砲身が持ち上がっていく軋みが聴こえてくる。
 しかし、いまは妄想ではなく現実だった。よく晴れた空の向こうにくっきりと映った砲台が、ゆっくりと動いている。
 別にそれほど珍しいことではない。週に一度や二度は見られる光景だ。

 私たちはどちらともなく自転車を停め、その様子をじっと見つめた。
「今日も動いてんな、世界を救う正義の砲台が。つーか、予報あったっけ?」
「あったよ。いっちゃんは寝坊したからテレビ観てないんでしょ」
「正常な時間に起きたって虚飾まみれのテレビなんぞ観てないぜ。真実はネットの海にある」
「ああ、そう……」
 見る間に最大仰角まで持ち上げられた砲身は天高くを(にら)み、がしっと止まった。
 微動だにしない照準の先には、抜けるような青空が広がっているばかりでなにもない。
 それから砲身にほんの少し青白い光の亀裂が走っていくのが瞬いて、けれどその口からはなにも出てこないし、音さえない。あんなにも大きな砲台が射撃したのならきっと耳に(とどろ)き、眼を(くら)ませるであろう臨場感がまったく欠落している。

 聴こえず、()えもしない弾丸。
 それが、この世界を救う希望の光。
『本日の防護措置』をつつがなく終了した砲身が、ゆっくりと下がっていく。あまりにも呆気ない光景で、あれが担う重要性を知らなければ、これほど間抜けなものもないだろう。
「また、撃ち出されたんだね」
「ああ、そうだな」
 私の独り言のような呟きに、いっちゃんは気のない返事をする。
 あれは実際、兵器というより注射器だ。敵陣に砲撃して殲滅する性質より、薬を注入して体内に蔓延るウイルスを駆逐し、病気を治す性質に近い。
 世界はずっと、治すことのできない〝病気〟に冒されている。
 病気と揶揄される恐ろしいものの正体は特殊な放射線――通称『KA線』と呼ばれるもので、地球上のありとあらゆる地域で普遍的に、突然発生する。

 有機物を貫通する際に細胞へ甚大な損傷を与える性質を持ち、一定以上の線量濃度で浴びるとヒトは死に至る。
 地中に埋めて廃棄した核燃料から漏れ出したのだとか、地球が未知の重金属を生成し始めたのだとか、破壊されたオゾン層の穴から漏れた宇宙線が変容したのだとか、偉い科学者たちによって様々な推論が打ち立てられたが、悉く解明の糸口に結び付かないまま消えていった。初めての観測から約四十年もの時間を経た現在でも、発生要因は判然としていない。
 しかし長い年月をかけて多大なる犠牲を払った結果、人類は原因の根絶には至らなくとも、身を守る術を得ることはできた。
 それが人類希望の光、市民の平穏な暮らしを護る礎、恒久的安全を護る英雄的装置、その名を『線量抑制台場』というあの大きな砲台だ。

 あそこからKA線の発生源に向けて弾丸を撃ち込んで相殺・無害化する。約三十年前から全国に設置が進み、現在では百ヶ所以上にあんな砲台が据えられている。いま見えている砲台は『第八七塔てんくう』という名で、個別の名称はそれぞれに異なる。
 という、客観的な情報だけは知っている。学校の授業でも教わるし、ネットの海に一歩でも足を差し出せば的を射た批評にしろ荒唐無稽な煽り叩きにしろ、様々な角度や状況の意見が日々飛び交っている。言ってみればこれもひとつの常識で、ありふれた日常なのだろう。
 だからあれに詰め込まれ撃ち出される弾丸の正体だって、誰もが知っている。
 それは――〝生身の人間〟だ。
 国家特定災害防護対策特別召集法とかいう物々しい法律によって、全国民には出生届とともに遺伝子情報の提出が義務付けられている。

 その中からKA線を打ち消す特殊な遺伝子構造『指定遺伝子情報保持者』――俗に『EKA構造体』と呼ばれる人を抽選で選び、あの砲台から撃ち出すのだ。
 けれどそんな常識を知っているからといって現実感があるのか、実感があるのかと問われれば、私は首を横に振る。主観性はまったくないのだ。
 それはどこか遠い場所のできごと。ニュースで見るもの。知らない人の家が火事になったり、どこにあるのかさえ記憶があやふやな国が震災に見舞われたり、そういった種類のもの。痛ましく思う気持ちもなくはないが、心の半分以上は傍観者の位置で冷めている。
 そんなことを思いながらぼんやり砲台を見ていると、隣に立ついっちゃんが鼻で笑った。
「ここも未開人が神様に生贄を捧げて祈りまくってた頃と変わらないんだ。

洒落た服着て、iPhoneでラブソングなんか聴いちゃって、ハウスダストのないキレイな家に住んでたって、つまるところ本質は一緒だ。いじめっ子体質というか、弱肉強食というか、つまり籤運(くじうん)の一番弱いやつをあれに詰めて、正体不明のカミサマモドキモンスターにぶち込む。そのおかげで天下泰平の万歳三唱だ。人間様は声と態度だけは一等デカイが、犠牲なくして生きていけるほど、世界を敵に回して生きていけるほど強くねえってこった」
「生贄……か」
 いっちゃんが言わんとする生贄という言葉の裏はわかっている。
 このロクでもない放射線には功罪があり、人類にひとつだけ恩恵をもたらしている。
「なにかを引き換えにしなきゃなにもできないってのが摂理だろ。魔法を使うならMPを消費する。モノを買うなら金を消費する。

世界を救うなら――生贄を消費するんだ」
 その言い様は婉曲だが的を射ていた。KA線は誰かの命を捧げなければ否応なく世界を蝕む恐怖を突きつける代わりに、人同士の争い――戦争をなくしてくれた。
 いまの人類が安全にいられる場所は、線量抑制台場があるところだけだ。そしてどこの国も、弾丸となる数少ない人間を探さなければならない。何百年も内戦の絶えなかった中近東やアフリカのほうの国でさえ、何十年も前に争いをパタリと止めてしまった。紛争地域がKA線に脅かされることもあるので、そんな場合ではなくなったのだ。
 KA線のせいで世界は削れたが、KA線のおかげで人は戦争の悲劇から救われた。
 あまりにも短絡的な欠点と幸福を(さら)しながら、KA線は今日もどこかから()き出してくる。
 ということに、なっているけれど。

「ねえ、いっちゃんは本当にあると思う? KA線なんてものがさ」
 私は伏し目がちになって、爪先で地面を掻きながらいっちゃんに問うた。不安になるとついやってしまう悪い癖だ。
 たとえばこれが神様だとか世界だとか、運命だとか天罰だとか、そういう抽象的でいい加減なものではないとしたら? 誰かによって操作された情報を信じ込まされているだけだとしたら? そんな疑問がいつも頭の隅に仄暗い部分を作って消えない。
 いっちゃんは風に靡いて少し乱れた前髪を弄りながら、飄々と答えた。
「どうかね。だが、偉い人があるっつってんだ。ならあってもなくても、少なくとも現代の日本、そしてこの街においては〝ある〟のさ」
 身も蓋もない答えだった。でもそれが却っていっちゃんらしい。気取った手付きで砲台の方を指し、いっちゃん節を朗々と諳んじる。

「見ろ、あのクソでけえ砲台を。あんなもんをとんでもねえ額の税金で全国におっ立てて、三十年の間に何万人もぶっ放しちまってる。本当はKA線なんてもんは丸ごと誰かの勘違い、どっかのオタクが書いた三文妄想SF小説でした、なんて雑な四コマ漫画みてえなオチがついても、もうなかったことにはならない。とっくに社会のシステムとして回ってる以上、笑い事じゃ済まないんだ」
 恐ろしい放射線を打ち消すため必要なもの。人々の命を救うため必要なもの。それは残酷にして皮肉なことに人の命だった……なんて、なんとわかりやすい題目だろう。あまりに短絡的な発想に目眩がしそうだった。
「人類共同の害悪に立ち向かうために、一致団結して非情な現実に向き合うなんて、出来の悪いハリウッド映画みたい。それが真実でもどうでも構わないのかな、みんなは」

「いいんじゃね? 全人類がいじめっ子体質を共有したおかげで、実際戦争はなくなったんだからさ。銃や爆弾の矛先が人でなくなった以上、多少の間違いは見ないふりでいいのだ。KA線は少なくとも、戦争という一番重篤(じゅうとく)な病を掻き消す、なによりの特効薬なのであーる」
 言葉の最後のほうで人差し指を立てて、演説家のような口ぶりで仰々しく言った。確かにそれは一理あるようにも思える。
 でも嘘か本当かもわからないご都合主義的な喜劇のために、決して少なくない頻度で命を空に向かって撃ち出さなければならない。ロシアンルーレットのような死が、誰にでも降り注いでくる世界。冷静に考えてみれば狂っているはずなのに、誰も異論を唱えない。
 戦争で大勢死ぬよりマシだから。もはやそれさえ〝常識〟になってしまったから。

「それもこれも、人間が弱っちいから。乗ってる人が全員、暴走列車だと気づいていても止まれない。ブレーキ係さんは永遠に空席。いつか大脱線するまで、それでみんな不幸になるまで、誰もなんとかしようとは考えない、っと」
「相変わらず朝っぱらから詩的だな、ゾゾエさんは。現実逃避するクセが身についちまってるってこった」
「別に……いいじゃん。まっすぐ見てばかりいたら、疲れちゃうもん」
 季節の移り目に居残ったぬるい夏風の残骸(ざんがい)が、私たちを揺らして抜けていく。
 川辺に生えた草がざわめき、遠くの空からジェット音が微かに響いてくる。
 こんなに残酷な現実があっても人は滞りなく息づき、生きている証拠。
 こうしてぼっ立っているだけでも、周りのすべては確かに生きている、その証拠。

 世界中で殺人放射線が漏れ出している。へえー。
 それを打ち消すためにあの砲台が必要。なるほど。
 装填(そうてん)される弾丸は人間。……だから?
 万事が万事、他人事。絵空事。
 確たる事実であって、私たちの人生に大きく深く横たわるテーマであって、なのに普段は認識さえしない。それを忘れ去ってしまっても、十分に生きていけるけど。
 で、で、で?
 気が遠くなるような疑念が頭をもたげかけた時、スマホを取り出したいっちゃんが素っ頓狂な声を上げた。
「おいっ、時間がやべーぞ! あんなもん眺めてる場合じゃなかった!」
 慌ててその画面を見た途端、全身の血がさあっと引いた。時刻はもう九時半を過ぎている。

 砲台に気を取られて、遅刻のために急いでいたことをすっかり忘れてしまっていた。
「ほんとだ、ヤバい! ガチで一限目終わる、終わっちゃう!」
「ええい走れ! 最速で進撃すればまだ間に合うかもだ! 進撃、進撃ーっ!」
「あーもー、今日は全然遅刻するような日じゃなかったのに! 待ってよーっ!」
 急に走り出したいっちゃんの後を、私も全力で追いかける。
 そう、私たちには滅びゆく世界の危機より、大事なことがある。
 たとえば、遅刻が確定しているのに、それでもなぜか走ることとか。
 たとえば、そうやって一生懸命に学校へ行って、なんとなく授業を受けることとか。
 たとえば、進学したい大学を受けるには足りない内申点に悩むこととか。
 RPGならこんな時、勝手に現れてお節介に世界を救って回ってくれる救世主がいる。

 謎の魔術や魔物による侵略を食い止めて、黒幕の魔王だの秘密結社だのを打ち倒したりする。
 現実にそんなものはどれも存在しない。都合のいい手前勝手な救世主も、すべての身代わりの悪役もいない。仮にいたとして、フィクションでは一面的な善悪だけで捉えられるけれど、現実はそんなにシンプルじゃない。どこまでも冷たく、はっきりとありのままで、宇宙の片隅に小さく、足の裏を巡る惑星として大きく、複雑だ。
 そんな複雑さに反して私たちの現実とは学校で、家で、この通学路で、町内で、そんな狭い範囲で展開されるコント劇のようなものが全部だ。バカバカしく感じることもあるけれど、きっと人一人分の世界観なんてそんなもの。地球全体だなんてスケールの大きい話はとても理解が及ばない。死に至るほどの事実なんて大き過ぎて、私なんかに見えるはずもない。

 頭の中の砲台がぎぎぎと元に戻っていく。今日の勤めを終えた現実の砲台を見て安心したのか。それとも遅刻確定のせいで胸に迫る焦燥感が、常日頃から私の内側をちくちくと突き刺す淡いモヤモヤに打ち勝っただけか。
 私たちは残暑の日差しで焼けあがった堤防道を、がしゃがしゃとひた走った。

 昼休みに入った教室が、明るい喧騒と熱気を思う存分に膨らませる。そこにぐんと上昇した気温が混ぜ合わさって、いよいよ最高点に達しようとしていた。
 先週の火曜日、新学期が始まって早々の五時間目。一番暑い盛りに古びたクーラーは異音を立てて活動を停止し、それ以来この教室に快適な冷気はもたらされていない。学校も早急な修理を望んでいるようだが、業者が来られるのは来週の水曜日とのことだ。

 そんな悪報にてんで勝手な文句を垂れながらも、制服を着崩したり、下敷きを振り回したり、冷感グッズを持ち込んでみたり、思い思いのスタイルで九割方のクラスメイトは教室に居残っている。律儀というか健気というか、涙ぐましいものを感じる。どうのこうのと言いながらも、やっぱりこの時間と場所が嫌いではないのだろう。
 かくいう私たちも、いつも顔を揃える五人でテーブルと椅子を寄せ合っていた。一際文句の声が高いローちゃん、マイペースなハルちゃん、無口気味のなっちゃん、そしてスマホを弄ってばかりのいっちゃんも、みんな当たり前の顔をして座っている。
 誰も口に出さないし、約束したわけでもないのに自然と集まってくる。涼しさの保証された図書室やら保健室やらに避難してもよさそうなのに、そうする人はいない。

 私はそんな〝当然〟が、なんだか嬉しかった。
「ねー、これ見てぇ」
 教室の湿気てべたつく暑さにひととおり文句をこぼしたローちゃんは少し気が晴れたのか、ニヤニヤしながら右腕に巻かれた安っぽいブレスレットを見せびらかしてきた。
「昨日ねえ、(しょう)くんに買ってもらったんだ。付き合って二ヶ月記念だって! エモいよねえ、こういうことにマメな男ってさあ」
「はー、二ヶ月記念ねえ。それはなんというか……めでたいね?」
 得心できるようなできないような気持ちのまま、曖昧に相槌を打った。いかにもぞんざいな同意だったけれど、ローちゃんは嬉々として表情を綻ばせた。いい意味でも悪い意味でも裏表がなく、単純な人だ。
 翔くんとはローちゃんが夏休み前に作った彼氏だ。

 十七歳の夏を完璧に満喫すると意気込み、夏祭りやら海やらに行くため数々の男子を吟味して勝ち取ったその恋人と、それはそれはリア充全開の夏休みを過ごしたらしい。今月で晴れて二ヶ月目ということだが、その喜びがどれほど素晴らしいものなのか、色恋の機微に疎い私には想像できなかった。
 けれどそこは人それぞれ。ローちゃんが幸せなら結構なことだ。
「でしょでしょ、そーでしょ! こういう小さな日々のヨロコビ? って言うか、発見って言うか……なんてーの? 気づき? やっぱさあ、あれこれ多くを求めるより、こういうことのが大事なんじゃないかなって最近は思うわけ。じゃない?」
「ま、そういう幸せもいいんじゃないですかにゃ。ねえ、なっさん?」
「せやな」
 きっと私と同じ胸中だったのであろうハルちゃんの適当な頷きに、なっちゃんも言葉少なに続いた。

 漫画やアニメが好きな二人は現実の色恋沙汰より紙上の白や黒にときめくタイプで、やはりローちゃんのはしゃぎように理解が及ばない様子だ。
 そんな中でただ一人、水を差したのは言わずもがな。
「ふん、男に(こび)を売りケツを振り、ヘラヘラ迎合することが幸せかね。それで掴める幸せってのは何ドルくらいの価値なんだい。教えてつかあさいよ、ゴーイングマイロードさんよ」
 スマホを超高速でフリックする指を止めないまま、いっちゃんはにべもなく切り捨てた。〝ゴーイングマイロード〟とはいっちゃんがローちゃんの本名である路子の路という字から勝手につけた蔑称で、主に喧嘩を売る時に使っている。(私たちも語感が気に入ってしまい、そこからローちゃんと呼ぶに至っている)
「あーん? なんだって、中二病?」

 いっちゃんにケチをつけられたローちゃんは目を三角に釣り上げ、剣呑な視線で睨めつける。ああ、今日も始まってしまった。
 性格上、考え方が真っ向から対立するいっちゃんとローちゃんは、毎日なにがしか言い争っている。議題のスケールはしょうもないが、目の前で見るとそれなりに迫力がある。
 とは言え、見慣れたいまとなってはもはや日常の一コマ。我らが二年四組の名物である。今日も今日とて口火を切ったいっちゃんに、ローちゃんが食って掛かった。
「そーゆーあんたの幸せこそなんなの? 毎日毎日ネットでワケわかんないことばっかり調べて、ご高説(こうせつ)を垂れ流してる場合? 青春はいま一度っきり! 十七歳っていうプレミアはいまだけ! 男と遊ばずして、なにが幸せだっての? あんた、夏休み中なにしてた?」

「やれやれ、驚くほど単純明快かつクソみたいな幸福論だ。いっぺんイマドキ十代女子に絶大な人気を誇る、とかいう胡散臭(うさんくさ)いエッセイストのツイッターでもフォローしてお友達になってこいよ。人工甘味料全開のクソ甘ったるい自虐自慢風のエモツイートがどんどん流れてきて、さぞ気持ちがいいだろ。見せかけと思い込みの幸せなんぞ、すぐに底が見える。先行きの見えない恋愛ごっこが、世界の真実を追求するより尊いとはとても思えんね」
「セカイのシンジツう~? 部屋に引きこもってネットの闇と戦う人生が? そんなもんよりハラハラドキドキの恋愛ごっこのほうが、よーっぽど幸せだと思うけどねえ?」
「またまた、こいつは面白いご冗談だ! それはなんていうド三流女性雑誌の、何月号に載ってた言葉だい? 素晴らしいねえ、人類みな穴兄弟ってか!

少子化対策のプロパガンダにノせられた分際でなにほざいてやがんだ、脳味噌スイーツめ!」
「はいはーい、今日も中二病全開サンキューでーす。まっ、この問題はロクに男と喋る予定もないお子ちゃまじゃ、ちょーっとハードル高かったかなってカンジ?」
「な、なんだとお……。大人しく聞いてりゃ、クソ脳味噌ハッピースイーツ野郎がっ!」
 炸裂したニトロのような怒りを燃え上がらせ、いっちゃんは椅子から猛々しく立ち上がった。私とハルちゃんとなっちゃんは被害を受けないように、弁当箱を膝の上に退避させる。
 見解の相違というだけで、どちらも正解ではないだろう。趣味が違えば視点が、生き方が、人生が違う。

 なにに比重を置くかで人の価値観はいかようにも変化するのだから、彼氏との恋愛こそ人生における至上の楽しみであると考えるローちゃんと、マスゴミ(いっちゃんはマスコミのことをこう表現する)の偏向報道をくぐり抜けて世界の真実を暴き出すことを至上命題とするいっちゃんとでは、意見が噛み合うはずもない。
 口さがなく、歯に衣着せない性格で正論に特化したローちゃんは、いっちゃんの過激な論理武装と並べるとまさに犬と猿、水と油、ハブとマングースだ。避けようのない衝突によって爆発してしまったいっちゃんは戦争演説をする独裁者のような威容を放ちながら、怒涛の勢いで畳み掛ける。
「なあーにが『ちょっとハードル高かったかな』だ!

いいか、世界に蔓延する代理戦争の悲劇がなくならないのは、お前みたいな能無しが取りも直さず軍事主義の構造的支配という屈辱的かつ暴力的かつ一方的な陵辱に疑問を持たないせいなんだ! 第二次世界大戦からの鬼畜米帝と悪辣ソ連の冷戦はまだ続いている、いや、そもそも終わってすら……」
 小難しい単語をありったけに並べ、正誤も定かではない渾身の大演説を身振り手振り、口角泡を飛ばしてべらべらと捲し立てる。しかし誰も聴いていない。ハルちゃんとなっちゃんはお弁当をぱくつきながら、週刊の漫画雑誌を開いてそれぞれに感想を言い合っているし、論戦相手だったはずのローちゃんも早々に飽きてしまったのか、リップを塗り直しつつ鏡とのにらめっこを始めている。

 せめて私だけでも、と合いの手などを入れてあげたいところだが、如何せんなにを言っているのかわからない。
 そんな私たちに構うことなく、いっちゃんの論調は無限にヒートアップしていく。もはや元気にぶっ壊れるその姿を、穏やかな気持ちでぼんやり見守るしかなかった。
「……こんな状況下、ネットを駆使して少しでも多くの事実を掴み、各種SNSで拡散する以外に我々国民が為せる行動があるだろうか⁉ (しか)るに! 暢気(のんき)にサルみてえなヤリたい盛りの男なんぞとケツをど突き合ってる場合じゃねえんだ! わかるだろ、ゾゾエ!」
 よく回る口だなあ、などと思って油断していたら、演説の矛先が急旋回して私に向いた。
「えっ⁉ あっ、うーん、そうなのかねえ? ハルちゃんはどう思う?」

 話の内容が全然入っていなかった私は狼狽を抑えつつ、ちょうど視線の先に映ったハルちゃんにレシーブした。こうなってしまったいっちゃんは止められない。暴走するダンプカーの前に飛び出すようなものだ。それをわかっていながら一瞬で身代わりを立てて遁走(とんそう)する自分のしたたかさに、内心少しの罪悪感と笑いをこらえる。
 そんな大暴投を受けたハルちゃんは卵焼きを齧って幸せそうな顔をしながら、のんびりと答えた。
「そんな難しいこといきなり聞かれても知らんがな。とりあえず、男は三次より二次に限る。壁ドンしながら真顔で『お前のすべてが欲しい。いや、奪ってやる。覚悟しろ』っていうセリフを吐いていい男が三次にいるとは思えんからにゃ。ねえ、なっさん?」
「せやな」
 ハルちゃんの幼馴染にして戦友、なっちゃんがうんうんと頷く。

 さすがは天をも恐れぬ断金腐女子(ふじょし)コンビだ。この状況に対し、よもや真顔で二次元男子唯一論を以って応戦するとは。ギリシャで行われるロケット花火打ち合い祭りのようにやたらめったらぶち込み合う我と我の応酬で、お互いに論旨がまったく噛み合っていない。しかしいっちゃんも負けじと、追加のロケット論説を発射する。
「なんてこった、お前らもか! お前らも二次元の幻想に取り憑かれた憐れで蒙昧な消費者だったのか! ちっ、こうなったらお前らの妄想力と画力を最大限に活かせ! 各国を擬人化の上、微妙な国際情勢の現状を受け攻めで巧みに表現し、ラブコメ風に描いたクソみたいなBL漫画でこの状況のヤバさを盛大に喧伝してやろうじゃないか! 立ち上がれ日本国民、立ち上がれ腐女子! 手始めにピクシブあたりから制圧し、ゆくゆくはBLで世界を救え! すっかり聞かなくなっちゃったクールジャパン戦略の往生際を、いまこそ見せつけてやれ!」

「なるほど、わからん。国同士の擬人化なんて手垢がつきすぎだし、オンリーイベントもこの頃はすっかり下火だにゃ」
「ウケる」
 室温よりよほど高い熱量の込もった演説は、二人にすげなく(かわ)されてしまった。
「ほら見なさい中二病、この同意の少なさ。真実とやらが見えてくるのはまだまだ先ね」
 もはや完全に興味を失ったらしいローちゃんがスマホを見ながら、止めとばかりに冷たくあしらった。
「ひ、低い……! どいつもこいつも精神の成熟度が低すぎる……!」
 せっかくの大論説を三者三様にいなされたいっちゃんは、大仰に絶望する大物政治家の真似事をしながら机の上へ盛大に崩折れた。
「とりあえず彼氏作ったら? 話はそれからでしょ、中二病」

「ふざけんな、そんなカップ麺みてえに作る恋愛ごっこなんぞ犬に食わせてやる! 僕はたとえ一人になっても戦うぞ! 虚飾に塗れたこの水平線に、いつか勝利と栄華の暁をもたらさん! 正義は我にぞあるッ!」
「やべー、世界一声のでかい勇者の誕生にゃ。正義の根拠がガバガバ過ぎて草生えるにゃ」
「せやな」
「ゾゾエ、あんたがちゃんと面倒見るのよ。世界を救う前に、まず彼氏を作らせてやって」
「う、うん……頑張る」
 ローちゃんの正論にぐうの音も出ない。
 まあ友人の一人として、いっちゃんの将来を心配していないわけではない。
 このまま中二病が治らなかったら付き合う男は現れるのだろうか。就活の面接で『少子高齢化対策の進捗状況についての答弁で責任転嫁する官僚の国会答弁モノマネ』をしないだろうか。

 そもそも大学に進学する気はあるのだろうか。とにかく様々にある。
 けれど元気にぶっ壊れているいっちゃんを見ていると、安心する。
 いっちゃんがもしまともなことしか言わなくなって、意味があるのかないのかわからないマシンガントークをやめてしまったら嫌だ。
 こんなに刺々しい言葉を並べてもいっちゃんが憎めないのは、本心で喋っているからだろう。一言も嘘や見栄を混ぜていない、極めて純度の高い本音。普通なら空気を読んで、胸の内にしまいこんでしまうもの。それをあっけらかんと吐き出す様が気持ちいい。
 そう感じてしまうのは、私も大概いっちゃんに毒されている証拠に違いない。
「そういやさー、なんであんたらはあんな派手に遅刻したの?」
 ローちゃんが思い出したようにいっちゃんに訊いた。するといっちゃんは私を見て、ニヤリと笑った。

「機密事項だ。宇宙平和のため、答えるわけにはいかんな。そうだろ、ゾゾエ」
「あー、うん、まあ……命が惜しかったら、ってやつ?」
「なにそれ。ま、なんだっていいけど、宇宙平和より田村先生への言い訳のほうが重要なんじゃない? 先生カンカンだったよ」
 ローちゃんがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、私たちのほうへ身を乗り出す。
 結局私たちは一限目に間に合わず、教室に入った時には二限目が始まる寸前だった。あの田村先生を怒らせてしまったと聞いて、胃にひやりと氷が滑るような焦燥が走った。
「マジかよ。クソやべーな」
 そう言いながらのんびりパンを齧る様からは、微塵も動揺を感じ取れない。そんないっちゃんを見たら、焦燥は一瞬で掻き消えた。
 いっちゃんはパンをもぐもぐと咀嚼しながら、さも名案と言わんばかりに手を打った。

「よしゾゾエ、あとで一芝居打ちに行こう。某県議会議員並みに泣き喚いて土下座のひとつもカマせば許すに決まってるさ」
「それってどっちが泣き喚く係なの? あともう片方はなにしてるの?」
「決まってるだろ。耳に手を添えて、終始聞こえないふりしてるんだよ」
「わー、すっごく怒られそう! もう二度と許してもらえないね!」
「案ずるな、地の果てまで逃げる算段はついてる。いざとなったら新潟あたりからすこぶる怪しい小型船に乗って、お隣の独裁国家までフルスロットルで過激な逃避行と洒落込もうぜ」
「ぜーんぜん行きたくなーい! ぜーんぜん行きたくなーい!」
「強いわね、あんたら……」
 処置なし、と言った具合に首を振ってローちゃんが私たちから離れたところで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 熱気と喧騒は一気にしぼみ、三々五々自分の席に散らばり直していく。弁当を食べ終わったハルちゃんや、いましがたまで漫画を広げていたなっちゃんも、いつの間にやら戻っていた。ローちゃんも国外逃亡する前にLINEくらいは送りなさいよ、とだけ言い残して足早に立ち去っていった。
 あとには席が前後に並び合う私といっちゃんだけが残り、五限目の先生が来る直前まで逃亡した後の独立国家建国計画を練る話で盛り上がった。

 ――いっちゃんと初めて出逢った日。
 幼稚園の年中に上がって数日後に言われた一言目を、いまでもはっきりと憶えている。
 ――ねえ、宇宙人ってどこにいると思う?

 当時クラスにいた女子のほとんどが流行の魔法少女アニメに夢中になっている中、朝に弱い私は日曜の早朝に放送されるそのアニメを見ることができず、すっかり話題に乗り遅れてクラスの端っこで暇を持て余し、ひたすらに絵を描いていた。我ながらなんと暗い幼稚園児だったのだろうかと思う。
 そんな中、いっちゃんは流行に目もくれず、ひたすら宇宙人の知識を追求していた。そして私に話しかけてくれたのだ。
 ――ねえ、宇宙人ってさ、どこにいると思う?
 なにも答えられない私に、いっちゃんは同じ問を重ねた。
 いまにして思えば、正直に「わかりません」とたった一言を言えば済む話だとわかる。
 しかし生まれついて人付き合いを恐ろしいものとして忌避し、ほとんど他人と関わらなかったせいで沁みついたコミュ障の弊害は、その時にはすでにはっきりと顕れていた。

 だからそう訊かれた瞬間、全身の血が沸騰するような焦りと恐怖を感じていた。
 一度も考えたことのない問題を、一度も口を利いたことのない女の子から訊かれた衝撃は重く、どう答えたら正解なのか、あるいは正解のわからない時はなんと答えれば正解なのかを決めあぐねた。限界を突破した焦燥のせいで、なんと答えたのかは憶えていない。
 そうした不可思議なやり取りをきっかけに都合十二年間、クラスを共にしたり離れたりしながらもずっと仲良く過ごしてきた。そんな私が抱くいっちゃんの人物像と言うのは、初めて会った時からさほど変わっていない。
 超然にして唯我。奔放にして偏奇。常識、先入観、既成事実、そういったなにもかもに囚われない。自由人と言えば聞こえはいいが、悪く言えば手のつけられない電波娘とも言える。

 特に中学に上がった頃からの偏向ぶりは著しい。
 父親のお下がりでPCを手に入れたいっちゃんは、どこで覚えたのか検索の極意なるものをマスターして、ネットに蔓延る政治ネタや時事ネタなど(いっちゃん曰く〝世界の真実〟らしい)に傾倒し、動画やニュース記事を漁っては覚えたての単語を連発するようになった。
 そこからは坂道を転がるようにインターネットの闇へハマってゆき、見る人が見れば一目でわかるほど見事な中二病に羅患(らかん)してしまった。とうに中学を卒業して高校二年生になったいまも、まったく治る気配がない。
 成績優秀で運動神経もそれなり、外見も可愛いと非の打ち所がないため、数度は告白を受ける側の経験もしているらしい。

 ただ遺憾なことに可憐な見た目から想像がつかない強烈な電波具合のギャップが、夢見がちな男子諸君には刺激が強すぎるらしく、また本人の「教養のない有象無象に付き合っている暇などない」という取り付く島もない一言で、全員が一刀両断の元に斬り捨てられている。
 中学の終わり頃からだったか、アニメやゲーム、漫画の知識も入り乱れるようになって、私にはもうついていけなくなってしまった。私もたまに単行本を買う程度には漫画を愛しているけれど、いっちゃんの知識はそんなニワカで語れるほど浅くも狭くもない。実際にはどの程度の見聞を深めているのか計りようもないけれど、少なくとも私が理解可能な範疇(はんちゅう)はとうに超えてしまっている。

 そんな奇天烈(きてれつ)な言動に付き合っているのは幼馴染の私を含めても数人で、大多数はやんわりとスルーしている。重度の中二病を(こじ)らせた人がいる一方、触らぬ神になんとやらとばかりに処世術を爽やかに身に付けて、静かに距離を取る人もいる。
 それでも私は、そんないっちゃんが大好きだ。
 他人に怯え、決断ができず、すぐに現実逃避してしまう私の横で常に笑い、笑わせてくれる。どんなに言葉が刺々しいように聞こえても、本当に人を傷つけるようなことは言わないし、言い返してこない相手に喧嘩を吹っかけることもしない。中二病のせいで伝わりにくいけれど、いっちゃんは本当に優しい人なのだ。
 きっとあの日、私に声をかけてくれたのも偶然ではなく、隅っこで一人ぼっちになっていた私を気遣ってくれたからだ。

 始まりこそ宇宙人の所在なんていう不条理なギャグみたいなものだったけれど、その出逢いでいっちゃんと友達になっていなかったら私はいまでも一人ぼっちで、もっと塞ぎ込んだ人間になっていただろう。
 だからどんなに言動が電波でも、毒々しくても、妙ちきりんでも、ブラックジョークばっかりでも気にならないし、それ自体は心配していない。いっちゃんのそれは元気がある証拠だからだ。  私が最近ことに心配しているのは、そういうあれやこれやに入り混じって、やたらと〝死ぬ気〟を主張し始めたところである。
 マイブームは〝滅亡〟〝終世〟〝消滅〟。この世界はキリスト教原理主義者の根拠のない歪んだ価値観によって歪められた偽りの世界で、どうにもこうにも〝生き苦しい〟らしい。

 けれど私はその〝生き苦しさ〟の本質が、そんな小難しいことではないのを知っている。いっちゃんの人生は、随分前から面倒な方向に進みつつある。具体的にいつからかといえば、まさに中二病の病状が深刻に進み始めた頃と一致する。
 他人を(いと)い、現実から目を背け続ける私とは別のスタイルで、いっちゃんもまた現実から逃げ回っている。そのための方便が奇しくも中二病という現代の文化と相性がよく、適当な発散方法になるらしい。
 だから私はいっちゃんが電波なことを叫び続ける間、安心する。わけのわからないモノマネも、正当性があるのかわからない演説ごっこも、いくら続けたところでなんの出口も解答も得られない堂々巡りだけど、そうすることが少しでもいっちゃんの人生を彩る絵の具になるのなら。たとえば、私もその一色になれるのなら。

 存外、そういう電波な人生だって悪くない。私は心底、そう思うのだ。

 蒸し上げられた気温が一巡して、勢いを失っていく。伸びた紅霞(こうか)に溶け出して、薄まりながら昇っていく。望洋と窓の外に広がっていた私の意識が、ゆるゆると胸の中に戻って押し込まれていく。
 午後の授業内容は、ほとんど頭に残らなかった。いっちゃんと新潟から亡命する船旅で、反吐を戻したり、荒れた日本海に放り出されたりする妄想を膨らませていたせいだ。
 気がつくと騒がしかった教室はすっかり静まり返っていて、いっちゃんと私だけになっていた。
 埃と、汗っぽい匂いと、夕暮れが()()ぜになった空っぽの教室。
 休み時間の喧騒が斑に浮遊しているような幻聴が耳腔に残響していて、でも誰もいなくて。

 消しきれていない薄く白んだ黒板は、今日がもうすっかり終わってしまったのを告げながら、終着駅に置かれた停止板のようにのっぺりと張りついている。
 ここはもう時間の行き止まり。行き止まりの教室。
 それらを背にしたいっちゃんが自分の席の机に座り、私と同じように開け放たれた窓の外を眺めながら、ぼうっとしていた。
「あ……付き合わせちゃってごめんね、毎度毎度」
 ようやくしっかりとした意識を取り戻した私は、慌てて教科書を鞄に詰め込む。
「お前は昔からそーゆー感じだし、もう慣れた。だがいつもそんなんじゃ、あっという間にボケて老けて後期高齢者までまっしぐらだぜ?」
 とっくに帰り支度を終えているいっちゃんが、呆れたように答えた。
 愛、などと言えば大袈裟だけど、私はこういう時間が好きだ。

 いまこの時間と空間を切り抜けば、一日が終わって、そのまま世界が滅んで、たった二人ぼっちになってしまったかのような錯覚に迷い込む。
 その錯覚は言うまでもなく穴だらけで、窓から流れ込んでくる風には間違いなく誰かの気配や匂いが乗っかっている。
 私たちだけが勝手に居残った、ちっとも隔絶されてない仮初めの密室。あるいは終末。
 空想ひとつで簡単に顕れるコンビニエンスな絶望が心地良いような、どうでもいいような。
 私は手早く教科書やノートを纏め、鞄を持って立ち上がった。
「おまたせ。んじゃ、今日はどうする? うちに寄る? それともどっか行く?」
 けれどいっちゃんは応じず、なにも言わないまま、足をぶらつかせる。
 まさか聞こえなかったはずはないだろう。そう思いながら笑って、肩を指先で小突いた。

「こら、いっちゃんまで後期高齢者なの? それとも難聴ピアニストの真似?」
 いつもなら不敵に笑み返しながら、愚にもつかない屁理屈を言うはずだった。
 それなのに、いっちゃんは笑わなかった。無表情でもなかった。口を横に結んだまま、喉をしきりに上下させている。なにか、迷っているような。
 不安に駆られた私は、一度鞄を降ろした。
「どしたの? 帰らないの?」
 いっちゃんは答えない。視線を泳がせて、足をばたつかせて、なにも言わない。まるで緩やかに溺れているよう。なのに泳ごうとしない。沈みゆくまま、身を任せている。
「あのさ……あのさ」
 なにかを言いあぐねたまま、いっちゃんは溺れ続ける。こんな様子を見るのは初めてだ。
 私はどう反応してよいかわからず、どうすることもできないまま突っ立っていた。

 自分の席でこんなことをしていると、先生に指されて答えようがなかった時の焦りがじわじわと思い出される。嫌な冷たい感覚が背中を伝って、全身を這い回っていく。
 どれくらいの間があっただろうか。いっちゃんはやにわに自分のリュックを開けて、中身を探り始めた。
 不安はどんどん膨らみ、胸の中で重みを増していく。その重りで私まで溺れそうになる。
 いったいなにが出てくるのか。得体の知れない恐怖がゆっくりと心内を占めていく。
 結局出てきたのは、くしゃくしゃになった紙切れ一枚だった。
 どんなとんでもないものを取り出すのかと身構えていた私は、束の間に胸を撫で下ろす。
「もー、勿体ぶって出すからどんなモンスターが出てくんのかって身構えちゃったじゃん。いっちゃん、新しい技を覚えたね」

 不安を掻き消すように私は茶化した。それでも、いっちゃんは一向に笑わなかった。
「モンスターか。言い得て妙かもしれんね」
 紛らわそうとした不安の重りは、倍になって舞い戻ってきた。信じられない速度で私の心に落ち込み、ずどんと叩きつけられる。
 なにも言わないまま、いっちゃんはその紙を私に手渡した。
 そこに書かれていた文字をつらつらと追い、その意味を理解した私は思わず息を呑む。
 文頭には『KA線防護に係る応召要請』と厳めしい言葉が銘打たれ、差出人には『厚生労働省KA線対策室EKA整備課応召要請書送信係』とかいう長ったらしい名が記されていた。

 翻って内容は短く、ほんの数行でいっちゃんが『指定遺伝子情報保持者』――『EKA構造体』であること、厳正な抽選の結果であること、応召先は『第八七塔てんくう』であること、そして応召の日付が記されていて、最後に大臣の名前と印があるだけだ。
 その応召日は、十月九日――今日から二週間後だった。
「なに、これ……。いっちゃん、なんなの、これは……」
 悪い冗談だと思った。いや、思いたかった。
 いっちゃんが二週間後に死ぬ。そんな恐ろしいことを命令する令状の存在なんて。
 たった一枚の紙切れが放つ重圧に手が震え、うっかり取り落としてしまった。
 いっちゃんは机から立って静かな動作でそれを拾い上げ、なんでもないもののようにペラペラと振りながらいつもの調子で嘯いた。
「見りゃわかんだろ、召集令状だよ。

 お国の為にくたばるのが決定したんだ。スーパーSレアな大本営発表だろ? ったく、またとないガチネタだってのに、間の抜けたアホ面しやがって」
 いつもの放言も、辛辣な非難も、まるで耳に入ってこない。
 私はただ言われるとおり、アホのような鸚鵡(おうむ)返しをするしかなかった。
「召集命令って、そんな……いっちゃんが……?」
 思わず身体から力が抜けて、自分の席にまた座り込んでしまった。
 無様な私を目の当たりにしたいっちゃんは、どんな振りにも対応できないのを察したらしい。大仰に溜息を吐きつつ両手で私の顔を引っ掴んで、ぐいっと近づける。
「こんなにわかりやすいネタで大喜利の一本もできんようじゃ、将来この国を担う社畜になった時、上司の無茶ぶりに応えられないぞ。それともお前の将来はニートか?

それにしたってクソスレに書き込む時に求められるのは、三行以内で収まるエッジの利いたユーモアだ。どっちの道に進むにしろ、話のつまらねえ人間にロクな末路はない。さあ、一度しかない人生に二度目のチャンスをくれてやろう。さん、はいっ」
 目の前数センチに迫ったいっちゃんが、若干早口でべらべらと言葉を羅列する。幼馴染だからそんなのとっくに慣れちゃってて、いつものこと。
 しかしあまりにも情報量が多過ぎて、受け付けられない。いつもは合わせられる調子が合わせられず、狂ってしまっている。雀の涙ほどしかないキャパシティが、一枚の紙切れによってとっくに決壊しているせいだ。
 それでもいっちゃんはほとんど真顔のまま待っている。超至近距離の瞳が、夕焼けを反射しながらほんの少し潤んでいる。

 期待しているのだ。私の口から逆転満塁ホームランの如く、土壇場を返すほどのエッジが利いたユーモアとやらが劇的に飛び出すのを。情け容赦なく、勇気を持って、この紙切れを冗談にして笑えるような、驚天動地のユーモアとやらを。
 しかし私が辛うじて言えたのは、三行どころかたった三文字だけだった。
「嘘だ」
 怒涛の現実に呆気なく追い込まれ、カラカラと空転する脳味噌にそんなユーモアを絞り出すほどの強さなんて、あるわけがなかった。
「残念、その答えじゃ座布団はなしだな」
 いっちゃんが私の顔を離し、溜息をこぼしながらすっと一歩退いた。それがどこか遠くに行ってしまいそうな気がして、慌てて立ち上がり、縋り付くようにその手を掴んだ。
「嘘だ……嘘だ、こんなの。十月九日って……再来週じゃん。嘘でしょ、こんなの」

 私はいっちゃんの手を固く握り締めながら、頭を振ってひたすらに理解を拒絶した。
 こんなものの存在も事実も、断じて認めるわけにはいかなかった。
 だってこんなものをもし認めてしまったら、私は。
「ねえ、嘘だよね? どこからこんな機密文書のテンプレをダウンロードしてきたの? 最近のネットにはこんな危ないものまで落っこちてるの? ネタにしてもヘビー過ぎだよ。こんなの偽物でしょ。偽物だよね?」
 いっちゃんの口からこそ、これがびっくり仰天のユーモアであると、ただ私の間抜け面を見るための、他愛もない新趣向のおふざけであるという言葉を期待した。
 しかしいっちゃんは目を背けたまま、なにも言ってくれない。
 頭と心臓がひたすらに痛くて、でも、なにも言ってくれない。
 重い沈黙に窒息してしまいそうだった。理性的に振る舞うには、心が限界だった。

 私は、ついに叫んだ
「こんな冗談……嫌だよ、信じない。嘘なんでしょ。ねえ、こんなの嘘だって……言ってよ。はやく偽物だって、言ってよ!」
 しかしいっちゃんは首を振り、静かに断じた。
「嘘でも冗談でもない。正真正銘、本物だ」
 一分の期待さえも失われた瞬間、脳裏に黒々とした砲台の姿が呪いのように思い浮かんできた。床に着けているはずの足が感覚を見失い、奈落の底に墜ちていくような気色悪い浮遊感に襲われて、ぐうっと涙が溢れ出した。どれだけ拒絶しようとも不定形の魔物のように滑り込んでくる恐怖が、私の頭脳に揺るがしようのない現実をありありと刻みつける。
 いっちゃんが――二週間後に死んでしまう。
「今朝遅れた理由を神妙に述べよう」
 握った手をするりと離したいっちゃんはまた自分の机に座り、苦虫を噛み潰したような表情で語りだした。

「今朝遅れたのは、第七惑星エルトリオンの先遣調査班に妨害されたわけでも、萌豚アニメのヒロインばりに食パンが中々口に入らなかったわけでもなかった。武士がハラキリする時だって、躊躇(ためら)っちゃってすぐに斬れないだろ? そういう感じ。こいつをゾゾエに見せるかどうしようか……玄関でずっと悩んでたんだ」
 私は呆気に取られて、しばらくなにも言い返せなかった。
 いっちゃんの顔と、その手元で夕日に鈍く光る令状を交互に見比べて、たまに意味もなく窓の外を見てみたりして、何度も文章の意味合いを追う。
 令状の発布日は、半年も前だった。
 ――ずっと一緒にいたはずなのに、私はちっとも気がつかなかった。半年も。
「どうして、隠してたの?」
 私の声色は、明らかにいっちゃんを(とが)めていた。
 いっちゃんが悪いわけではないのに、そうわかっていても、自分のあまりの脳天気さとこの世の不条理に苛つき、冷静になれなかった。

「隠してたわけじゃないよ。なんつーか、わかるだろ? 悩んでたっつーか……」
 ばつが悪そうな表情で頭を掻きながら、ぼやけた言い方をする。いつもはっきりと物事を言い切るいっちゃんらしくない。
 様子を見るに、もしかすると半年もの間、毎朝同じ問題を考えていたのかもしれない。隠そうとしていたのではなく、迷いに迷った結果がただ、今日だったなら。半年間、毎朝玄関に座り込んで迷う孤独ないっちゃんの姿を想像したら、それ以上責められなくなった。
 それにしても、当のいっちゃんが妙に落ち着いているように見えて仕方ない。
 見も知らない誰かから二週間後、何百万人を救うための『弾丸』になって――死ねという手紙が届いているのに。

「ねえ、どうしてそんなに落ち着いてるの?」
「そう? そんなに落ち着いてるように見えるか?」
 まさか、いっちゃんはもう全然、別のことを考えていて。
 いっちゃんの落ち着きを余裕と受け取った私は、にわかに希望を見出した気になった。
 手の甲でぐしっと涙を拭い、その希望に飛びつく。
「もしかして、これをなんとかする方法とか、作戦とかがあるの⁉」
そうだ、いっちゃんは頭がいいんだ。中二病だしサブカルの権化だけど、それは知識人でもあるということ。世の中の仕組みについてもきっと詳しいはずだ。
しかし、その答えはにべもなかった。
「そんなもん、あるわけないだろ」
「じゃあ、なんで、そんな……」
「いや、なんつーかさ」

 いっちゃんは、視線をすっと窓の外へ移した。
「まあ、これはこれで、ラッキーなんじゃないかな、って思ってさ」
 開け放たれた窓から風がさわ、と入り込み、いっちゃんの柔い前髪を揺らす。いっちゃんの発した言葉は、私がまるで知らない言語のように聞こえた。
 地上三階からの景色は高く、どこまでも見慣れたもので、見渡す限りつまらない。
 けれどそれが嫌ではなくて、むしろなにひとつ変わっていないように見えて、その実まったくそんなことはなく、視力の限られた私の目が届かないところで、日々なにかが変わり続けている。それが嬉しいような、怖いような。
 ちっぽけで、ありふれていて、どうでもいい。何億何兆という日常の一コマが、誰かにとって喜劇で、悲劇で、穏やかで、激しくて、波瀾万丈で、どうにもならない現実そのものだ。

 なにもかもを殺す世界の病魔なんて、忍び寄る足音さえ聞こえず、所詮テレビやネットの向こうの話でしかない。そうやって忘れたふりをして、日々誰もが、なにもかもが、産まれて、生きて、足掻(あが)いて、藻掻(もが)いて、死んで。あまりにも当然で、あまりにも自然なこと。
 学校の狭い教室で風景が目に焼き付くほど同じような毎日を繰り返し、机に向かって漫然と勉強をしている限りでは、そんな横並びの自然さえずっとずっと遠い出来事だった。だってそれはきっと人生の全部というとてつもなく長い時間をかけて、ほんの少しずつ思い知ってゆくことのはずだ。
 その時間を急激に早められ、突きつけられたいっちゃんの瞳は、ぼんやりと夕陽に照らされ、揺れている。
 私と変わらない長さの時間しか人生を過ごしていない。住んでいる場所だってすぐ近所だ。

 地図の縮尺をちょっと合わせたらスマホの一画面に収まってしまうほど狭い世界で、幼稚園から小中、高校のいままでずっと一緒に過ごしてきた。
 なのにいっちゃんの発した言葉は、私がまるで知らない言葉のように聞こえた。とんでもなく高く、分厚い壁の向こうにいるような気がした。
「死ぬのがラッキーって、なに?」
 私の言葉は情けなく、縋るようだった。
 いっちゃんは押し黙り、俯いている。その時間はひどくゆっくりに、長く感じられた。
 待って、待って、いっちゃんはようやく、ぽつりと呟いた。
「……隕石でも、落ちてこねえかなあ」
 沈みゆく西空が、幽かに笑ういっちゃんを斜めに照らし続ける。
 隕石なんて落ちてこない。くるわけがない。
 それはつまり、本当に隕石が落ちてほしいという意味ではなくて。

「もういろいろ、めんどくせえ。頭の天辺から燃え尽きて、なくなっちまいたい」
 つまり、そういうことだ。いっちゃんは死にたがっている。言葉としては知ってはいたけれど、そういう冗談だとずっと思っていた。
 中二病のあらわれ。数ある方便のうちのひとつ。面倒だけれど、まだまだ生きたいということへの反語的応戦の証なのだと。
 けれど、いっちゃんは本当に本気だったのだ。
 私が現実から目を背けている間、ずっと、ずっと。
「それって……家に帰りたくないから?」
 言葉を選ばず、直球で問い質す。
 いっちゃんの家庭が随分前から厄介な状況にあることは知っていた。ずっと両親が不仲で喧嘩が絶えず、不満を抱いたお兄さんは五年ほど前に出て行ってしまっている。いっちゃんもそんな状況に辟易してしまい、最近はほとんど家に寄りついていないことも聞いていた。

 寂しい笑みのような歪みを頬に湛えたまま、いっちゃんは(うそぶ)く。
「帰る場所……いや、帰りたい場所がねえってのは存外虚しいもんだぜ。どこにいたって蚊帳の外っていうか、余所者の気分なんだ。このままなんとなく何十年も生きなきゃならないなんて、考えるだけで疲れちまう。そこへこの召集命令だ。渡りに船ってもんだろ?」
「家のことなんて、家を出ちゃえば関係ないよ。あと一年辛抱して、高校を卒業したら私と一緒に家を出ればいい。そしたら……!」
「確かに……ゾゾエとか、ミチコとか、ハルとか、ナオとか、そういう仲の良い連中と一緒なら、こんなクソみたいな人生もまあまあ楽しいし、それでもいいと思ってたんだけどさ。実際に召集令状を受け取った時に……なんかがぷっつり切れちゃったんだ」

 私の言葉はいっちゃんの自嘲に()らされて、彼方へ飛んで行った。
 疑問を口にすることができない。確かめることが怖い。直視することが怖い。
 そんな私に構わず、いっちゃんは虚ろで薄まった笑顔のようなものを貼り付けたまま、容赦なく言い放つ。
「つまりさ、そんなに頑張って生きていく気が……なくなっちゃったんだよ」
 鋭利に澄まされたいっちゃんの絶望が、私の心を深く抉り抜いた。
 放課後はほとんど毎日一緒にどこかへ行ったり、うちでご飯を食べたりして過ごすけれど、いつも適当な時間になったらふいとどこかへ行ってしまう。そういう日は家に帰らず、大体ネカフェで寝泊まりしている。ネカフェを転々とする身を案じ、うちに泊まることを勧めたこともあったけれど、迷惑をかけるからと毎回断られ、そうすることは一度もなかった。

 断られるたび、そして不意に別れるたび、そのままいなくなってしまうんじゃないかという不安は常にあった。その予感はどうやら、最悪の形で実現してしまったようだ。
 頭のどこかで、いっちゃんがまだ召集令状だなんてわけのわからない死を受け入れていないことを期待していた。たとえ一人では生き辛くとも、私と一緒なら、みんなと一緒なら生きていたいと思ってくれる。そう信じていた。
 それは、一方的な自惚れだったようだ。
「もう頑張らなくていい、この日になったら死んでいい、キッチリした理由がつけてもらえて、おまけになんかの役に立って死ねるなら……それもいいかなって。それに、うちのクソどもを見てると、どうしても考えちゃうんだ」
 いっちゃんがもぞりと身動ぎする。座っている机が甲高い軋みを上げた。

「あいつらだってたぶん、十七年前に僕が生まれた時は、そりゃあ手に手を取り合って喜んでくれたはずだと信じてる。でも時間は人を変える。十七年経ったいまを見てみろ。あいつらの目に僕のことなんか、もう一ミリだって映ってやしねえ。お前らだっていまはダチでいてくれるのかもしれない。でもそれはぶっちゃけ、あと何年有効な関係なんだ?」
「そんなの、これからだってずっと……!」
 言いかけて、みなまで言えなかった。
 昨日と変わらない今日を薄ぼんやりと待ちぼうけるだけで、授業を受ける意味さえわからないほど曖昧な私が〝ずっと〟だなんて、どうしてそんな適当なことが言える?
 時間が人を変えるのは事実だ。そうでなければ永遠を誓い合ったはずの人たちが崩壊し、こんなにもいっちゃんを追い込み、苦しめることなんてなかった。

 言うだけなら易い。軽い。浮ついていて、なんとでも言えばいい。
 けれど崩れゆく関係を目の当たりにしてきたいっちゃんになんのあてもない、宙でふらつくような言葉を突き刺したその後の、その先の責任は誰が取る?
 その在処(ありか)を見失ったからこそ、いっちゃんはこんなことを言うしかないのに。
「ごめん、お前を責めたいんじゃない。そういうつもりじゃ、ないんだけど……」
 いっちゃんは沈みきった声で絞り出すように謝り、俯いた。窓から流れこんだ強い風が、強張ったその声を揺らす。無理矢理に自分を圧縮するようにどこまでも小さく、硬く、萎縮していく。
 いっちゃんの気持ちが理解できていながら、いやできているからこそ、これ以上なにも言えない。言うべきではないはずだ。なにを言ったって無責任だ。

 慰めるにも励ますにも都合のいい魔法の言葉なんて存在しない。口先だけでこの状況をなんとかすることなんて、できやしないから。
 私は無知で、無力だ。悪者になろうとしているいっちゃんを引き留める術さえわからない。止まらない涙を流すまま、ぎりと奥歯を噛み締める。
 そんな私を憐れに思ったのか、いっちゃんは急におどけたようにけらけらと笑った。
「おい、そんなにマジになるなよ。とどのつまり、現実逃避がついに極まっただけだって話だぜ。中二病を拗らせまくった挙句、どっかのビルから飛び降りるオチよりずっといいだろ。ここらのご町内を救ったスケールの小せえヒーローとして、永遠に語り継いでってくれよ」
 いっちゃんは、誤魔化そうと笑っている。
 この場を、自分の感情を、私の辛さを、全部誤魔化そうと笑っている。
 笑って、嗤って、嘲笑って――。

「その顔、やめてよ!」
 机も椅子も押しのけ、いっちゃんに飛びついた。いまにも消えてしまいそうで、怖かった。いっちゃんの座った机が悲鳴を上げて、倒れそうになった。
 本当は横っ面を引っ叩いてやりたかった。急に笑ったりして、きっと本音を吐き切らないままでいるつもりのことを。そうやってすべてを抱えたまま、死のうとしていることを。
 けれどいっちゃんは、もう十分過ぎるほど打ちのめされている。これ以上鞭を打つなんてできなかった。
「一人で全部、抱え込まないでよ」
 私はなんて脆いのだろう。弱く、いい加減で、悪質だ。無責任なことは言えないと、いましがた胸の内に留めたはずの言葉が、ほんの数秒のうちに吹き出してしまう。
 軽々しい人生だ。貫徹できない滑稽な意思が揺れ続けている。

 ひらひら、ふわふわ、ぐらぐら、途切れ落ちていく木の葉のように、情けない涙声が潤んで震える。
「一人で決めつけないでよ。私も一緒に考えるから」
 なにを? 漠然としている。
「そんな顔しちゃだめだよ。いっちゃんが笑うなら、私も一緒に笑うから」
 どうやって? ずっと泣いているのに。
「私が一緒にいるから。期限なんてわからないけど、一緒にいるから」
 いつまで? 曖昧だ。
 支離滅裂な上、確証なんてどこにもない。保証なんてできやしない。これは実際、何年有効なたわごとなんだろう。わからない。
 泥を被ってまで私たちと決別しようとするいっちゃんの強さの前に、脆く崩れ去っていく私の弱さと甘さ。無様な往生際の悪さを味わうほど、自分勝手な嫌悪感が押し寄せてくる。

 けれど本当は泣きたいはずのいっちゃんが無理矢理に笑おうとする姿に、どうしても耐えられなかった。耐えられなかったのだ。
「バカだなぁ、そんなに真っ赤になっちゃって。もっと煽り耐性をつけるべきだぜ」
 口から雑言を滑らすことしかできなくなったはずの小生意気な中二病患者は、すっかり悪意と憎悪を失った、まったく純真な子供の声をしていた。いまにも泣きそうで、けれどそれは意地が許さなくて。そんな狭間に縛られた孤独な声色に、胸を締め付けられる。
 私はほとんど力のこもらない拳を、それでも目一杯にいっちゃんの背中に叩きつけた。
「バカでいいよ。数学も社会も苦手だよ。足し算も引き算も苦手だし、尊い犠牲で社会がどうとか、そのおかげで現代の日本がなんとかかんとか、そんなの全然わかんないよ。知ったこっちゃないよ。

いっちゃんには生きてて欲しいんだよ!」
 学校が教えてくれたこと。それと現実との間に開く、あまりにも大きな乖離。
 無責任。無作為。無秩序。らりぱっぱ。
 国家が保障しなければならない〝国民の恒久的な安全〟とかいう、なにか。
 未来に不可欠な、不可避な、誰かが生きるための〝尊い犠牲〟とかいう、なにか。
 何度も学校で習ったはずなのに、むにゃむにゃしていて、掴みどころがなくて、視ているようで、見えているようで、普段は誰も直視していない事実。
 とかいう、なにか。そういう、なにか。
 空を自由に飛べるプロペラ。時空を超える机の引き出し。どこにでも繋がるドア。そういった超常的で子供じみた手段でもない限り、いっちゃんが召集命令から逃れる術はない。
 とか、馬鹿馬鹿しいことを、考えてみたり。

 もっと具体的に。もっと現実的に。なんかないの。なんでないの。
 ああ、なんて。私はなんて、なにもない世界で生きていたんだろう。
 ごく当たり前の平穏を、希望を、焦燥を、危機を、絶望を、まるっきり地球の裏側の他人事、そんなものと同じ距離で感じていたのだ。誰しものすぐ隣に迫るこの世界の病が止められないことなんて、わかりきっていたのに。
 いざ目の前に顕れなければ、この悲しみがわからないなんて。
「こんなに悲しませるなら……やっぱ言わなきゃよかったかな」
「遅いよ、今更。もう十分、悲しいっての」
 私はゆっくりといっちゃんから離れた。
 窓の外を風が渡って、校庭の周りに生えた木々を揺らしていく。ざわざわ打ち鳴る。
 世界の軋む音。不吉な死神の気配。暗雲を纏う現実の呼び声。
 夕日に佇むいっちゃんは、きっぱりとした声で言い切った。

「逃げようはない。泣き土下座しても、耳の聞こえないふりをしても、北行きの工作船に乗り込んでも、お迎えは必ず来る。この紙に書かれてる時間に、必ずだ」
「あと、二週間しか……ないの」
「そう。二週間しか……ないよ」
 不意に訪れた死神の姿は、たった一枚の紙切れ。
 それはどんな死刑宣告より軽く、尊く、鋭く、揺るがしようもなく。
 私たちの日常は――あと二週間しか、ないのだ。

 『キル・オール放射線』――通称KA線と呼ばれる恐ろしい放射線への確かな対抗策は現状たったひとつ、指定遺伝子情報保持者と呼ばれる人がその身体に持つ『エリミネート・キル・オール構造体』――EKA構造体から生成する『弾丸』で消し去ることだけだ。

 弾丸と言っても、鉄や鉛でできた弾を撃ち出すわけではない。弾丸に選ばれた人を特殊な手術によって、生きながらも意識を失った状態――いわゆる脳死に近い状態にし、超高出力のガンマ線を照射する。そうして変異・増幅させたEKA線をKA線の発生源に向けて撃ち込んで相殺・無害化する。これが『弾丸』と呼ばれるものの正体だ。
 無論『弾丸』にされた人の細胞は、ガンマ線によって徐々に破壊されてしまう。人間の細胞分裂の上限は五〇~六〇回ほど、『弾丸』にされた時点での残りは二〇~四〇回分くらい残っているというから、人一人を犠牲にして撃ち出せるEKA線は多くて四〇発程度だ。それを撃ち切る前に、政府は次の弾丸(ヒト)を確保しなければならない。

 平時であればこの一発を撃ち出すだけで、何百万という人々が暮らす領域が数日~十日前後、生活可能なレベルまで線量を下げられる。ただ、これは国土が狭い日本の基準だ。欧米など国土が広い国では線量抑制台場がより多く必要であり、年間にして数百~数千発が必要なため、犠牲になる人数も日本に比べれば格段に多くなる。
 生け贄じみたこの方法が提案された当時は、市民団体やら政治屋やらが非人道的だと猛反発した。パレードもデモもテロも起きた。それでも何十億という人類を救うにあたり、それ以外のましな手段を誰も見つけ出せなかった。その間も地球のあちこちでKA線は降り注ぎ、日毎に生存可能な領域が塗り潰されていったのだ。

 そんな虎の子のEKA線を用いても、KA線量濃度の単位でいう三〇カーセクタ――思い出せなかったパーセントという単位、正しくはカーセクタだ――という境界を超えてしまうと、ほとんど意味を成さなくなる。一発で中和できる線量濃度の上限は、その時の線量濃度によって変わるのだ。一〇カーセクタ前後までの段階で撃ち出せなかった場合、生活圏として利用できる土地にするには数十発を必要とし、二〇カーセクタを超えると通常運用時の十年から十五年分の弾丸を使用しなければならなくなる。
 それはそのままEKA線の原材料となる〝誰か〟が余分に必要ということであり、犠牲を強いるにも時間制限があることを意味する。反対派による妨害活動や、EKA構造体を持つ人を見つけられないといった理由で発射が遅れ、人が住めなくなってしまった国もある。

 そもそもこの解決手段は、国家の経済力や治安情勢にも大きく左右される。維持費や開発費が捻出できる先進国はいいが、途上国や元紛争国などはいくら戦争がなくなったとはいえ、急に金持ちになるわけでも、社会基盤ができあがるわけでもない。砲台設置に係る経済、維持整備の技術、EKA構造体を持つ人を見つけるために必要な出生台帳を作成するだけの安定した政治、条件を挙げればキリがない。
 それら諸々のコストを勘案した上で求められる、人一人分の人生を空に撃ち出すための値段とはいくらなのか。国により、文化により、歴史により、まったく異なるそれを受け止められる国と、そうでない国。決断の遅れた国から土地も人もなくなり、地図上では真っ白に塗り潰される。四十年前の世界地図と見比べると、三割近くが失われたいまの世界地図には紙魚に食われたような歪な白色が、あちこちに描き込まれている。

 そうして世界は毎日狭まっている。たとえ実感がなくともだんだんと、ひどくゆっくりと。

 日曜日、居間のソファに寝転がり、昼前あたりからスマホで延々とKA線などについて調べているうちに、すっかり夜になってしまった。
望依(のぞえ)ー、いつまでケータイいじってんのー。テスト近いんでしょー」
 台所の方から母の声が飛んでくる。
 それをきっかけに肺に溜まった重苦しい空気をげろげろと吐き、起き上がって伸びをする。そして適当に返事をしつつ、スマホを部屋着のポケットに滑り込ませた。
 母に言われるまですっかり忘れていたが、来週の月曜から五日間に渡って中間テストが控えているのだった。

 どうでもいいことだ。いまは数学の公式や英単語を覚えるより、知りたいことが山ほどある。
 目につくところでスマホを弄っていれば文句を言われると思い、邪魔が入りにくい自分の部屋で調べ物を再開しようと居間を出て台所を横切った。その時、夕飯を作るために野菜を切る母の後ろ姿がふと目に留まった。
 そういえば母親と〝こういう話題〟について、話したことがなかったような気がする。
 いつからか、なぜか、これは訊いてはいけないというか、口に出してはいけない思いがどこかにあったからだ。
 私は少し腹に力を入れ、思い切って問いかけてみた。
「お母さんはさ、知り合いが召集命令で呼ばれたことってあった?」
「召集命令? いきなりなんで?」

「や、まあ、なんとなく……いまテレビのニュースでたまたまやってたからさ、呼ばれた人の家族のインタビュー……的なのが」
 意を決したのはよかったが、そのための準備もなく口に出した結果、実に間の悪いものとなってしまった。もうすぐサザエさんが始まろうかという時間帯に、どの局でもそんな重いテーマを扱う番組など編成していない。
 咄嗟に思いついた言い訳はひどく不自然で、自信のなさに浮き上がってしまった言葉尻の格好もつかず、私の言葉が嘘なのは明白だった。母は一旦手を止めて少しだけ振り返ってくれたものの、ひどく怪訝そうな顔をしていた。
 母との間にじわじわと立ち込めていく暗雲のような空気が、今更のように告げる。当たり前だけど、常識だけど、少しだけタブー。普段の話題に上らないのは、みんなこうして無意識的に避けたい話題だからだよ、と。

 さも話したくなさそうな雰囲気を醸しながら、母はなにも言わず再び野菜を切り始めたので、内心に気まずさを重たく抱えながら、答えを聞かないうちに台所を出ようとした。
すると、母がぽつりと漏らした。
「そういえば小学生の頃、クラスメイトの子で一人いたわねえ」
「えっ、いたの?」
 予想外の答えだった。私はいつの間にか、母には〝そういう経験〟がないものと決めつけていた。だって誰かの死を感じて乗り越えてきたようには、とても思えなかったから。
「その時、どうだった? どう思った?」
 知らず、私は食いかかるように訊いていた。
 しかし母の答えは、すこぶる素っ気なかった。
「どうって……まあ、法律で決まってることだし、しょうがないことでしょ?」

「しょうがないって……友達じゃなかったの? 仲良くなかったの?」
「どうだったかしらねえ。仲悪くはなかったと思うけど、昔過ぎてあんまり憶えてないわ」
 こともなげに答える母を目の当たりにして、そういう経験がないと思いこんでいた理由がわかった気がした。召集命令のことを臭いものには蓋の要領で忘れ去り、こうやって話題として出ても、きっぱりと他人事の位置を保っているからだ。だからテレビで防護措置予報が流れても、何事もなかったかのように聞き流せる。きっと天気予報より関心が薄いのだろう。
 そうしてKA線という胡散臭い死神の存在を疑いもせず、誰かの人生が終わっていく日常を〝しょうがないもの〟として受け止めている。
 自分の母親が死というものをあまりにもあっさりと認識していることに、信じがたいほど戦慄を覚える。

 いくら昔のこととはいえ、クラスメイトという身近な誰かがあの砲台から撃ち出されたのなら、思い出す機会はいくらでもあったはずだ。
 いま問うまで忘れていたのは、その人と仲が良かったかどうかさえわからないこと? それとも、その人がこの世にはもういないこと? じゃあ、たとえば。
「じゃあ、もし私が呼ばれても、しょうがないで済ませる?」
 恨みがましい思いで滑らせた一言に、今度こそ母は完全に手を止めて振り返り、訝しさを込めた視線をこちらに向けた。
「あんた、なに言ってんの? どうかしたの?」
「……や、ごめん、なんでもない」
 心配そうな母の表情と気まずい空気を置き去りに、私はそそくさと自室に逃げ込んだ。
 我ながらなんと棚に上げた話だろう。母を責めることなんてできるわけがない。

 私こそ一昨日まではそうだったのだ。母だけを非難しようとした浅はかな自分に、遅まきながら自己嫌悪を感じる。
 しかしそれを踏まえても、心に受けた衝撃をすぐには和らげられなかった。
 今日まで自分の中にくすぶり続けていた疑惑。母との間に開いた死に対する認識の相違、KA線を取り巻く一連の仕組みに対する認識の相違は、思ったよりずっと深い断絶だった。
 私は強い不安に襲われていた。これは私と母だけの断絶なのか。世間の通説とは、母と私のどちらに寄っているのか。死というものの認識は、どちらが正解に近いのか。
 そこへいっちゃんの言葉が重くのしかかる。死ぬことをラッキーと表現した意味。消えてなくなってしまいたいと言うほどの、強い死への願望の原因。私はそれらの間を繋ぐ重要ななにかが、きっとわかっていない。

 机に向かってノートや教科書を取り出してみても、まったく勉強をする気が起こらない。不随意に跳ねたり沈んだりするおかしな動悸に喉を絞められながらスマホを取り出し、再びネットの海へと乗り出した。台所から漂ってきた煮物の香りも母の夕飯ができたと告げる声も曖昧に躱し、テスト勉強もそっちのけで延々とスマホを弄り続けた。
 どんなに馬鹿げた意見でもいい。どんなに信憑性の低い情報でもいい。なにかヒントが欲しい。そう思って次々にリンクをタップして、幼稚な水掛け論や扇情的な提灯記事を、取り憑かれたように読み漁った。
 しかし画面越しの有象無象に繰り出される恣意的な言葉では、余計に不安を煽られるばかりだった。沈む心は底なし沼へ嵌るように、インターネットが織りなす深淵なる闇へずぶずぶ引きずり込まれていった。

 やがて疲労困憊して、自然とスマホを放り出した。時計を見たら午前五時を周っていて、窓の外が薄白んでいた。
 結局動悸が収まることもなければ、これぞと信じられる意見が見つかることもなかった。スマホの電池残量表示が真っ赤な二パーセントに染まるまで粘って得られたのは、ネットの言論は現実に聴こえてくるそれと大きな溝があるということだけだった。
 友達も、先生も、母親でさえ、死というものについて語ったことはない。日常でそう話題に上るものではないといえばそうだろう。
 ならばなぜネットの世界では、こんなにも多くの記事や意見が交わされているのか。ちょっと調べるだけで数千数万とヒットするのに、現実においてはこの話題を持ち出すことさえ、忌み嫌われている。この乖離を埋めるものとはなんなのか。

 思うに、面と面を突き合わせて難しい事柄について話すのは、実に勇気や気力といったエネルギーを要する。もし私のような〝臆病者〟の比率が世間的に高く、誰もがそのエネルギー消費を嫌っているのだとしたら、乖離の正体とは〝場の空気〟――つまるところ 〝日常の雰囲気〟とでもいうようなものではないだろうか。
 誰も難しい話や恥ずかしい話、正解のわからない話、あるいは主義や思想など、自分の内側へ直接通じるような話題、そういった〝日常の雰囲気〟が破壊されかねないような話題を好まない。普段から自分の心の内をひけらかして生きるのは、疲れてしまう。
 それを気兼ねなく話すには、誰にも傾聴されることのない密やかな空間、その内容をよそへ吹聴されても支障のない相手といった、日常から遠く離れて影響を及ぼさない存在が必要になる。つまりネットの世界が適当だ。

 そういう条件が揃わない限り、日々の生活をこれでもかと積み重ね続けるために必要な話題とは、芸能人のスキャンダルだの、身近過ぎない事件事故のニュースだのといった自分の生活範囲、認識範囲の範疇から外れた世間話だ。さもなくば疲労や苦労を突きつけ続ける現実から逃れることなく、病むこともなく生きていくのは、到底不可能に思える。
 〝空気を読む〟とはこれらに附帯する一連の努力の総称であり、日々現実と戦い続けるため気力の消費を抑える長期省エネ型処世術なのではないか。世間的にはそれを〝大人〟という一言で表現して、面倒な話題を避けているのではないか。
 ネット上の言論は当てにならなかった。かと言って現実の誰かに問いたくても、場の空気がそれを阻む。だとすれば、自分で考えて答えを見つけ出すしかない。

 KA線に関する知識は別としても、土日まるまるかけて、たったそれだけのことしかわからなかった。そんな結果にいよいよ徒労感が強まる。
 机から離れて倒れるようにベッドに突っ伏し、枕に顔を埋めながら独り言ちた。
「大人になれって……ことなのかな」
 大人。抽象的で、自己都合的で、いい加減な表現だ。
 不得心であっても納得し、耐え難きを耐え、知りもしないことを知っているかのように振る舞うさまを肯定し、場の空気を――日常の雰囲気を壊さないよう努めることを強要する。
 それが本当に〝大人〟なのだろうか?
「わけわかんない……。わかんないよ、いっちゃん……」
 みんな、いつ〝大人〟になったのだろう。どうやってなったのだろう。

 身近な誰かが籤引きで死ぬことになって、それが取るに足らないようなこととして受け止められるようになるには、どうしたらいいのだろう。
 酷使した眼球のひりつく痛みがジクジクと沁み、使い慣れない脳みそがフル回転したことによる頭痛と相乗効果を生んで、頭全体が内側から何度も打たれているかのような重い鈍痛に苛まれている。その痛みの中、あの時のいっちゃんの一言が、暮れ泥んだ風景の向こうで黒く聳える砲台の姿とともにぐらぐらと蘇った。
 ――これはこれで、ラッキーなんじゃないかな、って思ってさ。
「死ぬのがラッキーってどういうこと? 冗談なんかじゃ……なかったの?」
 外からは雀や鴉の鳴き声が小さく聴こえて、窓の向こうに広がる空には秋らしい鱗雲が綺麗な青紫色に染まって浮いていた。

 静かな朝の空気が満ちる部屋は空っぽで、間抜けな自問自答に応えてくれるものはなにもない。忌々しい静寂が不愉快で、ベッドの上でもぞりと寝返りを打ち、冷たい右腕を火照った額に置いて天井を仰ぐ。
「いや、違うか……」
 私は私なりに、いっちゃんのことをわかっているつもりだった。〝生き苦しさ〟に喘ぐその苦しさ、辛さ、痛さを知っている〝つもり〟だった。
 大きな間違いだ。辛さを知っているなら、ちゃんと向き合うべきだった。その勇気を持てず逃げたからこそ、いっちゃんが発していた死の言葉を冗談だと思いたかったのだろう。
 私は親友で、他の人が知らないことを知っている――そんな優越感に自惚れていた。
「バカみたい……。冗談で死にたいなんて……いっちゃんが言うわけないのに」

 あれが冗談ではなく本当のSOSだったなら、随分と長い間それを無視していた私は筆舌に尽くし難いバカでクズだ。いっちゃんは無論のこと、自分自身をも欺く臆病と弱虫に恥じもせず、よくも友達面をしていられたものだ。
 いっちゃんの告白を聞いた時、耐えるべきだった言葉を晒し、震えて泣きそうな身体にしがみついたのを思い出した。
 私のような人間未満があんなことをしたって、薄ら寒いだけだ。羞恥と自己嫌悪で思わず叫び出しそうになり、ぎゅっとシーツを握り込んだ。
 毎朝、いつもの交差点で待ち合わせて、学校まで通う道程。休み時間、誰かがなにかを言わずとも集まって、お弁当を食べる。そしてあの堤防の上から夕焼けた街並みを眺めながらだらだら帰る。たまに寄り道もする。

 休日になれば映画を見に行ったり、インスタで持ち上げられた店を冷やかしに行ったり、くだらないものを一緒に衝動買いしてみたり。
 ありふれて、あって当然で、楽しかったすべての時間が、いっちゃんにとっては常に死の衝動が伴うものだった。どんなに面白い話をしていても、楽しいことをしていても、美味しいものを食べていても、心の片隅には死が顔を覗かせていた――。
 そうだとしたら、こんなに悲しい人生はない。どんなに夢中になってもふとその熱に冷水をかけられる。どんなに心が踊っていても不意にその熱が霧散してしまう。
 そう考えると、死ぬことがラッキーと語った後に言っていた〝頭の天辺から燃え尽きて、なくなっちまいたい〟という言葉の意味も見えてくる。最近口癖のように言っていた〝死にたい〟の本当の意味はつまり――〝消えたい〟なのではないか。

 それはただ死ぬより苦しく、恐ろしいことだ。
 痕跡を残さず真実も残さず、誰にも忘れ去られてしまうようにすうっと静かに、最初からいなかったかのようにいなくなる。そこにあるのは明確な周囲への拒絶、そして深い絶望だ。
 そんな闇がいっちゃんの心にずっと巣食っていたのだとしたら。それを自分に置き換えてリアルに考えれば考えるほど、転げ回りたくなるような恐ろしさ虚しさ、なによりそれに気づかなかった恥と後悔が襲ってきて、頭の中心をぎゅうぎゅうと締め付けた。
 死にかけたスマホのスイッチを入れ、LINEのトーク画面を呼び出す。『いっちゃん』を選び、過去の会話を遡る。他愛ないやり取りには、過ぎ去った平穏の日々が記録されている。このメッセージのひとつひとつを打ち込む裏で、いつもいっちゃんが死に苛まれていたのだとしたら……。

 それを眺めるうちに微量だった電池は完全に失われ、スマホの電源が落ちた。どうにもならない感情に嘆息しつつ充電コードを差し込み、逃げるように布団へ潜り込んだ。
 あと数時間もすれば、あの交差点でいっちゃんに会える。でも私のような不出来な人間がこれからどんな顔をして、どんなことを言えばいいのだろう?
 そうして寝逃げに走った結果は果たして悪く、ひどく苦々しい思い出を作る羽目になったある夏の日の夢を見た。

 私は中学二年の四月から陸上部に所属していて、走り高跳びにそこそこ打ち込んでいた。
 始めたきっかけは単純かつ不純で、全生徒が二年以降は部活に所属せねばならない校則があり、消去法で決めていった結果、体育で少しだけ面白さを感じていた走り高跳びができるから選んだだけのことだった。

 努力が実り、認められること、褒められることはそれなりに嬉しかった。跳んでいる時は楽しいし、達成感もあった。
 しかしそれ以上に、人生が自分のものではない力で退っ引きならない方向へ押し流されていくことに恐怖を感じていた。消極的な始まりや活動とは裏腹に、走り高跳びの素質があったらしい私は順調に記録を伸ばしており、あれよあれよと言う間に中学三年の夏、県大会への出場を決めてしまっていた。
 走り高跳びを趣味以上のものにするつもりはさらさらないし、学校に強制されているから続けているだけで、競技への情熱はまったくなかった。明日から部活をやめていいよと誰かに許可さえもらえれば、即座にやめていたことだろう。
 それにいくら強制されたところで、生真面目に励む人ばかりでもなかった。

 ようはどこかに属してさえいればよく、個々の活動すべてを学校が管理するのはどだい無理で、入部届を出したきり幽霊部員、帰宅部に鞍替えする人も多かった。実際いっちゃんは先生の監督が緩いことで定評のある美術部の幽霊部員だったし、私だって誰かに許しを請うまでもなく、練習への参加をやめてしまってもよかったのだ。
 しかし下手に県大会まで勝ち進んでしまったため、周囲からの多大な評価や応援、期待を受けることになった。普通の人なら喜びや励みにするところなのだろうが、私には奴隷の首輪じみた重責でしかなく、さりとてみんなの好感情を正面から裏切る勇気も持てないため、泣く泣く練習を続けていた。
 大会の当日、台風でも来ればいいのに。そんなにひどくない地震でも起こればいいのに。どうにも抵抗できない力が働いて、大会なんて中止になってしまえばいいのに。

 願えど願えど都合よくそんなイベントが起こる気配もなく、気がつけば夏休み、県大会を目前に控える時期を迎えていた。
 なんの天災も起こらず県大会も突破してしまった場合、私はスポーツ推薦で陸上部の強い高校に行くことになりそうだった。
 それはいっちゃんとは違う高校に行かなければならないことを意味しており、その頃は毎日練習の応援に来てくれていたいっちゃんに愚痴をこぼし続けていた。
「あー、雨降らないかなー。めっちゃすごい台風とか来ないかなー。ハリウッド映画並みに町ごとぶっ飛ばしてくれないかなー」
「本当にマゾな奴だよ、ゾゾエは。こんなクソ暑い盛りに毎日毎日、直射日光で照り焼きになりながら全然やりたくないことを続けるとか。あれですか? おたく、受刑者かなんかなんですか? なんか悪いことでもしたんですか?」

「そんなクソイベントに毎日付き合ってもらってごめんね。熱中症にならないうちに帰ってもいいよ」
「来いっつったから来てるのに帰れとか、さーすがゾゾエ先輩、ツンデレ属性なんすねー」
「そうだっけ? とにかくありがと。お茶パス!」
「あいよ、お茶だぞアンパンメン!」
 いっちゃんがアンダースローで投げた水筒を受け取り、火照った身体にラッパ飲みで冷たい麦茶をガバガバ流し込む。喉からお腹に駆けていくキンキンの冷感が気持ちいい。
「にしてもゾゾエがまさか県大会とはねえ。人間、なんかしらの才能を隠し持ってるもんだ」
「暢気に言ってる場合じゃないよ。もし通っちゃったらどーしよ。先生にスポーツ推薦、決められちゃうかもしれないよ」

「受験勉強の手間が省けていいじゃん?」
「……いっちゃんと同じ高校に行けないんだけど」
「なら部活をやめちまえばいいだろ。バリバリ結果を出し続けるからそうなるんだ」
「まあ、そうなんだけどさ……」
 むくれた私を、いっちゃんは悪びれずケラケラと笑った。もう何十回と繰り返したやり取り、落ち着く先の結論も飽きるほどにわかりきっていた。
 結局、大会のたびに仕事を休んでまで応援しに来てくれている母や先生、クラスメイトたちの期待を裏切る勇気なんかどうしたって出ない。せめて一人でも性悪な奴がいて、そいつの意地悪でやる気を失ったとかいう方便ができればそうしたろうに、みんな善人だった。
 だからこそ、そんな人々から失望の眼差しを向けられるなんて、想像するだけで震えあがってしまう。

 誰かに期待されることは苦しくて仕方ないけど、それ以上に失望や軽蔑を受けることが怖かった。毎日顔を合わせる彼ら彼女ら、善き人々。誰もが私の看守だった。
 目立ちたくない。もう私を見ないで欲しいのに。
 そう思えば思うほど、皮肉にも高く跳べた。
「ぬおっ、一六〇センチ! すっげー、僕の身長と一緒だ。あと二、三センチ伸ばせば僕を飛び越せるな!」
 また自己記録を更新してしまった私に、いっちゃんは歓声を送ってくれた。
 なんだかんだ言ってなにより怖いのは、毎日訪れてはこんなふうに喜んでくれるいっちゃんをがっかりさせることだった。
 同じ高校に行けないかもしれないことは残念がってくれるが、それより私がどこまで行けるのか楽しみで仕方ないらしい。そうでもなければいっちゃんの言うとおり、こんなに暑い最中でわざわざ見に来たりしないだろう。

 新しい記録を出すたび、我が事のように手を叩いて喜ぶいっちゃんの顔は眩しく見えた。
 県大会なんて行きたくない。いっちゃんと離れたくない。夏の日差しより厳しい、焼けるようなジレンマが夏休みの喜びを消し飛ばし、私を苛み続けていた。
 そんな苦しみから、私は突然解放せられた。
「痛っ⁉」
 なんの前触れもなく、突然それは起きた。
 いつもと同じように走り込み、バーの手前で脚を踏み込んだ瞬間、ふくらはぎに激痛が走った。バランスを崩し、無様な格好でバーと一緒にマットへ仰向けに倒れ込んだ。
「ゾゾエっ、大丈夫か⁉」
 走り寄ってきたいっちゃんが、いまにも泣きそうな顔で私を覗き込む。
 その時、私の目からするすると涙が溢れた。

 ぎりぎりと捻り上げられるような脚の痛みもあったが、それ以上にぼんやりと心を埋めていく生温かい感情のせいだった。
 もう頑張らなくていい理由ができた。そんな安堵で胸が一杯になって、それが自然と涙に変わっていったのだ。
「おい、ゾゾエ! どうしたんだ、しっかりしろよ!」
いっちゃんに揺すられて、茫然自失していた口からやっと言葉が出た。
「脚……脚が……痛い……」
「脚⁉ 挫いたのか⁉ くそっ、先生呼んでくる!」
 いっちゃんはすぐさま踵を返し、陸上部の顧問と保健の先生を引き連れてきた。先生たちは私の惨状を見るなり救急車を呼んだ。そして搬送された病院で、疲労による肉離れだと告げられた。県大会の二週間前、完治はとても間に合わず、出場は不可能となった。

 願い続けた災厄は存外地味で現実的、しかし非常に効果的な形で私に降り注いだ。
 練習中に起きた事故で大会に出られなくなったことを責める人はおらず、みんな同情を以って赦免してくれた。
 スポーツ推薦の話も立ち消えて、いっちゃんと同じ公立高校を受験できることになった。
 これ以上ないほど完璧な形で、誰からも失望されることなく、人生の流れを変えることができた。期待に背かないように怯える必要もなくなった。平穏の日々を取り戻したのだ。だから外面ではしおらしく取り繕って見せる一方、内心ではほくそ笑んでいた。
 夏休みが明け、始業式が終わった後の帰り道。
 いっちゃんが遠い目をしながら言った、あの言葉を聞くまでは。
「毎日毎日クソ暑い中、あんなに頑張ってたのにな。そりゃ、泣けてくるよな。僕、お前が県大会で誰よりも高く跳ぶとこ、見たかったよ」

 いっちゃんのそれは慰めではなく、悔しさだった。
 本人の私がなんとも感じていないことを、いっちゃんは本気で悔しがり、あまつさえ緊張の糸が切れただけだったあの涙の意味までも間違って伝わってしまっていた。
 瞬間、私は火が出るほど恥ずかしくなり、まともにいっちゃんの顔が見られなくなって、帰路を終始俯いたまま歩いた。
「努力なんて結局、意味ないのかな……」
 なにも言えなくなった私の横で、いっちゃんは呟くようにそう言った。
 ただ、逃げたかった。誰かとぶつかり合いたくなかった。
 その情けない一心で取り組んでいた私が、いっちゃんから努力という言葉の意味を奪い去ったのだ。自分の意思で戦い、自分の言葉で決め、ちゃんとすべてに向き合っていたなら、こんなことにはならなかった。
 誰よりも嘘を吐きたくない人に無意識下で嘘を吐き、騙した。

 他人との対話を忌避し、付き合い方を正しく身につけなかったツケは、欺瞞という形でしか支払えなかった。この瞬間に恥じ入るまで、本当はいっちゃんの期待に喜んでいたこと、不誠実さを隠していたことに気づいてさえいなかったのだ。
 それでもいっちゃんは変わらず、いつも私のすぐ近くで笑ってくれていた。悪質な嘘を吐き続けた、とんだクソ野郎ということも知らないで、無邪気に話しかけてくれていた。
 他人に期待されていた時に感じていた重責が倍以上の罪悪感と痛苦になって舞い戻り、それ以来この夏の出来事は、ずっと消えない引け目として心に残り続けることとなった。

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1.隕石なんて落ちてこない
― Then two girls ―

読了時間の目安 約93分
文字数 37,210文字

「本日までこのクソバカバカしくも穏やかで美しい世界のご愛顧、どうもありがとうございました。お名残惜しくはありますが、これにて滅亡とさせて頂きます。それではいつか、また会う日まで。さようなら!」
 九月二五日、金曜日。もう十月は目の前なのに、季節が移り変わるのを忘れたかのような残暑の厳しい朝だった。そんな雲ひとつない青空に、今日も今日とて元気ないっちゃん節(・・・・・・)炸裂する。
 妙に芝居がかった言い様なのに、さして中身のない言葉。それによって薄く伸ばされた絶望がクレープ生地のようなひだを作って拡がって、私たちをふんわり覆っていく。
 この世を満たす不条理に向かって叫んだ、甘ったるいチョコレートや生クリームのような(かしま)しさ。

 その上から容赦のない朝陽がいっぱいに降り注いできて、アスファルトごと焼き付けてくる。言葉はすっかり焦げ付いて、私の中で燻った。
 私たちは薄い汗を額に浮かべてうだうだと自転車を漕ぎながら、灰色の住宅街を高校に向かって駆けていた。鼻先には百日紅(さるすべり)の空気に混じり、私の前を走るいっちゃんの長い髪からシャンプーの香りが匂ってくる。
「や、だからさ、そーゆーのじゃなくてさ」
「じゃなかったらなんなのさ? 小生はね、もう飽き飽きしたんですよ。右見ても平和、左見ても平穏、左見右見(とみこうみ)天下泰平がどぅっぱどぅっぱですよ。こんな真っ平らな世の中じゃね、小生の出番はねえんだ。革命者が力を発揮するのはいつだって情勢不安な世紀末感がそこはかとなく立ち込めるような、お先真っ暗い世情になってからだ。

ゾゾエさんよ、おわかる?」
「それにしたって、おいそれと学校に遅刻していくのはマズイと思わない? もう一限目が始まって何分経ってるのやら……」
「そいつは言わないでくれよ。遅れた僕が悪かった。ただ言い訳がましくもなるが、これだけは申し述べておきたい。学校ってのは君のような愚民には必要な教育機関かもしれないが、僕のようにヒネくれた社会不適合者にとっちゃブタ箱だ。そんなところに毎朝早くから行かねばならぬこの暗鬱を、わかってほしいとは言わない。だからせめて遅刻だなんて可愛らしくもささやかな反骨精神くらい、許してちょんまげ」
 不意に吹いた風が制服のスカートをひらめかせ、いっちゃんの白く細い脚を眩しく晒す。

 せっかく可愛い顔をして、見た目はこんなにも女の子らしさに溢れているのに、次から次に飛び出す電波発言がその魅力を台無しにさせてしまう。天から与えられたチャームポイントを全力で無駄遣いする様に嘆息しつつも、調子を合わせる。
「ええ、許しました。だからちゃっちゃか漕ぐのです。いっちゃんはこれからブタ箱に収監される哀れな受刑者さんなんだね。それならお勤めは迅速かつ誠実に、だよ。模範囚にさえなればその後の人生は薔薇色はっぴっぴ。だから、とにかく一生懸命に走ってよね!」
「やれやれ不毛だぜ……はっぴっぴー!」
 わざとらしい大仰な言葉であれこれと騒ぎ立てているけれど、なんのことはない。ただ待ち合わせにいっちゃんが間に合わなくて、学校に遅刻するのが確定しているだけだ。

 私たちは数十分もすれば教室に辿り着いて、ねちっこい性格で定評のある数学の田村(たむら)先生にたっぷり五分はかけて嫌味を言われる。そして受験を命の次くらいに重要視している真面目なグループから、授業を遅らせた大罪の十字架に恨みのこもった視線で磔にされるだろう。
 だからといって別に世界が滅んだりはしない。多少ヘコむかもしれないけど、死ぬほどではない。明日になったら薄情に任せて、ありふれた日常のひとつとして忘れている。
 でもそれがふとした瞬間に頭をよぎったりして、またヘコむ。気分次第で、そうなる。
「でもさー」
 先を走るいっちゃんがとぼけたような表情で、肩越しに少し振り向いた。
「クソ几帳面に待ってなくったってさ、僕なんか置いてさっさと行けばよかったじゃん?」

 悪びれもせずそんなことを言ういっちゃんに少し腹が立ったので、自転車のスピードを上げ、追い抜きざまに軽く後頭部を叩いてやった。手のひらに軽い衝撃がぱあんと響いて、ざまあみろと心地良い。
 ふらついた細身のいっちゃんは少しの蛇行運転の後、息を切らせながら体勢を立て直した。
「おいっ、暴力に訴えるか! ここは民主主義の法治国家だぞ。拳じゃなく口先で戦え!」
「うるさい! 今日なぜ遅れて来たのか、神妙に理由を述べてみなさい!」
「外宇宙第七惑星エルトリオンの先遣調査班によるキャトルミューティレーションに引っかかってただけさ! 決して朝寝坊して、食パンが中々口に入らなかったわけじゃないぞ! このくだらない地球を、くだらないと思いつつも救っていたんだ! 奴らの通信機はがっつり破壊しておいた!

極悪非道でちょっとレトロな虐殺船団のご一行どもとマザーシップが来るのはちょっと先になったぞ!」
 いっちゃんがけたたましい声を張り上げながら、右手を高々と突き出す。
 なるほど、そういう理由なら仕方あるまい。私は偽りの優しさを塗り固めた声で応えた。
「そんな修羅場帰りのいっちゃんを、私が待ってなかったら誰が迎えるの? 英雄の凱旋がぼっちじゃ寂しいでしょ。感謝で泣き叫んだっていいんだよ」
「ゾゾエ、お前って奴ぁ……今度宿題で困ったら写させてやるからな!」
「ヘンな気を遣わなくていいよ、ウザいから」
「おい、いまウザいっつったか? 謗言(ぼうげん)はレギュレーション違反だぞ。いまの判定はナシだ。ノーカン、ノーカン!」
 追い抜いた背後から、いっちゃんの矢継ぎ早な大声がガンガン飛んでくる。

 蒸し上がった草の匂い、私の汗の匂いと風に混ざって、ぐるぐるになってどこかへ飛び去っていく。
 住宅地を抜けるとなだらかなスロープが見えてきて、川沿いの堤防の上に出る。
 小高くなったそこは遮られるものがなく、町内を一望できる。水辺を渡る生ぬるい風をかき分けて走れば、少し低くなった景色がぐんぐん通り過ぎていく。
 緩やかにカーブしていく川に沿って、堤防の道もゆるゆると曲線を帯びている。ぐぐっと東のほうへ吸い寄せられていく道行の途中、高くなった視界が開けて、家々のはるか向こうに駅前のビル群と、ひとつの大きな影が見えてくる。

 それは大きく、どこまでも高くそびえる黒い砲台。
 周りの風景に一切馴染むことなく、今日も斜めになって屹立(きつりつ)していた。

 誰も改めて話題にしない、私にとっても日常風景のひとつにすぎない。見慣れているし、ありふれている。
 けれど、ふとした瞬間に頭をよぎったりする。どうかすると、私の脳内に滑りこんでくる。
 たとえば、うっかり足を止めてしまった時なんかに強く引き起こされる現象。
 物理的に、精神的に、心や身体が静止してしまう時間というのがある。それがやってくると頭の中にこの景色が蘇り、独りでにあの砲台が動き出す。本物の稼動音なんて聞いたことはないけれど、ぐぐぐと砲身が持ち上がっていく軋みが聴こえてくる。
 しかし、いまは妄想ではなく現実だった。よく晴れた空の向こうにくっきりと映った砲台が、ゆっくりと動いている。
 別にそれほど珍しいことではない。週に一度や二度は見られる光景だ。

 私たちはどちらともなく自転車を停め、その様子をじっと見つめた。
「今日も動いてんな、世界を救う正義の砲台が。つーか、予報あったっけ?」
「あったよ。いっちゃんは寝坊したからテレビ観てないんでしょ」
「正常な時間に起きたって虚飾まみれのテレビなんぞ観てないぜ。真実はネットの海にある」
「ああ、そう……」
 見る間に最大仰角まで持ち上げられた砲身は天高くを(にら)み、がしっと止まった。
 微動だにしない照準の先には、抜けるような青空が広がっているばかりでなにもない。
 それから砲身にほんの少し青白い光の亀裂が走っていくのが瞬いて、けれどその口からはなにも出てこないし、音さえない。あんなにも大きな砲台が射撃したのならきっと耳に(とどろ)き、眼を(くら)ませるであろう臨場感がまったく欠落している。

 聴こえず、()えもしない弾丸。
 それが、この世界を救う希望の光。
『本日の防護措置』をつつがなく終了した砲身が、ゆっくりと下がっていく。あまりにも呆気ない光景で、あれが担う重要性を知らなければ、これほど間抜けなものもないだろう。
「また、撃ち出されたんだね」
「ああ、そうだな」
 私の独り言のような呟きに、いっちゃんは気のない返事をする。
 あれは実際、兵器というより注射器だ。敵陣に砲撃して殲滅する性質より、薬を注入して体内に蔓延るウイルスを駆逐し、病気を治す性質に近い。
 世界はずっと、治すことのできない〝病気〟に冒されている。
 病気と揶揄される恐ろしいものの正体は特殊な放射線――通称『KA線』と呼ばれるもので、地球上のありとあらゆる地域で普遍的に、突然発生する。

 有機物を貫通する際に細胞へ甚大な損傷を与える性質を持ち、一定以上の線量濃度で浴びるとヒトは死に至る。
 地中に埋めて廃棄した核燃料から漏れ出したのだとか、地球が未知の重金属を生成し始めたのだとか、破壊されたオゾン層の穴から漏れた宇宙線が変容したのだとか、偉い科学者たちによって様々な推論が打ち立てられたが、悉く解明の糸口に結び付かないまま消えていった。初めての観測から約四十年もの時間を経た現在でも、発生要因は判然としていない。
 しかし長い年月をかけて多大なる犠牲を払った結果、人類は原因の根絶には至らなくとも、身を守る術を得ることはできた。
 それが人類希望の光、市民の平穏な暮らしを護る礎、恒久的安全を護る英雄的装置、その名を『線量抑制台場』というあの大きな砲台だ。

 あそこからKA線の発生源に向けて弾丸を撃ち込んで相殺・無害化する。約三十年前から全国に設置が進み、現在では百ヶ所以上にあんな砲台が据えられている。いま見えている砲台は『第八七塔てんくう』という名で、個別の名称はそれぞれに異なる。
 という、客観的な情報だけは知っている。学校の授業でも教わるし、ネットの海に一歩でも足を差し出せば的を射た批評にしろ荒唐無稽な煽り叩きにしろ、様々な角度や状況の意見が日々飛び交っている。言ってみればこれもひとつの常識で、ありふれた日常なのだろう。
 だからあれに詰め込まれ撃ち出される弾丸の正体だって、誰もが知っている。
 それは――〝生身の人間〟だ。
 国家特定災害防護対策特別召集法とかいう物々しい法律によって、全国民には出生届とともに遺伝子情報の提出が義務付けられている。

 その中からKA線を打ち消す特殊な遺伝子構造『指定遺伝子情報保持者』――俗に『EKA構造体』と呼ばれる人を抽選で選び、あの砲台から撃ち出すのだ。
 けれどそんな常識を知っているからといって現実感があるのか、実感があるのかと問われれば、私は首を横に振る。主観性はまったくないのだ。
 それはどこか遠い場所のできごと。ニュースで見るもの。知らない人の家が火事になったり、どこにあるのかさえ記憶があやふやな国が震災に見舞われたり、そういった種類のもの。痛ましく思う気持ちもなくはないが、心の半分以上は傍観者の位置で冷めている。
 そんなことを思いながらぼんやり砲台を見ていると、隣に立ついっちゃんが鼻で笑った。
「ここも未開人が神様に生贄を捧げて祈りまくってた頃と変わらないんだ。

洒落た服着て、iPhoneでラブソングなんか聴いちゃって、ハウスダストのないキレイな家に住んでたって、つまるところ本質は一緒だ。いじめっ子体質というか、弱肉強食というか、つまり籤運(くじうん)の一番弱いやつをあれに詰めて、正体不明のカミサマモドキモンスターにぶち込む。そのおかげで天下泰平の万歳三唱だ。人間様は声と態度だけは一等デカイが、犠牲なくして生きていけるほど、世界を敵に回して生きていけるほど強くねえってこった」
「生贄……か」
 いっちゃんが言わんとする生贄という言葉の裏はわかっている。
 このロクでもない放射線には功罪があり、人類にひとつだけ恩恵をもたらしている。
「なにかを引き換えにしなきゃなにもできないってのが摂理だろ。魔法を使うならMPを消費する。モノを買うなら金を消費する。

世界を救うなら――生贄を消費するんだ」
 その言い様は婉曲だが的を射ていた。KA線は誰かの命を捧げなければ否応なく世界を蝕む恐怖を突きつける代わりに、人同士の争い――戦争をなくしてくれた。
 いまの人類が安全にいられる場所は、線量抑制台場があるところだけだ。そしてどこの国も、弾丸となる数少ない人間を探さなければならない。何百年も内戦の絶えなかった中近東やアフリカのほうの国でさえ、何十年も前に争いをパタリと止めてしまった。紛争地域がKA線に脅かされることもあるので、そんな場合ではなくなったのだ。
 KA線のせいで世界は削れたが、KA線のおかげで人は戦争の悲劇から救われた。
 あまりにも短絡的な欠点と幸福を(さら)しながら、KA線は今日もどこかから()き出してくる。
 ということに、なっているけれど。

「ねえ、いっちゃんは本当にあると思う? KA線なんてものがさ」
 私は伏し目がちになって、爪先で地面を掻きながらいっちゃんに問うた。不安になるとついやってしまう悪い癖だ。
 たとえばこれが神様だとか世界だとか、運命だとか天罰だとか、そういう抽象的でいい加減なものではないとしたら? 誰かによって操作された情報を信じ込まされているだけだとしたら? そんな疑問がいつも頭の隅に仄暗い部分を作って消えない。
 いっちゃんは風に靡いて少し乱れた前髪を弄りながら、飄々と答えた。
「どうかね。だが、偉い人があるっつってんだ。ならあってもなくても、少なくとも現代の日本、そしてこの街においては〝ある〟のさ」
 身も蓋もない答えだった。でもそれが却っていっちゃんらしい。気取った手付きで砲台の方を指し、いっちゃん節を朗々と諳んじる。

「見ろ、あのクソでけえ砲台を。あんなもんをとんでもねえ額の税金で全国におっ立てて、三十年の間に何万人もぶっ放しちまってる。本当はKA線なんてもんは丸ごと誰かの勘違い、どっかのオタクが書いた三文妄想SF小説でした、なんて雑な四コマ漫画みてえなオチがついても、もうなかったことにはならない。とっくに社会のシステムとして回ってる以上、笑い事じゃ済まないんだ」
 恐ろしい放射線を打ち消すため必要なもの。人々の命を救うため必要なもの。それは残酷にして皮肉なことに人の命だった……なんて、なんとわかりやすい題目だろう。あまりに短絡的な発想に目眩がしそうだった。
「人類共同の害悪に立ち向かうために、一致団結して非情な現実に向き合うなんて、出来の悪いハリウッド映画みたい。それが真実でもどうでも構わないのかな、みんなは」

「いいんじゃね? 全人類がいじめっ子体質を共有したおかげで、実際戦争はなくなったんだからさ。銃や爆弾の矛先が人でなくなった以上、多少の間違いは見ないふりでいいのだ。KA線は少なくとも、戦争という一番重篤(じゅうとく)な病を掻き消す、なによりの特効薬なのであーる」
 言葉の最後のほうで人差し指を立てて、演説家のような口ぶりで仰々しく言った。確かにそれは一理あるようにも思える。
 でも嘘か本当かもわからないご都合主義的な喜劇のために、決して少なくない頻度で命を空に向かって撃ち出さなければならない。ロシアンルーレットのような死が、誰にでも降り注いでくる世界。冷静に考えてみれば狂っているはずなのに、誰も異論を唱えない。
 戦争で大勢死ぬよりマシだから。もはやそれさえ〝常識〟になってしまったから。

「それもこれも、人間が弱っちいから。乗ってる人が全員、暴走列車だと気づいていても止まれない。ブレーキ係さんは永遠に空席。いつか大脱線するまで、それでみんな不幸になるまで、誰もなんとかしようとは考えない、っと」
「相変わらず朝っぱらから詩的だな、ゾゾエさんは。現実逃避するクセが身についちまってるってこった」
「別に……いいじゃん。まっすぐ見てばかりいたら、疲れちゃうもん」
 季節の移り目に居残ったぬるい夏風の残骸(ざんがい)が、私たちを揺らして抜けていく。
 川辺に生えた草がざわめき、遠くの空からジェット音が微かに響いてくる。
 こんなに残酷な現実があっても人は滞りなく息づき、生きている証拠。
 こうしてぼっ立っているだけでも、周りのすべては確かに生きている、その証拠。

   世界中で殺人放射線が漏れ出している。へえー。
 それを打ち消すためにあの砲台が必要。なるほど。
 装填(そうてん)される弾丸は人間。……だから?
 万事が万事、他人事。絵空事。
 確たる事実であって、私たちの人生に大きく深く横たわるテーマであって、なのに普段は認識さえしない。それを忘れ去ってしまっても、十分に生きていけるけど。
 で、で、で?
 気が遠くなるような疑念が頭をもたげかけた時、スマホを取り出したいっちゃんが素っ頓狂な声を上げた。
「おいっ、時間がやべーぞ! あんなもん眺めてる場合じゃなかった!」
 慌ててその画面を見た途端、全身の血がさあっと引いた。時刻はもう九時半を過ぎている。

 砲台に気を取られて、遅刻のために急いでいたことをすっかり忘れてしまっていた。
「ほんとだ、ヤバい! ガチで一限目終わる、終わっちゃう!」
「ええい走れ! 最速で進撃すればまだ間に合うかもだ! 進撃、進撃ーっ!」
「あーもー、今日は全然遅刻するような日じゃなかったのに! 待ってよーっ!」
 急に走り出したいっちゃんの後を、私も全力で追いかける。
 そう、私たちには滅びゆく世界の危機より、大事なことがある。
 たとえば、遅刻が確定しているのに、それでもなぜか走ることとか。
 たとえば、そうやって一生懸命に学校へ行って、なんとなく授業を受けることとか。
 たとえば、進学したい大学を受けるには足りない内申点に悩むこととか。
 RPGならこんな時、勝手に現れてお節介に世界を救って回ってくれる救世主がいる。

 謎の魔術や魔物による侵略を食い止めて、黒幕の魔王だの秘密結社だのを打ち倒したりする。
 現実にそんなものはどれも存在しない。都合のいい手前勝手な救世主も、すべての身代わりの悪役もいない。仮にいたとして、フィクションでは一面的な善悪だけで捉えられるけれど、現実はそんなにシンプルじゃない。どこまでも冷たく、はっきりとありのままで、宇宙の片隅に小さく、足の裏を巡る惑星として大きく、複雑だ。
 そんな複雑さに反して私たちの現実とは学校で、家で、この通学路で、町内で、そんな狭い範囲で展開されるコント劇のようなものが全部だ。バカバカしく感じることもあるけれど、きっと人一人分の世界観なんてそんなもの。地球全体だなんてスケールの大きい話はとても理解が及ばない。死に至るほどの事実なんて大き過ぎて、私なんかに見えるはずもない。

 頭の中の砲台がぎぎぎと元に戻っていく。今日の勤めを終えた現実の砲台を見て安心したのか。それとも遅刻確定のせいで胸に迫る焦燥感が、常日頃から私の内側をちくちくと突き刺す淡いモヤモヤに打ち勝っただけか。
 私たちは残暑の日差しで焼けあがった堤防道を、がしゃがしゃとひた走った。

 昼休みに入った教室が、明るい喧騒と熱気を思う存分に膨らませる。そこにぐんと上昇した気温が混ぜ合わさって、いよいよ最高点に達しようとしていた。
 先週の火曜日、新学期が始まって早々の五時間目。一番暑い盛りに古びたクーラーは異音を立てて活動を停止し、それ以来この教室に快適な冷気はもたらされていない。学校も早急な修理を望んでいるようだが、業者が来られるのは来週の水曜日とのことだ。

 そんな悪報にてんで勝手な文句を垂れながらも、制服を着崩したり、下敷きを振り回したり、冷感グッズを持ち込んでみたり、思い思いのスタイルで九割方のクラスメイトは教室に居残っている。律儀というか健気というか、涙ぐましいものを感じる。どうのこうのと言いながらも、やっぱりこの時間と場所が嫌いではないのだろう。
 かくいう私たちも、いつも顔を揃える五人でテーブルと椅子を寄せ合っていた。一際文句の声が高いローちゃん、マイペースなハルちゃん、無口気味のなっちゃん、そしてスマホを弄ってばかりのいっちゃんも、みんな当たり前の顔をして座っている。
 誰も口に出さないし、約束したわけでもないのに自然と集まってくる。涼しさの保証された図書室やら保健室やらに避難してもよさそうなのに、そうする人はいない。

 私はそんな〝当然〟が、なんだか嬉しかった。
「ねー、これ見てぇ」
 教室の湿気てべたつく暑さにひととおり文句をこぼしたローちゃんは少し気が晴れたのか、ニヤニヤしながら右腕に巻かれた安っぽいブレスレットを見せびらかしてきた。
「昨日ねえ、(しょう)くんに買ってもらったんだ。付き合って二ヶ月記念だって! エモいよねえ、こういうことにマメな男ってさあ」
「はー、二ヶ月記念ねえ。それはなんというか……めでたいね?」
 得心できるようなできないような気持ちのまま、曖昧に相槌を打った。いかにもぞんざいな同意だったけれど、ローちゃんは嬉々として表情を綻ばせた。いい意味でも悪い意味でも裏表がなく、単純な人だ。
 翔くんとはローちゃんが夏休み前に作った彼氏だ。

 十七歳の夏を完璧に満喫すると意気込み、夏祭りやら海やらに行くため数々の男子を吟味して勝ち取ったその恋人と、それはそれはリア充全開の夏休みを過ごしたらしい。今月で晴れて二ヶ月目ということだが、その喜びがどれほど素晴らしいものなのか、色恋の機微に疎い私には想像できなかった。
 けれどそこは人それぞれ。ローちゃんが幸せなら結構なことだ。
「でしょでしょ、そーでしょ! こういう小さな日々のヨロコビ? って言うか、発見って言うか……なんてーの? 気づき? やっぱさあ、あれこれ多くを求めるより、こういうことのが大事なんじゃないかなって最近は思うわけ。じゃない?」
「ま、そういう幸せもいいんじゃないですかにゃ。ねえ、なっさん?」
「せやな」
 きっと私と同じ胸中だったのであろうハルちゃんの適当な頷きに、なっちゃんも言葉少なに続いた。

 漫画やアニメが好きな二人は現実の色恋沙汰より紙上の白や黒にときめくタイプで、やはりローちゃんのはしゃぎように理解が及ばない様子だ。
 そんな中でただ一人、水を差したのは言わずもがな。
「ふん、男に(こび)を売りケツを振り、ヘラヘラ迎合することが幸せかね。それで掴める幸せってのは何ドルくらいの価値なんだい。教えてつかあさいよ、ゴーイングマイロードさんよ」
 スマホを超高速でフリックする指を止めないまま、いっちゃんはにべもなく切り捨てた。〝ゴーイングマイロード〟とはいっちゃんがローちゃんの本名である路子の路という字から勝手につけた蔑称で、主に喧嘩を売る時に使っている。(私たちも語感が気に入ってしまい、そこからローちゃんと呼ぶに至っている)
「あーん? なんだって、中二病?」

 いっちゃんにケチをつけられたローちゃんは目を三角に釣り上げ、剣呑な視線で睨めつける。ああ、今日も始まってしまった。
 性格上、考え方が真っ向から対立するいっちゃんとローちゃんは、毎日なにがしか言い争っている。議題のスケールはしょうもないが、目の前で見るとそれなりに迫力がある。
 とは言え、見慣れたいまとなってはもはや日常の一コマ。我らが二年四組の名物である。今日も今日とて口火を切ったいっちゃんに、ローちゃんが食って掛かった。
「そーゆーあんたの幸せこそなんなの? 毎日毎日ネットでワケわかんないことばっかり調べて、ご高説(こうせつ)を垂れ流してる場合? 青春はいま一度っきり! 十七歳っていうプレミアはいまだけ! 男と遊ばずして、なにが幸せだっての? あんた、夏休み中なにしてた?」

「やれやれ、驚くほど単純明快かつクソみたいな幸福論だ。いっぺんイマドキ十代女子に絶大な人気を誇る、とかいう胡散臭(うさんくさ)いエッセイストのツイッターでもフォローしてお友達になってこいよ。人工甘味料全開のクソ甘ったるい自虐自慢風のエモツイートがどんどん流れてきて、さぞ気持ちがいいだろ。見せかけと思い込みの幸せなんぞ、すぐに底が見える。先行きの見えない恋愛ごっこが、世界の真実を追求するより尊いとはとても思えんね」
「セカイのシンジツう~? 部屋に引きこもってネットの闇と戦う人生が? そんなもんよりハラハラドキドキの恋愛ごっこのほうが、よーっぽど幸せだと思うけどねえ?」
「またまた、こいつは面白いご冗談だ! それはなんていうド三流女性雑誌の、何月号に載ってた言葉だい? 素晴らしいねえ、人類みな穴兄弟ってか!

少子化対策のプロパガンダにノせられた分際でなにほざいてやがんだ、脳味噌スイーツめ!」
「はいはーい、今日も中二病全開サンキューでーす。まっ、この問題はロクに男と喋る予定もないお子ちゃまじゃ、ちょーっとハードル高かったかなってカンジ?」
「な、なんだとお……。大人しく聞いてりゃ、クソ脳味噌ハッピースイーツ野郎がっ!」
 炸裂したニトロのような怒りを燃え上がらせ、いっちゃんは椅子から猛々しく立ち上がった。私とハルちゃんとなっちゃんは被害を受けないように、弁当箱を膝の上に退避させる。
 見解の相違というだけで、どちらも正解ではないだろう。趣味が違えば視点が、生き方が、人生が違う。

 なにに比重を置くかで人の価値観はいかようにも変化するのだから、彼氏との恋愛こそ人生における至上の楽しみであると考えるローちゃんと、マスゴミ(いっちゃんはマスコミのことをこう表現する)の偏向報道をくぐり抜けて世界の真実を暴き出すことを至上命題とするいっちゃんとでは、意見が噛み合うはずもない。
 口さがなく、歯に衣着せない性格で正論に特化したローちゃんは、いっちゃんの過激な論理武装と並べるとまさに犬と猿、水と油、ハブとマングースだ。避けようのない衝突によって爆発してしまったいっちゃんは戦争演説をする独裁者のような威容を放ちながら、怒涛の勢いで畳み掛ける。
「なあーにが『ちょっとハードル高かったかな』だ!

いいか、世界に蔓延する代理戦争の悲劇がなくならないのは、お前みたいな能無しが取りも直さず軍事主義の構造的支配という屈辱的かつ暴力的かつ一方的な陵辱に疑問を持たないせいなんだ! 第二次世界大戦からの鬼畜米帝と悪辣ソ連の冷戦はまだ続いている、いや、そもそも終わってすら……」
 小難しい単語をありったけに並べ、正誤も定かではない渾身の大演説を身振り手振り、口角泡を飛ばしてべらべらと捲し立てる。しかし誰も聴いていない。ハルちゃんとなっちゃんはお弁当をぱくつきながら、週刊の漫画雑誌を開いてそれぞれに感想を言い合っているし、論戦相手だったはずのローちゃんも早々に飽きてしまったのか、リップを塗り直しつつ鏡とのにらめっこを始めている。

 せめて私だけでも、と合いの手などを入れてあげたいところだが、如何せんなにを言っているのかわからない。
 そんな私たちに構うことなく、いっちゃんの論調は無限にヒートアップしていく。もはや元気にぶっ壊れるその姿を、穏やかな気持ちでぼんやり見守るしかなかった。
「……こんな状況下、ネットを駆使して少しでも多くの事実を掴み、各種SNSで拡散する以外に我々国民が為せる行動があるだろうか⁉ (しか)るに! 暢気(のんき)にサルみてえなヤリたい盛りの男なんぞとケツをど突き合ってる場合じゃねえんだ! わかるだろ、ゾゾエ!」
 よく回る口だなあ、などと思って油断していたら、演説の矛先が急旋回して私に向いた。
「えっ⁉ あっ、うーん、そうなのかねえ? ハルちゃんはどう思う?」

 話の内容が全然入っていなかった私は狼狽を抑えつつ、ちょうど視線の先に映ったハルちゃんにレシーブした。こうなってしまったいっちゃんは止められない。暴走するダンプカーの前に飛び出すようなものだ。それをわかっていながら一瞬で身代わりを立てて遁走(とんそう)する自分のしたたかさに、内心少しの罪悪感と笑いをこらえる。
 そんな大暴投を受けたハルちゃんは卵焼きを齧って幸せそうな顔をしながら、のんびりと答えた。
「そんな難しいこといきなり聞かれても知らんがな。とりあえず、男は三次より二次に限る。壁ドンしながら真顔で『お前のすべてが欲しい。いや、奪ってやる。覚悟しろ』っていうセリフを吐いていい男が三次にいるとは思えんからにゃ。ねえ、なっさん?」
「せやな」
 ハルちゃんの幼馴染にして戦友、なっちゃんがうんうんと頷く。

 さすがは天をも恐れぬ断金腐女子(ふじょし)コンビだ。この状況に対し、よもや真顔で二次元男子唯一論を以って応戦するとは。ギリシャで行われるロケット花火打ち合い祭りのようにやたらめったらぶち込み合う我と我の応酬で、お互いに論旨がまったく噛み合っていない。しかしいっちゃんも負けじと、追加のロケット論説を発射する。
「なんてこった、お前らもか! お前らも二次元の幻想に取り憑かれた憐れで蒙昧な消費者だったのか! ちっ、こうなったらお前らの妄想力と画力を最大限に活かせ! 各国を擬人化の上、微妙な国際情勢の現状を受け攻めで巧みに表現し、ラブコメ風に描いたクソみたいなBL漫画でこの状況のヤバさを盛大に喧伝してやろうじゃないか! 立ち上がれ日本国民、立ち上がれ腐女子! 手始めにピクシブあたりから制圧し、ゆくゆくはBLで世界を救え! すっかり聞かなくなっちゃったクールジャパン戦略の往生際を、いまこそ見せつけてやれ!」

「なるほど、わからん。国同士の擬人化なんて手垢がつきすぎだし、オンリーイベントもこの頃はすっかり下火だにゃ」
「ウケる」
 室温よりよほど高い熱量の込もった演説は、二人にすげなく(かわ)されてしまった。
「ほら見なさい中二病、この同意の少なさ。真実とやらが見えてくるのはまだまだ先ね」
 もはや完全に興味を失ったらしいローちゃんがスマホを見ながら、止めとばかりに冷たくあしらった。
「ひ、低い……! どいつもこいつも精神の成熟度が低すぎる……!」
 せっかくの大論説を三者三様にいなされたいっちゃんは、大仰に絶望する大物政治家の真似事をしながら机の上へ盛大に崩折れた。
「とりあえず彼氏作ったら? 話はそれからでしょ、中二病」

「ふざけんな、そんなカップ麺みてえに作る恋愛ごっこなんぞ犬に食わせてやる! 僕はたとえ一人になっても戦うぞ! 虚飾に塗れたこの水平線に、いつか勝利と栄華の暁をもたらさん! 正義は我にぞあるッ!」
「やべー、世界一声のでかい勇者の誕生にゃ。正義の根拠がガバガバ過ぎて草生えるにゃ」
「せやな」
「ゾゾエ、あんたがちゃんと面倒見るのよ。世界を救う前に、まず彼氏を作らせてやって」
「う、うん……頑張る」
 ローちゃんの正論にぐうの音も出ない。
 まあ友人の一人として、いっちゃんの将来を心配していないわけではない。
 このまま中二病が治らなかったら付き合う男は現れるのだろうか。就活の面接で『少子高齢化対策の進捗状況についての答弁で責任転嫁する官僚の国会答弁モノマネ』をしないだろうか。

 そもそも大学に進学する気はあるのだろうか。とにかく様々にある。
 けれど元気にぶっ壊れているいっちゃんを見ていると、安心する。
 いっちゃんがもしまともなことしか言わなくなって、意味があるのかないのかわからないマシンガントークをやめてしまったら嫌だ。
 こんなに刺々しい言葉を並べてもいっちゃんが憎めないのは、本心で喋っているからだろう。一言も嘘や見栄を混ぜていない、極めて純度の高い本音。普通なら空気を読んで、胸の内にしまいこんでしまうもの。それをあっけらかんと吐き出す様が気持ちいい。
 そう感じてしまうのは、私も大概いっちゃんに毒されている証拠に違いない。
「そういやさー、なんであんたらはあんな派手に遅刻したの?」
 ローちゃんが思い出したようにいっちゃんに訊いた。するといっちゃんは私を見て、ニヤリと笑った。

「機密事項だ。宇宙平和のため、答えるわけにはいかんな。そうだろ、ゾゾエ」
「あー、うん、まあ……命が惜しかったら、ってやつ?」
「なにそれ。ま、なんだっていいけど、宇宙平和より田村先生への言い訳のほうが重要なんじゃない? 先生カンカンだったよ」
 ローちゃんがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、私たちのほうへ身を乗り出す。
 結局私たちは一限目に間に合わず、教室に入った時には二限目が始まる寸前だった。あの田村先生を怒らせてしまったと聞いて、胃にひやりと氷が滑るような焦燥が走った。
「マジかよ。クソやべーな」
 そう言いながらのんびりパンを齧る様からは、微塵も動揺を感じ取れない。そんないっちゃんを見たら、焦燥は一瞬で掻き消えた。
 いっちゃんはパンをもぐもぐと咀嚼しながら、さも名案と言わんばかりに手を打った。

「よしゾゾエ、あとで一芝居打ちに行こう。某県議会議員並みに泣き喚いて土下座のひとつもカマせば許すに決まってるさ」
「それってどっちが泣き喚く係なの? あともう片方はなにしてるの?」
「決まってるだろ。耳に手を添えて、終始聞こえないふりしてるんだよ」
「わー、すっごく怒られそう! もう二度と許してもらえないね!」
「案ずるな、地の果てまで逃げる算段はついてる。いざとなったら新潟あたりからすこぶる怪しい小型船に乗って、お隣の独裁国家までフルスロットルで過激な逃避行と洒落込もうぜ」
「ぜーんぜん行きたくなーい! ぜーんぜん行きたくなーい!」
「強いわね、あんたら……」
 処置なし、と言った具合に首を振ってローちゃんが私たちから離れたところで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 熱気と喧騒は一気にしぼみ、三々五々自分の席に散らばり直していく。弁当を食べ終わったハルちゃんや、いましがたまで漫画を広げていたなっちゃんも、いつの間にやら戻っていた。ローちゃんも国外逃亡する前にLINEくらいは送りなさいよ、とだけ言い残して足早に立ち去っていった。
 あとには席が前後に並び合う私といっちゃんだけが残り、五限目の先生が来る直前まで逃亡した後の独立国家建国計画を練る話で盛り上がった。

 ――いっちゃんと初めて出逢った日。
 幼稚園の年中に上がって数日後に言われた一言目を、いまでもはっきりと憶えている。
 ――ねえ、宇宙人ってどこにいると思う?

 当時クラスにいた女子のほとんどが流行の魔法少女アニメに夢中になっている中、朝に弱い私は日曜の早朝に放送されるそのアニメを見ることができず、すっかり話題に乗り遅れてクラスの端っこで暇を持て余し、ひたすらに絵を描いていた。我ながらなんと暗い幼稚園児だったのだろうかと思う。
 そんな中、いっちゃんは流行に目もくれず、ひたすら宇宙人の知識を追求していた。そして私に話しかけてくれたのだ。
 ――ねえ、宇宙人ってさ、どこにいると思う?
 なにも答えられない私に、いっちゃんは同じ問を重ねた。
 いまにして思えば、正直に「わかりません」とたった一言を言えば済む話だとわかる。
 しかし生まれついて人付き合いを恐ろしいものとして忌避し、ほとんど他人と関わらなかったせいで沁みついたコミュ障の弊害は、その時にはすでにはっきりと顕れていた。

 だからそう訊かれた瞬間、全身の血が沸騰するような焦りと恐怖を感じていた。
 一度も考えたことのない問題を、一度も口を利いたことのない女の子から訊かれた衝撃は重く、どう答えたら正解なのか、あるいは正解のわからない時はなんと答えれば正解なのかを決めあぐねた。限界を突破した焦燥のせいで、なんと答えたのかは憶えていない。
 そうした不可思議なやり取りをきっかけに都合十二年間、クラスを共にしたり離れたりしながらもずっと仲良く過ごしてきた。そんな私が抱くいっちゃんの人物像と言うのは、初めて会った時からさほど変わっていない。
 超然にして唯我。奔放にして偏奇。常識、先入観、既成事実、そういったなにもかもに囚われない。自由人と言えば聞こえはいいが、悪く言えば手のつけられない電波娘とも言える。

 特に中学に上がった頃からの偏向ぶりは著しい。
 父親のお下がりでPCを手に入れたいっちゃんは、どこで覚えたのか検索の極意なるものをマスターして、ネットに蔓延る政治ネタや時事ネタなど(いっちゃん曰く〝世界の真実〟らしい)に傾倒し、動画やニュース記事を漁っては覚えたての単語を連発するようになった。
 そこからは坂道を転がるようにインターネットの闇へハマってゆき、見る人が見れば一目でわかるほど見事な中二病に羅患(らかん)してしまった。とうに中学を卒業して高校二年生になったいまも、まったく治る気配がない。
 成績優秀で運動神経もそれなり、外見も可愛いと非の打ち所がないため、数度は告白を受ける側の経験もしているらしい。

 ただ遺憾なことに可憐な見た目から想像がつかない強烈な電波具合のギャップが、夢見がちな男子諸君には刺激が強すぎるらしく、また本人の「教養のない有象無象に付き合っている暇などない」という取り付く島もない一言で、全員が一刀両断の元に斬り捨てられている。
 中学の終わり頃からだったか、アニメやゲーム、漫画の知識も入り乱れるようになって、私にはもうついていけなくなってしまった。私もたまに単行本を買う程度には漫画を愛しているけれど、いっちゃんの知識はそんなニワカで語れるほど浅くも狭くもない。実際にはどの程度の見聞を深めているのか計りようもないけれど、少なくとも私が理解可能な範疇(はんちゅう)はとうに超えてしまっている。

 そんな奇天烈(きてれつ)な言動に付き合っているのは幼馴染の私を含めても数人で、大多数はやんわりとスルーしている。重度の中二病を(こじ)らせた人がいる一方、触らぬ神になんとやらとばかりに処世術を爽やかに身に付けて、静かに距離を取る人もいる。
 それでも私は、そんないっちゃんが大好きだ。
 他人に怯え、決断ができず、すぐに現実逃避してしまう私の横で常に笑い、笑わせてくれる。どんなに言葉が刺々しいように聞こえても、本当に人を傷つけるようなことは言わないし、言い返してこない相手に喧嘩を吹っかけることもしない。中二病のせいで伝わりにくいけれど、いっちゃんは本当に優しい人なのだ。
 きっとあの日、私に声をかけてくれたのも偶然ではなく、隅っこで一人ぼっちになっていた私を気遣ってくれたからだ。

 始まりこそ宇宙人の所在なんていう不条理なギャグみたいなものだったけれど、その出逢いでいっちゃんと友達になっていなかったら私はいまでも一人ぼっちで、もっと塞ぎ込んだ人間になっていただろう。
 だからどんなに言動が電波でも、毒々しくても、妙ちきりんでも、ブラックジョークばっかりでも気にならないし、それ自体は心配していない。いっちゃんのそれは元気がある証拠だからだ。  私が最近ことに心配しているのは、そういうあれやこれやに入り混じって、やたらと〝死ぬ気〟を主張し始めたところである。
 マイブームは〝滅亡〟〝終世〟〝消滅〟。この世界はキリスト教原理主義者の根拠のない歪んだ価値観によって歪められた偽りの世界で、どうにもこうにも〝生き苦しい〟らしい。

 けれど私はその〝生き苦しさ〟の本質が、そんな小難しいことではないのを知っている。いっちゃんの人生は、随分前から面倒な方向に進みつつある。具体的にいつからかといえば、まさに中二病の病状が深刻に進み始めた頃と一致する。
 他人を(いと)い、現実から目を背け続ける私とは別のスタイルで、いっちゃんもまた現実から逃げ回っている。そのための方便が奇しくも中二病という現代の文化と相性がよく、適当な発散方法になるらしい。
 だから私はいっちゃんが電波なことを叫び続ける間、安心する。わけのわからないモノマネも、正当性があるのかわからない演説ごっこも、いくら続けたところでなんの出口も解答も得られない堂々巡りだけど、そうすることが少しでもいっちゃんの人生を彩る絵の具になるのなら。たとえば、私もその一色になれるのなら。

 存外、そういう電波な人生だって悪くない。私は心底、そう思うのだ。

 蒸し上げられた気温が一巡して、勢いを失っていく。伸びた紅霞(こうか)に溶け出して、薄まりながら昇っていく。望洋と窓の外に広がっていた私の意識が、ゆるゆると胸の中に戻って押し込まれていく。
 午後の授業内容は、ほとんど頭に残らなかった。いっちゃんと新潟から亡命する船旅で、反吐を戻したり、荒れた日本海に放り出されたりする妄想を膨らませていたせいだ。
 気がつくと騒がしかった教室はすっかり静まり返っていて、いっちゃんと私だけになっていた。
 埃と、汗っぽい匂いと、夕暮れが()()ぜになった空っぽの教室。
 休み時間の喧騒が斑に浮遊しているような幻聴が耳腔に残響していて、でも誰もいなくて。

 消しきれていない薄く白んだ黒板は、今日がもうすっかり終わってしまったのを告げながら、終着駅に置かれた停止板のようにのっぺりと張りついている。
 ここはもう時間の行き止まり。行き止まりの教室。
 それらを背にしたいっちゃんが自分の席の机に座り、私と同じように開け放たれた窓の外を眺めながら、ぼうっとしていた。
「あ……付き合わせちゃってごめんね、毎度毎度」
 ようやくしっかりとした意識を取り戻した私は、慌てて教科書を鞄に詰め込む。
「お前は昔からそーゆー感じだし、もう慣れた。だがいつもそんなんじゃ、あっという間にボケて老けて後期高齢者までまっしぐらだぜ?」
 とっくに帰り支度を終えているいっちゃんが、呆れたように答えた。
 愛、などと言えば大袈裟だけど、私はこういう時間が好きだ。

 いまこの時間と空間を切り抜けば、一日が終わって、そのまま世界が滅んで、たった二人ぼっちになってしまったかのような錯覚に迷い込む。
 その錯覚は言うまでもなく穴だらけで、窓から流れ込んでくる風には間違いなく誰かの気配や匂いが乗っかっている。
 私たちだけが勝手に居残った、ちっとも隔絶されてない仮初めの密室。あるいは終末。
 空想ひとつで簡単に顕れるコンビニエンスな絶望が心地良いような、どうでもいいような。
 私は手早く教科書やノートを纏め、鞄を持って立ち上がった。
「おまたせ。んじゃ、今日はどうする? うちに寄る? それともどっか行く?」
 けれどいっちゃんは応じず、なにも言わないまま、足をぶらつかせる。
 まさか聞こえなかったはずはないだろう。そう思いながら笑って、肩を指先で小突いた。

「こら、いっちゃんまで後期高齢者なの? それとも難聴ピアニストの真似?」
 いつもなら不敵に笑み返しながら、愚にもつかない屁理屈を言うはずだった。
 それなのに、いっちゃんは笑わなかった。無表情でもなかった。口を横に結んだまま、喉をしきりに上下させている。なにか、迷っているような。
 不安に駆られた私は、一度鞄を降ろした。
「どしたの? 帰らないの?」
 いっちゃんは答えない。視線を泳がせて、足をばたつかせて、なにも言わない。まるで緩やかに溺れているよう。なのに泳ごうとしない。沈みゆくまま、身を任せている。
「あのさ……あのさ」
 なにかを言いあぐねたまま、いっちゃんは溺れ続ける。こんな様子を見るのは初めてだ。
 私はどう反応してよいかわからず、どうすることもできないまま突っ立っていた。

 自分の席でこんなことをしていると、先生に指されて答えようがなかった時の焦りがじわじわと思い出される。嫌な冷たい感覚が背中を伝って、全身を這い回っていく。
 どれくらいの間があっただろうか。いっちゃんはやにわに自分のリュックを開けて、中身を探り始めた。
 不安はどんどん膨らみ、胸の中で重みを増していく。その重りで私まで溺れそうになる。
 いったいなにが出てくるのか。得体の知れない恐怖がゆっくりと心内を占めていく。
 結局出てきたのは、くしゃくしゃになった紙切れ一枚だった。
 どんなとんでもないものを取り出すのかと身構えていた私は、束の間に胸を撫で下ろす。
「もー、勿体ぶって出すからどんなモンスターが出てくんのかって身構えちゃったじゃん。いっちゃん、新しい技を覚えたね」

 不安を掻き消すように私は茶化した。それでも、いっちゃんは一向に笑わなかった。
「モンスターか。言い得て妙かもしれんね」
 紛らわそうとした不安の重りは、倍になって舞い戻ってきた。信じられない速度で私の心に落ち込み、ずどんと叩きつけられる。
 なにも言わないまま、いっちゃんはその紙を私に手渡した。
 そこに書かれていた文字をつらつらと追い、その意味を理解した私は思わず息を呑む。
 文頭には『KA線防護に係る応召要請』と厳めしい言葉が銘打たれ、差出人には『厚生労働省KA線対策室EKA整備課応召要請書送信係』とかいう長ったらしい名が記されていた。

 翻って内容は短く、ほんの数行でいっちゃんが『指定遺伝子情報保持者』――『EKA構造体』であること、厳正な抽選の結果であること、応召先は『第八七塔てんくう』であること、そして応召の日付が記されていて、最後に大臣の名前と印があるだけだ。
 その応召日は、十月九日――今日から二週間後だった。
「なに、これ……。いっちゃん、なんなの、これは……」
 悪い冗談だと思った。いや、思いたかった。
 いっちゃんが二週間後に死ぬ。そんな恐ろしいことを命令する令状の存在なんて。
 たった一枚の紙切れが放つ重圧に手が震え、うっかり取り落としてしまった。
 いっちゃんは机から立って静かな動作でそれを拾い上げ、なんでもないもののようにペラペラと振りながらいつもの調子で嘯いた。
「見りゃわかんだろ、召集令状だよ。

 お国の為にくたばるのが決定したんだ。スーパーSレアな大本営発表だろ? ったく、またとないガチネタだってのに、間の抜けたアホ面しやがって」
 いつもの放言も、辛辣な非難も、まるで耳に入ってこない。
 私はただ言われるとおり、アホのような鸚鵡(おうむ)返しをするしかなかった。
「召集命令って、そんな……いっちゃんが……?」
 思わず身体から力が抜けて、自分の席にまた座り込んでしまった。
 無様な私を目の当たりにしたいっちゃんは、どんな振りにも対応できないのを察したらしい。大仰に溜息を吐きつつ両手で私の顔を引っ掴んで、ぐいっと近づける。
「こんなにわかりやすいネタで大喜利の一本もできんようじゃ、将来この国を担う社畜になった時、上司の無茶ぶりに応えられないぞ。それともお前の将来はニートか?

それにしたってクソスレに書き込む時に求められるのは、三行以内で収まるエッジの利いたユーモアだ。どっちの道に進むにしろ、話のつまらねえ人間にロクな末路はない。さあ、一度しかない人生に二度目のチャンスをくれてやろう。さん、はいっ」
 目の前数センチに迫ったいっちゃんが、若干早口でべらべらと言葉を羅列する。幼馴染だからそんなのとっくに慣れちゃってて、いつものこと。
 しかしあまりにも情報量が多過ぎて、受け付けられない。いつもは合わせられる調子が合わせられず、狂ってしまっている。雀の涙ほどしかないキャパシティが、一枚の紙切れによってとっくに決壊しているせいだ。
 それでもいっちゃんはほとんど真顔のまま待っている。超至近距離の瞳が、夕焼けを反射しながらほんの少し潤んでいる。

 期待しているのだ。私の口から逆転満塁ホームランの如く、土壇場を返すほどのエッジが利いたユーモアとやらが劇的に飛び出すのを。情け容赦なく、勇気を持って、この紙切れを冗談にして笑えるような、驚天動地のユーモアとやらを。
 しかし私が辛うじて言えたのは、三行どころかたった三文字だけだった。
「嘘だ」
 怒涛の現実に呆気なく追い込まれ、カラカラと空転する脳味噌にそんなユーモアを絞り出すほどの強さなんて、あるわけがなかった。
「残念、その答えじゃ座布団はなしだな」
 いっちゃんが私の顔を離し、溜息をこぼしながらすっと一歩退いた。それがどこか遠くに行ってしまいそうな気がして、慌てて立ち上がり、縋り付くようにその手を掴んだ。
「嘘だ……嘘だ、こんなの。十月九日って……再来週じゃん。嘘でしょ、こんなの」

 私はいっちゃんの手を固く握り締めながら、頭を振ってひたすらに理解を拒絶した。
 こんなものの存在も事実も、断じて認めるわけにはいかなかった。
 だってこんなものをもし認めてしまったら、私は。
「ねえ、嘘だよね? どこからこんな機密文書のテンプレをダウンロードしてきたの? 最近のネットにはこんな危ないものまで落っこちてるの? ネタにしてもヘビー過ぎだよ。こんなの偽物でしょ。偽物だよね?」
 いっちゃんの口からこそ、これがびっくり仰天のユーモアであると、ただ私の間抜け面を見るための、他愛もない新趣向のおふざけであるという言葉を期待した。
 しかしいっちゃんは目を背けたまま、なにも言ってくれない。
 頭と心臓がひたすらに痛くて、でも、なにも言ってくれない。
 重い沈黙に窒息してしまいそうだった。理性的に振る舞うには、心が限界だった。

 私は、ついに叫んだ
「こんな冗談……嫌だよ、信じない。嘘なんでしょ。ねえ、こんなの嘘だって……言ってよ。はやく偽物だって、言ってよ!」
 しかしいっちゃんは首を振り、静かに断じた。
「嘘でも冗談でもない。正真正銘、本物だ」
 一分の期待さえも失われた瞬間、脳裏に黒々とした砲台の姿が呪いのように思い浮かんできた。床に着けているはずの足が感覚を見失い、奈落の底に墜ちていくような気色悪い浮遊感に襲われて、ぐうっと涙が溢れ出した。どれだけ拒絶しようとも不定形の魔物のように滑り込んでくる恐怖が、私の頭脳に揺るがしようのない現実をありありと刻みつける。
 いっちゃんが――二週間後に死んでしまう。
「今朝遅れた理由を神妙に述べよう」
 握った手をするりと離したいっちゃんはまた自分の机に座り、苦虫を噛み潰したような表情で語りだした。

「今朝遅れたのは、第七惑星エルトリオンの先遣調査班に妨害されたわけでも、萌豚アニメのヒロインばりに食パンが中々口に入らなかったわけでもなかった。武士がハラキリする時だって、躊躇(ためら)っちゃってすぐに斬れないだろ? そういう感じ。こいつをゾゾエに見せるかどうしようか……玄関でずっと悩んでたんだ」
 私は呆気に取られて、しばらくなにも言い返せなかった。
 いっちゃんの顔と、その手元で夕日に鈍く光る令状を交互に見比べて、たまに意味もなく窓の外を見てみたりして、何度も文章の意味合いを追う。
 令状の発布日は、半年も前だった。
 ――ずっと一緒にいたはずなのに、私はちっとも気がつかなかった。半年も。
「どうして、隠してたの?」
 私の声色は、明らかにいっちゃんを(とが)めていた。
 いっちゃんが悪いわけではないのに、そうわかっていても、自分のあまりの脳天気さとこの世の不条理に苛つき、冷静になれなかった。

「隠してたわけじゃないよ。なんつーか、わかるだろ? 悩んでたっつーか……」
 ばつが悪そうな表情で頭を掻きながら、ぼやけた言い方をする。いつもはっきりと物事を言い切るいっちゃんらしくない。
 様子を見るに、もしかすると半年もの間、毎朝同じ問題を考えていたのかもしれない。隠そうとしていたのではなく、迷いに迷った結果がただ、今日だったなら。半年間、毎朝玄関に座り込んで迷う孤独ないっちゃんの姿を想像したら、それ以上責められなくなった。
 それにしても、当のいっちゃんが妙に落ち着いているように見えて仕方ない。
 見も知らない誰かから二週間後、何百万人を救うための『弾丸』になって――死ねという手紙が届いているのに。

「ねえ、どうしてそんなに落ち着いてるの?」
「そう? そんなに落ち着いてるように見えるか?」
 まさか、いっちゃんはもう全然、別のことを考えていて。
 いっちゃんの落ち着きを余裕と受け取った私は、にわかに希望を見出した気になった。
 手の甲でぐしっと涙を拭い、その希望に飛びつく。
「もしかして、これをなんとかする方法とか、作戦とかがあるの⁉」
そうだ、いっちゃんは頭がいいんだ。中二病だしサブカルの権化だけど、それは知識人でもあるということ。世の中の仕組みについてもきっと詳しいはずだ。
しかし、その答えはにべもなかった。
「そんなもん、あるわけないだろ」
「じゃあ、なんで、そんな……」
「いや、なんつーかさ」

 いっちゃんは、視線をすっと窓の外へ移した。
「まあ、これはこれで、ラッキーなんじゃないかな、って思ってさ」
 開け放たれた窓から風がさわ、と入り込み、いっちゃんの柔い前髪を揺らす。いっちゃんの発した言葉は、私がまるで知らない言語のように聞こえた。
 地上三階からの景色は高く、どこまでも見慣れたもので、見渡す限りつまらない。
 けれどそれが嫌ではなくて、むしろなにひとつ変わっていないように見えて、その実まったくそんなことはなく、視力の限られた私の目が届かないところで、日々なにかが変わり続けている。それが嬉しいような、怖いような。
 ちっぽけで、ありふれていて、どうでもいい。何億何兆という日常の一コマが、誰かにとって喜劇で、悲劇で、穏やかで、激しくて、波瀾万丈で、どうにもならない現実そのものだ。

 なにもかもを殺す世界の病魔なんて、忍び寄る足音さえ聞こえず、所詮テレビやネットの向こうの話でしかない。そうやって忘れたふりをして、日々誰もが、なにもかもが、産まれて、生きて、足掻(あが)いて、藻掻(もが)いて、死んで。あまりにも当然で、あまりにも自然なこと。
 学校の狭い教室で風景が目に焼き付くほど同じような毎日を繰り返し、机に向かって漫然と勉強をしている限りでは、そんな横並びの自然さえずっとずっと遠い出来事だった。だってそれはきっと人生の全部というとてつもなく長い時間をかけて、ほんの少しずつ思い知ってゆくことのはずだ。
 その時間を急激に早められ、突きつけられたいっちゃんの瞳は、ぼんやりと夕陽に照らされ、揺れている。
 私と変わらない長さの時間しか人生を過ごしていない。住んでいる場所だってすぐ近所だ。

 地図の縮尺をちょっと合わせたらスマホの一画面に収まってしまうほど狭い世界で、幼稚園から小中、高校のいままでずっと一緒に過ごしてきた。
 なのにいっちゃんの発した言葉は、私がまるで知らない言葉のように聞こえた。とんでもなく高く、分厚い壁の向こうにいるような気がした。
「死ぬのがラッキーって、なに?」
 私の言葉は情けなく、縋るようだった。
 いっちゃんは押し黙り、俯いている。その時間はひどくゆっくりに、長く感じられた。
 待って、待って、いっちゃんはようやく、ぽつりと呟いた。
「……隕石でも、落ちてこねえかなあ」
 沈みゆく西空が、幽かに笑ういっちゃんを斜めに照らし続ける。
 隕石なんて落ちてこない。くるわけがない。
 それはつまり、本当に隕石が落ちてほしいという意味ではなくて。

「もういろいろ、めんどくせえ。頭の天辺から燃え尽きて、なくなっちまいたい」
 つまり、そういうことだ。いっちゃんは死にたがっている。言葉としては知ってはいたけれど、そういう冗談だとずっと思っていた。
 中二病のあらわれ。数ある方便のうちのひとつ。面倒だけれど、まだまだ生きたいということへの反語的応戦の証なのだと。
 けれど、いっちゃんは本当に本気だったのだ。
 私が現実から目を背けている間、ずっと、ずっと。
「それって……家に帰りたくないから?」
 言葉を選ばず、直球で問い質す。
 いっちゃんの家庭が随分前から厄介な状況にあることは知っていた。ずっと両親が不仲で喧嘩が絶えず、不満を抱いたお兄さんは五年ほど前に出て行ってしまっている。いっちゃんもそんな状況に辟易してしまい、最近はほとんど家に寄りついていないことも聞いていた。

 寂しい笑みのような歪みを頬に湛えたまま、いっちゃんは(うそぶ)く。
「帰る場所……いや、帰りたい場所がねえってのは存外虚しいもんだぜ。どこにいたって蚊帳の外っていうか、余所者の気分なんだ。このままなんとなく何十年も生きなきゃならないなんて、考えるだけで疲れちまう。そこへこの召集命令だ。渡りに船ってもんだろ?」
「家のことなんて、家を出ちゃえば関係ないよ。あと一年辛抱して、高校を卒業したら私と一緒に家を出ればいい。そしたら……!」
「確かに……ゾゾエとか、ミチコとか、ハルとか、ナオとか、そういう仲の良い連中と一緒なら、こんなクソみたいな人生もまあまあ楽しいし、それでもいいと思ってたんだけどさ。実際に召集令状を受け取った時に……なんかがぷっつり切れちゃったんだ」

 私の言葉はいっちゃんの自嘲に()らされて、彼方へ飛んで行った。
 疑問を口にすることができない。確かめることが怖い。直視することが怖い。
 そんな私に構わず、いっちゃんは虚ろで薄まった笑顔のようなものを貼り付けたまま、容赦なく言い放つ。
「つまりさ、そんなに頑張って生きていく気が……なくなっちゃったんだよ」
 鋭利に澄まされたいっちゃんの絶望が、私の心を深く抉り抜いた。
 放課後はほとんど毎日一緒にどこかへ行ったり、うちでご飯を食べたりして過ごすけれど、いつも適当な時間になったらふいとどこかへ行ってしまう。そういう日は家に帰らず、大体ネカフェで寝泊まりしている。ネカフェを転々とする身を案じ、うちに泊まることを勧めたこともあったけれど、迷惑をかけるからと毎回断られ、そうすることは一度もなかった。

 断られるたび、そして不意に別れるたび、そのままいなくなってしまうんじゃないかという不安は常にあった。その予感はどうやら、最悪の形で実現してしまったようだ。
 頭のどこかで、いっちゃんがまだ召集令状だなんてわけのわからない死を受け入れていないことを期待していた。たとえ一人では生き辛くとも、私と一緒なら、みんなと一緒なら生きていたいと思ってくれる。そう信じていた。
 それは、一方的な自惚れだったようだ。
「もう頑張らなくていい、この日になったら死んでいい、キッチリした理由がつけてもらえて、おまけになんかの役に立って死ねるなら……それもいいかなって。それに、うちのクソどもを見てると、どうしても考えちゃうんだ」
 いっちゃんがもぞりと身動ぎする。座っている机が甲高い軋みを上げた。

「あいつらだってたぶん、十七年前に僕が生まれた時は、そりゃあ手に手を取り合って喜んでくれたはずだと信じてる。でも時間は人を変える。十七年経ったいまを見てみろ。あいつらの目に僕のことなんか、もう一ミリだって映ってやしねえ。お前らだっていまはダチでいてくれるのかもしれない。でもそれはぶっちゃけ、あと何年有効な関係なんだ?」
「そんなの、これからだってずっと……!」
 言いかけて、みなまで言えなかった。
 昨日と変わらない今日を薄ぼんやりと待ちぼうけるだけで、授業を受ける意味さえわからないほど曖昧な私が〝ずっと〟だなんて、どうしてそんな適当なことが言える?
 時間が人を変えるのは事実だ。そうでなければ永遠を誓い合ったはずの人たちが崩壊し、こんなにもいっちゃんを追い込み、苦しめることなんてなかった。

 言うだけなら易い。軽い。浮ついていて、なんとでも言えばいい。
 けれど崩れゆく関係を目の当たりにしてきたいっちゃんになんのあてもない、宙でふらつくような言葉を突き刺したその後の、その先の責任は誰が取る?
 その在処(ありか)を見失ったからこそ、いっちゃんはこんなことを言うしかないのに。
「ごめん、お前を責めたいんじゃない。そういうつもりじゃ、ないんだけど……」
 いっちゃんは沈みきった声で絞り出すように謝り、俯いた。窓から流れこんだ強い風が、強張ったその声を揺らす。無理矢理に自分を圧縮するようにどこまでも小さく、硬く、萎縮していく。
 いっちゃんの気持ちが理解できていながら、いやできているからこそ、これ以上なにも言えない。言うべきではないはずだ。なにを言ったって無責任だ。

 慰めるにも励ますにも都合のいい魔法の言葉なんて存在しない。口先だけでこの状況をなんとかすることなんて、できやしないから。
 私は無知で、無力だ。悪者になろうとしているいっちゃんを引き留める術さえわからない。止まらない涙を流すまま、ぎりと奥歯を噛み締める。
 そんな私を憐れに思ったのか、いっちゃんは急におどけたようにけらけらと笑った。
「おい、そんなにマジになるなよ。とどのつまり、現実逃避がついに極まっただけだって話だぜ。中二病を拗らせまくった挙句、どっかのビルから飛び降りるオチよりずっといいだろ。ここらのご町内を救ったスケールの小せえヒーローとして、永遠に語り継いでってくれよ」
 いっちゃんは、誤魔化そうと笑っている。
 この場を、自分の感情を、私の辛さを、全部誤魔化そうと笑っている。
 笑って、嗤って、嘲笑って――。

「その顔、やめてよ!」
 机も椅子も押しのけ、いっちゃんに飛びついた。いまにも消えてしまいそうで、怖かった。いっちゃんの座った机が悲鳴を上げて、倒れそうになった。
 本当は横っ面を引っ叩いてやりたかった。急に笑ったりして、きっと本音を吐き切らないままでいるつもりのことを。そうやってすべてを抱えたまま、死のうとしていることを。
 けれどいっちゃんは、もう十分過ぎるほど打ちのめされている。これ以上鞭を打つなんてできなかった。
「一人で全部、抱え込まないでよ」
 私はなんて脆いのだろう。弱く、いい加減で、悪質だ。無責任なことは言えないと、いましがた胸の内に留めたはずの言葉が、ほんの数秒のうちに吹き出してしまう。
 軽々しい人生だ。貫徹できない滑稽な意思が揺れ続けている。

 ひらひら、ふわふわ、ぐらぐら、途切れ落ちていく木の葉のように、情けない涙声が潤んで震える。
「一人で決めつけないでよ。私も一緒に考えるから」
 なにを? 漠然としている。
「そんな顔しちゃだめだよ。いっちゃんが笑うなら、私も一緒に笑うから」
 どうやって? ずっと泣いているのに。
「私が一緒にいるから。期限なんてわからないけど、一緒にいるから」
 いつまで? 曖昧だ。
 支離滅裂な上、確証なんてどこにもない。保証なんてできやしない。これは実際、何年有効なたわごとなんだろう。わからない。
 泥を被ってまで私たちと決別しようとするいっちゃんの強さの前に、脆く崩れ去っていく私の弱さと甘さ。無様な往生際の悪さを味わうほど、自分勝手な嫌悪感が押し寄せてくる。

 けれど本当は泣きたいはずのいっちゃんが無理矢理に笑おうとする姿に、どうしても耐えられなかった。耐えられなかったのだ。
「バカだなぁ、そんなに真っ赤になっちゃって。もっと煽り耐性をつけるべきだぜ」
 口から雑言を滑らすことしかできなくなったはずの小生意気な中二病患者は、すっかり悪意と憎悪を失った、まったく純真な子供の声をしていた。いまにも泣きそうで、けれどそれは意地が許さなくて。そんな狭間に縛られた孤独な声色に、胸を締め付けられる。
 私はほとんど力のこもらない拳を、それでも目一杯にいっちゃんの背中に叩きつけた。
「バカでいいよ。数学も社会も苦手だよ。足し算も引き算も苦手だし、尊い犠牲で社会がどうとか、そのおかげで現代の日本がなんとかかんとか、そんなの全然わかんないよ。知ったこっちゃないよ。

いっちゃんには生きてて欲しいんだよ!」
 学校が教えてくれたこと。それと現実との間に開く、あまりにも大きな乖離。
 無責任。無作為。無秩序。らりぱっぱ。
 国家が保障しなければならない〝国民の恒久的な安全〟とかいう、なにか。
 未来に不可欠な、不可避な、誰かが生きるための〝尊い犠牲〟とかいう、なにか。
 何度も学校で習ったはずなのに、むにゃむにゃしていて、掴みどころがなくて、視ているようで、見えているようで、普段は誰も直視していない事実。
 とかいう、なにか。そういう、なにか。
 空を自由に飛べるプロペラ。時空を超える机の引き出し。どこにでも繋がるドア。そういった超常的で子供じみた手段でもない限り、いっちゃんが召集命令から逃れる術はない。
 とか、馬鹿馬鹿しいことを、考えてみたり。

 もっと具体的に。もっと現実的に。なんかないの。なんでないの。
 ああ、なんて。私はなんて、なにもない世界で生きていたんだろう。
 ごく当たり前の平穏を、希望を、焦燥を、危機を、絶望を、まるっきり地球の裏側の他人事、そんなものと同じ距離で感じていたのだ。誰しものすぐ隣に迫るこの世界の病が止められないことなんて、わかりきっていたのに。
 いざ目の前に顕れなければ、この悲しみがわからないなんて。
「こんなに悲しませるなら……やっぱ言わなきゃよかったかな」
「遅いよ、今更。もう十分、悲しいっての」
 私はゆっくりといっちゃんから離れた。
 窓の外を風が渡って、校庭の周りに生えた木々を揺らしていく。ざわざわ打ち鳴る。
 世界の軋む音。不吉な死神の気配。暗雲を纏う現実の呼び声。
 夕日に佇むいっちゃんは、きっぱりとした声で言い切った。

「逃げようはない。泣き土下座しても、耳の聞こえないふりをしても、北行きの工作船に乗り込んでも、お迎えは必ず来る。この紙に書かれてる時間に、必ずだ」
「あと、二週間しか……ないの」
「そう。二週間しか……ないよ」
 不意に訪れた死神の姿は、たった一枚の紙切れ。
 それはどんな死刑宣告より軽く、尊く、鋭く、揺るがしようもなく。
 私たちの日常は――あと二週間しか、ないのだ。

 『キル・オール放射線』――通称KA線と呼ばれる恐ろしい放射線への確かな対抗策は現状たったひとつ、指定遺伝子情報保持者と呼ばれる人がその身体に持つ『エリミネート・キル・オール構造体』――EKA構造体から生成する『弾丸』で消し去ることだけだ。

 弾丸と言っても、鉄や鉛でできた弾を撃ち出すわけではない。弾丸に選ばれた人を特殊な手術によって、生きながらも意識を失った状態――いわゆる脳死に近い状態にし、超高出力のガンマ線を照射する。そうして変異・増幅させたEKA線をKA線の発生源に向けて撃ち込んで相殺・無害化する。これが『弾丸』と呼ばれるものの正体だ。
 無論『弾丸』にされた人の細胞は、ガンマ線によって徐々に破壊されてしまう。人間の細胞分裂の上限は五〇~六〇回ほど、『弾丸』にされた時点での残りは二〇~四〇回分くらい残っているというから、人一人を犠牲にして撃ち出せるEKA線は多くて四〇発程度だ。それを撃ち切る前に、政府は次の弾丸(ヒト)を確保しなければならない。

 平時であればこの一発を撃ち出すだけで、何百万という人々が暮らす領域が数日~十日前後、生活可能なレベルまで線量を下げられる。ただ、これは国土が狭い日本の基準だ。欧米など国土が広い国では線量抑制台場がより多く必要であり、年間にして数百~数千発が必要なため、犠牲になる人数も日本に比べれば格段に多くなる。
 生け贄じみたこの方法が提案された当時は、市民団体やら政治屋やらが非人道的だと猛反発した。パレードもデモもテロも起きた。それでも何十億という人類を救うにあたり、それ以外のましな手段を誰も見つけ出せなかった。その間も地球のあちこちでKA線は降り注ぎ、日毎に生存可能な領域が塗り潰されていったのだ。

 そんな虎の子のEKA線を用いても、KA線量濃度の単位でいう三〇カーセクタ――思い出せなかったパーセントという単位、正しくはカーセクタだ――という境界を超えてしまうと、ほとんど意味を成さなくなる。一発で中和できる線量濃度の上限は、その時の線量濃度によって変わるのだ。一〇カーセクタ前後までの段階で撃ち出せなかった場合、生活圏として利用できる土地にするには数十発を必要とし、二〇カーセクタを超えると通常運用時の十年から十五年分の弾丸を使用しなければならなくなる。
 それはそのままEKA線の原材料となる〝誰か〟が余分に必要ということであり、犠牲を強いるにも時間制限があることを意味する。反対派による妨害活動や、EKA構造体を持つ人を見つけられないといった理由で発射が遅れ、人が住めなくなってしまった国もある。

 そもそもこの解決手段は、国家の経済力や治安情勢にも大きく左右される。維持費や開発費が捻出できる先進国はいいが、途上国や元紛争国などはいくら戦争がなくなったとはいえ、急に金持ちになるわけでも、社会基盤ができあがるわけでもない。砲台設置に係る経済、維持整備の技術、EKA構造体を持つ人を見つけるために必要な出生台帳を作成するだけの安定した政治、条件を挙げればキリがない。
 それら諸々のコストを勘案した上で求められる、人一人分の人生を空に撃ち出すための値段とはいくらなのか。国により、文化により、歴史により、まったく異なるそれを受け止められる国と、そうでない国。決断の遅れた国から土地も人もなくなり、地図上では真っ白に塗り潰される。四十年前の世界地図と見比べると、三割近くが失われたいまの世界地図には紙魚に食われたような歪な白色が、あちこちに描き込まれている。

 そうして世界は毎日狭まっている。たとえ実感がなくともだんだんと、ひどくゆっくりと。

 日曜日、居間のソファに寝転がり、昼前あたりからスマホで延々とKA線などについて調べているうちに、すっかり夜になってしまった。
望依(のぞえ)ー、いつまでケータイいじってんのー。テスト近いんでしょー」
 台所の方から母の声が飛んでくる。
 それをきっかけに肺に溜まった重苦しい空気をげろげろと吐き、起き上がって伸びをする。そして適当に返事をしつつ、スマホを部屋着のポケットに滑り込ませた。
 母に言われるまですっかり忘れていたが、来週の月曜から五日間に渡って中間テストが控えているのだった。

 どうでもいいことだ。いまは数学の公式や英単語を覚えるより、知りたいことが山ほどある。
 目につくところでスマホを弄っていれば文句を言われると思い、邪魔が入りにくい自分の部屋で調べ物を再開しようと居間を出て台所を横切った。その時、夕飯を作るために野菜を切る母の後ろ姿がふと目に留まった。
 そういえば母親と〝こういう話題〟について、話したことがなかったような気がする。
 いつからか、なぜか、これは訊いてはいけないというか、口に出してはいけない思いがどこかにあったからだ。
 私は少し腹に力を入れ、思い切って問いかけてみた。
「お母さんはさ、知り合いが召集命令で呼ばれたことってあった?」
「召集命令? いきなりなんで?」

「や、まあ、なんとなく……いまテレビのニュースでたまたまやってたからさ、呼ばれた人の家族のインタビュー……的なのが」
 意を決したのはよかったが、そのための準備もなく口に出した結果、実に間の悪いものとなってしまった。もうすぐサザエさんが始まろうかという時間帯に、どの局でもそんな重いテーマを扱う番組など編成していない。
 咄嗟に思いついた言い訳はひどく不自然で、自信のなさに浮き上がってしまった言葉尻の格好もつかず、私の言葉が嘘なのは明白だった。母は一旦手を止めて少しだけ振り返ってくれたものの、ひどく怪訝そうな顔をしていた。
 母との間にじわじわと立ち込めていく暗雲のような空気が、今更のように告げる。当たり前だけど、常識だけど、少しだけタブー。普段の話題に上らないのは、みんなこうして無意識的に避けたい話題だからだよ、と。

 さも話したくなさそうな雰囲気を醸しながら、母はなにも言わず再び野菜を切り始めたので、内心に気まずさを重たく抱えながら、答えを聞かないうちに台所を出ようとした。
すると、母がぽつりと漏らした。
「そういえば小学生の頃、クラスメイトの子で一人いたわねえ」
「えっ、いたの?」
 予想外の答えだった。私はいつの間にか、母には〝そういう経験〟がないものと決めつけていた。だって誰かの死を感じて乗り越えてきたようには、とても思えなかったから。
「その時、どうだった? どう思った?」
 知らず、私は食いかかるように訊いていた。
 しかし母の答えは、すこぶる素っ気なかった。
「どうって……まあ、法律で決まってることだし、しょうがないことでしょ?」

「しょうがないって……友達じゃなかったの? 仲良くなかったの?」
「どうだったかしらねえ。仲悪くはなかったと思うけど、昔過ぎてあんまり憶えてないわ」
 こともなげに答える母を目の当たりにして、そういう経験がないと思いこんでいた理由がわかった気がした。召集命令のことを臭いものには蓋の要領で忘れ去り、こうやって話題として出ても、きっぱりと他人事の位置を保っているからだ。だからテレビで防護措置予報が流れても、何事もなかったかのように聞き流せる。きっと天気予報より関心が薄いのだろう。
 そうしてKA線という胡散臭い死神の存在を疑いもせず、誰かの人生が終わっていく日常を〝しょうがないもの〟として受け止めている。
 自分の母親が死というものをあまりにもあっさりと認識していることに、信じがたいほど戦慄を覚える。

 いくら昔のこととはいえ、クラスメイトという身近な誰かがあの砲台から撃ち出されたのなら、思い出す機会はいくらでもあったはずだ。
 いま問うまで忘れていたのは、その人と仲が良かったかどうかさえわからないこと? それとも、その人がこの世にはもういないこと? じゃあ、たとえば。
「じゃあ、もし私が呼ばれても、しょうがないで済ませる?」
 恨みがましい思いで滑らせた一言に、今度こそ母は完全に手を止めて振り返り、訝しさを込めた視線をこちらに向けた。
「あんた、なに言ってんの? どうかしたの?」
「……や、ごめん、なんでもない」
 心配そうな母の表情と気まずい空気を置き去りに、私はそそくさと自室に逃げ込んだ。
 我ながらなんと棚に上げた話だろう。母を責めることなんてできるわけがない。

 私こそ一昨日まではそうだったのだ。母だけを非難しようとした浅はかな自分に、遅まきながら自己嫌悪を感じる。
 しかしそれを踏まえても、心に受けた衝撃をすぐには和らげられなかった。
 今日まで自分の中にくすぶり続けていた疑惑。母との間に開いた死に対する認識の相違、KA線を取り巻く一連の仕組みに対する認識の相違は、思ったよりずっと深い断絶だった。
 私は強い不安に襲われていた。これは私と母だけの断絶なのか。世間の通説とは、母と私のどちらに寄っているのか。死というものの認識は、どちらが正解に近いのか。
 そこへいっちゃんの言葉が重くのしかかる。死ぬことをラッキーと表現した意味。消えてなくなってしまいたいと言うほどの、強い死への願望の原因。私はそれらの間を繋ぐ重要ななにかが、きっとわかっていない。

 机に向かってノートや教科書を取り出してみても、まったく勉強をする気が起こらない。不随意に跳ねたり沈んだりするおかしな動悸に喉を絞められながらスマホを取り出し、再びネットの海へと乗り出した。台所から漂ってきた煮物の香りも母の夕飯ができたと告げる声も曖昧に躱し、テスト勉強もそっちのけで延々とスマホを弄り続けた。
 どんなに馬鹿げた意見でもいい。どんなに信憑性の低い情報でもいい。なにかヒントが欲しい。そう思って次々にリンクをタップして、幼稚な水掛け論や扇情的な提灯記事を、取り憑かれたように読み漁った。
 しかし画面越しの有象無象に繰り出される恣意的な言葉では、余計に不安を煽られるばかりだった。沈む心は底なし沼へ嵌るように、インターネットが織りなす深淵なる闇へずぶずぶ引きずり込まれていった。

 やがて疲労困憊して、自然とスマホを放り出した。時計を見たら午前五時を周っていて、窓の外が薄白んでいた。
 結局動悸が収まることもなければ、これぞと信じられる意見が見つかることもなかった。スマホの電池残量表示が真っ赤な二パーセントに染まるまで粘って得られたのは、ネットの言論は現実に聴こえてくるそれと大きな溝があるということだけだった。
 友達も、先生も、母親でさえ、死というものについて語ったことはない。日常でそう話題に上るものではないといえばそうだろう。
 ならばなぜネットの世界では、こんなにも多くの記事や意見が交わされているのか。ちょっと調べるだけで数千数万とヒットするのに、現実においてはこの話題を持ち出すことさえ、忌み嫌われている。この乖離を埋めるものとはなんなのか。

 思うに、面と面を突き合わせて難しい事柄について話すのは、実に勇気や気力といったエネルギーを要する。もし私のような〝臆病者〟の比率が世間的に高く、誰もがそのエネルギー消費を嫌っているのだとしたら、乖離の正体とは〝場の空気〟――つまるところ 〝日常の雰囲気〟とでもいうようなものではないだろうか。
 誰も難しい話や恥ずかしい話、正解のわからない話、あるいは主義や思想など、自分の内側へ直接通じるような話題、そういった〝日常の雰囲気〟が破壊されかねないような話題を好まない。普段から自分の心の内をひけらかして生きるのは、疲れてしまう。
 それを気兼ねなく話すには、誰にも傾聴されることのない密やかな空間、その内容をよそへ吹聴されても支障のない相手といった、日常から遠く離れて影響を及ぼさない存在が必要になる。つまりネットの世界が適当だ。

 そういう条件が揃わない限り、日々の生活をこれでもかと積み重ね続けるために必要な話題とは、芸能人のスキャンダルだの、身近過ぎない事件事故のニュースだのといった自分の生活範囲、認識範囲の範疇から外れた世間話だ。さもなくば疲労や苦労を突きつけ続ける現実から逃れることなく、病むこともなく生きていくのは、到底不可能に思える。
 〝空気を読む〟とはこれらに附帯する一連の努力の総称であり、日々現実と戦い続けるため気力の消費を抑える長期省エネ型処世術なのではないか。世間的にはそれを〝大人〟という一言で表現して、面倒な話題を避けているのではないか。
 ネット上の言論は当てにならなかった。かと言って現実の誰かに問いたくても、場の空気がそれを阻む。だとすれば、自分で考えて答えを見つけ出すしかない。

 KA線に関する知識は別としても、土日まるまるかけて、たったそれだけのことしかわからなかった。そんな結果にいよいよ徒労感が強まる。
 机から離れて倒れるようにベッドに突っ伏し、枕に顔を埋めながら独り言ちた。
「大人になれって……ことなのかな」
 大人。抽象的で、自己都合的で、いい加減な表現だ。
 不得心であっても納得し、耐え難きを耐え、知りもしないことを知っているかのように振る舞うさまを肯定し、場の空気を――日常の雰囲気を壊さないよう努めることを強要する。
 それが本当に〝大人〟なのだろうか?
「わけわかんない……。わかんないよ、いっちゃん……」
 みんな、いつ〝大人〟になったのだろう。どうやってなったのだろう。

 身近な誰かが籤引きで死ぬことになって、それが取るに足らないようなこととして受け止められるようになるには、どうしたらいいのだろう。
 酷使した眼球のひりつく痛みがジクジクと沁み、使い慣れない脳みそがフル回転したことによる頭痛と相乗効果を生んで、頭全体が内側から何度も打たれているかのような重い鈍痛に苛まれている。その痛みの中、あの時のいっちゃんの一言が、暮れ泥んだ風景の向こうで黒く聳える砲台の姿とともにぐらぐらと蘇った。
 ――これはこれで、ラッキーなんじゃないかな、って思ってさ。
「死ぬのがラッキーってどういうこと? 冗談なんかじゃ……なかったの?」
 外からは雀や鴉の鳴き声が小さく聴こえて、窓の向こうに広がる空には秋らしい鱗雲が綺麗な青紫色に染まって浮いていた。

 静かな朝の空気が満ちる部屋は空っぽで、間抜けな自問自答に応えてくれるものはなにもない。忌々しい静寂が不愉快で、ベッドの上でもぞりと寝返りを打ち、冷たい右腕を火照った額に置いて天井を仰ぐ。
「いや、違うか……」
 私は私なりに、いっちゃんのことをわかっているつもりだった。〝生き苦しさ〟に喘ぐその苦しさ、辛さ、痛さを知っている〝つもり〟だった。
 大きな間違いだ。辛さを知っているなら、ちゃんと向き合うべきだった。その勇気を持てず逃げたからこそ、いっちゃんが発していた死の言葉を冗談だと思いたかったのだろう。
 私は親友で、他の人が知らないことを知っている――そんな優越感に自惚れていた。
「バカみたい……。冗談で死にたいなんて……いっちゃんが言うわけないのに」

 あれが冗談ではなく本当のSOSだったなら、随分と長い間それを無視していた私は筆舌に尽くし難いバカでクズだ。いっちゃんは無論のこと、自分自身をも欺く臆病と弱虫に恥じもせず、よくも友達面をしていられたものだ。
 いっちゃんの告白を聞いた時、耐えるべきだった言葉を晒し、震えて泣きそうな身体にしがみついたのを思い出した。
 私のような人間未満があんなことをしたって、薄ら寒いだけだ。羞恥と自己嫌悪で思わず叫び出しそうになり、ぎゅっとシーツを握り込んだ。
 毎朝、いつもの交差点で待ち合わせて、学校まで通う道程。休み時間、誰かがなにかを言わずとも集まって、お弁当を食べる。そしてあの堤防の上から夕焼けた街並みを眺めながらだらだら帰る。たまに寄り道もする。

 休日になれば映画を見に行ったり、インスタで持ち上げられた店を冷やかしに行ったり、くだらないものを一緒に衝動買いしてみたり。
 ありふれて、あって当然で、楽しかったすべての時間が、いっちゃんにとっては常に死の衝動が伴うものだった。どんなに面白い話をしていても、楽しいことをしていても、美味しいものを食べていても、心の片隅には死が顔を覗かせていた――。
 そうだとしたら、こんなに悲しい人生はない。どんなに夢中になってもふとその熱に冷水をかけられる。どんなに心が踊っていても不意にその熱が霧散してしまう。
 そう考えると、死ぬことがラッキーと語った後に言っていた〝頭の天辺から燃え尽きて、なくなっちまいたい〟という言葉の意味も見えてくる。最近口癖のように言っていた〝死にたい〟の本当の意味はつまり――〝消えたい〟なのではないか。

 それはただ死ぬより苦しく、恐ろしいことだ。
 痕跡を残さず真実も残さず、誰にも忘れ去られてしまうようにすうっと静かに、最初からいなかったかのようにいなくなる。そこにあるのは明確な周囲への拒絶、そして深い絶望だ。
 そんな闇がいっちゃんの心にずっと巣食っていたのだとしたら。それを自分に置き換えてリアルに考えれば考えるほど、転げ回りたくなるような恐ろしさ虚しさ、なによりそれに気づかなかった恥と後悔が襲ってきて、頭の中心をぎゅうぎゅうと締め付けた。
 死にかけたスマホのスイッチを入れ、LINEのトーク画面を呼び出す。『いっちゃん』を選び、過去の会話を遡る。他愛ないやり取りには、過ぎ去った平穏の日々が記録されている。このメッセージのひとつひとつを打ち込む裏で、いつもいっちゃんが死に苛まれていたのだとしたら……。

 それを眺めるうちに微量だった電池は完全に失われ、スマホの電源が落ちた。どうにもならない感情に嘆息しつつ充電コードを差し込み、逃げるように布団へ潜り込んだ。
 あと数時間もすれば、あの交差点でいっちゃんに会える。でも私のような不出来な人間がこれからどんな顔をして、どんなことを言えばいいのだろう?
 そうして寝逃げに走った結果は果たして悪く、ひどく苦々しい思い出を作る羽目になったある夏の日の夢を見た。

 私は中学二年の四月から陸上部に所属していて、走り高跳びにそこそこ打ち込んでいた。
 始めたきっかけは単純かつ不純で、全生徒が二年以降は部活に所属せねばならない校則があり、消去法で決めていった結果、体育で少しだけ面白さを感じていた走り高跳びができるから選んだだけのことだった。

 努力が実り、認められること、褒められることはそれなりに嬉しかった。跳んでいる時は楽しいし、達成感もあった。
 しかしそれ以上に、人生が自分のものではない力で退っ引きならない方向へ押し流されていくことに恐怖を感じていた。消極的な始まりや活動とは裏腹に、走り高跳びの素質があったらしい私は順調に記録を伸ばしており、あれよあれよと言う間に中学三年の夏、県大会への出場を決めてしまっていた。
 走り高跳びを趣味以上のものにするつもりはさらさらないし、学校に強制されているから続けているだけで、競技への情熱はまったくなかった。明日から部活をやめていいよと誰かに許可さえもらえれば、即座にやめていたことだろう。
 それにいくら強制されたところで、生真面目に励む人ばかりでもなかった。

 ようはどこかに属してさえいればよく、個々の活動すべてを学校が管理するのはどだい無理で、入部届を出したきり幽霊部員、帰宅部に鞍替えする人も多かった。実際いっちゃんは先生の監督が緩いことで定評のある美術部の幽霊部員だったし、私だって誰かに許しを請うまでもなく、練習への参加をやめてしまってもよかったのだ。
 しかし下手に県大会まで勝ち進んでしまったため、周囲からの多大な評価や応援、期待を受けることになった。普通の人なら喜びや励みにするところなのだろうが、私には奴隷の首輪じみた重責でしかなく、さりとてみんなの好感情を正面から裏切る勇気も持てないため、泣く泣く練習を続けていた。
 大会の当日、台風でも来ればいいのに。そんなにひどくない地震でも起こればいいのに。どうにも抵抗できない力が働いて、大会なんて中止になってしまえばいいのに。

 願えど願えど都合よくそんなイベントが起こる気配もなく、気がつけば夏休み、県大会を目前に控える時期を迎えていた。
 なんの天災も起こらず県大会も突破してしまった場合、私はスポーツ推薦で陸上部の強い高校に行くことになりそうだった。
 それはいっちゃんとは違う高校に行かなければならないことを意味しており、その頃は毎日練習の応援に来てくれていたいっちゃんに愚痴をこぼし続けていた。
「あー、雨降らないかなー。めっちゃすごい台風とか来ないかなー。ハリウッド映画並みに町ごとぶっ飛ばしてくれないかなー」
「本当にマゾな奴だよ、ゾゾエは。こんなクソ暑い盛りに毎日毎日、直射日光で照り焼きになりながら全然やりたくないことを続けるとか。あれですか? おたく、受刑者かなんかなんですか? なんか悪いことでもしたんですか?」

「そんなクソイベントに毎日付き合ってもらってごめんね。熱中症にならないうちに帰ってもいいよ」
「来いっつったから来てるのに帰れとか、さーすがゾゾエ先輩、ツンデレ属性なんすねー」
「そうだっけ? とにかくありがと。お茶パス!」
「あいよ、お茶だぞアンパンメン!」
 いっちゃんがアンダースローで投げた水筒を受け取り、火照った身体にラッパ飲みで冷たい麦茶をガバガバ流し込む。喉からお腹に駆けていくキンキンの冷感が気持ちいい。
「にしてもゾゾエがまさか県大会とはねえ。人間、なんかしらの才能を隠し持ってるもんだ」
「暢気に言ってる場合じゃないよ。もし通っちゃったらどーしよ。先生にスポーツ推薦、決められちゃうかもしれないよ」

「受験勉強の手間が省けていいじゃん?」
「……いっちゃんと同じ高校に行けないんだけど」
「なら部活をやめちまえばいいだろ。バリバリ結果を出し続けるからそうなるんだ」
「まあ、そうなんだけどさ……」
 むくれた私を、いっちゃんは悪びれずケラケラと笑った。もう何十回と繰り返したやり取り、落ち着く先の結論も飽きるほどにわかりきっていた。
 結局、大会のたびに仕事を休んでまで応援しに来てくれている母や先生、クラスメイトたちの期待を裏切る勇気なんかどうしたって出ない。せめて一人でも性悪な奴がいて、そいつの意地悪でやる気を失ったとかいう方便ができればそうしたろうに、みんな善人だった。
 だからこそ、そんな人々から失望の眼差しを向けられるなんて、想像するだけで震えあがってしまう。

 誰かに期待されることは苦しくて仕方ないけど、それ以上に失望や軽蔑を受けることが怖かった。毎日顔を合わせる彼ら彼女ら、善き人々。誰もが私の看守だった。
 目立ちたくない。もう私を見ないで欲しいのに。
 そう思えば思うほど、皮肉にも高く跳べた。
「ぬおっ、一六〇センチ! すっげー、僕の身長と一緒だ。あと二、三センチ伸ばせば僕を飛び越せるな!」
 また自己記録を更新してしまった私に、いっちゃんは歓声を送ってくれた。
 なんだかんだ言ってなにより怖いのは、毎日訪れてはこんなふうに喜んでくれるいっちゃんをがっかりさせることだった。
 同じ高校に行けないかもしれないことは残念がってくれるが、それより私がどこまで行けるのか楽しみで仕方ないらしい。そうでもなければいっちゃんの言うとおり、こんなに暑い最中でわざわざ見に来たりしないだろう。

 新しい記録を出すたび、我が事のように手を叩いて喜ぶいっちゃんの顔は眩しく見えた。
 県大会なんて行きたくない。いっちゃんと離れたくない。夏の日差しより厳しい、焼けるようなジレンマが夏休みの喜びを消し飛ばし、私を苛み続けていた。
 そんな苦しみから、私は突然解放せられた。
「痛っ⁉」
 なんの前触れもなく、突然それは起きた。
 いつもと同じように走り込み、バーの手前で脚を踏み込んだ瞬間、ふくらはぎに激痛が走った。バランスを崩し、無様な格好でバーと一緒にマットへ仰向けに倒れ込んだ。
「ゾゾエっ、大丈夫か⁉」
 走り寄ってきたいっちゃんが、いまにも泣きそうな顔で私を覗き込む。
 その時、私の目からするすると涙が溢れた。

 ぎりぎりと捻り上げられるような脚の痛みもあったが、それ以上にぼんやりと心を埋めていく生温かい感情のせいだった。
 もう頑張らなくていい理由ができた。そんな安堵で胸が一杯になって、それが自然と涙に変わっていったのだ。
「おい、ゾゾエ! どうしたんだ、しっかりしろよ!」
いっちゃんに揺すられて、茫然自失していた口からやっと言葉が出た。
「脚……脚が……痛い……」
「脚⁉ 挫いたのか⁉ くそっ、先生呼んでくる!」
 いっちゃんはすぐさま踵を返し、陸上部の顧問と保健の先生を引き連れてきた。先生たちは私の惨状を見るなり救急車を呼んだ。そして搬送された病院で、疲労による肉離れだと告げられた。県大会の二週間前、完治はとても間に合わず、出場は不可能となった。

 願い続けた災厄は存外地味で現実的、しかし非常に効果的な形で私に降り注いだ。
 練習中に起きた事故で大会に出られなくなったことを責める人はおらず、みんな同情を以って赦免してくれた。
 スポーツ推薦の話も立ち消えて、いっちゃんと同じ公立高校を受験できることになった。
 これ以上ないほど完璧な形で、誰からも失望されることなく、人生の流れを変えることができた。期待に背かないように怯える必要もなくなった。平穏の日々を取り戻したのだ。だから外面ではしおらしく取り繕って見せる一方、内心ではほくそ笑んでいた。
 夏休みが明け、始業式が終わった後の帰り道。
 いっちゃんが遠い目をしながら言った、あの言葉を聞くまでは。
「毎日毎日クソ暑い中、あんなに頑張ってたのにな。そりゃ、泣けてくるよな。僕、お前が県大会で誰よりも高く跳ぶとこ、見たかったよ」

 いっちゃんのそれは慰めではなく、悔しさだった。
 本人の私がなんとも感じていないことを、いっちゃんは本気で悔しがり、あまつさえ緊張の糸が切れただけだったあの涙の意味までも間違って伝わってしまっていた。
 瞬間、私は火が出るほど恥ずかしくなり、まともにいっちゃんの顔が見られなくなって、帰路を終始俯いたまま歩いた。
「努力なんて結局、意味ないのかな……」
 なにも言えなくなった私の横で、いっちゃんは呟くようにそう言った。
 ただ、逃げたかった。誰かとぶつかり合いたくなかった。
 その情けない一心で取り組んでいた私が、いっちゃんから努力という言葉の意味を奪い去ったのだ。自分の意思で戦い、自分の言葉で決め、ちゃんとすべてに向き合っていたなら、こんなことにはならなかった。
 誰よりも嘘を吐きたくない人に無意識下で嘘を吐き、騙した。

 他人との対話を忌避し、付き合い方を正しく身につけなかったツケは、欺瞞という形でしか支払えなかった。この瞬間に恥じ入るまで、本当はいっちゃんの期待に喜んでいたこと、不誠実さを隠していたことに気づいてさえいなかったのだ。
 それでもいっちゃんは変わらず、いつも私のすぐ近くで笑ってくれていた。悪質な嘘を吐き続けた、とんだクソ野郎ということも知らないで、無邪気に話しかけてくれていた。
 他人に期待されていた時に感じていた重責が倍以上の罪悪感と痛苦になって舞い戻り、それ以来この夏の出来事は、ずっと消えない引け目として心に残り続けることとなった。

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