2.だからクソみたいに ― Fly out ―

読了時間の目安 約189分
文字数 75,636文字

 朝起きてみると、夢に掘り返された劣等感が身体中を駆け巡っており、普段から悪い目覚めをいっそう悪いものにしていた。
 枕元で充電していたスマホの電源を入れて時間を確認したら、十時をとっくに過ぎていた。毎朝目覚まし機能を頼って起きていたのに、寝しなに電源が落ちたことを失念していた。
 鳴らなかった目覚ましのスヌーズ機能の通知、いっちゃんからのモーニングコールと思われる着信が十二件、先に行くことを詫びつつ応答のない私を心配する内容のメッセージが一件入っている通知が、ホーム画面にどっと表示される。
 自分にうんざりしつつ、申し訳無さで重みを増す身体をのそのそと起き上がらせた。

 普段であれば、天地がひっくり返ったかのように騒ぐところだ。学校へ行けば先生からの叱責、家に帰った後には母からもそれを受ける憂鬱が、他人との衝突を嫌う性分と排斥し、反吐を戻しそうなほど喉を絞り上げられるからだ。
 そのはずだが、今日の私はどういうわけか落ち着き払っている。なにかひとつでも手落ちがあるとわかれば、おろおろして解決を見つけられない頭を抱えるのが常で、建設的に対処することも潔く諦めてしまうこともできない。そんな私がごく自然に後者を選び取っている。
 もたもたと制服に着替え、顔を洗って歯を磨き、髪を整えながらその理由を探してみれば、実に簡単なことだった。いままで死守しようとしていた日常が、壊れてかけているからだ。

 毎日些細なことや学友程度のなんでもない相手にさえ、息が詰まるほどの焦燥を以って折衝を避けるのは、失敗による日常の破壊を恐れるからだ。
 どんなに小さなことでも、言い合いになったり、人と違うことをうっかり言ってしまったり、気づいてしまったりしたくない。そういう差異でのせいで誰かに嫌われたくない。より正確に言えば、敵に回したくない。ごく一部の友人を除いて誰かを好きになったり、好きになってもらったりしようとは思わない。ただ敵対することを避けたい。
 だから物事には同意と留保を駆使して応え、存在感を持ちすぎず、それでいて相手を不快にさせない程度には自己を示す。不器用で後ろ向き、ひどくデリケートで臆病な自分を守りながらも社会や現実と付き合うため、そんな処世術で生きてきた。

 なぜこれほど深海魚のように水底へ沈み込むことに固執するのかと言えば、明日も明後日も、ともすれば何年もその人々と接さなければならないかもしれないからだ。
 たとえば僅かでも衝突があった相手と、明日も同じ教室で顔を合わせる。そういうことが耐えられない。一度こじれてしまった相手とどう向き合えばいいのか、皆目見当もつかない。
 他人の喜怒哀楽がなにひとつわからない私には、ひどく殺気立っているようにしか見えず、恐ろしくて、ただ恐ろしくて、二度とその人には触れられない。同じ空間にいることさえできない。関係を修復するなり自己弁護で開き直るなり、対処の方法がいくらでもあるのはわかっている。しかし恐ろしさがそれを上回り、どんな手段も実行できない。

 そしてこんな性分を抱えていても、やはり孤独には耐えられず、現実に足を着けて誰かといたい欲求が少なからずある。だから深く潜航するように、人の隙間に潜り込むようにして生きてきたのだ。
 そんな私が、よもや怒られることを恐れなくなるとは。強大なものと信じ込んできた日常が、想像以上に呆気なく瓦解するものだと実感する。
 これはいけない傾向だ。常人相当の感覚を身に着けた結果ならともかく、やぶれかぶれになっているのとさして変わらない。洗面台の鏡に映った自分の両頬をぴしゃっと叩く。
「しっかりしろゾゾエ。いまは現実から逃げてる場合じゃないぞ」
 土日をまるまる潰してKA線について、そしてそれに対する他人の向き合い方について調べたが、ネット上に答えはなかった。やはり当事者のことは当事者にしかわからない。

 なにはともあれ、いまできるのは学校へ行き、いっちゃんと話すことしかない。自分で自分にしっかりと言い聞かせ、台所に向かった。
 自動車用部品製造会社に事務の契約社員として勤めている母はとっくにいなくなっており、テーブルの上にはすっかり冷めたトーストとインスタントの冷製トマトスープ、そして〝昼食代〟とだけ書かれたメモの上に五百円玉が置かれていた。
 即物的に表現された母の愛情を口に詰め込むようにして食べ、五百円玉をポケットに突っ込み、家を出る。そしてマンションの四階からエレベータで降り、駐輪場に停めてある自転車に跨って、いざ走り出そうとした時だった。後輪にガラス片らしいものを踏んだ感覚があり、次いでぱすんと間抜けな音がした。
「げ、こんな時にパンク?」
 降りて確認してみると、やはり空気が完全に抜けてしまっていた。

「ついてないな……」
 溜息を漏らしながら出しかけた自転車を元に戻す。学校へは歩いて行くしかなくなった。
 マンションの敷地を出て左手の方向に向かって歩く。するとすぐにいつもの交差点があって、これも左手に折れて真っ直ぐ行くと、堤防道へ登るスロープに続いている。
 いつもより二時間遅い月曜日の風景は、毎日見てきたそれとひどく違っていた。朝の慌ただしさがなくがらんとしていて、随分と間延びして見える。日曜日の昼下がりのような長閑さに似ている気もするが、もっと寂しさというか、空虚さというか、なにかが欠け落ちたような感覚が強い。
 そんな景色をぼんやりと眺めるうち、当たり前すぎて意識していなかった、決して欠けてはいけない存在がないことに気がついた。
「ああ、これ……いっちゃんがいないのか」

 独り言ちるとともに、思わず息を呑む。なんと凄絶な光景だろう。よく見知っているはずの、親しみを感じてきた通学路なのに、いっちゃんがいないだけであまりにも空々しい。
 いっちゃんはまだいなくなっていないし、きっと学校に行けば会える。いっちゃんが風邪で休んでいた時にだって、いちいちこんなことを考えなかった。
 これが、いっちゃんのいない風景。たまたま一緒にいないこの瞬間が、なによりリアルだった。いつもなにかしらの不安を抱えている私だが、こんなに心細い思いで通学路を歩くのは初めてだ。よりによって自転車もパンクし、さっと駆け抜けてしまうこともできない。
 いつの間にか、私は走り出していた。
 抜けるような秋晴れの青空も、いつもは癒やされる街路樹の百日紅もすべてが恐ろしく、通い慣れた住宅街の路地が迷宮のように感じられた。

 走りながらべそまでかいていたせいか、すれ違った犬の散歩をしているおばあさんが怪訝な顔でこちらを見たが、構っていられなかった。
 ぜいぜい、はあはあ。荒ぶる呼吸が喉や肺を痛めつける。
 どんなに必死に足を動かしても自転車ほどのスピードは出ない。残夏が居座る憎たらしいほどの快晴に照らされたアスファルトの熱暑が、全身をじりじり焼いて私を追い詰める。
 脚を痛めて以来、走ることに抵抗を感じるようになって、元陸上部とは思えないほど走れなくなった。溺れるように息ばかり苦しくて、ちっとも前に進んでいかない。出掛けに詰め込んだトマト味の朝食が、酸っぱくなって喉元まで迫っていた。
 爆発しそうな鼓動の苦しみに耐えてスロープを駆け上がり、堤防のカーブに差しかかったその時、不意に視界が開けてあの砲台が見えた。
「うっぶ――」

 途端、食道に迫り上がる異物感を抑え切れなくなり、ついに朝食を道端へ全部ぶち撒けた。
 半分以上原型を残したままの食パンと真っ赤なトマトスープが、二度三度と拍子をつけながらびしゃびしゃと吐き出され、内蔵を吐瀉しているようなグロテスクを描きながら草むらに染み込んでいく。たまたま誰も通りかからなかったのは不幸中の幸いというほかない。
 咳き込む口元を手の甲で拭い、にわかに熱っぽくなった頭をふらつかせながら立ち上がる。
 すると、またあの砲台が見えた。
 世界の救世主。この街をちゃんと街たらしめるための生命維持装置。それでいて、いっちゃんの死神。
 これからあの砲台を一緒に茶化せる相手が、いない。
 毎日目にしてしまうのに、ふと心に思い浮かんでしまうのに、これからどうしよう。

 泣きべそはすっかり泣き声に変わっていた。どうしよう、どうしようと、いくら考えても、答えはない。いつだってそうだ。私の人生はなにひとつ答えが出ない。いつも一応考えてはみるものの、どうせ答えは出ない。
 わからないことをわからないままでいいと開き直れたのは、いつもいっちゃんが隣にいてくれたからだ。
 たとえ誰とも仲良くなれなかったとしても、いっちゃんだけはずっと一緒にいてくれる。
 私が嘘吐きで逃げ腰で現実逃避ばかりのクソ野郎でも、ケラケラ笑って隣にいてくれる。
 他人との距離感に怯える私は、それでやっと生きてこられたのだ。私にとっての日常とは、そういうものだったのだ。
「ああ、私、やっぱり……いっちゃんがいないと、生きていけないんだ」
 肩で息をしながら、私はふらふらと歩き出した。

 もはや授業なんてどうでもよかった。ただ、そこにいっちゃんがいる。そういう理由だけで、私は学校に向かった。

「きゃあっ! 向島さんどうしたのっ、血まみれじゃないっ!」
 二限目も半ばを過ぎたあたりの教室に入った途端、社会科担当の中山先生が悲鳴を上げた。
 そう言われてから改めて自分を見ると、白い夏服に吐いたトマトスープがあちこちに跳ねかかっていた。
「どうしたゾゾエ、車にでも撥ねられたのか⁉」
 誰より早く、いっちゃんが駆け寄ってきた。
「あ、や、これは大丈夫……朝ごはんで飲んだトマトスープを途中で吐いただけだから……」
 うまい言い訳を思いつかず、もごもごとあったままのことを言うと、中山先生は大きな溜息を吐いて、クラス中がどっと沸いた。

「もうっ、びっくりするじゃないの! とにかく、誰か保健室に……」
「大丈夫です、僕が連れていきます」
 入ったばかりの教室をいっちゃんに連れられて引き返した。背中のほうでまだクラスメイトが何人か笑っているのと、先生が手を叩いて授業を続けますよという声が聞こえた。
 いっちゃんは安堵したように息を吐いて、私の背中を叩いた。
「ったく、びっくりさせやがって。そのザマはどうしたんだ。ヤクザの事務所にカチコミかけた鉄砲玉みてーじゃないか」
「ごめん……」
「いや、まあ、そんな深刻に謝んなくても……。ほんとにどうした? お前がガチな遅刻をするなんて珍しいじゃないか。電話にも出なかったし、心配してたんだぞ」
 悲惨な私の姿をしげしげと眺め回すいっちゃんの後を、俯いたまま黙って歩く。

 あんなに会いたいと思っていたのに、いざ会ってみると今朝方に煩悶した恥や後悔がむくむくと蘇ってきて、なにを言えばいいのかわからない。
 急速に頭が冷えてきて、泣きじゃくりながら吐くまで走った自分がいかにも芝居めいていたように思えて、恥ずかしくなってくる。
 友人一人についてこんなに思い詰めるなんて、やはりおかしいのだろうか。世間のみんなは、こんなふうじゃないのだろうか。
「なあ、ほんとに大丈夫か? どっか悪いんじゃないのか?」
 いっちゃんが訝しみながら心配そうな声をあげる。そこでやっと自分の態度がまた妙な印象を与えかねない失態に気づき、努めて明るい声を捻り出す。
「全然大丈夫! 吐いたのはほら、食べてすぐ猛ダッシュしたからさ」
「チャリで?」
「ううん、自転車は出掛けにパンクしちゃって」

「なら吐くまで猛ダッシュしなくても。どんなに走ったって遅刻じゃん」
「そういえばそーだよね。なんであんな死ぬほど走ったんだろ。ウケるね」
 あはは、と慣れない作り笑いで釣られ笑いを誘ってみたものの、それには応えてくれず、訝しんだ表情を変えられないまま保健室に着いてしまった。
「二年四組の日ノ宮です。向島さんの具合が悪そうだったので連れてきました。あ、この赤いのは血じゃなくてトマトスープらしいっす」
 デスクで書き物をしていた保健の先生も私の姿を見るなり目を丸くし、あらら大丈夫 と声を掛けながら私を丸椅子に座らせて、淀みない手付きで体温計を脇に挟んだ。
 ほどなくして検温の終わりを知らせる音が鳴り、結果を見た先生は私の身体のあちこちを診ながら問いかけてきた。

「うーん、熱はなさそうだけど。身体の具合はどう?」
「平気です。遅刻しそうになって、食べてすぐ走ったから気持ち悪くなっただけで……」
「そう、それは確かに良くないわね。まあ大丈夫そうなら授業に戻ってもいいけど、どうする? 少し休んでいく?」
「あ、それなら戻ろ……」
「いや、休んでったほうがいいと思います」
 私の言葉をいっちゃんが遮った。
 先生は少し不思議そうな顔をしたが、そこで内線の電話が鳴った。どうやら職員室に呼び出されたらしい。
「ごめんね、先生はちょっと行かなきゃいけないから。日ノ宮さん、向島さんのこと、お願いできる?」
 いっちゃんがわかりましたと答えて頷くと、先生は軽く頭を下げて保健室から出ていった。
「どうしたの? 私、ほんとに具合は……」
「そのスプラッタ姿のままじゃマズいだろ。体操服持ってるよな?

まずは着替えたら?」
 そう言われて一限目の体育で使う予定だった体操服のことを思い出し、自分の姿に改めて悄然としながら着替えた。そして、精一杯元気そうな表情を取り繕った。
「おまたせ。気遣ってくれてありがとね。それじゃ、戻ろっか」
「いや、戻る前にひとつ聞かせてくれ」
 するといっちゃんが突然ぐいと腕を引っ張った。
「なっ、なに⁉ 急にびっくりするじゃん!」
「なんの意味もなく血反吐を吐くまで走る奴を、大丈夫とは言わねえんだよ。お前、さっきからどうして僕の目を見ないんだ?」
 正面に回り込んだいっちゃんが顔を近づけて、怒ったような表情でじっと見つめる。その視線が無理矢理合わせられるまで、ずっと目を逸らしていたことに気づいていなかった。
「血反吐は吐いてないよ。トマトスープだってば……」

 あんなに会いたいと思っていたいっちゃんの手が恐ろしくなって、私は掴まれた腕を振り解こうとした。するとその握力は余計に強まり、逃げ出そうとする私を許さなかった。
「そのつまんねえネタはもういいから」
 いっちゃんが追求をやめる気配はない。やはり下手な嘘はバレバレだったらしい。私はつくづく衝動的で浅はかな自分に嫌気が差した。少なくともいっちゃんになにを聞きたいのか、この感情は隠しておくのか、それくらいは決めておくべきだった。
 直情的に行動して悪目立ちする羽目になり、いっちゃんにも詰問される。ここに至って恣意的に巧みな嘘を吐けるほど器用でもないのだから、観念する以外に道はない。
 私は黙ったままいっちゃんを指した。それだけで理解してくれたらしく、手を離して呆れたように頭を掻きながら窓の方を向いてしまった。

「ったく、ゾゾエは本当に……バカだなあ」
「バカだよ! だって……もう時間がないんだよ⁉ だから考えて、考えて、考えて……」
「で、なんか答えは見つかったか?」
「なにも……わからなくて……」
「そりゃそうだろ。召集命令はどんなことがあったってひっくり返らない。どんなに考えたって無駄だ」
「無駄って……じゃあなにもしないで、なにも考えないで、静かに待ってろって言うの?」
「だって、しょうがないじゃんよ……」
 そう言いながら、いっちゃんは苦しそうな表情で俯いた。
 昨日母も言っていた〝しょうがない〟という言葉は、どんな絶望もサラリと流す万能魔法だ。その一言を言えば世の理不尽もなにもかも、まさしく〝しょうがない〟のだ。
 それを〝しょうがない〟で済ませることができるようになれば、晴れて大人の仲間入り。

 人生を貫通させるほどの威力を持つ辛さ、悲しさから身を守れる、無敵の装甲板になる。
 でもそうするとあの母のように、どんな重大なこともいつか忘れてしまう。
 〝しょうがない〟から印象が薄まるのだ。そうでなければいつでも心内を辛苦が席巻し、生きるのが辛くなるから、忘却によって薄めるしかない。それこそが賢く生きる大人の処世術なのだろう。
 私はそんな大人に、まだなれそうもない。
「〝しょうがない〟は、嫌なんだ」
「嫌ったって……」
「土日まるまる考えて、わからないってことはわかったよ。いっちゃんのことも、なにもわかってなかったんだと思う。だから……知りたい。死にたいって言い続けてた意味や理由を知りたい。友達なのに目を逸らしてた私が今更言っても、って感じだけど……」
「ゾゾエ……」

 いっちゃんが顔を上げ、悲しげな眼差しをこちらに向ける。
 私は丸椅子に座ったまま、ハーフパンツの裾をぎゅっと握り締めた。
「ごめん……私、変なこと言ってるよね。だからネットで調べたいろんな人と自分を比べてみたけど、やっぱりどうしたらいいのかわからなくて、でもしょうがないで済ませちゃうのだけは、どうしても嫌で……」
 まとまらない考えを口にするうちに、知らず泣き出していた。今日は泣いてばかりだ。いい歳をして情けない。
 こうやって泣き出したくなるほど、他の人と自分の違いも、いっちゃんのこともわからない。だからこそこんなふうに惨めに泣かないよう、考えることをずっと避けていた。
 難しいことを考えなくとも、とりあえず生きていけるのなら、それでもいい――そういう生き方は、やはり間違っていたようだ。

「お前は変じゃないよ。ゾゾエはちっとも悪くない」
 いっちゃんが静かに肩を叩いた。
「僕こそ、ごめん。やっぱり黙ってりゃよかったんだ。こんなに悲しませたり、悩ませたりするくらいなら……」
「そんなこと言わないでよ。もしなにも知らないまま、急に来週いなくなってたら……私、いっちゃんの友達だったのかどうかさえ、わからなくなる」
「ああ、そっか……そうだな」
 それだけ言うと、いっちゃんは黙り込んだ。
 そのまましばらく、私が泣き止むまで待っていてくれた。ほとんど私から目を逸らさずに、でも、私を見ているふうでもなかった。なにか考え事をしているような。
 やがて二限目の終わりを告げるチャイムが聴こえて、ようやく私たちの時間が動き出した。
「授業、戻れそうか?」
「うん、もう平気。三限目が始まっちゃうね。急ごっか」

 まだ少しだけズルズルと音を立てる鼻を啜りつつ、いっちゃんの後に続いて廊下を歩いた。
「あっ、ゾゾエたちが戻ってきた!」
 教室に入るとローちゃんたちがすぐに気づいて、私の席に駆けつけてきた。
「もー、大怪我したのかってびっくりしたわ。ゾゾエ、大丈夫?」
 ローちゃんが体操服の袖を引っ張ったりしながら、私の身体をあちこち眺め回す。
「大丈夫だよ。さっきも言ったけど、あれは血じゃなくてトマトスープだからさ」
 もう何度も使った言い訳をまた繰り返しながら、私は平静を装って笑った。
「やめやめ、ローさん。いっさんが困ってるにゃ」
「そうだぞミチコ。傷病兵は丁重に扱え。それがジュネーヴ条約ってもんだ」
「なにがジュネーヴよ。こんな時までわけわかんないこと言わないでよ、中二病!」

「ローちゃん、私はほんとに大丈夫だから、そんなに心配しなくても……」
 いっちゃんはきっと私を気遣い、努めていつもどおり振る舞おうとしてくれているだけなのだが、私たちのやり取りを知らないローちゃんにはそれが伝わらない。私のせいでいつもの一戦が始まりそうになり、おろおろしていると、なっちゃんがそれを遮った。
「二人ともうるさい。弱り目の望依を挟んでなにやってんの。しょーもない戦争は昼休みだけにしてよね」
 ピシャリと言われた鋭い一言に二人とも押し黙り、ぷいと横を向いた。それに構わず、なっちゃんがプリントを差し出した。
「はいこれ、来週までの宿題だって。中山先生から預かっといた」
「あ、ありがとう」
 そのプリントを受け取ったところで、ちょうど三限目のチャイムが鳴った。

 現国担当の大島先生が入ってきて、集まっていた私たちに怒声を飛ばしてきた。
「ほらあ、いつまで騒いでんだ。さっさと席に着けっ」
 一喝されたローちゃんたちが慌てて席に戻ってゆき、そこで先生と目が合ってしまった。私だけ体操服姿なので、目に留まったのだろう。
 指されたくないと思って慌てて目を逸らしたが、大柄でのしのしと歩き、いつも仏頂面でやたらと意地が悪いことから生徒の不人気を買って〝不機嫌ゴリラ〟などと呼ばれる大島先生が、そんな私を見逃すことはなかった。
「おい、向島!」
「えっ、あっ、はいっ! な、なんですか?」
「なんですかってことはないだろう。お前、この前も今日も遅刻したそうじゃないか。来週から中間テストだっていうのに、そんなんでいいと思ってるのか?」
「は、はあ……すみません……」

 いまにも爆発しそうなほど心臓が跳ね上がり、また猛烈な吐き気が胃から遡ってくる。
 謝罪はなんの効果もなかったようで、大島先生は大きく鼻を鳴らしただけだった。
「学校をなんだと思っとるんだ、ったく……もういい。じゃ、前回の続きから読んでくれ」
 大島先生は不機嫌を隠そうともせず、手元の教科書をパンパンと手の甲で叩いて無慈悲に言い放った。ページ数を指定されず急に前回の続きからと言われて、私は恐慌に陥った。
 ひとまず立ち上がって鞄の中を探り、現国の教科書を探す。
 けれど焦る手は、たったそれだけのことがうまくできない。
「なんだ向島、授業の用意すらしとらんのか。まったく、いったいどうなっとるんだ!」
 先生の怒声に怯え、剣呑な視線を総身に感じ、焦れば焦るほどに目の前が、頭がどんどん真っ白になっていく。

「ゾゾエ、ほれっ」
 その時、前の席に座っているいっちゃんが小声で教科書を差し出しながら、とんとんと読むべきところを指差してくれた。
 それを受け取り、しどろもどろになりながら読んで、ほうほうの体で席に座った。
「ごめん、ありがと」
 まだばくばくと暴れる胸を抑えつつ、教科書を返して小声でお礼を言う。するといっちゃんはニヤリと笑って小さくピースをしてくれた。
 それがまた大島先生に見咎められて、先生の矛先がいっちゃんに向いてしまった。
「おい日ノ宮、お前も油断してると成績が下がるぞ」
「そうですかあ? でもだいじょぶだいじょーぶ、俺たちに明日はねぇからぁ!」
 いっちゃんは剽げた仕草をしながら、流行っているお笑い芸人のフレーズを真似した。
 それでクラス中がどっと沸いてしまい、収拾がつくまでしばらくかかった。

 そのフレーズで心から笑っていなかったのは、たぶん私だけだっただろう。しかしその騒ぎのおかげで私たちへの追求は有耶無耶になり、そこからは滞りなく授業が進んでいった。
 そうして三限目が終わり休み時間になったので、改めていっちゃんにお礼を言った。
「さっきはありがとね。ほんと助かったよ」
「おーけーおーけー、気にするなよ。しかし今日も相変わらずクソゴリラだったな。普通、どう見ても保健室帰りの奴をあんな槍玉に挙げるか? やっぱあのゴリラはサイコパスだ」
 いっちゃんがサイコパスゴリラの真似、と言いながらおかしな表情で大島先生を散々に貶す姿に笑っていると、ローちゃんがするすると近寄ってきた。
「ねーねー、地理の宿題のプリントさぁ、やってきた? あたし、うっかり忘れてたんだよねぇ。お願い、どっちか見せてくんない?」

 両手で拝みながら、八重歯を覗かせつつ悪戯っぽく笑ってみせる。家で勉強しない主義を標榜するローちゃんは、いつもこうして宿題を見せてくれと頼みに来る。
「へっ、こんな時ばっかりメスになりやがって。お前だけにゃ死んでも見せねえ」
「いいよ、ローちゃん。私のでよければ」
「さっすがゾゾエ、話がわかるぅ! じゃ、借りてくね!」
 しかし私がプリントを手渡そうとしたところでチャイムが鳴ってしまい、地理担当兼二年四組の担任である穂積先生が教室に入ってきてしまった。結局間に合わなかったローちゃんは小さな悲鳴を上げ、さも落ち込んだ様子ですごすごと自分の席に戻っていく。
「はい、今日は……っと、人口問題のところからでしたね。みんな、一一六ページを開いて」

 先生が黒板に『先進国の人口問題と、KA線の影響による人口移動の関係』と書いたところで、前の方に座っている女子が手を挙げた。
「せんせー、宿題のプリントはどうするんですかー?」
「あーそうそう、宿題出してましたね。みんな、ちゃんとやってきた?」
 ぐるり、先生が教室を見渡す。すると真ん中あたりに座っているローちゃんが手をこすり合わせて拝んでいるのが目に入ったのか、くすりと笑った。
「どうやらやってきてない人がいるようなので、プリントの回収は放課後にしましょうか。今日の日直は……向島さんと日ノ宮さんね。申し訳ないけどあなたたちで回収して、あとで職員室まで持ってきてくれる?」
 先生は苦笑しながらそう言った。するとローちゃんが大袈裟なガッツポーズをしながら、大声でありがとうございますと声を張り上げたので、またクラスが沸いた。

 そんな笑声の中、日直なのに遅刻してしまったことを思い出した。だから快く了承する意をいっちゃんと一緒に返しつつその背中を突き、こっそりと謝った。三限目のことといい、今日は謝ってばかりだ。実に情けない。
 いっちゃんは気にする素振りも見せず、気障な笑顔でメロイックサインを返してくれた。罪悪感が募る一方、それだけで心が軽くなって、容易く安堵させられた。
 安堵した途端、土曜日からあれこれ考え続けたせいか、それとも単に寝不足のせいか、急に睡魔が襲ってきた。
 授業中に居眠りをする勇気の不在と強い睡眠欲が拮抗し、人事不省のまま操り人形のようにノートを取り続けた。次第に穂積先生の穏やかな声音が催眠術者のそれに変わり、相変わらずエアコンが壊れたままで記録的に蒸しあがった教室に充満する酷暑の中、どんどん教科書の内容が遠のいていく。

 アメリカ南部の大規模な空白地帯が年々拡大を――特災疎開を受け入れた国では治安問題が――KA線によって著しく人口が減ったイギリスの経済基盤は危険な状態で――オーストラリアやカナダにある穀倉地帯の一部がなくなった影響で世界の食糧事情が――。
 ああ、他人事。先週まで海の向こうの出来事だと思っていたこと。
 夢見心地の身体が浮遊感に包まれていく。
 ふわふわ、ふわふわ。
 アメリカだの、オーストラリアだの、誰か見てきたことがあるのかな。教科書に載ってる衛星写真なんて、グーグルマップの画像を適当に加工したんじゃないの。
 ふわふわ、ふわふわ。
 絵空事なんじゃないのか。でも教科書も先生も、KA線は本当にあるのだと言っていて。
 ふわふわ、ふわふわ。
 みんな、こんなふわっとした話、なんで信じてるんだろう――。

「おい、おいっ」
 水の中を揺蕩っていたような身体が揺り動かされて、一気に現実へ引き戻される。
「いつまで寝てんだ。飯食おうぜ」
 突っ伏していた机から起き上がってみると、いっちゃんが肩に手をかけていた。
 四限目は終わっていて、昼休みに入っていた。
「あ……私、今日はお弁当ないんだった。ちょっと購買行ってくるね」
「そうかい。じゃ、待ってるよ」
 パンの袋を開けようとしたいっちゃんに軽く頭を下げて、鞄に突っ込んだ制服のポケットから五百円玉を取り出し、急いで購買に向かった。
 クリームパンとジュースを買って教室に戻ってみると、クラスメイトたちは相変わらず酷暑に耐えながらほとんど居残っていて、めいめいに喧騒を膨らませていた。真っ赤になってふらふら遅刻してきた私のことなんて、もうすっかり忘れている様子だった。

 みんながいつものように集まって私を待っていてくれたので、軽く謝りつつその輪に混ざる。それから揃ってお弁当を開けた時にローちゃんが切り出した話題も、私の遅刻とは無関係のことだった。
「ねえ、さっき授業でKA線の話を聞いてて思い出したんだけど、みんなはこの動画見た?」
「なになに、来クールのアニメ情報とか?」
 ハルちゃんが卵焼きをかじりながら、ローちゃんが差し出したスマホの画面を見遣った。
「じゃなくて、このユーチューバーの動画がガチでヤバイって昨日ツイッターに流れてきてたのよ」
「ユーチューバー? はん、しょうもない動画をシコシコ上げては広告料でケチな稼ぎを続けるアホどもがどうしたって?」

 いっちゃんの毒舌をまったく聴こえなかったかのように無視したローちゃんが構わず再生ボタンを押したので、ひび割れたiPhoneの五・五インチディスプレイにみんなが注目する。(いっちゃんもあれだけ言っておきながらしっかり見ている。)
『どーもー! そこそこ有名なユーチューバー《ヒロヒロ》でーっす! 自分でそこそことか言うなってね! まあまあ、そんなことは置いといてぇ……今回の動画は毎回大好評の、視聴者さんによる投稿協力型企画! 《ヒロヒロ頑張れ! 超頑張れクエスト!》です!』
「なんつーか、このユーチューバー特有のクソ寒い喋りどうにかならんのか、腹立つわー。地味顔がパリピっぽい喋りしてんのが余計に腹立つ」
「まあまあ、ユーチューバーって大体こんなもんじゃない?」

「普段は陰キャないしはキョロ充止まりのお兄さんが、必死にテンション上げて一旗揚げようとしてるんだにゃ。このいじらしさが可愛い……可愛くない? ねえ、なっさん」
「まあ、せやな」
「ちょっと、静かにして!」
 気がつくと勝手に喋り出す私たちに、ローちゃんが強く注意する。
 動画の再生バーが進むにつれ、徐々にその企画とやらの内容が説明されていく。ようは不定期に視聴者のコメントを参考にして様々なチャレンジをする企画で、時には過激なこともやらかすこのコンテンツを主軸に再生数を稼いでいるらしい。
 そんな前口上が終わったヒロヒロは、派手なテロップとともに今回のチャレンジ内容を高らかに宣言した。
『今回の企画は《ヒロヒロが行ってみた! Z地区ってほんとにあるの?》クエスト~!』

 予期していなかった『Z地区』という衝撃的な単語に、思わず変な声をあげそうになった。
 アルファベットの最後という意味と、この世の最果てという意味をかけ合わせて『指定消滅区域』を指したネットスラング『Z地区』――KA線によって浸食され、地図上で真っ白になってしまった場所のことだ。当然、日本にも何十箇所も点在している。ヒロヒロという青年はそんなZ地区のうち、自宅から最も近い所へこれから向かうと説明している。
 それまでなんの期待感も持たず漫然と見ている風だったみんなも、身を乗り出して小さなディスプレイに食いついている。
「マジで⁉ こいつ、Z地区に行くって言ったかにゃ⁉」
「これはやべえな、やべえよ。Z地区って一般人でも行けるの?」
「ちょっと飛ばしていい⁉ 見てほしいのはこの後だから! Z地区のところだから!」

「やーめやめ、ローさん! ネタバレとかギルティにゃ! ねえ、なっさん!」
「せや……うーん、でも再生時間的に休み時間ギリだし、さっさとオチ見たいかも」
「いーじゃん! ってかさっきまで超くだらねーって感じだったじゃん! なに急にアツくなってんの!」
「これはなんというおまいう。ローちゃんが真っ先にアツくなってたやないかい」
「な、なっさん……結構言うにゃ……」
 三人が動画に色めき立って盛り上がる中、私はこっそりといっちゃんに目配せをした。Z地区の動画を見せるなんて残酷だと思い、視聴をやめさせようかと考えたからだ。
 しかし視線に気づいたいっちゃんは首を横に振り、人差し指を唇に寄せる仕草をした。
 ――黙ってろ、ってこと?
 三人の様子やいっちゃんのサインを見る限り、どうやら招集命令のことをまだ誰にも教えていないようだ。

 どうしてこんな大事なことを隠そうとするのか、その真意は量りかねたものの、この場はひとまずいっちゃんに従うことを選び、なにも言わないことにした。幸いセンセーショナルな動画のおかげで、私たちが妙な動きをしたことに気づく人はいなかった。
 その間に三人が色々と言い合った結果、前半のトーク部分を飛ばして目的地近くの駅に降りたあたりから見ることになったらしい。
『えーここからはですね、Z地区の最寄りのバス停まで行って、そこからは歩いてみようと思いまーす』
 前半を飛ばした動画は、ヒロヒロがバスに乗ってどことも知れない田舎道を進むシーンに差し掛かった。道中はEKA政策やKA線に関する薄っぺらい知識を、彼以外に客のいないバスで延々と喋る様が続いた。

 やがて駅名が読めないほど錆びたバス停で降り、そこからノロノロと山中の道を歩き始める。薄い知識が尽きたらしく、いかにも行き当たりばったりといったふうにアニメやゲーム、芸能情報や最近観た映画のうろ覚えな話を脈絡なく点々として、お世辞にも面白いトークとは言い難い。加えてスマホを手に持って撮影しているようで手ブレがひどく、じっと見ていると酔ってしまいそうだった。
 そんな展開を二分ほど見せられた後、ついに目的の場所に近づいたらしく、鞄からタブレットを取り出してマップを表示する。
『えーとですね、現在僕はこのあたりに来てます。うちから最寄りのZ地区のはずだったんですが、メッチャクチャ遠いですね。超田舎。コンビニすらないとか、マジ二度と来ないわ、こんなとこ。んー、Z地区はもうすぐのはずなんですが……ん?

あ、あれっ、あれ? なんだあれ、看板? あれ看板?』
 なにかを見つけたらしいヒロヒロが走り始めた。元々ブレていた画面はさらに激しく揺れたがすぐに収まり、威圧的な赤い文字が並んだ看板を鮮明に映し出した。
『皆さん、見てください! 《指定消滅区域の為、立入禁止》と書いてあります! えーと《これより先は国際基準値を大幅に超えるKA線が発生しており、防護措置による線量緩和が困難なため、行政による生活管理業務及び施策等が停止された地域です》か……。はい、というわけで、えー、この先がマジのガチでZ地区ということになるっぽいです!』
 動画はついに問題の場面に差し掛かり、私たちの緊張はいよいよ高まっていた。

 ほんの数分前まで世界で一番くだらないものを見ているかのようだったのに、いまは固唾を呑んで画面を見つめ、息苦しくなるほど心臓が早鐘を打っていた。
 横に長い六角形の不吉な看板とともに立てられているのは、工事の時によく見かける橙と黒の縞が描かれたバリケードを並べただけの極めて簡易な境界線で、誰でも簡単に越えていけるものだった。ヒロヒロはおっかなびっくりそれを乗り越えたが、誰が駆けつけてくるでもなく、不気味なくらい容易に奥へ進んでいく。
『えー大丈夫かな。こんなクソ田舎に警察とか来るのかな? でも通報する人……いないよね。まあ誰もいないもんね。うわ、超孤独。やばいやばい。ってか、マジで監視とかしてないのかな? 監視カメラとかなかったと思うけど……誰も見てないのかな?』

 湧き立つ不安に抗い切れないのか、ヒロヒロの口数が加速度的に増えていく。答える人間が一人もいない場所だから、不安を疑問という形に変えて吐き出しているのだろう。
 懸命に自分を正当化したり、励ましたりしながら進んでいくものの、怯えのせいか画面の震えはどんどん大きくなっていく。さながらホラー番組のようなテイストだが、画面の中の時間は真っ昼間、しかも舗装されている国道か県道と思しき道路を歩いているので、お化けはおろか狐さえ出てきそうな雰囲気もない。
 にもかかわらずヒロヒロの怯えようは異様に大きく、しかしなにがそれほど彼を怖がらせているのかがわからない。ただ正体不明の恐怖は画面越しにもはっきりと伝わってきており、みんなの間にじんわりと汗ばむような嫌な空気が立ち込めていた。

 誰かが停止ボタンを押せばいいだろうに、それができない。それは単に好奇心によるものか、あるいは彼のように恐ろしいものを予感しながらも、中途半端のままでは止められなくなってしまった怖いもの見たさ――一種の呪いのせいか。
 唐突にヒロヒロが立ち止まった。
『え……⁉ えっ、えっ、えっ⁉ うわ、うわうわうわ、ヤバイヤバイヤバイ! うわっ、うわっ、うわあああああああああ――っ!』
悲鳴を上げて逃げ出し、判別がつかないほど揺れるシーンが数秒続いたが、急にカットされて自室で締めのコメントを喋るところに切り替わった。喉元過ぎればなんとやら、というものなのか、尋常でない恐怖を発散させながら遁走したとは思えないほど饒舌に喋っている。
 そのあたりでローちゃんは再生を終了した。
「どう? これ、どう思う?」

 ローちゃんはいやに真剣な顔でみんなの顔を順番に伺う。
 ハルちゃんはウインナーを齧って口をもぐもぐさせながら思案顔をしているが、どうにもピンときていない様子だった。
「んー、どうって言われてもにゃー。え、これで終わり、って感じ? 途中まで結構ドキドキしたけど。なっさん、どう?」
「せやなー。結局最後って、なんであんなにビビったの? よくわかんなかったけど」
 私もなっちゃんの言葉に賛成だったので、うんうんと頷く。
 肝心な最後の場面は、Z地区はもちろんヒロヒロの顔すら捉えられないほど乱れたため、なにがなんだかわからなかった。しかしローちゃんはなにかがあると思っているようで、興奮気味に食い下がる。
「それがわかんないからこうして見せたんじゃん!

Z地区に現れた幽霊とかUFOとか、そーゆーヤバイもんが映ってたのかなって思ってさあ……」
「いやだって、幽霊どころか怪奇現象すら起きてなかったし。大体、あれじゃほんとにあそこがZ地区だったのかどうかもわかんないにゃ。ねえ、なっさん」
「せやな。あの看板だけならお金かければ仕込めそうだしね。ユーチューバーならやりそう」
 二人が揃って懐疑的な声をあげたせいで、ローちゃんもそちらの意見に流されつつあるのか、だいぶ拍子抜けしてしまった様子だ。
「んー、そっかー……。一葉、珍しく静かだけど、あんたはどーよ?」
 ローちゃんに水を向けられたいっちゃんは、それまで神妙そのものだった表情をころりと変えて、いつものいっちゃん節をぶち上げた。
「コメント欄を見りゃわかるだろ。ヤラセ以外のなんだっつうんだ。

こんな地味顔のクソユーチューバーが仕掛けた、小遣い稼ぎのための小細工にまんまと引っかかって再生数を伸ばしてしまうとは、いやはやゴーイングマイロードさんは」
「ふーん。ゾゾエは?」
「うーん、私もよくわかんなかったかなー……」
 私も二人の意見に同調し、似たような回答を繰り返した。しかし内心ではコメント欄に散見される〝そもそもKA線自体がヤラセだ〟という言葉を心から信用したい気持ちだった。
 その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、途端にみんなも非日常から日常の中へ帰っていった。まもなく五限目の授業が始まったが、私は平和そのものの授業風景の中で、動画の内容を反芻していた。
 まさか軽率甚だしいユーチューバーなんかに、Z地区らしきものを見せてもらうとは思わなかった。

 それ自体の真偽はどうだっていい。重要なのは、KA線という胡散臭い死神の実在性を疑う人が、さっきのコメント欄に溢れていたことだ。私と同じ思いを持つ人がいる。そこに光明を見出した気がした。
 もしKA線がヤラセ――嘘っぱちだったとしたら。世間が本当のことだと信じ切っている、常識だと思っているそれがもし嘘なら、いっちゃんが死ななければいけない理由はなくなる。まさしく〝世界の真実〟というべきものを暴き出すことができれば、いっちゃんを助けることができるかもしれない。
 しかしそのためには、Z地区へ行く必要がある。教科書に書いてあるとおりの場所ならば、ほんの数十秒で命を落としてしまう場所。安易な思いつきで行くには、あまりにも危険だ。
 そこまで考えて、疑問が二つ浮かんだ。

 まず第一に、本当にヒロヒロがZ地区へ踏み込んだのなら、なぜ彼は死ななかったのか。
 こっそりスマホを取り出し、先生の目を盗んでさっきの動画を調べ、もう一度コメント欄を順番に読む。やはり私と同じ疑問を持つ人は多く、それを以て彼はZ地区に行っていない、ヤラセだと断じている人もいた。
 それより遥かに目立つのは、KA線の実在を疑う人だ。その人たちが疑心を抱く理由は、第二の疑問と同じだった。それはなぜあれほど簡単にZ地区へ行けるのか、ということだ。
 踏み入れば死ぬ危険のある場所に繋がる道を塞ぎもせず、ただ看板とバリケードが置いてあるだけなんて不自然だ。本当にKA線が存在するのなら、誰も入れないようにしなければああいう人がみだりに踏み込んで、なにかしらの事故が起こるはずだ。

 では仮に嘘だとして、なんのためにこんな嘘を世間に信じさせる必要があるのだろう?
 その答えを考えた時、先日いっちゃんが冗談めかして言っていた言葉が脳裏を駆けた。
 〝KA線は少なくとも、戦争という一番重篤な病を掻き消す、なによりの特効薬〟
 まさか、そんな子供じみた陰謀を本気で? でも実際、世界から戦争がなくなった要因としてKA線の存在が語られているのは事実だ。
 たとえばどこかの偉い人が本気で世界中の戦争をなくそうと考えて、誰もが逃げ出すほどの絶対的恐怖たるKA線をでっち上げた。その制度にリアリティを持たせるために、いっちゃんがいじめっ子体質と表現した共通悪を憎む一体感を人類に持たせるために、一人を犠牲にし続けることを選択させたとしたら――こんな陰謀論、まったく馬鹿げているが、一応の辻褄は合っているように思える。

 逸りそうな気を抑えながらマップを開き、小遣いで行けそうなZ地区を探す。しかしどんなに近くても、隣県の山奥にしかないことがわかった。急行電車一本で行けそうではあるものの、その費用は出せそうにない。
 少し落胆はしたが、それでも緊張でどきどきと心臓が跳ね回る。どうにかしてここに行きさえすれば、あるいはいっちゃんを救う手がかりが見つかるかもしれない。
 私の浅はかな考えがどこまで正しいのか、確証は持てない。そもそも私程度が思いつくようなことで〝世界の真実〟が突き崩せるのだろうか。ただユーチューバーに触発されただけの、荒唐無稽な思いつきでしかない。
 でもこういう荒唐無稽こそを超えていかなければ〝世界の真実〟なんて大それたもの、掴みようがないのでは――。

 結局、五限目も六限目も授業を上の空で聞き流し、いろんなことを考え込んでいるうちに放課後になってしまった。
 ハルちゃんとなっちゃんは新刊の漫画を買いに行くと言って先に帰り、猛スピードで私の宿題を丸写ししたローちゃんも急用があると手刀を切りつつ、素早く帰ってしまった。
「あのスイーツ脳、急用なんて絶対嘘だぜ。どうせ彼ぴっぴとデートだろ。そのためにゾゾエを利用しようとはふてえ野郎だ。いっぺんあいつには資本主義ってもんをとっくり聞かせて、世の中は無料サービスばっかりじゃねえってのを教えてやらねえと」
 夕暮れの差し込む廊下を職員室に向かって並んで歩く中、いっちゃんはシャドーボクシングのように何度も拳を突き出す。ここにはいないローちゃんを、打ちのめしているつもりなのだろうか。私は苦笑しながら、崩れかけたプリント束を抱え直した。

「まあまあ、別にいいんじゃない? これでローちゃんが幸せになれるならさ」
「お人好しだなあ。お前、どんなに困ってるって言われても、壺だの絵だのって抜かす奴の話だけは聞くなよ?」
 いっちゃんは真面目な顔をしていたが、妙な絵や壺を持ったローちゃんやハルちゃん、なっちゃん、そしていっちゃんの誰かが本当に困り顔で目の前に現れたら、と想像したら笑ってしまった。さらには四人それぞれに異なる個性で売り込まれたら、断りきれず買ってしまいかねない弱い自分にも想像が及び、怪しげなグッズに囲まれた自分の姿は余計に笑えた。
「おい、なに笑ってんだ」
「別に、なんでもないよ」
「なんだよ、言えよ。気になるだろ」
一人で忍び笑いを漏らしていたのが気に障ったのか、いっちゃんも悪戯っぽく笑いながら執拗に脇をくすぐろうとしてくる。

プリントを抱える私はかなり不利だったが、なんとか崩さずに避けきって職員室に辿り着き、無事に日直の役目を果たした。それからまたいっちゃんと横並びになって、誰もいない廊下を歩いた。
 野球部の轟かせる金属質なバッティング音や陸上部の掛け声、吹奏楽部の調子はずれなエチュードなんかが感じられる。開けられた窓がぬるい風に吹かれて、カタカタ鳴いている。
 遠い、近くの日常音。世界音。聞き慣れたこんな音が改めて好きというほど特別ではないけれど、もしいきなりシュンと消えてまったく無音になったら、今朝のように不安で居た堪れなくなるに違いない。
 耳腔に僅かだけ後を引く、聞こえているような、聴いていないような音。それは音の空気とでも言うような、あって当たり前、吸えて当たり前で、もしなくなれば死がそわりと這い寄る、満ちていて当然のもの。

 その中には相変わらずごった煮のような言葉を並べ立てる、いっちゃんの騒々しい声もある。
 昇降口を出て、駐輪場に向かういっちゃんと一旦別れた。そして校門を出たあたりで待ちながら、眼下に広がる茜色に染まった町並みをぼんやり眺める。
 私たちが暮らす西山区には、真ん中を貫くように玉緒川という曲がりくねった一級河川が流れている。区の名前が示すとおり元は山だらけだった場所なので、街全体が小高く、坂道も多い。その山々は二本の国道を通す時にかなり削られたので、いまはこの西山高校がある西山周辺の標高が一番高い。
 また近年、隣の中央区において駅ビルやオフィス街の開発が進められた影響と、数十年前に隣の県の一部がZ地区化し、特災疎開してきた人々が移り住んだ影響で、西山・中央区周辺の人口が急増した。

 そのため玉緒川より西側にあった山をさらに切り開いて、ニュータウン化した。だから区内面積の約二割は新興住宅地である。ニュータウンは中央区のベッドタウンとしての機能も期待されたため、一軒家よりマンションやアパートなど集合住宅が多い。
 また古くから町と町とを繋ぐ交通の要衝としてそれなりに栄えていた歴史から、ニュータウン化以前より川の東を縦断する南北の国道、川を横断して東西に続く国道が西山の麓で交わっている。ニュータウン造成の際にこの東西国道へ向けて直線的に道路や地区が区画されたので渋滞が少なく、車所有者にとっては住心地がいいと評判だ。
 反面、玉緒川より東側には古い町並みと旧街道がそのまま残されている。

 だから国道からちょっと脇道に入るだけで、狭い一方通行路や三叉路、五叉路などの煩雑な道が蜘蛛の巣のように巡っていて、地元民以外には非常にわかりにくい。
 数駅向こうの中央区は人も車も建物もひしめくハイセンスで現代的な街なのに、ここはそれに比べれば閑静で、いたるところがどこか暈けていて、川や風の流れる音がよく聞こえる。
 中央区と同じ市にあるとは思えない、奇妙なアンバランスさのある町だ。
「おまたせ」
 いっちゃんが自転車を引きながら戻ってきたので、私たちは並んで高校の前の坂道を下り始めた。
「こんなキツイ坂道を毎日毎日登ったり下りたりさ、無駄の極みだよな。スクールバスとか出ないもんかね」
「そりゃあればいいけど、公立だし無理でしょ。っていうか、こんなちょっとの距離じゃん」
「ちょっとだから余計に面倒なんだろ」

 坂道を下りきったら、右に曲がる。そのまま道なりにしばらく行くと、南北縦断の国道が見えてくるから、これを渡る。
 それから少し進んだ先に見える四ツ辻を左。すぐにぶつかる三叉路は右。そうして左手側に玉川神社が見えてくるこの道を真っ直ぐ行けば、東西横断の国道に繋がっている。
 車がギリギリ二台通れる程度の幅しかないこの道は、国道が通るまで南北を繋ぐ幹線だった旧街道で、昔はそこそこ賑わっていた商店街だったらしい。
 その面影はそこかしこに残っていて、店名が書かれている剥がしそびれたままの看板だとか、色褪せたポスターだとかが、ずっと閉じられたままのシャッターが居並ぶ中にぽつぽつ続いている。いまでも営業しているのは煙草屋と、駄菓子屋と、郵便局くらい。

 国道沿いを行けばこんな入り組んだ道を行く必要はないのだが、私たちはいつもこの道だった。
 飽きるほど通い慣れた、古ぼけた旧街道。割れたバケツ。夕暮れに照らされて佇むくたびれた街灯。使われなくなって風化しかけている三輪車。どこかから響いてくる楽しげな小学生たちの声。無造作に生えているコスモスやヨメナ。からからから、今日はいっちゃんの自転車だけが鳴らす空転。
 私たちは歩きながら、いつものにように他愛もないことを喋り続けた。
 いっちゃんが昨日ネットの掲示板で戦ったニートと思われる男の話。また消費税が上がりそうな話。新作アニメが不作続きで面白くない話。国会で居眠りしていた間抜けな議員の話。ゲームのボスがいつもあと一撃というところで倒せない話。世界の話。神様の話。

 朝、あれほど鮮明だった恐怖をまったく感じない。世界が急に優しくなったかのような安心がちゃんとあって、迷いもせず、気遅れることもなく、足を地面に着けていられる。
 ああ、これなのだ。いっちゃんがいてくれることで、ようやく日常が私の目の前に現れる。
 どうしてか満たされない気持ちを抱えて、話しても話しても次から次に話題が繋がって、少しでも同じ時間を過ごしたいと思ってしまう我儘を、お互いに我儘とも思わず過ごす幸福。いっちゃんのいる世界は活き活きと煌めいて、こんなにも簡単だ。
 古びた商店街を抜けると、東西横断の国道に出る。右手に進めば玉緒川を渡る、玉川橋という大きな鉄橋が見えてくる。そこを渡ってまた右に曲がれば、今朝トマトスープをぶち撒けた堤防沿いの道だ。

 恐ろしさに追われるあまり吐くまで走ったこの道も、いっちゃんさえいてくれたらなんのことはない。
 そう、いっちゃんさえ、いてくれたら――。
 いなくなった後のことは、なるべく考えないようにして歩く。
 そこらに差しかかったあたりで、急に会話が途切れた。
 いっちゃんの視線が心持ち落ち着かない。奇妙な沈黙に心音が少しずつ上がっていく。
 土手道の真ん中でなんの前触れもなく、いっちゃんが立ち止まった。歩調を合わせて歩いていた私は、すれ違うようにいっちゃんを三歩ほど追い抜いてしまった。
 振り返ると、自転車のハンドルをきつく握ったまま、地面を睨みつけるように俯いていた。
「あのさ」
 そう言ったきり、いっちゃんは黙り込んだ。
 胸を締め上げられるような沈黙の間に流れる風と水音。玉川橋を行き交う車のエンジン音。

 妙な緊張に割り込むように、間延びしきった町内放送が流れ始める。
『こちらは――西山区広報です――只今より――五分後――〝てんくう〟による――防護措置が――実施されます――区内上空が――照射範囲に――設定されました――照射より十分前後――携帯電話の周波数帯に――乱れが生じることがあります――通話やネット回線使用の際は――ご注意ください――』
 遠くから響く機械的な女性の声が、うわんうわんと夕空に反響する。南の方向を見遣ると朱色の中に黒々として不吉な砲台が、こちらに向かってゆっくりと旋回していた。
 それからしばらくしてようやく、いっちゃんの一言が零れ落ちた。
「保健室で……お前が言ってたことだけどさ」

 俯いたまま、消え入りそうなほど掠れた声で呟くいっちゃんの姿は、先週の金曜日に召集令状を取り出そうとして、そうすることを迷いに迷っていた時と重なって見えた。高まり続ける心音が一段跳ね上がるのを自覚しながら、ゆっくりと言葉の続きを待った。
 しかし言葉は途切れてしまったまま、繋がらない。そんないっちゃんを嘲笑うかのように二度目の町内放送が繰り返され、私たちに覆い被さってきた。
 小さく口を開いたり、唇を噛み締めたりしているから、なにかを言いたいのだろうということは伝わってくる。私は離れた三歩を詰めて、いっちゃんの横に立った。どんなに小さな一言も聞き漏らしたくなかった。
 川面を渡るぬるい風に打ち鳴る葦原の、ざわざわという音が周囲を満たす。
 暮合の輝きが川面に乱反射して、きらきらと美しいスペクトルを描く。

 その風景の中で拳を握り締めて口を結ぶいっちゃんは、いつもよりずっと小さく弱々しくなってしまったように見えた。
 どうしよう、どうしたらいい。焦燥がちりちりと胸の内を焼く。
 こんな時、私ならいっちゃんにどうしてもらえたら、なんて言ってもらえたら勇気を――そうだ、そう考えたら。
 臆病で決断力に劣る自分を基準にしたって、どうせなにも思いつかない。ならいっちゃんに言われて嬉しかったこと、してもらって助かったことを思い出してみよう。
 その時、今朝方ベッドで浮かべていた煩悶が脳裏をちらと掠めた。羞恥と自己嫌悪。私のようなクズが友達面をする薄ら寒さ。こんな人間に誰かの心へ踏み込む資格があるのか。
 いや――その資格とやらがあるとして、それはいつ私に宿る?
「大丈夫」
 そう、大丈夫。自分といっちゃんに、その言葉を言い聞かせる。

 逃げている場合ではない。目を逸らしている場合ではない。もう明日や明後日の自分になんとかしてもらう状況ではないのだ。いちいち(こぞ)る気怖じに構っていられない。
 騒ぎ出す逃走本能と臆病を必死に押さえつけ、緊張でにわかに痛み出した喉頭を左手でぐっと押し殺し、普段なら決して踏めない選択という名の勇気を、強く踏み込む。
「私は、ちゃんと聴いてるよ」
 精一杯の心を込めて言い、固い拳の上にそっと右の手のひらを重ねた。
 この言葉が優しいものなのか、この行動が本当に勇気を出すきっかけになるものなのか、はたまた、いっちゃんに対してもそうなのか、それはわからない。自信がない。どきどきと心臓が跳ねる。やはり間違っているんじゃないのか。もっと他にいい言葉があるのでは――。

 石ころを詰め込まれたような喉の痛みに負けそうになり、挫けかけた時、やっといっちゃんが顔を上げてくれた。それはいまにも泣きそうで、それでもひどく淡く、些細な衝撃で壊れてしまいそうなほど薄く、笑っていた。
「なんていうか……なんだろうな。どっから話し始めたものやら、と思ってさ……」
 その笑顔は先週の金曜日、告白をしてきた時と同じ顔だった。駄目な自分を、その場を誤魔化そうとする、呪いのような嘲笑い。
 はっきりしない、断定しない、直視しない。そんな曖昧さを、私のようなグズが抱くそれを、いっちゃんもまた抱えている姿を目の当たりにしているようで、悲しくなった。
「それならさ、訊いてもいい?」
 私の問いかけに、いっちゃんは浅く頷いた。
「この前の金曜日に言ってた言葉を思い出して、今朝までずっと考えてたんだけど……

いっちゃんが最近死にたいって言ってたのって、それは言葉の綾っていうか、ほんとはそうじゃなくて……ずっと、消えたいって思ってたんじゃないの? 招集命令のことをみんなに隠すのも、黙って消えちゃうためじゃないの?」
 決死の覚悟で、正解かどうかもわからない答えに踏み込む。
 まるで的はずれなことを言っていたら、触れてほしくないことに触れていたとしたらどうしよう。でも口から出してしまった言葉を、今更飲み込むことはできない。
 臆病で崩れそうになる足へ懸命に力を込め、いっちゃんの答えを待った。
 少しの間の後、いっちゃんは頬を掻きながら、乾いた笑いを漏らした。
「そっか……やっぱゾゾエにはわかっちゃったか」
 その肯定は、今日までいっちゃんが見せてきた言動の意味を理解させるものだった。また私の考えが正しいということでもあった。

 中二病でカモフラージュして言い続けた滅亡の言葉。一緒に下校した後、どう過ごしても最後にはふいと消えてしまう行動。そうしてこの世から自分をもぎ取ろうとする絶縁と消失の欲求。それが誰にも知られなかったとしたら、闇から闇へ、存在が消えてしまうのに。
 そんな消えてしまうための真意なんて、理解したくなかった。
「どうして……? そんなの、わからないよ……。全然、わからない。消えたいだなんて、誰にも自分のことを覚えててもらいたくないってこと? そんなの、怖くないの? 悲しくないの?」
「だからゾゾエには教えたじゃないか」
「それはっ、そうだけど……じゃあローちゃんたちは? どうしてみんなには教えないの?」
 そこでまた、いっちゃんは押し黙ってしまった。
 次はどんな恐ろしい真実が飛び出すのかと思うと、逃げたくて堪らない。

 でも、それを聞くと決めた。いっちゃんがどんな思いを持っているのか、どうしてこんなに追い込まれてしまっているのかを知るために。
 ひっくり返りそうなほど緊迫する鼓動に痛みを感じながら、いっちゃんの言葉を待つ。
「うまく、言えないけど……よくわかってない奴に、妙な同情をされたくないんだ」
 やっと答えたいっちゃんは眉根を寄せながら唇を少し噛み、肩を震わせる。
 そうして千切れそうな言葉を、懸命に紡ぐ。
「召集命令のことを知ったら、僕のことを知らない連中は、これから死ぬことを同情するかもしれないだろ? それがどうしても嫌なんだ。僕の人生は……これから死ぬことが決まったから辛かったんじゃない。そんな軽々しい理由でずっと消えたかったわけじゃない。令状なんかが届くもっと前から、ずっと、ずっと……消えたかった。

安い同情なんかで、僕の人生の辛かったことを全部召集命令にすげ替えられるなんて、絶対に嫌なんだ」
 言葉にしてもらってようやく明瞭になる、複雑な思い。
 確かにいっちゃんが希死念慮を抱いていたことに、召集命令は関係ない。深い事情を知らないローちゃんたちにこのことを知らせても、召集命令を受けたからこその絶望なのかと誤解しかねないだろう。
 そして今日この日まで苦しんできた理由を、どこから話し始めればいいのかわからない。そもそも、積極的に話したいことでもない。だから内緒にせざるを得ない、ということか。
「それに……僕がこれから死ぬ、なんて話をして、あいつらがどんなリアクションをすんのかって考えたらさ、怖くて堪らないんだ」
 いつも真っ直ぐに前を見据える目が、地面ばかり這っている。

 情けなく、弱々しく、孤独なその姿は、あまりにも痛々しかった。
「もし微妙な顔でもされたらどうする? 一生懸命ゆるい励ましのコメントでも考えだしたりしたら? そう考えたら……なにも言えなくなった。僕の苦しさをわかってもらえるかわからない相手には……怖くて、なにも言えなかったんだ」
 怖い。いっちゃんが、怖がっている。その言葉を聞くまで、私はそんな感情をいっちゃんも持ち合わせることを、ぽっかりと失念していた。
 私の中のいっちゃんはずっと頭がよくて、運動神経がよくて、可愛くて、優しくて、電波で、毒舌家で、短気で、自分勝手で、楽しい、超越的な人だった。
 自分のいいところも悪いところもすべてをわかった上で、妙ちきりんな思考と言動を以って日々の退屈を鮮やかに彩ることのできる人。

 人が最も恐れるべき二つの怪物――世間体と退屈を容赦なく思い通りの色に塗り潰す強さを持っている。そんないっちゃんがなにかを恐れるなんて、露ほども考えたことはなかった。
 しかし実際、いっちゃんとて私と同じ、高校二年生の少女だ。趣味嗜好に違いがあるだけの、ちっぽけな存在なのだ。
 どんなに世間体を壊し、退屈を塗り潰そうとも、日々なにかに痛み、苦しみ、怖れる。無敵の超人なんかでは、断じてないのだ。至極当たり前のことに今更気づかされて、同時にいっちゃんの怖れを痛いほど理解した。
 毎日顔を合わせている人々。母親。先生。クラスメイト。ローちゃん。ハルちゃん。なっちゃん。目をつぶってさえ顔が浮かんでくるほど、知りに知り尽くした人々。

 でもそれはあくまで外面だけだ。みんな到底預かり知らない心内のどこかに、魔物や狂信を飼い慣らしているのかもしれない。あるいは清廉な泉のように純粋だけが満ち満ちているのかもしれない。そんなことは、どうやったってわかるはずがない。
 だから自分のことを理解してもらうには、まず自分のことを説明する必要がある。しかしそうしたからと言って、必ずしも理解を得られるとは限らず、その上〝正しい〟――自分が期待する理解が得られるとも限らない。
 語彙の拙さか、弁舌の下手か、あるいは――心の有り様の違いのせい。誰かとすれ違うことへの臆病が、発言の勇気を奪う。そうして怖じけると突き当たりには恐怖の根源、すなわち下手な真似をして嫌われたくないという究極に行き着く。

 かくなればもうおしまいだ。どうにもならない。私の場合は背を丸め、顔色を伺い、同調と保留を使いこなす狡猾さを育てることしかできなかった。
 これはひどく生き辛い。本来望んでいる方向とは逆へ逆へと進んでしまう。理想や願望からどんどん遠ざかっていくのに、それを自分で止められなくなる。本当は幸せに向かって行きたいのに、そうすることはきっと簡単なはずなのに、抗うことのできない引力に引かれてしまうようになる。
 いっちゃんの人生が消えたくなるほど辛い所以は複雑に()り合わさっていて、これはその内のひとつにすぎないのだろうが、これなら私でもわかってあげられる。
 私は重ねた手の上に、もう一方の手も重ねた。
「嫌なこと訊いて、ごめん。誰かにわかってもらえないかもしれないって気持ちは……それだけは、わかる」

「ゾゾエ……」
「それでも聞かせてほしいんだ。消えたくなった理由を、全部。いますぐにはわかってあげられなくても、わかるようになるまで何度も何度も考えるから。だからお願い、教えてよ。このまま一人でなにもかも抱えたままなんて……いっちゃんが辛いままなんて、嫌だよ」
 これはいっちゃんに勇気を振り絞ることを強いる願いだ。言い損になるかもしれないことを言わなければならない残酷だ。
 それでも、私は知りたい。
 毅然の欠片もない、迷いと憂いで揺れる瞳。触れた手からも心の声が伝わってくる。
 どうしよう、どうしよう。些細なことですぐに狼狽える私の口癖と同じもの。答えが出せないことへの焦りによるもの。
 地を這っていた視線が、やっと私と結び合った。
「……わかった。この際だ、全部ぶち撒けちまおう。

もうこんな機会も……ないだろうしな」
 もうこんな機会はない――寂しい物言いだった。
 いっちゃんは土手の下のほうを指した。
「降りようぜ、あそこ。久々に、我らが秘密基地にさ」
 秘密基地。それは名ばかりで、周囲から隠れているわけでもなければダンボールの壁さえない、土手へ降りる階段の最下段のことだ。
 いっちゃんのお兄さんがいた頃、毎日のようにこの河川敷に集まって三人で鬼ごっこしたり、ポコペンしたり、宇宙人を探したりしていた。そうして疲れると決まってそこに並んで座って、ぼんやりと玉緒川や夕日を眺めた。
 しかしお兄さんがいなくなってしまった頃からは、やはり一人足りない感覚がどうにも空々しくてなんとなく寄り付かなくなり、やがて秘密基地ではなくなった。

 階段脇のスロープを利用して自転車と共に降り、並んでそこへ腰掛けた。そこから見る夕日と玉緒川は懐かしく、それでいてやはりどこか空虚な感じがした。
 座ってからしばらく、いっちゃんはなにも言わなかった。
 蒸した草と、土と、少しどぶ臭い川の匂いに満たされながら、その横顔をじっと見つめる。
 言葉を、話の端緒を選んでいるのか、頭を掻いたり、しきりに喉を動かしたり、それでも視線はずっと遠くを見たままだ。対岸で散歩をしているおじさんがいるけれど、きっとあれを視ているわけじゃない。
 どこに思いを馳せているのか不明なまま、いっちゃんはようやく話し始めた。
「昔さ、兄ちゃん、いたじゃん」
「うん、そうだね」
「まあ、いなくなっちゃったけど」
 言いながら、踵でざりざりと地面を削る。その仕草を見て思い出した。

 いっちゃんが座っているところはいつもお兄さんが座っていた場所で、こうして意味もなく地面を削っていた。
 いっちゃんのお兄さんは少し歳が離れていて、私たちが遊んでもらっていた頃にはすでに高校生だった。倍近くも背が違っていたのに優しい笑顔が印象的で、鬼ごっこでもポコペンでもよく負けてくれていた。それが子供心にとても大人びて感じられていた。
 そんな優しいお兄さんは、私たちが中学に上がった頃、忽然といなくなってしまった。
 その時、書き置きのような、メモのような、くしゃくしゃになったチラシの端っこが、居間のテーブルの上に投げ出されていたらしい。殴り書かれていた最後の言葉は『こんなくそみてーないえ にどとかえってくるか』だった。
 たった二十文字になにもかもを詰め込んで、お兄さんはいなくなった。

 この手紙をきっかけに、いっちゃんの口癖に〝クソみたい〟が加わった。
 なんで全部ひらがなだったのか。なにが〝くそ〟だったのか。柔和だったお兄さんが、どうしてそんな激しい言葉を吐いたのか。暗号じみていて、ひどく抽象的で、人が消えるにはあまりに寒々しくて、本当の意味は一切、誰にもわからなかった――。
「っていう、ふりをしてたんだ、あいつらは」
「ふり、って……?」
「メモの〝くそみてー〟の意味がわからなかったのは、僕だけだったんだ。ジジイもババアも兄ちゃんがなんで出てったのか、知ってるはずだった。なのに警察呼んで大騒ぎして、怒鳴ったり泣いてみせたりしてたんだ。たぶん世間体のためにさ。あいつらは、あいつらだけは……全部知ってたはずなのに」
 初めて聞く話だった。いっちゃんが憎々しげに顔を歪ませる。怖い顔だ。

「実は出てってから一週間くらい後になって、僕の携帯にメールが届いたんだ。兄ちゃんのアドレスで、すげー長いのが。携帯は置いてってたから、たぶんネカフェとかから送ったんだと思う。それを読んでやっとメモの意味がわかったんだ」
 いっちゃんはスマホを取り出し、メールボックスを開いて、一通の削除防止ロックのかかったメールを見せた。
 それによると、事の発端は出て行く前日のこと。
 お兄さんは当時ここの最寄り駅から五駅離れたところにある大学に通っていたが、その日は教授が体調を崩してしまい、半日で帰ってよいことになった。
 急な休講だったので遊ぶ友達も捕まらず、特に用事もなかったお兄さんは家に直帰した。
 そこでお兄さんは玄関に見知らぬ男物の靴があること、そしてリビングから聞き慣れない女の嬌声が上がるのを聴いた。

 回数を重ねて油断したのか、はたまた経験によって驕りが生まれたのか。
 いっちゃんのお母さんはよりにもよって自宅で浮気相手とまぐわう愚を犯し、間の悪いことにお兄さんはそこへ鉢合わせてしまったのだ。
 そのままリビングへと上がり込んでいく勇気は湧かなかった。ショックと混乱が大きかったお兄さんは扉を叩きつけるようにして踵を返し、夕飯の時間まで帰らなかった。
 その夜、何事もなかったかのように夕飯を並べるお母さんと、珍しく早く帰宅したお父さんが同席し、久しぶりに家族揃っての食事を摂った。
「僕、嬉しかったんだよ。久しぶりにみんな揃ったなって思ってさ。ジジイはいつもと変わんない仏頂面だったけど、ババアがなんか上機嫌っぽくて、よく笑って、喋って……兄ちゃんだって笑いながら冗談カマしてた。ほんとに楽しかったんだよ、久しぶりにさ」

 その翌日――お兄さんはくしゃくしゃのメモを一枚残し、家を出た。長いメールの前半は、そういうあらましが書かれていた。
 続く後半に、お父さんの浮気についてはその前から気づいていたこと、玄関を飛び出す時、叩きつけるようにして扉を閉めたので、いっちゃんのお母さんは間違いなく誰かにその淫行を気づかれたのを知っているはずだということ、なのに平然と振る舞う姿を見て、とても耐えられなかったこと、それまでお母さんだけはと思って信用しようとしていたが、決定的に裏切られて人間不信に陥ったこと、それゆえに両親がなにを思い、なにを考えているのかまったく理解できず、恐怖し、信じられなくなり、家を飛び出したと綴られていた。
「そのメールのちょっと後に、僕の携帯に一回だけ公衆電話からかかってきたんだ」

 いっちゃんが電話を取ると、相手はやはりお兄さんだった。
 ひどく憔悴しきっていて、ほどなくして泣き出したらしい。
「一葉ごめんな、弱虫な兄ちゃんでごめんなって、何度も何度も謝るんだ。どう答えたらいいのか、なんで謝ってるのかもわからなかった。僕もわけわかんなくなって、ぐしゃぐしゃに泣きながら、とにかく何度も帰ってきてくれって頼んだ。兄ちゃんから真相を知らされて、僕もあいつらを信用できなくなって、もう家族は、僕にとっての家族は……兄ちゃんしかいないと思ったから。でも兄ちゃんは帰るとは言わず、ただあいつらを信じるなって言った。いまの俺は全然冷静じゃない、だから人間不信なのもそのせいかもしれない。でもあいつらだけは本当にどうしようもないクソ嘘吐きだから、信じるなって」

 そしてお兄さんは最後にこう言った。
 必ず迎えに行くから、そこから必ず救い出してみせるから、と。
 しかしその言葉が本当になることは、なかった。
「あれから五年も経つけど迎えになんて来ないし、僕に召集令状が届いたことをメールで何度送っても、なんの返事もなかった。いまどこでなにしてるのか、全然わからない」
 あまりにも凄絶な話に、胸の左に寄ったあたりがぎちぎちと軋んだ。吐き気を伴う緊張と恐怖が内側から刺して、残夏が漂う気温に相反するように手足が冷えてくる。
 他人の心に無尽の闇を感じる私には、お兄さんが感じたであろう混乱や不信がどれほど計り知れない恐怖だったのか想像できる。最も信頼すべき家族がそんな闇を宿していると悟った時、談笑しながらご飯を食べていたりしたら、同じように逃げ出していたかもしれない。

 それでも私は、お兄さんが許せなかった。
 必ず救うとまで約束して、こんなに追い詰められても最後まで信じようとしたいっちゃんを裏切り、呆気なく消えたまま、たった一言すらもないなんて。
「勝手な奴ばっかりだ。普段は法律を振り回して正義の代弁者ヅラで離婚訴訟の弁護を引き受ける立場の奴も、息子がいなくなったのに平気な奴も、約束を破って消えた奴も、きっとハッピーに暮らしてやがる。狂気の沙汰だ。どいつもこいつもあっさり僕を忘れやがって。あいつらにとっちゃ浮気相手や自分のほうが大事なんだ」
 急にいっちゃんが立ち上がった。そして自分の中に決まりきった答えを踏みしめるように、一歩、一歩と、強い足取りで歩み出す。
「だからクソみたいに……僕も消えてやろうと思った。

なんでこんな連中にずっと傷つけられ続けなきゃいけないんだって思ったから。人を人とも思わない、誰かを傷つけたってなんとも思わないクソ人間どもが、他にもうじゃうじゃいる。だからこんな世界、KA線なんか湧いてこなくたって滅ぶに決まってるし、勝手に滅べばいい。でもそんな奴らに、世界に負けたって認めるのが悔しくて死ねなかった。どうせ死んだってあいつらは毛ほども傷つかない。僕が消えるように世界ができてるなんて、認めたくなかった。悪いのはあいつらだ」
 物事にはべったりとした一色じゃなくて、重なりあった曖昧な灰色の部分がたくさんある。
 そんな灰色に白と黒を塗りつけるのは、勇気と決断の差。私に足りないもの。
 いっちゃんだって最初から家族を嫌っていたわけじゃない。

 灰色だった部分が少しずつ黒く染まっていったのだ。家族という形を失った家に帰るたび、少しずつ、少しずつ。
 やがていっちゃんは、苦しみからの決別を選ぶようになった。
 それこそが消失への願望、希死念慮の正体――〝消えたい〟という思いだったのだ。
「なあ、僕はクソ中二病で散々電波なことを言いまくってて、家にもろくに帰らない親不孝者って思ってただろ? でもゾゾエ、これだけはわかっておいてほしい。そうやってはっちゃけてなきゃ、耐えられなかったんだ。勝手に家族をやめてくあいつらがいる家以外に帰る場所もなくて……とても、耐えられなかったんだ」
 川向こうへ渡る視線、いっちゃんの細い背にのしかかる寂寞に夕陽が差し込んでねじれる。ゆるゆると揺れて、私の頬を伝い落ちていく。

 同じなのだ。ふわふわとしている。私とは別の理由で現実から遊離していて、行き場がない。決定的に違うのは死にたいという気持ちの性質だ。
 私もまた、死にたいと思いながら生きてきた。他人と私との間に広がる心の距離はいつでも断崖絶壁に隔てられていて、向こうとこちらの差がわからない。そんな千尋の底からなんの前触れもなく無形の闇が現れては、絶え間ない恐怖と痛みを与える。
 母親。先生。クラスメイト。ローちゃん。ハルちゃん。なっちゃん。慣れ親しんだ誰かのふとした所作に、何気ない一言に、あるいはなんらかの動きがなくてさえ、驚き、恥じ、責められ、動揺し、困惑し、動転し、そこらを叫びながら転げ回りたくなるほど恐ろしくなる。

 むしろ慣れ親しんでいるからこそ、その心の奥底の窺い知れない領域に、得体の知れないなにかが潜んでいるのではないかと思ってしまう。被害妄想と頭ではわかっていても、そうでなかった時を怖じる気持ちが上回ってしまう。
 そんな厄介な性分と本能的な死の恐怖で矛盾する私を支えていたのは、いっちゃんが隣にいてくれる安心だ。
 もう死んでしまいたい。死んでしまうかもしれない。でも明日になれば、いっちゃんがいつもの交差点で待っていてくれる。そう思うから生きてこられたし、あえて死を口にすることもなかった。
 ただこれもはっきりと自覚しているが、私の死にたさの根源はどこまでいっても臆病こそが正体で、現実に暗い影を落とし続けているこの怪物にまったく実態はない。母親もいるし、友達もいるし、帰る家もある。

 傍目には、そして社会的には、なにひとつ問題がない。
 いっちゃんはまるっきり逆だ。現実を異様なほど面白がるふりをしなければ耐えられないほどの苦痛を与える家族が実在していて、唯一心を許していたお兄さんも行方知れずのまま。
 信じるべきものがわからず、行くあても帰る場所もなく、現実のなにもかもが仇なしていく中で寂しさと絶望に心を磨り減らして、それでも五年もの間、必死で抵抗していた。
 そこへ合法的に死を実現する召集令状が舞い込んだのなら。
「いっちゃんが私にだけ召集命令のことを教えてくれた理由も、召集命令のことをラッキーって言ってた理由も……やっとわかった。頼れる人が誰もいなくて、信じられる人もいなくて……生きたいって気持ちと、死にたいって気持ちに挟まれて、とっくに疲れ果てちゃってたんだ。

そんないっちゃんをわかってあげられる人が、他に、誰も……」
 こんなに――こんなにも悲しく、苦しいことが他にあるだろうか。
 あまりの凄惨さに絶望し、あまりに無頓着な自分に悔恨して、涙が溢れて止まらなかった。
 近くにいたつもりで、こんなにもぐちゃぐちゃになっていたことに、まるで気づいてあげられなかった。
 生きるための希望を捨てさせられて、死ぬ理由さえ暈したまま、消え入るように死んでいく。最も残酷で、あまりに空虚な死に方を選んでしまうほど救われず、自己満足と自己完結だけで収束する一生涯。
 そんな逆境で苦しみ、考え抜いた末、ついにいっちゃんが辿り着いたのは〝大人〟になることなどではなく――諦観の境地だったのだ。

 振り向いたいっちゃんは激しい怒りを表情に浮かべ、それでもどこか縋るような気色を瞳に滲ませながら、深く頷いた。
「そう、誰も……。僕を裏切らないと思えたのは、もうゾゾエしか……いなかったんだ」
 その言葉を聞いた瞬間、矢も盾もたまらなくなり、夕闇の寂寥へ消えてしまいそうないっちゃんに遮二無二しがみついた。
「ごめん……! ごめんね、気づいてあげられなくって……。こんないっちゃんに寄っかかってばっかりで、なにもしてあげられなくて、バカで……私しかいなかったのに、本当に、本当に、ごめん……っ!」
 せぐりあげる喉が声にならず、言葉が何度も涙と鼻水に詰まって、上手く謝れない。
 私こそ、いっちゃんを傷つけた残忍な人間のうちの一人だ。

 恐れと、臆病と、現実逃避。そんなもので自分の心ばかりを守って、一番大切な人の心を理解できなかった。その愚かしさに腹が立ち、こんなに傷ついた人が横にいなければ道を歩くことさえままならないほど弱い自分を忸怩して、それでも――後悔は先に立たない。
 そんな私をいっちゃんは優しく抱き留め、頭を撫でながら嘯いた。
「いいんだ、僕だってこうなるような気がして……ゾゾエを悲しませるような気がして、言い出せなかった。これは本当に最後の手段というか……お前を頼るのは万策が尽きた時にしようと思ってたからさ」
「最後の手段って……?」
「やれることはやり尽くそうと思って、悪あがきにこの半年、あいつらに色々言ってみたり、兄ちゃんにメールしたりさ。でも全然駄目だった。一位以外の言葉なんて意味ないんだよ。

その一位の席がとっくに取られてるんじゃ、あいつらがどんな生き方してたって、それがどんなに間違ってるって思ったって……僕にはどうしようもなかったんだ」
 いっちゃんは最後まで諦めなかったのだ。
 どうにか自分の生きた証を刻もうと、懸命に努力した。
 しかしそれさえも叶わず、報いるための一矢は外れていった。
 その絶望がどれほど深いものだったか、理解しようとしても余りある。
 いっちゃんの声から、私を撫でる手から、抱き留める腕から、次第に力が失われていく。
「人間、自分が知ってる人物には内心で全員、順位をつけてあるだろ? その中で一位に陣取ってる奴だけが意味のある言葉を言えるんだ。それ以外の、二位以下の言葉は、全部聞き流せる程度の、都合のいいBGMだ。耳触りのいい言葉だけを選って聞くもんだ。

一位ってのは、たとえ明日隕石が落っこちてくることになっても……一緒にいる相手だろ?」
 一位ということは、誰よりも大切ということ。
 明日隕石が落っこちてくる――世界が滅ぶことになるとして、誰と一緒に過ごすか。一位とはまさしく、そういう人間を指すのだろう。
「僕は、家族の中の、誰の一位にも……なれなかった」
 いっちゃんの声が、途切れ途切れになって潤んでいく。しがみついた私の腕の中で、消えていこうとしている。どうにかしてあげたいと心から願ったが、どうしてあげたらいいのか、まるでわからない。
 いまこの場において、私のところに来て欲しいなどと無責任なことをほざくべきか否か。
 あるいは、私の一位はいっちゃんであると、出鱈目のようにほざいてしまうべきか否か。

 隕石で頭の天辺から燃えてなくなりたいと願ういっちゃんには、相応の理由がある。口先だけでその絶望を少しでも和らげることは可能なのか。
 なにか言わなくちゃ。なにか言ってあげなくちゃ。気持ちがせっつく。咳をする。
「いっちゃん」
 私はいっちゃんを離して涙を拭い、真正面に立った。
 寂寞に揺れる瞳。悲愴と夕暮れに染まった顔。
 このままでいいわけがない。でもどうする。
 場当たり的に呼んだ名前。先のない言葉。どうすればいい。
 わからない。正しいことなんて、なにもわからないけれど。
「私は――」
 私には、この世に滅んで欲しいと願うその理由も。
 いっちゃんの人生が、消えたくなるほど面倒なことも。
 なにひとつ、どうにもしてあげられないけれど。
「私は、いっちゃんの友達だよ。隕石落ちてもさ」

 家が燃えても。学校が砕けても。空が燻されても。地殻が割れても。海が蒸発しても。
 たとえば目の前でそうやって、世界がうっかり終わっちゃっても。
「もし隕石で全部ぶっ飛んでも、いっちゃんの隣にいられるなら……」
 そんな時でさえ、いっちゃんが中二病のまま、世界なんてくだらないって笑ってくれるのなら。そんなふうに、いつでも、いつまでも、いっちゃんが変わらないでいてくれるのなら。
「私は他に、なにもいらない」
 とにかく、いまの私に言えるすべて。
 いっちゃんは虚を突かれたような表情をして、ぷいと向こうを向いた。
 柔い風が川辺の葦原を撫ぜて、ざわざわと音を立てる。
 ざわつく戸惑い。私の感じる焦りと同じもの。風が止めばなくなる音。焦りは消えない。

 あの葦のようにしっかりと根を張って、次の風までただ待っている。焦燥がじくじくとひりついて、無能な私を責め立てる。
 なにひとつどうにもならないのなら、せめてなにかひとつでもしてあげられたら。
 時間がない。あと数日しか一緒にいられない。
 なにをしてあげられる? なにをしたらいい?
 いっちゃんの人生が、こんなにも痛ましいままで終わってはいけない。
 なにかひとつでも、楽しいことがないといけない。
 楽しいことがないのなら――つまらないことを、面白がってやらないといけない。
 いっちゃんの見つけた〝中二病〟という処世術なら、こんな時どうする。
「そうだ! 隕石が落ちてきて地球がダメになるなら、宇宙に行けばいいんだ。これ、なかなか名案じゃない?」
 普段の私なら決して言うことはない、バカバカしい提案だ。脈絡がなく、意味もない。

 しかし手元にこの鬱屈とした現実を吹き飛ばす術が、他にない。
「宇宙か……。いいな、名案だ。もしこの辺から宇宙の果てまで行ける船が出るなら、乗り込もう。そんで、何万光年でも旅をしよう」
 いっちゃんの雰囲気が少しだけ、和らいだ。
 それを絶やしたくなくて、矢継ぎ早に問いかける。
「旅して、どーする?」
「そうだな……。お空には散っていった偉大なる先人たちがおわすんだろう? だったらそいつらにインタビューして回ろう。きっとどいつもこいつもキチガイばっかだぜ。空前絶後のトンチキな回答がどんなもんか、胸が踊り狂ってしかたねえ」
「よおし、わかった!」
 私はいっちゃんの自転車のハンドルを引っ掴み、サドルに跨った。
「乗りなよ、お嬢さん!」
 私の唐突な奇行に、いっちゃんは口を開けてぽかんとしている。

「いきなりどうした。盗んだバイクで走り出したいの? そういう反社会的な行為に耽りたい年頃なの?」
「そうだよ! そしてこれは、宇宙の果てまでぶっ飛ぶサイコーの宇宙船! 発着は銀河歴で一時間に一本、地球時間換算では百五十三年に一度の超絶レアな定期便だよ!」
「百五十三年に一度ってなに⁉ すげー中途半端! 気持ち悪っ!」
「細かいことはどうだっていい、乗らなきゃ次は一時間後だよ⁉」
「そいつは……大損だなっ!」
 いっちゃんはにわかに明るい顔になってぴょんぴょんとはしゃぎ、大喜びで荷台に飛び乗ってきた。
 背後に心地よい重みを乗せた私は足に力を込め、ぎこちなく自転車を走らせた。
 ふらふら、ふらふら。重たいペダルを懸命に踏み込む。自転車は揺れて、いまにも倒れそうになりながら、もたもたと走る。

「お嬢さん、まずはどこ行く?」
「とりあえず月だ! 月面にあるっつーウサギのモチ工場を社会見学する! ブラックな労働環境になってないかどうか、監査しに行く!」
「それから⁉」
「次はヴァルハラだ! とりま信長に会って本能寺でどういうポーズでくたばったか訊く! 松永弾正が茶釜にニトロを詰め込んだ時の心境も訊きたいしな!」
「からの⁉」
「からーのー、えーっと、えーっと……やっぱ王道を往ってヒトラーもいっとくか! ドン引きするくらい扇情的な衆愚の煽り方を教えてもらう! そしたらどこでレスバトルしても常勝無敗の最強だ! キング牧師でもいいし、チェ・ゲバラでもいいな! あとオバマ!」
「オバマまだ死んでねえー!」
「とにかくアメリカだ! サンフランシスコを駆け上がってベガスまで頼む!」

「よっしゃ任されようっ! しっかり掴まってて。亜光速ドライブ!」
「うわ遅ええええー! 亜光速なのに風景が止まって見える! ねえ亜光速なの? これ亜光速なの?」
「エンジンがJKなんでね! 目の前に甘い物かイケメンでもぶら下げてくださいよっ!」
「即物的で大変よろしい! じゃあ銀河系の向こうまでどこまでもスイーツ巡りと洒落込もう、一緒にっ!」
 私たちは、てんで勝手にわーわー騒いだ。私たちはまさに、バカそのものだった。
 けれどバカな言動を周囲の目も憚らず垂れ流して、汗びっしょりになって自転車を転がし、がしゃがしゃと駆けていくのは最高に気持ちよかった。
 私はまた泣きかけていた。それをぐっと堪えながらバカなことを叫び、自転車を漕いだ。

 私たちは、あとどれくらいの時間、こんなバカがやれるのだろう。
 本当なら、あとどれくらいの時間、こんなバカがやれたのだろう。
 いっちゃんの声も、だんだんと歪んできている。首筋に垂れてきた水滴は汗なのか、それとも涙なのか、背中越しではわからなかった。
 無駄な抵抗だ。ここで泣くのを我慢したところで、なにひとつ現実は変わらない。
 それでも私たちは、示し合ったかのように涙に抵抗していた。そうすれば本当に、宇宙の彼方まで飛んでいけるとでも錯覚しているように。
 いつだってそうだ。私たちは二人して同じ幻想に迷い込む。そういう日常が好きだった。
 どんなにくだらない妄想でもいい。突拍子もない空想でもいい。私たちは二人して現実に足を着地し続けられるほど強くなかった。だからそういう逃避が必要だった。

 そしていつも迷った。逃避の中では当然、人生の生き方にも、人との関わり方にも答えは出せなかったから。いつまでも堂々巡りしてしまう、二人ぼっちの安く、甘く、軽い絶望。
 そんな絶望が大好きだった。たとえそれが絶望だとしても、それこそが私たちの繋がり方だった。建前だけの美辞麗句より、固くて確かな繋がり方だった。
 しかしいつだって妄想上の絶望でしかなかった不特定多数への不条理は、ついにその身にKA線という大いなる絶望を纏い、現実へと顕現した。
 もう時間がない。なのにどうすることもできない。どうしていいかさえ、わからない。
 ああ、教えてください先生。努力をすればいつか報われるって言いましたよね。頑張ればいつか結果は出せるって言いましたよね。

 なら、いまからどんなことをどれほど頑張れば、いっちゃんは助かるのでしょう。
 あるいは今日までどんな努力を重ねていたら、いっちゃんは助かったのでしょう。
 嘘ばっかりだ。なにをどれだけ頑張ったって、KA線がなにかもを奪って台無しにする。
 そんな世界でどうしてみんなは平然と生きて、なにかの目標に向かって走っていけるのか、心底理解できない。
 私は骨組みのしっかりとした、丈夫な将来が欲しいのだ。シロアリがいつの間にか土台を食い散らかし、建物の基礎が揺るぐように、いつしか私の時間軸の基礎もKA線に蝕まれて、人生という大きな柱はボッキリ折れてしまう。その確率は限りなく低いのだろう。
 けれどその確率にいっちゃんは当たってしまった。たとえ0.00何%の確率であっても、嘘や空想、他人事ではないことが証明されたのだ。

 平穏な毎日がクソだとか、昨日と変わらない今日、繰り返される平々凡々な毎日が退屈だとか、そういうナナメな若者思考は全然肌に合わない。平和が一番。安穏がなにより。昨日と変わらない今日を続けて、何事もなく穏やかに死ねるなら、こんなに幸せなことはない。
 けれど何事もない人生なんて、それこそ異常事態でしかない。他人がいて、自分がいて、世界があって、そこに生まれて、誰かと関わって生きていく以上、何事もないだなんてあり得ないわけで。
 それともこの絶望を内包したまま、なお走っていけるほどみんな強いのか。
 それが世間から求められる〝普通〟なのか。
 そんなの、RPGで世界を救う勇者並みの強さじゃないか。
 私はそんなに強くなれない。
 それを標準的に備えていないといけないのなら、私はとても――生きていけない。

 ひとしきり河川敷を駆け回って、飽きて、疲れて、私たちはとぼとぼと家路に着いた。
 楽しい時間は、切なくなるほどあっという間。人の夢と書いて儚いと読む。ああ、これは夢なんじゃないのか。
 ついに中二病を発症してしまった私は、それを唯一の寄す処とするしかない頭は、不思議なほどくだらないことを次々と思いついていく。
 私は、ぽつりと呟いた。
「旅とか、行きたいね。ほんとにどっか……行っちゃいたいね」
 夕日に照らされるいっちゃんの横顔が、少し笑った。
「いいな、それ。ほんとに、行っちゃう?」
 私より重症な中二病患者のいっちゃんは、にやにやしながら言う。
 無理なことだ。たとえ現実を振り切ろうとしたところで、そう簡単に振り切れるものなら、私たちはこんなに悲しい気持ちになっていまい。

 旅。漠然とした願望だ。そうするために必要なのは、なにはともあれお金。私の貯金なんてお年玉の残りが幾ばくかと、財布に入っている小遣いくらいしかない。どこへ行く、ということを考える気にもならないほど、どんな用にも足りやしない。
「行きたいよ。……行けないけどさ」
「行けるよ、今週の金曜まで待ってくれたら」
「金曜? どうして?」
「秘策がある。金曜になったら、僕は『魔法』が使えるようになるからさ」
 いっちゃんは悪戯っぽい笑みのまま嘯く。
 金曜。秘策。魔法。いかにも危ない計画のようで、まるで幼稚でいて、ときめいてしまう。
 残された僅かな時間をただ待つことに使うほど、それは魅力的な策謀なんだろうか。
「ガチだぜ。本気なら、期待してくれていい」
 楽しげな自信満々の顔が、橙色に上気する。

 いっちゃんに期待してくれていいなんて言われたら、否が応にも気持ちが昂ぶってしまう。
「わかった。金曜だね」
 週末に予定された、とっておきの秘策。それがどんなものであれ、私はどこまでもいっちゃんに付き従うことを心の内に決めた。
 二人だけの秘密を共有して、多少の甘酸っぱさみたいなものを感じる。そうしてお互いにふふふと笑い合いながら、またね、といつもの交差点で別れた。

 それから何事もなかったかのように平穏な一週間が過ぎ去り、あっという間に金曜日――十月二日が訪れた。
 みんなにとってはまだまだ日中は暑いのに、せっかく直った教室のクーラーが『十月に入ったため使用禁止』というバカらしいルールに辟易するだけの日だったかもしれないが、私にとっては〝秘策〟がついに発動する日だった。

 秋という季節を無視して未だに居残る暑さは下校時刻になっても衰えず、蒸した教室には誰も残っていなくて、ブレザーを放り出した私たちだけになっていた。
「さあいっちゃん、教えてよ。秘策ってなんなの?」
「よくぞ訊いてくれた。ガチの秘策ここにあり。昨日の夕方に届いたこいつを見よ」
 ででん、と効果音を口で言いながら鞄から取り出したのは、一枚のカードとマッチ箱くらいの白い端末だった。カードにはいっちゃんの顔写真がプリントされていて、学生証や免許証にも似ているが、禍々しく銘打たれた『特配券』という文字が異様な雰囲気を放っている。
 一方、端末はモバイルバッテリーのようにのっぺりとしたボディに赤いランプがひとつ灯っているだけで、なにに使うものなのか検討もつかなかった。
「これ、なに?」

「このカードがいわゆる『スーパーパスポート』ってやつだ。知らない?」
「うん。これがなにに使えるの?」
「なんでもだ。電車、バス、船、飛行機、コンビニ、飯屋、宿屋、他にもあれこれ。政府が提携してるところなら、なにしてもタダ! 応召日までに帰ってこれるなら、監視員付きだけど海外だって行ける。しかも同伴者三人まで有効だ。うちは戸籍上、四人家族だから」
「それってつまり……どこへでも行けるってこと?」
「そうだ。飛行機だぜ、飛行機! あのどちゃくそ高えAKAジェットにだって乗れる!」
 いっちゃんは上気した顔で息巻いた。今の御時世、防護措置による電波障害がいつどこで起きてもおかしくないため、航空機はKA線発生前のように自由には飛べない。

 なので〝AKAジェット〟と呼ばれる特殊な防護加工を施された旅客機だけが市民の翼なのだが、これの運賃は目玉が飛び出るほど高い。それさえも叶うなら、どこへでも行けるという言葉に偽りはないだろう。ならば月曜日に思いついた馬鹿げた考え――隣県の山奥にあるZ地区に行くことも容易いはずだ。
 これさえあれば〝世界の真実〟を掴みに行くことができる。
 私は得意げに差し出されたカードを受け取って、食い入るように見つめた。
「すごい……本当に魔法のカードじゃん」
「と思うじゃん? 残念ながら、世の中そんなに甘くないんだぜ」
 そう言ったいっちゃんは少し肩を落としながら、小さな冊子を差し出した。
 表紙はいかにも役所が作ったことがわかる面白みのないデザインに、ダサいポップ体で『特配券を発行された日からのすごしかた』と書かれていた。

 ペラペラとページを捲ってみると、まず特配券とは『政府提携施設特別配給券』の略称であること、応召日の一週間前が有効期限の開始日であると定められていることが書かれていた。それから開始日の午前零時から国民の三大義務を解かれること、応召日までは犯罪に係ることでない限りなにをしていてもよく、そのために必要な費用は特配券――スーパーパスポートを活用することですべて賄われると記されている。
 ただし、その使用には制限もある。正式名称が示すとおり、政府が提携しているところでしか使えない。使用時には同時に支給されるGPS端末――この白い端末も持っていないといけない。スーパーパスポートを使う施設の座標と端末が発信する座標が一致してないと、使えない仕組みになっているのだ。

 他には事故によって応召者に危険が及ばないように、自家用車などで自宅より三キロ以遠に連れ出すことはできない、旅行などで長距離を移動する際は公共交通機関を利用し、可能な限り安全な選択によって行動しなければならない、スーパーパスポートは応召者本人が応召日までに処分が可能な物品や目的に使用するものとし、他人に資するための使用はできないなど、ずらずらと禁則事項が続く。
 そして最後に、スーパーパスポートによって衣食住はもちろん、あらゆる遊興が無償で提供される代わりに、当人が所有する一切の財産が凍結されると書いてあった。
 つまり自分の口座からお金を引き出せないし、仮に超お金持ちでプライベートジェットやクルーザーなどを所有していたとしても、その使用は禁止だ。

(ちなみに凍結された財産は没収されるわけではないので、通常の手続きで譲渡や売買、相続ができる)
 これらの制限に触れた時やカードの不正利用が発覚した時、GPS端末を破壊して意図的に信号を認識できないようにさせた時などは当局によって直ちに拘束され、応召日まで収容施設で過ごすことになる。
 あくまでもスーパーパスポートが使用できる範囲内での自由。
 どこまで行けたって、これでは――。
「――まるで鳥籠みたいじゃん、こんなの」
 思わず溢れた一言に、いっちゃんが拍手する。
「相変わらずキレの良い詩的センスだ。そう、全財産を取り上げられた上にGPSで居場所は筒抜け。位置情報が同期できなきゃただのプラスチックでしかないもんを一枚持たされて、自由もクソもない。ゾゾエの言う通り、僕はもう鳥籠の中ってわけ。

まあ万が一にも『弾丸』に逃げられちゃ困るからこうなんだろうな。かといって仮にもお国のために命を捧げさせる奴をいきなり拘束するわけにもいかねえ。これがソシャゲでいうところの〝詫び石〟的なもんでさ、政府の最大限の譲歩ってとこなんじゃないか」
「確かにこれは……ちっとも甘くないね」
 冊子には『特配券による決済に限度額はありません』という文言がいやらしいほど強調されていた。確かにこれさえあれば無限の財産を手にしたようなものかもしれない。
 しかしいっちゃんがかつて言っていたように、なにかを引き換えにしなければなにもできないのが世の摂理というもの。魔法を使うならMPを、世界を救うなら生贄を、無限の財産を手にするなら――寿命を引き換えにするだけのこと。魔法のカードでもなんでもない。

 心臓に嫌な痛みが走る。このカードで決済することは、いっちゃんの命で決済するということだ。こんな手を使ってまで半丁博打に出るべきなのか。
「監視なんかされるのは癪だし、クソどもと思い出旅行なんぞまっぴらだったから捨ててやろうかと思ってたけど、そんなことしたら拘束されるし、使えるだけ使わないと損だ。ゾゾエ、明日は暇?」
「そりゃ暇だけど……こんなのを使ってどこかに行くつもりなの?」
 私の逡巡など露ほども知らない当人は、そんな暗澹(あんたん)たる事実を気にする素振りさえ見せず、いつもとまるで変わらない調子だ。
「使えるだけ使わないと損だって言ったろ? さて、どこに行こうかね」
 いっちゃんはチョークを持ち、楽しげに次々と候補地を黒板に書いていった。

 熱海、東京、北海道、沖縄、中国、韓国、北朝鮮、ラバウル、アメリカ、ドイツ、イラク、ソマリア、ヨハネスブルグ、シリア、スーダン、イエメン、月、火星、金星、土星……。
「うーん、ロケットも乗れんのかな。NASAとかJAXAとか行ってさ、このパスポートが目に入らぬか! ってさ」
 ふざけ半分で水戸黄門の真似をしながらけらけら笑っている。どうやら本当にスーパーパスポートを使うことへの躊躇いはないらしい。
 ならば――この提案をしてみる価値はある。
「あのさ、ちょっと聴いてほしいことがあるんだけど」
「お、どうした。なんか面白いとこでも思いついたか?」
 おちゃらけた笑顔のまま渡されたチョークを受け取り、真剣な顔でいっちゃんを見る。するとすぐにその笑顔は消え、困惑したような表情が浮かんだ。

 そんないっちゃんの横で、土星の下に単語をひとつ書き加える。
 Z地区。
「お前……」
 いっちゃんが目を丸くする。私もいざその単語を目にすると、少しだけ震えた。
 妄想にも等しい馬鹿げた思いつきに賭けるなんて、ナンセンスかもしれない。
 それでも、たった一分でも可能性があるのなら、いま行きたい場所は他にない。
 私はチョークを置いて月曜の授業中に考えたことや疑問についてすべて話した。その間、いっちゃんは視線を逸らすことなく、黙って聴いてくれた。
「ほんとに……ほんとなのかなって。KA線なんて、ほんとにあるのかなって。いっちゃんが先週、召集命令のことを教えてくれた時からずっと……ううん、それよりもずっと前から気になっててさ。こんな陰謀論、馬鹿げてるってわかってるけど、でも……」

 しかしそれを目の当たりにした時、私たちはどうなってしまうのだろう。
 たとえ嘘だったとして、こんなにも大きな歯車として実際に動いている社会の仕組みそのものを糾弾する力が、私にあるだろうか。いっちゃんを救うためとはいえ、社会と戦い続けるための力が湧いてくるのだろうか。日常にさえ怯えてしまうほど弱いのに。
 そしてもし、本当だったら。いっちゃんの死はどうしても揺るがすことのできないものと知ってしまったら。世界はやはり、ゆるゆる滅びつつあると実感してしまったら。私たちはどうなってしまうのだろう。
 しかしいっちゃんは不敵な笑みを浮かべ、指をぱちんと鳴らした。
「……いや、面白え。そうだな、それこそまさに〝世界の真実〟ってやつに違いない。確かめてみよう。ネットや大人どもが真実だって騒ぐ、モンスターの正体を」

 いっちゃんはZ地区という文字をピンクのチョークで大きく囲んだ。
「で、どこのZ地区? 国内? 海外?」
「私たちが生まれる前か後かくらいにさ、隣の県の山奥がZ地区になったらしいじゃん」
「あー、その特災疎開のせいでこの辺の人口が一気に増えたって話の?」
「そう、そこがいいと思う。なんていうか……一番現実感があるっていうか。急行一本で行けるみたいだし」
「ふふっ、わざわざスーパーパスポートで行くようなとこでもないな、隣の県なんて。でもまあ、ゾゾエの言うとおりだな」
「そうでもないよ。マップで見ても結構山奥だし、意外と時間もお金もかかるんだよ」
「そっか。じゃ、決まりだな。明日そこに行こう。でもそれだけじゃ地味だよな。他にどっか行くとこないかな?」

 言いながらいっちゃんはスマホを取り出し、うきうきとルートを調べ始めた。まるで休みに旅行へ行く人のようだ。私もそれに習って調べ始めたが、どうも危険地帯に行く意識が欠落している気がしてならない。死にに行くようなものというか、行かなくてもいいような危険な滝や崖、ジャングルに行くようなものなのに、どきどきして、少し怖くて、でも確かに期待があって、とにかく見たいという好奇心ばかりが逸る。我ながらお気楽なものだ。
 そんなことを考えながらにやついていたら、スマホを高速でフリックする指を急に止めたいっちゃんが呟いた。
「っていうかさ、いまから行く?」
「えっ、いまから?」
「なんかさ、常日頃の癖っていうか、つい休みに合わせて行動しようとしちゃったけどさ、そんな必要あるか?

半分、人間やめちゃったようなもんだろ。僕は人間じゃなくて『弾丸』なんだからさ」
 たぶん悪気はなかったのだろう。それでもいつものブラックジョークのノリで自分の命を軽々しく表現するいっちゃんに抗議の意味を込め、慨然とした視線を送った。すると少しだけばつの悪そうな顔をして、前髪の辺りを弄んだ。
「あー……いや、悪い、冗談。いまのナシ。ゾゾエは家の都合とかあるしな。明日行くって話をしなきゃいけないし……行けるとは限らないよな」
 家の都合という言葉にどきりとして、ふと考えた。この先の一生、いつまで、どんなことまで、母に伺いを立てなければいけないのだろう。
 別に反抗心とか、独立心とか、そういった若々しい厚かましさがあるわけではない。怖くなったのだ。私は、私という人間の選択と確立は、具体的にはいつ頃に整うのだろう。

 たとえば、いまみたいに。いよいよ人生最後で、万感を、真実と納得を、そして少しでも――思い出を思い出にするためのたった二日ばかりの時間を勝手に選択し決定することは、反抗的なことなのだろうか。それは許されざることなのだろうか。
 だってもしかすると本当に、いっちゃんとはこれっきりになるかもしれないわけで。
 そう考えたら言葉が自然と口から溢れていた。
「行こっか、いまから」
「や、無理しなくても……」
「ううん、行きたい。なんか、行かなきゃいけない気がするから」
「……マジか」
 いっちゃんが私の顔を覗き込む。視線と視線が合う。少しの間、そのまま見つめ合った。
 これまでの人生、決意というものと実に縁遠く過ごしてきた。

 なすがまま流されるがまま、周りがそうだと言えばそうなのかという気になって、いかにもな説教を聴けばやはりそうだったのかと思い直して、駄目だと言われればどんなに大きな違和感があっても駄目だという考えに変わって、ころころころころ、なにひとつ自分で決めたことなんてない。是非を問うたことがない。是非はいつも請うてきた。
 いつだって足りなかった決然。でも今日だけは、いまばかりは、選ぶということをしたい。
 酔狂で言ったわけではないことが伝わったのか、いっちゃんは小悪魔っぽくにっと笑って、
「よし、行こう。行っちゃおう」
 その一言で、もう全部が決まってしまった。
 二人して鞄の中身を全部ロッカーに突っ込んで、自転車に飛び乗って坂道を駆け下りた。勢いのまま最寄りの駅で電車に乗り、中央駅で降りた。

 夕方の駅ビルはいろんな種類の人々でごった返していた。買い物客らしい女の人や帰宅途中らしいサラリーマンに紛れ、隣接のデパートに入った。
 スーパーパスポートの威力は絶大で、まずは地下でお菓子にジュース、それから階層を上がって下着をひととおり買い揃えたが、どこでもお金は必要なかった。カードを少し見せるだけでみんなハッとしたような表情を浮かべて、黙って袋に詰めてくれた。
 調子に乗ったいっちゃんは、さらに洋服売り場へ行こうと誘ってきた。
「旅行に行こうってのに、このカッコじゃ気分が出ねえよ。好きな服に着替えちゃおうぜ」
 そう言って洋服のフロアに着くなりひょいひょいと複数のショップを渡り歩いて、薄手のGジャン、白のTシャツ、赤のミモレスカート、英字のロゴが入った黒のキャップを買い、更衣室であっという間に着替えてしまった。

 私は必要な物を買い揃えるまでにも多少以上の罪悪感があったので、しばらくなにも選べずにまごついていたが、
「制服のままウロついてたらお巡りに目をつけられるかもしれねえ。偽装工作も必要だ」
 という言葉に圧されて、仕方なく黒地に白ドット柄の膝丈キャミワンピだけ買ってもらった。それが自分に似合うのかはわからなかったが、制服のブラウスに合わせられそうな無難な服が他に思いつかなかった。
「なんだよ、いくらでも選び放題なのに無欲だなあ。アクセとかしないの?」
「や、これで十分だよ。やっぱり気が引けちゃうっていうかさ……」
「ま、ゾゾエがそれでいいって言うならいいけど。さあ、電車に乗っちまおうぜ」
 そうして制服と急ごしらえの旅支度が詰まった鞄を背負い、駅の改札もスルリと抜けて、本当に隣県へ向かう急行に乗ってしまった。

 ボックスシートに並んで座り、買ったばかりの冷えたジュースのペットボトルをしみじみと眺めていると、電車はいよいよ動き出した。
 現実とは、日常とは、こんなにも簡単にぶち壊してしまえる。
 スーパーパスポートがなかったとして、ここまでに必要だったお金は少しばかり贅沢を控えればいつだって工面できる程度のものだ。たったそれだけの条件で私たちは誰にも断らず、縛られず、思いつきのまま、こんなに自由に振る舞えたのだ。それを決めるために話し合った時間だって、正味で数えれば数十分がせいぜいだ。
 時間と、お金。気が遠くなるほど強く日常を締め付けていると思われた条件は、こんなにも呆気ないものだったのだ。
「なんか、すげーよな。なにがすげーのか、わかんないけど」
 いっちゃんが早々と開けたポッキーをポリポリさせながら、満足げに言った。

 揺れる電車の中、私服姿の私たち。
 よもやこれからZ地区へ旅行に行くとは、誰が思うだろうか。
「私たち、どういう人に見えるんだろうね」
「さてね。ま、うちに帰るJKかJDとかじゃね?」
「そうだ、泊まるとこどうする?」
「あー、確かに。まあ、どこでもいいよな」
 いっちゃんはスマホをさくさくと操作し、旅行サイトで見つけた旅館に電話をかけた。
 いつもの中二病や電波発言の一切を封印して、スマートに予約を取る姿に舌を巻く。
「よし、予約おっけー。飯も出るってさ」
「そーゆーの、慣れてるの?」
「別に。なんで?」
「ううん、なんか……大人だなって思って」
「大人、ねぇ……」

 スマホをポケットに収めたいっちゃんは、すとんと背中をシートに預け直したかと思うと、急に私の右肩にしなだれかかってきた。いつも毅然としていて、なにかと相克しているいっちゃんらしくない、甘えた様子だ。
「たぶん、僕に一番似合わない言葉だと思うけど」
 どういう考えがあるのか、その言葉からは読み取れなかった。ただ、私は自分でも気がつかないほど自然に、いっちゃんの頭を撫でていた。
古い学園ドラマでこんなシーンを見たことがある。なんだか、まるで愛の逃避行でもしているかのような。でも私たちは恋人同士でもなければ、行き先は楽園でも未来でもなく、地獄か、この世の果てか。
 どんでんどんでんと揺れる電車のリズムに合わせて、いっちゃんの頭が揺れる。

 僅かずつ変動する肩の重みが、妙に心地よくて、変にドキドキして、薄れていた現実感をよりいっそう遠ざけていく。
 いっちゃんは流れ行く車窓の景色をぼんやり眺めながら、ぽつりと漏らした。
「別に、将来の夢とかもないし。大人ってのは、将来のことを考えないと駄目だろ。後先がないままじゃさ、いま死んだって、五十年後に死んだって、一緒じゃん」
「将来の夢がないと、生きてちゃ駄目なの? そんなの、私だってないよ」
「ゾゾエは追ってた夢がなくなっちゃっただけじゃん。高跳びすごかったのに、怪我しちゃって……泣くほど悔しい思いしてさ。なにも考えてない僕とは違うよ」
 不意な言葉にずくりと胸が痛んで、反射的に撫でていた手を引っ込めた。
 みんなを騙し続けていた中学時代の私。

 やりたくもない陸上部で望まない期待を背負い裏切った、あの夏の苦い思いがまざまざと蘇る。
「あれは……夢でもなんでもないよ。ただやらされてただけ。やりたくないって気持ちを正直に出せなかっただけだよ」
「なら、怪我をした時……どう思った?」
 肩に載ったいっちゃんの頭が僅かに動き、上目がちに私を見た。
 にわかに熱が身体を駆け巡り、顔を火照らせる。
「それは……」
 熱っぽい恥が唇に絡まり、言葉を詰まらせる。
 あの日の欺瞞は解かれることなく、二年以上経ったいまでもそのままで、勝手に消えたりしない。額にぐらりと伸し掛かるような熱い罪悪感が押し寄せてくる。そしてまた、いつもの〝どうしよう〟が脳内を席巻しかけた。
 違う――どうしようじゃない、どうしたい?
 ずっと消えないままの嘘を、このままにしておきたくない。

 本当のことを知ってほしい。そして、謝りたい。
 そうだ、謝らなくちゃ。
「あの頃、いっちゃんもみんなも、ずっと騙してたんだ。本当は、本当は……誰かに期待されたり、応援されたりすることが苦しくて、でもみんなをがっかりさせたくなくて、やめたいのにやめたいって言えなかった。あのジャンプに失敗して倒れた瞬間、ああ、もう頑張んなくていいやって思った。そうしたらなんだか安心して泣いちゃっただけで……全然悔しくなんてなかったんだ。勘違いさせて、ごめん」
「確かにずっと嫌だ嫌だって言ってたもんな。ゾゾエは本当に……陸上部、嫌だったんだ」
「うん……。つくづく情けない話だよね。このくらいのこと、すぐに言えればよかったのに。

とにかくあれは努力とか夢とかじゃなくて、ただみんなをがっかりさせるのが……いっちゃんをがっかりさせるのが怖かっただけなんだ。だから、本当に……ごめんなさい」
「そっか……」
 気の抜けたような返事が、窒息するほど寒々しく感じた。
 脳が溶けそうなほど頭は熱いのに、指先が氷のように冷え切っていく。荒れ狂う恐慌に耐えきれず、自然と身体が震えだす。
 私の人生とは、ただこの一瞬を恐れるだけの時間でしかない。
 死にたい。比喩でもなんでもなく、いますぐ蒸発して消えてしまいたい。
「なら、僕も謝る。ごめん、ゾゾエ」
 いっちゃんの手が、私の手を包み込むように優しく握った。
「え、あ、謝るって……?」
「ゾゾエが重荷に感じてるってのを知りもしないで、無責任に焚きつけてただろ。

僕はただ、学校が離れ離れになるのが嫌なのかなってくらいにしか考えてなくて……ほら、近所だからいつだって会えるじゃん? 大会で活躍するとこも見たかったし、なにより跳んでるところがほんとにカッコいいなって思ってただけで……そんなに辛かったなんて思ってなかったんだ。だから、ごめん」
 いっちゃんの言葉を聞いて、私はまた嘘を吐こうとしていたことに気がついた。
 なにかの折衝、なにかのすれ違い、なにかの願望に対して素直に受け止める力があったなら、謝ることも、反論することも、なにより許容してもらうこともできたはずだ。
 だから〝謝りたい〟なんて殊勝な考えは嘘に違いなくて、本当の願いは〝許されたい〟だったのだ。
 避けることと逃げることが芯から身についてしまっているから、またしても無意識に嘘を重ねようとしていた。

 二年前から私は心底、なにも変わっていない。
「いっちゃんが謝ることなんてないよ。私が悪かっただけなんだ。いつも嘘ばかり吐いちゃう。だから他人の考えも……自分の考えすら、よくわからなくなっちゃうんだ……」
 さっきまでは〝どうしよう〟の嵐から脱却できた自分を、少しだけ見直したような気がしていた。しかしその僅かな前進さえ誤った方向だったのだから、これ以上の馬鹿話もない。
「嘘だなんて大袈裟な。真面目過ぎるんだよ、ゾゾエは。だいたいあの時の連中だって、ノリとか雰囲気とかで応援してただけかもしれないぜ。二年も前のことなんかどうせ忘れてるよ。お前だってそうすりゃいいさ」
 その言葉を聞いた途端、身体中の重圧がすとんと消えた。
 忘れてしまえばいい。なんて気持ちのいい断絶だろう。

 過去は不変のものとして延々と未来に繋がっていて、消すことも変えることもできないから、あの時の失敗を、その時のしくじりを、恥を、恐怖を、いつだって今日に伝えていて、思い出すたびに一歩も動けなくなるほどお腹が痛くなる。その恐ろしき記憶の持続性、連続性は、他人にもあるのだと固く信じていた。
 そうか、他の人は完全とは言わないまでも、忘却と断絶を巧みに操って昨日と今日を分断し、面白くないことは水に流してしまうものなのか。どうせ忘れている。自分の失態も、他人の失態も、なにもかも。
 いっちゃんの言葉がじんわりと心に染み渡る。衝動的に旅へ出てしまったことと、かの夏の苦味で冷え切り、遠のいていた感覚が春風のように舞い戻ってくる。

 ずっと残り続けていたあの夏の残骸は、差し込んできた綺麗な西日の中にふわりと溶けていった。その呆気なさに、思わず笑ってしまった。
「なんか、おっかし」
「なにが?」
「私の人生って、ほんとバカみたいだなって」
「そうかい。でも、いいじゃん。全人類、どうせバカばっかりだぜ」
 この程度の勇気がありとあらゆる場面で出ずに、ずっと生き辛い思いを抱えてきた。それは決して軽いものではなく、この先の人生に対してずっとこらえていけるものなのか、自信を持てたことがなかった。
 しかし思いもよらず、それを克服するきっかけを掴んでしまった。息が詰まるほど恐ろしかった人間関係の機微に、いまなら少しだけ、一歩を踏み出せるような気がするのに。
 このまま日常に帰れるなら、いままでより少しはきっと、明るく生きていける。

 でも、もはや分水嶺は遠く過ぎ去ってしまった。日常というレールは急行のスピードに乗って、どんどん遠ざかっている最中だ。
 いましも列車はカーブに差し掛かり、西日がより強く差し込んでくる。黄金色に染められていく車窓の向こうにごみごみとした街並みが小さく映り、その真中には黒々と聳える砲台がボールペンのような細さで見えた。世界を救う英雄であり、いっちゃんを殺す魔物の正体とは、如何なりや。
 次第にボールペンのような砲台も、影絵のような街並みも車窓の向こうに霞みゆき、風景はどんどんのどかな田園風景に変わっていった。乗客も時たま停まる度に降りて、空っぽになっていった。目的地の三つ手前の停車駅に着く頃には誰もいなくなって、私といっちゃんだけになった。

 列車がレールを踏みつける音以外になにもない空間へ徐々に夜闇が入り込んできて、電灯が自動的に灯った。真っ暗なままでいいのに、と思った。宵に沈み始めた景色はもう闇ばかりで、明るい車内からはなにも見えない。
 そうして終着駅とひとつ手前の停車駅の間にある八つもの駅を飛ばして、急行列車はゆるゆると辿り着いた。
 山間にある終着駅はまだ夜の八時過ぎなのに人影はなく、まばらに見える商店などもほとんど明かりが点いていない。申し訳程度にある小さなロータリーには鈴虫の声が響いていて、駅がなければほとんど真っ暗な場所だった。
「ミスったなー、まさかこんなにド田舎とは。タクシーもバスも、なんもないな」
 駅前に辛うじて立っている錆びたバス停の時刻表を見ると昼間でも一、二時間に一本しか走っておらず、終発は二時間も前に終わっていた。

「まさか旅館ってここからかなり遠い感じ?」
「適当に旅行サイトの一番上に出たとこに予約しちゃったからな……ちょっと待って」
 いっちゃんは件の旅館をスマホで調べ始めた。バスもタクシーも人影もないのに4G回線はちゃんと届いているのだから日本という国はえらいものだ、とどうでもいいことを考えていると、調べ終わったいっちゃんから歩いて二十分程度の距離であると告げられた。
「歩けない距離じゃなくてよかった。せっかく宿を抑えたのに野宿とか、洒落にならんよな」
「めっちゃ自然豊かなとこだよね。鹿とか熊とか出そうじゃない?」
「鹿はともかく熊はヤバいな。スーパーパスポートでショットガンって買えるのかな?」
 虫の大合唱を聴きながら、私たちは暗い田舎道をてくてく歩いた。

 幅の狭い道路に面してひなびた商店がぽつぽつと並ぶ様は、いつも帰り道に通る高校近くの旧街道に少しだけ似ていた。たぶん、この辺りがこの町のメインストリートなのだろう。湿った土の香りが混ざった空気はひんやりしていて心地よく、歩きやすかった。
 途中、赤塗の橋を渡っていると、夜闇の中にぽつんと明かりが見えた。
「あれが旅館だ。いやあ、遭難した人の気持ちがわかるな。文明の光って素晴らしい」
「街灯はちょこちょこ点いてたし、マップの案内どおりに歩いたんだから迷ってないじゃん」
「気分だよ、気分」
 いっちゃんが予約してくれた旅館は想像よりかなり立派で、古めかしい大きな和風の建物だった。門をくぐると灯籠や松の木、小さな池などが暗がりにうっすら見えて、上品な雰囲気に満ちている。

 予定より遅れて到着した私たちを迎えてくれた女将さんに歩いてきたことを告げると、少しだけ目を丸くしたが、嫌な顔ひとつせず荷物を持ち、フロントに案内してくれた。
「お電話いただければ、迎えの者を差し上げましたのに。大荷物で駅から夜道を歩かれて、大変でしたでしょう」
「ありゃー、ちっとも思いつきませんでした。旅慣れてないもんで」
 談笑しながらつつがなくチェックインを済ませるいっちゃんの横で、縮こまってそのやり取りに眼をきょろきょろさせていると、スーパーパスポートを受け取った女将さんの表情が少しだけ曇った。それはデパートのレジで見た人々の表情と似ているような、しかしどこか違って感ぜられた。その意味を計りかねてどぎまぎしているうちにまたにこやかな顔に戻り、慣れない手付きでカード端末とパソコンを操作して、処理を済ませてくれた。

 通された和室は建物の外観から受けた印象に違わない落ち着きがあって、女子高生が二人で泊まるには贅沢なほどの広さだった。
「大変申し訳ないのですが、先にお食事を運ばせていただいてもよろしいですか? 厨房が片付けに入っておりますので……」
「ご迷惑をおかけしてすみません。お願いします」
 戸口に荷物を置いて会釈をし、そそくさと下がった女将さんを見送ったいっちゃんは人心地をつけたのか、大きな溜息を吐きながらぐぐぐと背を伸ばした。
「いーやはや、遠くまで来たもんだ。ま、なんとか無事に着いてよかったな」
 しかし私は女将さんがチェックインの時に見せていた表情がどうにも気がかりで、ちっとも落ち着かなかった。
「ねえ、さっき女将さんがカードを受け取った時さ……なんか、変な顔してなかった?」
「変な顔?」

 脱いだキャップを指先でくるくると回しながら、いっちゃんは不思議そうな顔をする。
「まあデパートで買い物してた時も、レジの人たちみんな変な顔してたけど……なんていうのかな、うまく表せないけど、それとはちょっと違うような……」
「そりゃアレだろ、いきなり『弾丸』が目の前に現れたからビビッたんじゃねえの。常日頃から見るもんでもないだろうしな」
 キャップを部屋の隅へフリスビーのように放り投げたいっちゃんは、にやつきながらスーパーパスポートの入ったポケットを叩いた。
「『弾丸』に出逢うなんて幽霊に遭うようなもんだ。誰だって動揺するだろうさ」
 応召者の誰かと出逢う確率は、街中を歩いていて死亡事故を見かける確率とほぼ同じだ、というふうによく喩えられる。

 これから死ぬか、もう死んでしまったかという後先の違いはあれど、つまりは――〝明白な誰かの死〟に出遭う確率。だから幽霊という比喩は的確ではあるけれど。
「いっちゃんは幽霊じゃないよ。私の目の前でちゃんと生きてるんだから」
 そういう表現がいまは好きになれず、目ざとく否定してしまった。
「……はー、思わぬ長旅でちょっと疲れたな」
 私の言葉を無視して、いっちゃんは藺草が香り立つ畳の上にごろんと大の字に寝転がった。
「ほんとに驚いただけだったのかな。ねえ、パスポートに生年月日って書いてあったっけ?」
「そりゃあね」
「じゃあ、もしかしたら、通報されちゃったりとか……」
「なくはないな。偽装工作は見かけだけだ。パスポートを使えば一発で未成年だってバレる。こんな山奥の宿にガキだけで泊まってりゃ、なんか勘繰られるかもしれねーけど……」

 いっちゃんは「んしょっ」と言いながら起き上がった。
「どうする。タクシーを使えば帰れんこともない。引き返すならいまだぜ。僕はどうとでもなるが、ゾゾエにはまだ明日が続いてる。ここでノリに任せて困るのは……お前だけだ」
 いっちゃんの顔は真剣だった。この期に及んで、選択権を私に預けてくれている。
 明日が続いている。まだ日常を続けなければならない私には、戻るべき道もあるということ。このままいっちゃんに付き従い続けることは、その日常に困難をもたらすかもしれない。
 もちろん、どこまでも付いていく気持ちに変わりはない。別に明日や明後日にちょっとくらい困ったことになったっていい。
 ただ、なんらかの社会的な力――親だの警察だのが動き始めて、それらが本気で私を止めようとすれば、抗うことは難しいだろう。

 ただでさえ残り少ない時間をそんなことで縛られたり減らされたりしたら、悔やんでも悔やみきれない。ならば一旦冷静になって、戻るのも手のひとつなのか。
 現実はどこまでも先回り、暗い影を落としながら覆い被さる。ただいっちゃんと一緒にいたいだけなのに、あれほど執着した日常がいまや宿敵のように立ち塞がる。
 明日を続けよ。壊してはならぬ。その罪は常識という法によって裁かれる――。
 その時、私のスマホが鳴った。
 嫌な予感がして画面を見ると、果たして発信者はお母さんだった。
 時刻はもう九時になろうとしている。こんな時間までなにも言わずに帰っていないので、用件は聞かずともわかった。いっちゃんも緊張した面持ちで私のスマホを凝視している。
 静かな部屋にコールが重なる。戻れ、戻れと説き伏せるように長々と鳴動する。

 行くも戻るも、決められるのはいましかない。
 ディスプレイの上で親指が震える。決意が揺らぎそうになる。
 このまま行くべきか、それとも戻るべきか。行くか、戻るか――。
「……えい!」
 目を瞑ってスマホの側面に指を滑らせて電源を切り、そのまま鞄の中に放り込んだ。
 心臓が早鐘のように打っている。でも、後悔はなかった。
「大丈夫かよ。それ、家からじゃないの?」
 いっちゃんが恐る恐る尋ねてくる。
 疼痛が響く心臓を右手で抑えながら、ゆっくり頷いた。
「そうだけど、いいんだ」
「ほんとに、いいのか……?」
「どっちにしたってどうせ怒られるし、いまあれこれ言われたら心が折れちゃいそうだし。それにいっちゃんが召集のことを教えてくれた時にも言ったじゃん。一緒にいるよって」

 唐突に思い出した言葉が、自然と口から出た。あの時はでまかせのように言ったものだったが、いまになってようやく実感が湧いてきた。
 一緒にいる、と言ったのはいいものの、あの時はひどく漠然としていて曖昧だった。
 しかしいまは行動が伴っている。捻りもなにもないけど、事実として私はいっちゃんとこの無謀な旅路を共にしている。そうすることを自分で選んでいる。だから……。
「だから……いいんだ」
 自分に言い聞かせるように、噛みしめるように言って。
 うっかり揺らぎかけてしまった決意を再び強固にするように、もう一度深く頷いた。
 すると緊張で強張っていたいっちゃんの顔が、気の抜けたように和らいだ。
「あーあ、どうなったって知らねーぞ。僕なんかに付いてきちゃって、やべーことになるぞ」

「そうかもね。でも、それでもいいかも」
 いいかも、と言った途端、顔が勝手に綻んだ。こういうのも共犯意識というのだろうか。
 一人ではできない悪戯も、誰かと一緒ならできてしまう。悪いことと知りつつ、そんな秘密を共有できるのが嬉しくて、薄笑いを浮かべあってしまう。それもまた繋がり方のひとつ。
 いっちゃんが悪そうな顔で笑っている。きっと私も同じような顔をしているのだろう。
 二人して怪しげにニヤニヤしていると、扉を叩く音がした。
「失礼いたします。お食事をお持ちいたしました」
 返事をすると、若い仲居さんがたくさんの料理が載った盆を持って部屋に入ってきた。海鮮を中心とした見栄えのいい和食が、所狭しと並べられていく。真ん中に鎮座した固形燃料の火が揺らめく小さな囲炉裏鍋には、いかにも上等そうな牛肉やきのこ類がくつくつと煮えている。

 私の人生で一番豪勢な食事かもしれない。
「ちょっと、凄すぎるんじゃないの。こんなの食べていいの?」
 綺麗なお辞儀をして下がっていく仲居さんに憚りながらぼそぼそ問いかけたが、いっちゃんは遠慮する素振りすら見せずに割り箸を割った。
「海外だって行けるカードでこんなド田舎に来てるんだぜ。どうせ将来払う予定だった血税だ。パーッといこう、パーッと」
 わけのわからない論理を展開しつつばくばくと食べ始めたので、私もそれに習って白身魚の刺身を一切れ食べてみた。程よい脂が口に広がり、とても美味しい。こんな山の中で出てきた魚なのに、普段食べている刺身より遥かに美味しいとはどういうことなのか、などと思いつつ、気がつけば食欲の塊のようになってあっという間に平らげてしまった。

 食器を下げてもらった後、はちきれそうなほど満腹だったので動くのが億劫になり、しばらく部屋で暇を潰してから露天風呂に行こうという話になったが、私はスマホの電源を入れられないので手持ち無沙汰になってしまった。
「旅の醍醐味と言えばやっぱテレビですよ。ローカル放送のクソ地味な番組を見ながら夜更しするのって最高だと思いません?」
 誰だかわからないキャラクターを演じながら、いっちゃんはテレビを点けた。いっちゃんはスマホを触れるし、テレビを蛇蝎のように嫌っているから、ちっとも見たいと思っていないはずだ。いつもこうして自然に私を気遣い、合わせてくれる優しさに改めて感じ入る。
「うおお……なんつーチャンネル数の少なさだ。ド田舎ってすげー」
 あからさまに田舎をバカにしながらザッピングし続ける。

 確かに私たちが住んでいる地域に比べて二局ほどチャンネルが少ないようで、同じチャンネルでもこの時間帯にやっているはずの番組がやっていない。おそらくここは『全国ネット放送(一部地域を除く)』という文言の〝一部地域〟に該当しているのだろう。
 いま見られるラインナップはゴルフレッスン、テレビショッピング、芸人たちのバラエティ、ニュース、落語、KA線関連のドキュメンタリー、料理と本当に地味なものばかりで、この中で私たちが見知っている番組はバラエティとニュースだけだった。
「ちっ、マスゴミの中でも最強クラスにクソな地上波のニュースしか見るもんがないとは。うるせえ芸人どもの馬鹿騒ぎなんか見たくないし」
「まあまあ。いっちゃん、気にしないでスマホ見てていいよ」

「たまには地上波ニュースのクソ具合を確認するのも悪くない。さあ、くだらねーことを述べてみろ。BPOに投書しまくってやる」
 不穏なことを言いながら底意地の悪い笑顔を浮かべている。きっと冗談ではないのだろう。
 しかしいっちゃんが噛みつきそうな政治経済の話題はちょうど終わって、今日あった出来事、それからスポーツ特集のコーナーに切り替わってしまった。そうして三十分ほどぼんやり視聴しているうちにテーマ曲が流れ始め、番組はエンディングを迎えてしまった。
「つまんね。テレビショッピングでテンション高い外人を見てたほうがよかったかも」
「いっちゃんならテレビショッピングのどこにでもツッコミ入れそうだもんね」
「まぁジョージィ、あなたってスゴイのね!

あんなに頑固だった油汚れをこぉーんなカンタンに落としちゃうなんて魔法みたぁい! ワーオ!」
 唐突にテンションの高い外人女のモノマネをぶちかまされ、思わず吹き出してしまった。
「ほんとなんでもできるね」
「人間観察が趣味ですから。あ、人間観察が趣味とか言っちゃう奴はもれなく地雷のクソサブカル野郎だからな。覚えておけよ」
「わかった。今度テストで使うね」
「絶対使えよ? 使わなかったら宇宙人に頼んでエリア51まで補習しに行ってもらうぞ」
 くだらないやり取りをしている間に、ニュースはエンドロールを流し始めていた。
 するといっちゃんがなにかに気づいたのか、テレビの音量を上げた。
『では最後に、本日の旬ネタのコーナーです。マミちゃん、今日のネタはなんでしょう?』

『はい、今日のネタはこちら、りゅう座流星群です! 別名ジャコビニ流星群とも言いまして、十月の上旬に接近する流星群なんです。夏の風物詩であるペルセウス座流星群や、冬の双子座流星群に比べると、ちょっとマイナーな流星群かもしれませんね』
『ほお~、りゅう座流星群。初めて聞きましたねえ。それってどこでも見られるんですか? ペルセウスとか双子みたいに』
『流星群が見えやすい時間帯のことを極大という言葉で表すんですが、今年のりゅう座流星群の極大は木曜日の八日、午後四時から翌日の夜明け前までとのことなので、残念ながら極大が日中にかぶってしまっています。そもそも、その二つほど派手な流星群でもないので、街中だとちょっと見づらいかもしれないですね~。

ただ、八日夜の天気は全国的に晴れ、そして新月で空が暗めですので、流星群の観測条件としては大変よい、とのことです!』
『ははは、マミちゃんのりゅう座流星群にかける思いが伝わってきますね。それではプライマルニュース、本日はこの辺で』
 ニュースが終わって流れ始めた炭酸飲料のCMをぼんやりと眺めながら、いっちゃんがぽつりと呟いた。
「りゅう座流星群か……。八日ってことは、応召日の前日だな」
 何気なく事実を言っただけで、深い意味はないのだろう。それが却って現実を強く思い知らせるような気がして、逃げ出したくなり、必死に別の情報を探した。
 するとテレビの横に旅館の案内書きがあったので、それに飛びついた。
「大変! 露天風呂、十二時で終わりだって! 早く癒やされに行かなきゃ!」

 無理に大声を張り上げた、わざらしい大袈裟だった。いっちゃんはハッとした顔をして、大仰なポーズをしながら勢いよく立ち上がった。
「そりゃあ大変だ! 総員、第一種戦闘配備! 目標、露天風呂! 突撃ーっ!」
 急に司令官になったいっちゃんに従ってどたばたとタオル、下着、旅館の浴衣を抱えて、部屋を飛び出した。
 露天風呂は別館にあるので、さすがに廊下に出た後はなるべく静かに、足音を忍ばせるようにしてひたひた歩いた。
「一緒にお風呂入るの初めてだね」
「そうかぁ? 修学旅行とかで入らなかったっけ?」
「あれ、そうだっけ」
「適当だなぁ、ゾゾエは」
「いっちゃんほどじゃないよ」
「うっせ」

 十一時を回った浴場には誰もおらず、貸切状態だった。私たちは並んで身体と髪を洗ったが、いっちゃんは髪が長いので洗い終えるまでに時間がかかっていた。少し気恥ずかしいこともあり、私は「お先に」と声をかけて小走りで露天風呂へ飛び込んだ。
 田舎だけあって夜空は透き通るような漆黒にはっきりと星を瞬かせていて、とても綺麗だった。ここへ来る途中に渡った赤塗の橋の下に流れている川の遠いせせらぎは耳に優しく、夜が深まったことでさらにきりりと冷えた風が湯から出ている火照った顔や首に当たって気持ちいい。まさに極上の癒やしといえた。
「よう、湯加減はどうだい」
 後ろからかけられた声に振り向くと、いっちゃんはまるで周囲を憚らず堂々と歩いてきた。いくら誰もいないとはいえ厚顔無恥なその姿は、女子高生ではなくおっさんだった。

「ほーっ、いい景色じゃないか。おっ、こっからさっき渡ってきた川がちょっと見えるぞ!」
 いっちゃんはほかほかと湯気の上がる露天風呂をスルーして、柵から身を乗り出すようにして景色を眺め始めた。対岸には民家はおろか明かりひとつない山が黒々としているだけなので、まさか誰にも見られるはずはないのだろうが、『伊豆の踊り子』に出てくる娘のように無邪気な振る舞いに、こっちが恥ずかしくなってしまった。
「ちょっと、いい年してなにやってんの。風邪引くよ」
「だって景色が綺麗だもんよ」
 私が注意すると、ようやくいっちゃんも湯船に入ってきた。
「もう、子供じゃないんだから……」
「ほーら、やっぱり僕は大人じゃないだろ?」

 電車で言ったことを引き合いに出して呆気らかんと笑ういっちゃんを見ていたら、心配や気恥ずかしさなんてどうでもよくなり、なんだか小憎らしく思えて、顔にじゃぶんと湯をかけてやった。
「ぷっは! おいおい、暴力的だなあ」
「お静かに! ここは公共の場です!」
「さっきからなにツンツンしてんの? ほれ、もっと近う寄れ」
 近う寄れ、などと言いながら、いっちゃんのほうが寄ってきた。
 滑らかな肌が肩にぴったりとくっついて、擦れ合う。
「ちょ、ちょっと……」
 洗い上がりの髪を器用に結ったいっちゃんが、にやけ面を貼り付けながらこちらを覗き込んでくる。後れ毛から滴る湯、真っ白な肩と喉元、そして私より数段立派な胸の膨らみ。
 普段は見ることのないところにゆらゆらと濁り湯が絡みついて、女同士なのにひどく官能的な衝動を突きつけてくる。

 とても直視できず、思わず顔を背けてしまった。
「あ、もしかしてダチ同士の裸の付き合いが恥ずかしいのか? ウブだなー、ゾゾエは」
 すっかり調子を狂わされているのを明らかに面白がっている。癪だがそのとおりなので、なにも言い返せない。
 身じろぎをしても、すぐにその距離を詰めてくる。じりじり、湯の中の攻防戦。顔と顔が近い。唇が触れてしまいそうなほど、近い。
「おっ、胸がちょっと成長したんじゃないか? どれ、よく見してみ」
 ついに言うことまでおっさんになってきたいっちゃんに、私はまた湯をかけた。
「もう、他に見るものがいくらでもあるでしょ! ほら、星が綺麗だよ!」
 恥じらいを掻き消すように大声を上げて、空を指した。いっちゃんの視線はそれに導かれるように空を見上げて、生まれて初めて夜空を見たかのような声音で、
「ほんとだ、綺麗」

 とだけ呟いて、からかうのをやめた。それでも身体はぴったりと寄せたまま、離れようとはしなかった。
 調子を狂わせているのは、いっちゃんも同じかもしれない。
 日を追うごとに迫りくる死の影。毎日その輪郭に明瞭さを増していく闇。いったい生贄を求める砲台とやらの正当性は、嘘か真か。
 いや、ともすれば私と同じように、そこには真偽があると信じたいのかもしれない
 〝世界の真実〟とは、世界はKA線に冒され終末を迎えかけていて、故に砲台は人類にとって欠くべからざるものということ。それを疑う余地のないものと認めれば、取りも直さずいっちゃんの死という結末にも、疑う余地がなくなってしまうから。
 いっちゃんが湯の中から右手を差し出し、夜空に高く掲げた。
「流星群、今日だったらよかったのに。八日だなんて……」

 光年の彼方できらめく星々は確かに心を震わせるほど綺麗だけど、その満天は如何ともし難く不動のままだ。もし流星群の極大が今日だったなら、どんなに綺麗だったろうか。
「見れるよ。八日でしょ? 一緒に見に行こうよ」
「そっか……。そうだな」
 ふんわりした返事がどこまで本気なのか、私の言葉がどのくらい届いたのか、わからなかった。それからはお互い無言になり、しばらく夜空を見上げたまま温泉につかった。
 逃げれども逃げれども、追い払っても振り払っても、どんどん追いついてくる現実。
 付かず離れずの距離でせせら笑いながら約定の日を携えて、悪霊のように追いかけてくる。
 もっと速く、もっと遠く、それこそ流星のようなスピードがなければ、どうも駄目らしい。

 温泉から上がり、糊のきいたシーツと清浄な香りのふわふわな布団の中に入っても、いやに火照るばかりでちっとも眠れなかった。
 月明かりが差し込む部屋で、まんじりともせず寝返りを打ち続ける。布団を頭からかぶっても、どこかから聞こえてくる刻々とした秒針の音が、いつまでも眠気の定着を阻害する。 「眠れないな」
 温泉からずっと無言だったいっちゃんが口を開いた。
 もそもそと布団を退けると、月に照らされた浴衣姿のいっちゃんが弱々しい微笑を浮かべながらこちらを見ていた。
「ごめん、ゴソゴソしてたの、うるさかった?」
「ううん、さっき日付を意識したら……ちょっとリアルな感じになっちゃってさ。何度も気にしないようにしたんだけど、やっぱ無理だわ」
「いっちゃん……」

 布団から左手を差し出し、いっちゃんの布団に潜らせて、手探りで探し当てた手を握った。
 するといっちゃんも身を捩らせて、こちらへ寄ってきた。
「死にたい、って言いまくってたけどさ、嘘だよなあ。ちっともわかってやしなかったんだ。本当に……死ぬってことの意味なんてさ」
 明るい調子で言うものの、すぐにその明るさは作り物であるとわかった。
 月明かりに浮かぶ瞳は、風に揺られる水たまりのようにゆらゆらと潤んでいた。やはり不安で堪らなかったのだ。
 かける言葉を見つけられず、どう慰めるべきか迷っていると、突然握っていないほうの手を私の胸に押し付けてきた。
「ちょっ⁉ いきなりどこ触って……」
「なあ、生きてるってなんだ? メンヘラくせー質問だけどさ、心臓を動かすことか? ここをドキドキさせてれば、生きてるってことになるのかな?」

 驚きと緊張で戸惑ったが、すぐに言わんとすることに思い至った。
 『弾丸』にされる人は特殊な手術によって脳死に近い状態されるが、心臓は動いている。それは生きているといえる状態ではある。
 しかし正しい言葉で表すなら、それは〝生存〟であって〝生きてる〟とは違う。私たちが求める〝生きてる〟とはもっと形而上のものであり、心臓や脳が動いていればそれでいいというものではない。それらが正常に働くのは前提で、自分を見つめる自分がちゃんといて、楽しいことも辛いことも認識できる必要がある。
 ここをドキドキさせていれば――なにかを感じていれば〝生きてる〟ということになる。逆説的にはここがなにも感じていなければ〝死んでる〟ということになる。

 ならば生かすことも殺すこともしない『弾丸』とは、そのどちらをも他人の手によって否定する、悪魔的な行為に他ならない。
 いっちゃんが孤独を突きつけ続ける世界に対して踏ん張った意味も、家族の裏切りと戦って悲愴に耐え続けてきた意味も、全部踏み躙られる。
 たった一人にこんな暴挙を振りかざさなければ、こんな苦悩を背負わせなければ、この世界は一日たりとも続いていかない。
 それなのに感謝も謝罪も配慮も同情もなく、なにもかもを奪い、ただ死を告げる。
 仮にそれをすべて伝えたからといって、悲しみは消えないのに。
 でも私とて、別の誰かにそうやって生きている一人だ。そんな世界で生きていく一人だ。そんな冒涜を押し付ける同罪の悪魔だ。いっちゃんがいつか言っていた〝全人類がいじめっ子体質を共有する〟という言葉が切れ切れに思い浮かぶ。

 残酷な――あまりにも残酷な現実に、目の前が真っ暗になる。
「生きるも死ぬも、僕が決められるはずだったのに……。僕は、なんのために生まれてきたのかなぁ……?」
 言い終わらないうちに、水たまりから大粒の涙が流れ始めていた。一度そうなると、堰を切ったように次から次へと溢れ出した。
 いつもの超越した雰囲気も、中二病の刺々しい言葉もなく、身も世もなく泣きじゃくる姿は等身大の少女そのものでしかなくて、あまりに弱々しく、見ていられないほど痛々しく、私まで泣けてきそうだった。
 しかし最後の防波堤を懸命に抑え、ぐっと耐える。私まで負けて泣いてしまったら、こんなに弱ってしまったいっちゃんを誰が支えるのか。
 私ごときが誰かを支えるなんて大それた考え、普段なら及び腰になっているだろう。

 でもいまはそんな〝私ごとき〟しか、ここにはいない。
 明るい言葉を、元気の出る言葉を、希望をもたらす言葉を、頭の中で必死に探した。
「少なくとも、私たちは死ぬために生まれてきたんじゃない。青春するために生まれてきたんだ。そうでしょ? 中二病だっていい。妄想だっていい。楽しければ、なんだっていい。青春って……生きてるって、そういうことじゃないの?」
 心にもないことだ。こんなことを本気で考えていたなら、弱虫の人生なんか送ってこなかったはずだ――そんな弱音をおくびにも出さないよう、強い口調で言ったつもりだった。
 さりとて思いつきで作った美辞麗句では、やはりいっちゃんの悲しみや絶望を和らげられなかった。涙は止まることなく、傷んだ心が溢れ出るかのように滔々と流れ続ける。

「そんな前向きに……なれないよ。死にたい死にたいって言ってみたって、結局は口先だけだったけど、心の中はずっと消えたいとか、逃げたいとか、そういう感情ばっかりだった。生きていきたいって思ってなかった。死ぬ勇気が固まらないだけだった。ただ死ぬのが怖いから……死ねなかった」
 いつも私が考えていることと大差ないことだ。そのはずなのに、棘のない無垢な弱さを曝け出すいっちゃんの声で伝わると、胸が張り裂けそうなくらいに痛かった。私がこんなに痛いのなら、いっちゃんの痛みはいかばかりだろうか。
 それをなんとかしてあげたくて、思いつく限りの言葉を頭の中に並べて、勇気や希望に繋がるものをかき集め、絞り尽くす。
「死にたくないから生きてるだけって、なにが悪いの?

そうやってうだうだ生きてるだけだって、別にいいじゃん。辛いことから逃げて、痛いことは避けて、怖くないことだけ考えて、楽なことだけして、仲のいい人とだけ楽しく生きて……それでいいじゃん」
 それでも元々希望の欠片もなく、鬱々と生きてきた人間の浅い限界はここまでだった。
 これ以上はもうなにも思いつかない。なにかを言ってあげたくてもなにも言えない。
 貧弱な語彙を呪い、消極と悲観しか生み出せない性根を悔いた。
 そんな情けない私の左手を、いっちゃんは両手で縋りつくように固く握り締める。
「でも、現実は……こうだよ。死ぬために生まれてきた奴だっているんだ。僕みたいに」
 がたがた震えて、怯えも、絶望も、この一箇所に圧縮されていくかのように縮こまって、指がちぎれてしまいそうなほど握力が強くなる。

 弱まる声と相反するように、強く、強く。
「ゾゾエが友達でよかった。みんなと出会えて楽しかった。それは嘘じゃない。でも、それでも……生まれてこないほうがよかったって、思っちゃうんだ」
 声も絶え絶えなその言葉に止めを刺され、ついに私の防波堤は破れてしまった。
 私ごときではやはり、いっちゃんの恐怖や絶望を拭い去れなかった。
 当たり前だ。今日までを強く生きて、なにかを成し遂げた人間ならいざ知らず、何事からも何者からも逃げに逃げ、恐ろしいことをひたすらに避け続けた私は無力で無知で、たとえこの場を舌先三寸で丸めたとして、結局いっちゃんを救えやしない。それを自覚した途端、もう駄目だった。私も両手をいっちゃんの手に重ねて、くうくうと泣いた。
 私たちはきっと、世界で一番不幸な人間ではないのだろう。

 当たり前で、当然で、日常で、よくあるあれやこれやのひとつでしかなくて。
 けれど。
 世界で何番目の不幸なのか、わからないけれど。
 だとしたら、これ以上の不幸があるかもしれないこの未来(さき)なんて、生きていく自信がない。
 生きていけない――とても、生きていけそうにない。
 そんな気持ちは〝死にたい〟という気持ちと、どれほどの差があるのだろう。
 急行電車に乗って、夜道を歩いて、こんな田舎まで逃げてきたのに、現実は呆気ないほど簡単に追いついてしまった。
 悲しくて、悔しくて、恐ろしくて、ただただ、泣き続けた。
 何時間泣き続けたか、やがて私たちは泣き疲れて、砂が崩れるように眠ってしまった。

 翌朝、私のほうが先に目覚めた。昨夜泣いた後遺症が頭に残響する痛みとして残っていて、高熱を出した時のようにぐわんぐわんしている。
 朝日がいっぱいに差し込む窓に目を遣ると、青々とした山とよく晴れた空が見えた。
 すぐ隣には、いっちゃんがあどけない表情で眠っていた。涙の跡が残る白い頬を人差し指の背でなぞると、むにゃむにゃと形を変える。握られた左手は寝ている間もそのままだったようで、肘の辺りまで痺れていたけれど、離せなかった。
「んぁ……ゾゾエ?」
 ちょっかいに気づいたのか、小さい子供のような声をあげていっちゃんも目覚めた。
 ぼんやりした表情で私の顔を見て、握った私の左手を見て、その手に少し力が入った。
「おはよ」
「ん……。おは……っふ」
 おはようが途中から欠伸に変わり、空気になって途切れた。

 私も大概朝には弱いけれど、いっちゃんはそれ以上らしい。
 二人して布団の上で上半身だけ起こし、たっぷり五分ほどぼーっとしてから、ようやくのそのそと身支度を始めた。
「昨日の夜は、その……取り乱して悪かった。もう大丈夫だ」
 いっちゃんは恥ずかしそうに口籠りながら、寝癖を直すためにドライヤーを当てている。
 昨夜の弱々しさは一夜の夢のように消えていて、すっかりいつもの顔に戻っていた。
「いいよ、無理に強がらなくて」
「もう少しだけ強がらせてくれ。まだ一縷の望みってもんがあるかもしれない。あ、ゾゾエも考えといてくれよ。もしZ地区がなかったら、その瞬間から僕らは反逆者としての人生を送ることになる。世界中にどうやってこの壮大な嘘を暴くか、算段が必要だ」

「おっけー、とにかく行動あるのみだね。それじゃ、今日はまずどこから行く?」
「んー……」
 寝癖を直し終わったいっちゃんはドライヤーを切り、窓からの光に目を少し眇める。
「行く前は暢気にあちこち行くつもりでいたけど……それってたぶん、目を背けたかっただけだと思うんだよな。平気なふりっていうか、余裕を持ちたかったっていうか。日常を続けようとしてさ」
「現実逃避のプロから言わせてもらえば、それこそ正しい現実逃避の手法ですよ、一葉さん」
「あちゃあ……。じゃあ望依プロには全部お見通しなんじゃないの?」
「スッキリしないままじゃどこに行ったって駄目だろうね。行き先はひとつしかない、か」
 Z地区に行く方法を調べるためにスマホの電源を入れると、約半日ぶりに灯ったディスプレイに母からの夥しい着信とメッセージが怒涛の勢いで表示された。

 一瞬腹のあたりに氷が滑るような感覚が走ったが、ワンタップで通知を消して見なかったことにした。
「その前にご飯食べようか。食堂、八時半までみたいだし」
 遣る瀬無さから逃れようとした私の提案に、いっちゃんが素直に頷いた。
 身支度を終えた私たちは食堂に行き、バイキング形式の朝食を摂りながら手分けしてZ地区へ行く方法を調べた。
 どうやら空白地帯の境界線はこの旅館から十五キロほど北にあるらしく、バスを乗り継いで行けるのは手前十キロ地点までで、そこからは廃止された国道を歩いて行くしかないことがわかった。
「徒歩で十キロかあ……なかなかハードだね」
「いっそタクシーで行くって手も……いや、こんなとこまで行ってくれる運ちゃんなんかいないか。ゾゾエ、行けるか?」

「大丈夫、これでも元陸上部だし心配しないで。真夏じゃないし、頑張れば行けるよ」
「そうだな。よし、そんじゃ、さっさとチェックアウトしようぜ」
 頬張ったご飯をずずずと味噌汁で流し込み、部屋に戻って手早く荷物を纏め、チェックアウトを済ませて旅館を出た。
 すると門を出た辺りで、ぱたぱたと足音が聞こえた。なにかと思って振り返ると、女将さんが息を切らせて追いかけてきていた。
「あ、あのっ!」
 声に応じて立ち止まると、女将さんも少し離れた飛び石の上で立ち止まった。
「あれ、忘れ物とかありました?」
 いっちゃんの問いかけに答えず、女将さんは少し肩を上下させながら俯きがちに言った。
「あの、実は私もお客様たちと同じ年の頃に姉が招集されて……あの時も姉妹でなんの準備もしないで最後の思い出旅行に出てしまったことがあって……。

お客様たちを見た瞬間、その時のことを思い出してしまって……」
 急に身の上話を始めた女将さんの言葉は大人のそれとは思えないほど纏まらず、要点らしきところをふわふわと飛び回る。しかしチェックインの時に見せた、不可解な表情の意味を理解できた。私たちの身分について訝しんでいたのではなく、同じ理由で失ったお姉さんをいっちゃんに重ね合わせていたのだ。旅行サイトで適当に決めた先の女将さんがまさか応召者の遺族とは、事実は小説よりも奇なりである。
「こんなことをお客様に、いえ、あなたに伺うのは大変失礼な……酷なことと重々承知しているのですが……ひとつだけ、お訊きしてもよろしいでしょうか?」
 嫌な予感がした。応召者の遺族であるこの人がこんな言い方でいっちゃんに訊きたいことなんて、どう考えてもろくなことじゃない。

 私はいっちゃんの袖をぐいと引っ張った。
「ねえ、行こうよ、いっちゃん」
「いや、いいよ。なんです? 訊きたいことって」
 私を制しつつも応じるいっちゃんの声が、僅かに固さを帯びた。嫌な予感がしているのはきっと同じなのだろう。
 逡巡しているのか、女将さんは目線をうろうろさせたり、そわそわしたりして、すぐには口を開かなかった。
 ややあって心が決まったのか、衿元の辺りに拳を当てて、思いつめた声で問うた。
「召集されることって、どんな……どんなお気持ちなのでしょうか。もちろんお辛い気持ちでしかないとは思いますが、その中になにか別の思いは……使命感というか、無理矢理にでも納得というか……なにかあるものなのでしょうか」
 予感は的中した。女将さんの無神経さで怒りが瞬時に全身を巡り、かあっと熱くなった。

 横のいっちゃんを見ると、なにかに痛むように顔を顰めていた。
「行こう、いっちゃん」
 怒りを抑え切れなくなった私はいっちゃんの手首を掴み、強引に歩き出した。
「でも、ゾゾエ……」
「いいから」
 いっちゃんは戸惑いを浮かべ、なにかを言いたそうにしていたが、構わず引っ張った。
 いっちゃんは優しいから、こんな問いにも女将さんを安心させるように、納得できるように答えるだろう。でも心を削ってまで、こんな不躾に身を曝す必要なんてない。
 いっちゃんは正面から襲い来る悪意には強いが、心の隙間を縫うような姑息が絡むと途端に鈍くなる。私はその逆で、後者に対しては人一倍敏感だ。そういうものから逃げる心得は私のほうが長けている。
 だからこんな所からはさっさと立ち去るべきだと判断した。後ろで女将さんの短い声が漏れたのも微かに聴いたが、無視してぐいぐい歩いた。

 昨夜布団の中でいっちゃんが泣き縋りながら吐露した恐怖や絶望、そして希死念慮に苛まれながら戦ってきた孤独を知るいま、女将さんの無神経は断じて許せなかった。
 そしてなにより、訊くべきでないことを訊くべきでない相手に訊いてしまう弱さ、そこに情やもっともらしい理由を絡める姑息――それがどうにも言い訳ばかり考える性分に重なって、にわかに湧き出た自己嫌悪に耐えられなかった。
 旅館を出てから赤塗の橋の手前まで、黙ったままいっちゃんの手を引いて歩き続けた。
「落ち着けよ、ゾゾエ。もう大丈夫だ」
 諭すようないっちゃんの静かな声を聴いて、ようやく冷静さを取り戻した。
「ごめん、引っ張ったりして……」
「いや、まあ……気持ちはわかるよ。気にすんな」
 いっちゃんは少し手首を擦りながら、控えめに笑った。

「ごめん、痛かったよね。大丈夫?」
「平気だって。にしても、いきなりぶっこんできたよな? ちょっとビビったわ」
 謝る私に手を振りながら、屈託なく答えるいっちゃんの姿が心に沁みる。
 怒りに任せて行動してしまった結果は、落ち着きを取り戻すほど幼稚に思えた。自分と重なった女将さんの言動に共感性羞恥めいたものも感ぜられてきて、だんだんと空恥ずかしくなってきた。
「なんだったんだろうね。あんなこといっちゃんに訊いて、どうするつもりだったんだろ」
 恥ずかしさを掻き消すように、少し大きな声で言った。
 するといっちゃんは風に攫われかけたキャップを直しながら、ふわりと答えた。
「あの人もいろいろ訊きそびれたことがあったんじゃねえの、お姉さんにさ。なまじ身内だからその時は訊きづらかった、でも他人の僕になら……みたいな」

「そんなの……勝手だよ。ちっとも大人じゃないじゃん」
「大人、ねえ……。難しい問題だよな。実際大人になり損なっちゃった奴って、いつどうやって大人になったらいいのかねえ?」
 いっちゃんは事も無げに言ったが、その言葉で恥や嫌悪が生じた本当の原因に気づかされて、とても他人事とは思えず、暗然で息が詰まった。
 大人になり損なった大人。そのきっかけを失い、大切な人の死を乗り越え損ねた大人は、いつも厭悪する自分とよく似た姿をしていた。
 誰かやなにかを喪うことを受け止める方法。それを自らでは考え切れず人任せに、他人の中に答えを探し求める姿の、なんと情けないことか。
 そうして他人と他人の間を這いずり回るうちに大人になり損なって、何年経ってもなにも見つけられないまま、喪ったその日から一歩も前に進めなくなる。

 私もいっちゃんの死と向き合えなければ、いつかはああなる――恐ろしい未来予知だ。
 さっきより少し膨らんだ自己嫌悪を重く抱えながら、いっちゃんより半歩遅れて歩く。
 昨日通った時は辺りが真っ暗だったので気づかなかったが、赤塗の橋から見える風景はそれなりに明媚なものだった。見知った商店はひとつもないように思われたが、橋を渡りきって少し行った先にある交差点の角にコンビニがあった。そこでペットボトルのお茶を買って、昨日通った道を逆に辿って駅前に出た。
 するとちょうどバスが停車していたので、スーパーパスポートをちらつかせて乗り込んだ。後ろの方の席に座ってデパートで買い込んだお菓子を食べながら、なるべくKA線のこととは遠い話題を選んでおしゃべりをした。

 私もいっちゃんも表向きは上手く誤魔化せていたが、内心は高まり続ける緊張を抑えようと必死だった。
 ついに召集令状という名の死神を生み出す元凶にまみえる。これまで漠然と信じ込まされてきた〝世界の真実〟の真偽がはっきりする。
 親も、先生も、教科書も、テレビも、ネットも、その真偽について問うているところなんて見たことがない。それはつまり疑う余地のないものなのかもしれない。
 しかしいっちゃんの言うとおり、一縷の望みがまだ残されているとしたら。いや、たとえ本当に一分の隙もない完璧な事実であったとしても――諦めるに足る確信を得なければ、観念することはできそうにない。
 空白地帯の最寄りのバス停に辿り着くには二回乗り換えが必要だった。一度目、公民館の前で乗り換えたあたりから、いっちゃんの口数が徐々に減っていった。

 私も高ぶる鼓動で胸が痛いほどになっていたので、なにも言えなくなっていた。
 無言のまま胸の痛みだけに向き合っていると気が滅入りそうだったので、スマホで動画サイトを開いていくつかの動画を視聴してみたものの、気を晴らすより先に乗り物酔いの症状を呈してきたため、いっそう体調が悪くなっただけだった。
 二度目、無人駅の前で乗り換えた後は、もはや完全に無言だった。
 私は猛烈な吐き気や跳ね上がる胸と腹の痛みと戦って、ひたすら遠くだけを見つめようと努めていたが、その横でいっちゃんはスマホをフリックする指を止めなかった。
「いっちゃん、酔わないの?」
「大丈夫。昔からこういう時はずっとゲームとかしてたから」
「へー、すごいね。ところで、さっきからなに見てるの?」
「うん、それは、まあ……」

 私が問うた途端、急に手を止めてスマホを鞄に入れてしまった。
「あ、ごめん、もしかして訊いちゃいけなかった?」
「や、ゾゾエにあの金を遺せないかな、と思って色々調べてたんだ。どうも無理っぽいけど」
 予想もしなかった答えに驚いた。
「あの金って……藪から棒に、どういうこと?」
「昨日見せたあの冊子には書いてないけど、実は僕が死んだ後に『応召者の遺族に対する特別弔慰金』っていう結構な名目で、親に一億出ることになってるんだ」
「一億……」
 思わずいっちゃんの言った金額を諳んじる。
 一億。それが人を空に撃ち出すための値段。
 数字の高低の感じ方は人それぞれだろうし、少なからず衝撃的な金額ではある。けれど親友を暴挙の鉄槌で押し潰して、空に撃つことを許さなければならないと思えば安すぎる。

 どんな根拠があって一億なのだろう。この決まりを作った人は、大切な人を同じように撃ち出さなければならなくなったとして、本当に一億で納得できるのだろうか。
「あのクソどもの手に渡るのをどうにかできないもんかと調べてみたけど、遺言書とかじゃ駄目らしい。どうも支給される前はあくまで政府の金であって、支給された後に個人の財産として認められるんだが、その個人ってのに本人は入ってないから遺言で希望は言えても強制力はないんだと。わけわかんねー話だよなあ、僕の命に支払う金なのに」
「そんなのどうでもいいよ、いらないし。っていうか、死ぬ気満々で喋るの、やめない?」
 死んだ後のことをぺらぺらと話すいっちゃんに腹が立ったのか、それともこんな不条理につけられている値段に苛立ったのか、思いがけず言葉が刺々しくなってしまった。

「ごめん、キツい言い方になっちゃって……」
「いや、こっちこそデリカシーがなかった。確かにどうだっていいよな、こんなこと……」
 別にいっちゃんがわざわざ私を苛つかせようとしているわけではないことくらい、わかっている。喋ったり手を動かしたりしていないと、不安に押し潰されてしまいそうなのだろう。
 あるいはバスの速度に合わせて迫り来る現実からいよいよ目を背けきれなくて、否が応でも考えてしまうのだろう。お互いに余裕をなくしているのは明白だった。
 私たちは再び無言になり、数十分ほど揺られて、ようやく目的の停留所に着いた。
 いっちゃんが先頭に立ち、私はそれに従って歩いた。少し行ったところに分かれ道があり、山の方へ続く道の入り口には『この先、行き止まり』と書かれた大きな看板が立ちはだかっていた。

 確認のためにマップを開いてみると、やはりこの道の果ては空白地帯に吸い込まれるように途切れていた。
「さて、こっからは歩きか。鬼が出るか、蛇が出るか……。ゾゾエ、覚悟はいいか?」
 いっちゃんがキャップの庇を下げて目深に被り直し、鋭い視線をこちらに送る。まるで猛獣の巣食うジャングルにでも挑むような格好だ。
 じんわりと嫌な汗が浮かぶ。手汗がどれだけ拭ってもびしょびしょのままで、震えが収まらない。いよいよこの先に揺るがしようのないなにかがある。怖くてたまらない。
 それでも、行かなければならない。
「うん。大丈夫」
「よし、じゃあ行こう」
 お互いに勇気を補うようにして頷き合い、ゆっくり歩き出した。
 廃止された二車線の国道は、日本の道路とは思えないほど荒れ果てていた。

 道の端やアスファルトの割れ目から草が生い茂り、泥や石ころがあちこちに堆積している。手入れをせず、人も車も通らなければこうも朽ちてしまうものなのかと思い知った。
 そんな悪路をローファーで登るのは過酷なことだった。勾配は緩めなものの、時たま落石や倒木などの大きな障害物があったり、泥や砂利に足を取られたりして思うように歩けない。
 曲がりくねる道に遠回りを強いられているような感覚を与えられるのも、精神的にくるものがあった。気温はさほど高くなく、むしろ過ごしやすいくらいの風が吹いているのに、三十分ほどですっかり汗だくになってしまった。
「こりゃあ想像以上だな。コンビニでもっとお茶買っとけばよかった。デパートで靴も変えとくべきだったな。クソ、こんな獣道みてーなとこだとわかってりゃなあ……」

 早々にペットボトルの中身を飲み干したいっちゃんが、苦々しい表情で愚痴をこぼした。
「慣れない靴で歩くほうが辛かったかもよ。こっちもちょっとしかないけど、飲む?」
 残り僅かとなった私のペットボトルを差し出したが、いっちゃんは手を振って断った。
「自己責任だ。いいさ、JKの底意地を見せてやる」
 汗びっしょりの額や頬に黒髪を貼り付けたままにっと笑う。その顔に元気づけられ、私も少しだけ気力が回復した。
 それからは無言になり、ひたすら緩い坂道を登り続けた。元陸上部だから大丈夫、なんていう朝の威勢を足の裏や膝の痛みが嘲笑ったが、とにかく登り続けた。下手なハイキングよりよほどハードな道行のおかげで、不安や絶望といった負の感情が一時的に消えてくれたことだけが唯一の救いだった。

 どれほどの時間を歩き続けたか、最後の急勾配を登りきったところでついにそれは現れた。
 伸び放題の鬱蒼とした木々に囲まれているところに、ぽっかり開いているトンネル。
 その前にはあの動画で見た、不吉な印象を刻みつける《指定消滅区域の為、立入禁止》と書かれた赤い看板が立てられている。
「魔界の入り口だ」
 魔界――いっちゃんの表現は言い得て妙だと思った。
 命の息づきを拒絶し、深い闇を孕んで山腹に開いた冥いトンネルは、まさにこの世ではないどこかに通ずる門のようだ。低く響く唸り声のような風鳴りが止まないのも、その錯覚に拍車をかける。
「行こう、ゾゾエ。〝世界の真実〟は、すぐそこだ」
 言葉こそ強いが、その声は確かに震えていた。

 そうだ、怖いのは私だけではない。いっちゃんはきっとこの何倍も怖いのだ。怖気づいている場合ではない。
 少しでも勇気を出せるようにと強く頷き返し、手を繋いだ。そしてスマホのライトを点け、意を決してゆっくりと闇の中に一歩を踏み入れた。
 山を貫く長い長いトンネルの中は身震いするほど冷え切っていて、季節が逆転してしまっているかのようだった。
 その冷えた空気とは別の冷たさが、魔物のように心を侵していく。不気味に反響する足音が亡霊のように、いつまでも足元をついて回る。厳しい道程の疲労で誤魔化されていた不安が一挙に舞い戻る。なんの障害物もなく平坦なトンネルが、いまはひどく恨めしい。
 このままでは駄目だ。怯えに挫けてしまいそうになる。私は懸命に頭を巡らせ、この苦境をなんとかする方法を模索する。

 そしてひとつだけ思いついた。いまこそ中二病が役に立つ。
「ここマジですごいね、いっちゃん! めっちゃ雰囲気あるよね! なんかこう、ゲームのラスボス前のダンジョンって感じしない? ずっと震えてるけど、MPの残りは大丈夫?」
 這い回る冷たさに心が負けてしまわないよう渾身の空元気を捻り出し、どうにか面白がってやろうという努力を試みる。
 辛い現実と戦うため、いっちゃんが編み出した最終手段。
 妄言でも虚勢でも、この際なんでもいい。
 ただこの歩みが止まらないだけの勇気を二人分、少しでも支えられればそれでいい。
 するといっちゃんも握る手の力を強くしながら、私よりもさらに明るい声を張り上げた。
「そりゃあ震えるさ、さすがに。でもここまで来たら今更取って返すわけにはいかねえ。

行こうぜ、ゾゾエ。〝世界の真実〟を知りたいだろ? さっさと二人でラスボスをぶっ飛ばして、このクソゲーを作りやがった長ったらしい戦犯リストを拝んでやろうぜ!」
 しかしその強い言葉とは裏腹に、声は入口にいた時よりも明らかに震えを増していた。
 〝行こう〟と言うのは、きっと〝逃げよう〟の裏返し。だから何度も言っているのだろう。
 そうやって言い聞かせ続けなければ、足を前に進めることができないから。その証拠に握っているいっちゃんの手は、まるで雑巾でも握っているかのようにしとど濡れている。
 心霊的な、超自然的なものに対する恐怖ではない。
 この闇の先に見えるであろう、ただ圧倒的な現実が。揺るがしようのない、どこまでも現実的な現実が、怖くてたまらない。

 でもいっちゃんの言うとおり、ここまで来てなにも見ず帰ってしまっては、貴重な時間をなんのために浪費したのかわからなくなる。どんな覚悟を決めるにせよ、この目で本当のことを見なければなにも受け入れられない。
 私たちは歩いた。何度も虚勢を張り直しながら、おっかなびっくり、永遠にこの闇が続けばいいのにと、くだらない矛盾をひたすら願いながら歩いた。
 やがて、光が見えてきた。
 外の、向こう側の景色が近づいてくる。吹き付ける風が強くなる。
 ドラマや映画の演出でよくある、光が曖昧に差し込んでくるような心優しいオブラートなんてなかった。出口の数メートル前からじわじわと骨身を蝕むような違和感があった。
 それでも歩いて、ついに私たちはトンネルからよろぼい出た。
 そして、息を呑んだ。

「……はは、なんだ、こりゃ」
 隣のいっちゃんが乾いた笑いを漏らした。
 ネットで真しやかに囁かれるZ地区の噂は、誰かが空想した三文SF小説でも、中二病の拗らせた妄想でもなく、やはり現実だった。
 十キロか、二十キロか――高台になったこの場所から彼方まで見渡せる。
 そこから望む景色には、ぽっかりと空いた穴のように無残な灰色が広がっていた。
 私たちが立つ場所と、遠くに見える街との中間くらいに大きな円の境界線が引かれていて、そこまでは緑が続いている。しかしその向こうにあるものは、峻険な峰々も、それに囲まれた盆地の街並みも、なにもかも灰一色だった。荒々しく切り立ったその峰々が、元はどれも青い山だったのだろうと気がつくのに少し時間がかかった。

 あの田舎町は十数年前に打ち捨てられたはずだが、いまもしっかり原型を留めている。しかし遠い距離感のせいか、それともなんの色彩もないせいか、ジオラマのような作り物めいた雰囲気で満ちていて、かつて誰かが住んでいたとは思えなかった。
 灰色で塗り潰された大地には見渡す限り草木一本すらなく、空には鳥の一羽も、雲の欠片さえも見当たらない。
 嘘であってほしい。政府、秘密結社、宇宙人、そういう抽象的な悪による馬鹿げた陰謀であってほしい――そんな他力本願で子供じみた解釈や願望を差し挟む余地はどこにもない。
 目が眩むほどなにもない空の青。
 丸い死の境界線が分かつ、此方の緑と、彼方の灰。
 あまりに不自然な極彩色で描かれた極端なコントラストと、僅かに風の音だけが鳴っている静かな情景は、腹の底を揺するような不安を掻き立て、足を竦ませる。

 一切の生命が排除されて、無機物だけが佇むうらぶれたこの場所は、確かに比類なきこの世の最果て、行き着くべきところに行き着いてしまった最奥の地――〝世界の真実〟という大仰な言葉で語るに相違ない。
 その時、吹き上がった向かい風に乗って漂ってきた、妙な臭いが鼻腔を刺激した。
 トンネルに入るまで噎せ返るほど感ぜられていた土や草の匂いではない。ひたすら不気味な、得体の知れないなにかが香る。
 これは、なに? 燃え尽きた灰のような、何年も積み上がった埃のような――。
 違う。経験の中にこんなおぞましい臭いはない。
 燃えた灰のように煙たく、積もった埃のように黴臭く、それでいてなにかが腐ったように酸っぱくもあり、熟れ過ぎた果物のように甘ったるくもある。

 吸う度にころころと感覚が変わり、纏まりかけたイメージをバラバラに分解されるようで、ひどく不愉快だ。
 まさか、これは世界が死んでしまった時の――あの世の臭い?
「おい、走るぞ」
「えっ……?」
 いっちゃんがやにわに、手を強く引っ張った。
「走れ、ゾゾエ――こんな場所、いちゃいけない!」
 言うが早いか、私たちはトンネルの方へ踵を返し、脱兎の勢いで逃げ出した。物凄まじい恐怖が雷のように身体を駆ける。それが命の危機による脳からの警報ということに気がついたのは、走り出した後だった。
 わけのわからない悲鳴を上げながらもつれそうになる足を懸命に抑えて走る中、あのユーチューバーが動画の最後で見せていた不可解な行動の意味を理解した。

 筆舌に尽くし難いほど奇怪で異質で、ただ知覚するだけで総毛立ち、あらゆる感情を吹き飛ばされる臭い。彼もこれを嗅いだから全力で逃げたのだ。生命を揺るがすほどの恐怖を味わわせる、あの臭いから一刻も早く離れるために。
 写真だの動画だのをいくら見たところでこの恐怖はわからない。あの場所に立たなければ、どれほど恐ろしいものなのかを実感することはできない。
 私たちはトンネルを一気に抜け、入り口に着いた瞬間ほとんど同時に倒れ伏した。
 それからしばらく、お互いに荒れた息を抑えつけるので精一杯だった。
 仰向けで見る空は青く、雲がゆっくり流れていて、柔い風が鬱蒼と茂る木々を揺らす。
 トンネルが隔てる現世と幽世の差に苛まれ、正常なそれらを見ても恐怖が消えない。
「なんでここに警備員もバリケードもないのか、わかった……」

 いっちゃんは荒い息を吐きながら、空を睨みつけるようにして言う。
「そんなもの、必要ないんだ。どんなバカでもこの先に行けばわかる。誰だって引き返してくる。わざわざ塞いでおく必要がないんだ。この看板はバリケードなんかじゃない。この先が〝もう終わった世界〟だってことを示す、ただの……標識なんだ」
 もう終わった世界――皮肉なほどファンタジックなその言葉の意味を、苦く噛み締める。
 人の手を離れた人工物は、自然の状態で放置されれば草木や動物が脅かす。それはここまで歩いてきた国道を見てわかったことだ。
 しかしきっぱりと引かれた死の境界線の向こうは、あらゆる有機物――すべての生物がKA線によって残らず消滅していて、これからも芽吹くことはない。だからなんの力も加わらず、壊れることもなく、時間が止まったように静止していたのだろう。

 ならば、KA線の真の作用とは破壊ではなく、加速なのではないか。
 生きる者に与えられた時間を刈り取り、強制的に死へ、終滅へと導くもの。
 だとすれば、あの光景は終滅まで時間を加速させられ、もう進む先がなくなって静止した世界の姿だ。だからKA線を止めるには『弾丸』を、生きた人の時間をぶつけて、相殺する必要があるのではないだろうか。
 熱っぽく乱れる思考も呼吸も収まらない。嘘も真もくるくる踊り、あらゆる考えが戦慄に染まって、脳裏を掠めて飛び去っていく。
 それでもあの強烈な光景と香りは、いくつかの事実を私に知らしめてくれた。
 世界はやはり、犠牲という名の切り札を必要としていて。
 世界はやはり、ぎりぎりの薄氷の上に成り立っていて。
 世界はやはり、ゆるゆるとした終末の真っ只中で。

 世界はやはり、それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれっきりの場所だった。
 もう、どんな現実逃避も、しようがない。
「どうしようね、いっちゃん」
「どうしような、ゾゾエ」
 それだけ呟いて、お互いに顔を見合わせてみても、考えらしい考えはひとつも思い浮かばなかった。ただ同じ絶望に打ちひしがれていることだけ、わかった。
 やがて整った息を薄く吐いて立ち上がり、私たちは力なく山を降り始めた。
 中二病はなんの役にも立たなかった。面白がれる余地なんてどこにもなかった。
 いっちゃんは死ななければならない。
 あの大いなる絶望を止めるために、世界と人々を救うために死ななければならない。
 苦しみや痛みに抗ったいっちゃんのかけがえのない人生を握り潰すことになろうとも、世界にはそうするだけの理由がある。

 何百万もの人をあの灰色で塗り潰さないようにするには、一人の事情を慮っていられない。
 だから――いっちゃんの死を認める? それを受け入れる?
 頭も身体も疲れ切ってしまっていた。突きつけられた拳銃のような現実から目を背けるのが精一杯で、そんな大事をどう受け入れるかなんて考えられなかった。
 横を歩くいっちゃんの背は丸く、怪我でもしているかのように足取りが重い。キャップの庇はずっと下向きで、小声でなにかを呟き続けていた。
 掛ける言葉が見つけられない。断頭台の上でギロチンが落ちようとしている人に、どんな言葉を掛けたら正解なのか。その解は存在するのだろうか。
 こんな場所来なければよかった。根拠もなく大人と社会を疑い、あてのない希望を抱いて、そんな浅学と浅慮だけで私はなにを見て、なにを覚悟しようとしたのだろう。

 心が弱く頭も悪く、ただでさえ怯えるものの多い世界でこのうえ恐ろしいものを増やしたところで、できることが増えるわけないのに。残り少ないことがわかっている時間を、ただ親友を傷つけるために浪費してしまった。この責任をどう取ったらいいのだろう。
 かつてない罪悪感に震え、申し訳無さで反吐を戻しそうになりながら歩いていると、遠くから虫の羽音のような甲高い音と、男の人の声が聞こえてきた。
 顔を上げると、緩いカーブの向こうに、行きにはいなかったおじさんが二人、それぞれに乗ってきたらしいバイクの傍らで楽しそうに談笑していた。
 いっちゃんもそれに気がついたようで、少し立ち止まった。なにも言わなかったが、表情と視線の動きだけでいまは誰とも関わりたくないという意思が感じられた。

 顎でしゃくって道の反対側を示したので、それに従っておじさんたちを避けるように大回りで歩き出した。
 おじさんたちはガードレールの向こうの方に視線を向けたまま、大声で熱っぽく喋り合っているので、私たちには気づかないようだった。手元を見ると二人ともコントローラーのようなものを握っていて、視線の先には二機の小型ドローンがぶんぶん飛び回っていた。虫の羽音の正体は、どうやらあのドローンの羽音だったらしい。
「いやー、ここほんと穴場っすね先輩。電波感度めっちゃいいから飛ばしやすいですよ」
「だろ? この辺は誰も住んでないから建物もないし、電波を出すものもないからな」
「空白地帯の外縁なんて、目の付け所が通ですよねえ。線量もアプリでちょこちょこチェックしとけばいいですし」

「そうそう、KA線なんかチェックさえしとけば平気だよ」
 KA線なんか? そのKA線のためにいっちゃんが死ななきゃいけないのに!
 軽率な言葉を吐いてへらへら笑う能天気に腸が煮えくり返り、思わず大声を上げそうになったが、拳を握り締めてなんとか堪えた。こんな場所を遊び場にしているような人たちに、私たちの気持ちなんてわかるはずはない。
「まあ今日日ドローンを飛ばすのも、高度制限やら使用制限やらがある街中じゃ一苦労……」
 先輩と呼ばれていたおじさんがドローンを手元に戻し、バイクの荷台からなにかを取り出そうと振り返ったので、私たちに気づいてしまった。やはりこんな場所を他人が歩いているとは思わなかったようで、うおっと声を上げながら少し仰け反った。

 胸の内に湧いた不快感を隠し切れず、眉を顰めながらもその視線を無視して通り過ぎようとしたが、案の定その人に話しかけられてしまった。
「おいおいおい、君たちどっから来たの? まさか、この上まで行ってきちゃったの?」
 その声に反応して、もう片方のおじさんもドローンを操作しつつ、こちらに振り返った。
「わっ、女子大生……女子高生? なんでこんなとこに?」
 私たちが気になるのか、近くを旋回させていたドローンをバイクの側に着陸させて、不躾な視線でこちらをしげしげと眺め回す。
 嫌だ、なにも喋りたくない。そう思いながら横のいっちゃんの顔を見ると、病人のように真っ青な顔をしていた。
 いま他人に構う余裕なんてまったくない。私はいっちゃんの手を引いて足を速めたが、その後ろからおじさんたちはなおも声を投げかけ続ける。

「おーい、こんなとこ子供が来ちゃ駄目だよー。この先が空白地帯だって知ってるだろー?」
「君たち、徒歩かー? よかったら、おじさんたちが麓まで送ってあげようかー?」
 うるさい。その言葉が優しさからなのか、それとも野次馬根性からなのかを判断することさえ煩わしい。どうだっていい。
 私たちはなにも答えず歩き続けているのに、おじさんたちは送ろうかだの、どうしてこんなところにだの、同じ問答を繰り返す。
 うるさい、うるさい。お願いだから構わないで、ほっといて。
 全力で遠ざかろうとしているのに、その意味が伝わっていないのか、無視しているのか。
 いつまでも私たちに話しかけようとし続ける声に、ついにいっちゃんが振り返らないまま、大声を張り上げた。
「うっせーな! てめえらは一生ドローンで遊んでろよ、クソが!」

 その刺々しさはいつもいっちゃんが中二病で演出したものとは違う、本物の怒りによる棘だった。それに刺されておじさんたちはようやく引いていった。後から不満げな声が聞こえたが、無視した。
 いっちゃんの瞳には僅かだが、確かに涙が揺れていた。激しい怒りの表情を浮かべ、ほとんど泣きかけていながら、唇を固く噛んで堪えていた。
 この世の理不尽は暗殺者のようにどこにでも潜み、どこからでも飛びかかってくる。
 なぜ、このタイミングであんな人たちがこんな所にいたのか。
 なぜ、追い詰められたいっちゃんに止めを刺そうとするのか。
 あれに人の心があるのか。もしあるのだとしたら、全人類が無邪気な理不尽を常に孕んでいて、暗殺者足り得る殺傷力を持っていることになる。誰からも、いつでも刺される。

 そんな理不尽に抗う方法も、どん底まで深まった絶望を忘れる方法もわからず、これ以上傷つきようがないほど傷を負ったいっちゃんの手を、ただ引くことしかできなかった。荒れた山道に何度も足元を滑らせながら、黙りこくって歩いた。
 私はやはり、無知で無力だった。無能で無価値だった。
 いっちゃんが秘密基地で絶望を吐露して泣いた時、なにかひとつでもしてあげられたらと思った。たとえ現実を変えることはできなくとも、その心を少しでも救えたらと思った。
 しかし私ではなにひとつ、どうにもしてあげられない。ほんの少し護ることも救うこともできない。あらゆる方向から襲い来る理不尽と相対するには、私は役に立たない。
 私たちは無言のままバスを乗り継ぎ、電車に乗って帰路に着いた。

 たった一日限りの反抗期。非日常。
 思いつきだけで飛び出した日常の外側は、残酷な場所だった。
 夕暮れていくボックスシートに沈み込み、徐々に建物が増えていく車窓の景色をぼんやり眺める。平和な街並みは他人事のように日常を描いていて、平和そのものだ。
 でも元の街に帰ったところで、そこにもう日常はない。行きに分水嶺と感じられた運命の分かれ目に対する感覚は正しかったが、その自覚は遅すぎたようだ。
 この列車に乗った時から、いっちゃんの告白を受けた時から、いや召集令状が届いたその日からいまに至るまでの出来事はすべて決定づけられていて、揺るがしようがなかったのだ。スーパーパスポートの意味を悟った時に浮かんだ、陰惨な二文字がまざまざと蘇る。
 鳥籠。私たちはどこまで行っても、どこにも行けなかった。

 急行列車を降りて中央駅の雑踏を抜けて電車を乗り継ぎ、最寄り駅から自転車を引いて歩く道すがらすれ違う他人が纏う空気は、昨日と変わっていない。どこまでも平和で、いつもどおりの光景だ。
 これを薄情と感じるのは筋違いかもしれない。悲劇のヒロインぶっているのかもしれない。
 それでも何食わぬ顔をして談笑し、明日が来ることを当然のものと信じ切って、先々のために行動し続ける無辜の他人にもはや憧憬も羨望もなく、怪物にしか見えなかった。
 希望とは、暴力だ。それに目を窄めることでしか相対することができない弱虫のことなんて考えもせず、真夏の太陽のように容赦なく照りつけてくる。
 さあ、前向きに。ほら、明るく元気に。頑張ろう、頑張ろう、頑張ろう。

 ああ、道行く皆様、この子は今週末に死ななければならないのですが、そういう時はどのように気を持たせたらよいのでしょう。
 私はこの子がいないと、この先に希望を見出すことはできそうにありません。そういう時はどのように希望を探せばよいのでしょう。
 からから、からから。こんな滅茶苦茶な問いに答える存在などあるはずもなく、自転車の空転音だけが虚しく耳に響く。
「なあ」
 玉川橋の途中、後ろを歩いていたいっちゃんに呼び止められた。振り返る。
 怒っているのか、悲しんでいるのかわからない表情のまま、ぬるい風に吹かれている。
 喜怒哀楽が行方不明で、能面のような顔だった。
「僕は――なんのために生まれて、なんのために死ぬんだ?」
 奈落の底から響いているかのような低い声から、ひしひしと怒気が伝わってくる。

 無色透明な表情は感情がないのでなく、ただぶつけどころのない強い怒りが臨界を超え、どのようにも形作れていないだけだった。
「今日まで蹴っ張って生きてきた。一生懸命生きてきたんだ。でも結局クソみたいな家族に負けて、政府や大人に負けて、〝世界の真実〟にも負けて……意味なんてなんにもなかった。そんで誰も彼もにバカにされたままあんなクソ砲台に詰め込まれて、さっきみたいなクソ共が楽しく暮らせる世界を救うために死ぬのか? 僕が生まれた理由はそんなんなのか?」
 いっちゃんはそう吐き捨てるやいなや自転車を放り出し、狂ったように野太い叫び声を上げた。長く、悲痛に、頭を抱えて叫ぶその様を見てはおれず、手を差し伸べたが、鋭く振り払われた。
 理不尽と恐怖に耐えに耐え、叫び出したいのをずっと我慢していたのだろう。

 張り詰めた糸のように細くデリケートになった理性をなんとか保ち、この瞬間まで冷静に振る舞っていたいっちゃんの強さには畏怖さえ感じられる。
 それでも数々の不条理に、ついに耐え切れなくなったのだろう。
 いっちゃんは泣きながら半狂乱になって、欄干を滅茶苦茶に蹴りつけ、喚き散らす。
「限界だ、限界だ、もう限界だ! 全部全部クソだ、クソッタレだ! 死にたいって言や神妙ヅラで駄目だって抜かして、生きたいって言や召集令状! どいつもこいつも僕に背負わせるだけ背負わせて、なのになんの責任も取らないで……なんなんだよ、ちくしょう!」
 金属のごいんごいんと響く音が大切なものの壊れていく音みたいで、ひどく胸が痛んだ。
「僕のこれはただの中二病か、メンヘラか、それとも悲劇のヒロイン気取りか⁉

誰だってこんな目に遭い続けりゃこんなんにもなるってんだ、そうだろ!」
 奇異の目で通り過ぎていく人々と、じんじん痛む手を見比べながら、触れることすらできなくなった絶望を目の当たりにしても突っ立っているしかない自分に、燃えるほど慚愧した。
 生まれてきた理由を奪われ、死ぬ理由さえ満足いかない人が、ここにいる。
 そこに侘びも感謝もなくのうのうと暮らす人の浅ましさを知って、それが今日までの自分の姿だったことを知って、恥と後悔を散々噛み締めて、その上で相も変わらずただ親友の前に立ち尽くすだけの薄馬鹿には、答えられることも、できることもなかった。
「もういい。なにもかも押し付けられてクソみたいに死ぬくらいなら、バカにされたままこんな世界を救わされるくらいなら……バカの極みを選択してやる。

どんなに強い力でも、選ぶ意思までは止められないってことを見せつけてやる」
 バカの極み――それがどんなことを意味するのか。
 そういうことだけはおそらく、私が世界で一番詳しい。
「応召する前に、自殺するってこと?」
 私の問いかけに、いっちゃんはせせら笑った。
「死ぬって結果はおんなじだ。僕の命は誰がどう説教を垂れたって、もう軽くて仕方ない。親も先公も国も世界も、みんながみんな命の尊厳を説くくせに、僕は今週末そんなみんなのために死ねって? 反吐が出る矛盾だ! どうせ死ぬなら、どう死んだっていいだろ⁉」
 烈しい言葉を吐くいっちゃんの頬を伝う涙は、黄昏の緋色に染められて血のように見えた。
 いいも悪いもない。いっちゃんの言うとおり、意思を止めることなんて誰にもできるはずがない。

 ここで引き留めようがどうしようが、死ぬ結末も変えられない。
 しかしその答えが示された途端、私の頭にずっとかかっていた霧がさあっと晴れていった。生まれてこのかた纏まることのなかった思考が、初めて明瞭になる。
 決して望んではいけなかった禁忌の願望。
 でも心のどこかでずっと燻っていて、それこそが救済だと信じて生きてきた、その願望。
 思わず変な笑いが零れた。身体が勝手に揺れて、どうにも止められない。
 私も狂ってしまったのだろうか。それでもいい。答えがひとつだけ、見つかった。
「おい、なに笑ってんだ」
 いっちゃんが鬼の形相で睨みつけてくる。でも確かな答えを掴んだいま、もう怖くない。
 この答えがどんなに間違っているとしても、いっちゃんを一人ぼっちにさせないために。
 私は自嘲を僅かに漏らしながら、夕空を仰いだ。

「本当に自殺するつもりがある人はね、わざわざそれを他人には言わないっていうのが普通なんだよ。引き止められたり怒られたりするのは、心底面倒臭いからね」
「……なにが言いたい」
 腰を低く落としながら、いまにも噛み付きそうな猛獣を思わせる剣呑さを纏ういっちゃんが睨みつけてくる。
 永久凍土のように冷たく凝り固まって、私の希死念慮を防ぎ止めていた枷が失われていく。喉元に刃を突きつけ続けていた絶望も、生温いチョコレートのようにどろりと溶けて心内を満たしていく。
 私が狂っているのか。いっちゃんが狂っているのか。そんなこと、もうどうだっていい。
 この終わりかけた世界で平然と営まれる人間社会だって、十分狂気の沙汰だと思える。

 そこに住まう不可避の最終兵器〝心〟を持つ怪物たちは、誰も彼も理解不能でただ恐ろしく、逃げることもできず、いつ襲い来るとも知れない矛先を変えることすらできない。
 このまま最低な日々を狂うことなく、真面目に暮らしていかなければいけないのなら。
 ここがどんなに恵まれた場所だとしても――地獄だ。
 仰いだ空から視線を降ろし、いっちゃんの瞳を真正面から見据え、微笑む。
「一緒にいる、って言ってるじゃん。いっちゃんがそうするなら、私もそうするよ」
「お前……」
 いっちゃんが目を丸くする。心底驚いたのか、猛獣のような怒りもすっと掻き消えた。
 いっちゃんが絶望に狂うのなら、私も同じ絶望に染まって狂う。
 いっちゃんが世界を憎むなら、私も憎む。
 いっちゃんが死ぬのなら――私も死ねばいい。

 もはや生きていくために必要だった気力も、条件も、現実逃避も、一切を喪失した。
 地獄を一人で生き抜く力は、私にはない。
「私も別に、いっちゃんのいない世界なんて、生きていたくないよ。クソみたいな依存だし、こんなのが友情って言えるのかわからないけど、でも、ほんと、生きてられないよ。だから一緒にさようならしちゃおう。こんな息苦しい場所じゃなくて、もっと遠いところに行こう」
 自分で放ったその言葉は円錐形になって、胸の内の深くにずぶりと突き刺さった。
 恐ろしいことを口にしているはずなのに、怖いとも、嫌だとも感じない。
 打ちのめされ、疲れすぎてしまって、もう感覚が麻痺しているのかもしれない。
 怒りに猛っていたいっちゃんの威勢は急速に失われ、ふらふらとこちらに歩み寄り、ゆっくりと抱きついてきた。

「……やっぱ、生まれてこなきゃよかったなあ、僕なんて」
 絶望の化身になってしまった親友を受け止め、ぎゅうと抱き締め合う。
 痺れるほどの力でこんなにくっついているのに、どうにも空虚が埋まらない。
 ただ悲しくて、寂しくて、辛い。
 足の裏に地面の感覚がない。生きている実感がない。
 なにもかもがもっともらしく、それでいて嘘くさい。
「そんなことない。私はいっちゃんに会えて、よかったよ」
 もはや声だけが確かな感覚だった。
 私たちはすっかり陽の落ちかかった堤防道で自転車を引きながら歩き、家路に就いた。
「応召は金曜の朝六時だ。だから、その直前に死のう」
「わかった、金曜だね」
 そして薄暗くなったいつもの交差点で手を振り合った。
「じゃあ、またね」
「おう、またな」

 私はきっといつものように、自然な挨拶で別れた。
 そうやって別れて、少しばかり寂しくても、ちゃんと明日もいっちゃんも来てくれると無意識に信じていたから。それがついさっき嫌悪した怪物たちと同じ思考回路であることには、気づきもしないで。
 明日は来ても、いっちゃんは来ないことがわかるのは、月曜日になってからだった。

『隕石なんて落ちてこないから、
クソみたいにゆっくり死んでいく』
を購入する

BOOTH売り場

2.だからクソみたいに ― Fly out ―

読了時間の目安 約189分
文字数 75,636文字

 朝起きてみると、夢に掘り返された劣等感が身体中を駆け巡っており、普段から悪い目覚めをいっそう悪いものにしていた。
 枕元で充電していたスマホの電源を入れて時間を確認したら、十時をとっくに過ぎていた。毎朝目覚まし機能を頼って起きていたのに、寝しなに電源が落ちたことを失念していた。
 鳴らなかった目覚ましのスヌーズ機能の通知、いっちゃんからのモーニングコールと思われる着信が十二件、先に行くことを詫びつつ応答のない私を心配する内容のメッセージが一件入っている通知が、ホーム画面にどっと表示される。
 自分にうんざりしつつ、申し訳無さで重みを増す身体をのそのそと起き上がらせた。

 普段であれば、天地がひっくり返ったかのように騒ぐところだ。学校へ行けば先生からの叱責、家に帰った後には母からもそれを受ける憂鬱が、他人との衝突を嫌う性分と排斥し、反吐を戻しそうなほど喉を絞り上げられるからだ。
 そのはずだが、今日の私はどういうわけか落ち着き払っている。なにかひとつでも手落ちがあるとわかれば、おろおろして解決を見つけられない頭を抱えるのが常で、建設的に対処することも潔く諦めてしまうこともできない。そんな私がごく自然に後者を選び取っている。
 もたもたと制服に着替え、顔を洗って歯を磨き、髪を整えながらその理由を探してみれば、実に簡単なことだった。いままで死守しようとしていた日常が、壊れてかけているからだ。

 毎日些細なことや学友程度のなんでもない相手にさえ、息が詰まるほどの焦燥を以って折衝を避けるのは、失敗による日常の破壊を恐れるからだ。
 どんなに小さなことでも、言い合いになったり、人と違うことをうっかり言ってしまったり、気づいてしまったりしたくない。そういう差異でのせいで誰かに嫌われたくない。より正確に言えば、敵に回したくない。ごく一部の友人を除いて誰かを好きになったり、好きになってもらったりしようとは思わない。ただ敵対することを避けたい。
 だから物事には同意と留保を駆使して応え、存在感を持ちすぎず、それでいて相手を不快にさせない程度には自己を示す。不器用で後ろ向き、ひどくデリケートで臆病な自分を守りながらも社会や現実と付き合うため、そんな処世術で生きてきた。

 なぜこれほど深海魚のように水底へ沈み込むことに固執するのかと言えば、明日も明後日も、ともすれば何年もその人々と接さなければならないかもしれないからだ。
 たとえば僅かでも衝突があった相手と、明日も同じ教室で顔を合わせる。そういうことが耐えられない。一度こじれてしまった相手とどう向き合えばいいのか、皆目見当もつかない。
 他人の喜怒哀楽がなにひとつわからない私には、ひどく殺気立っているようにしか見えず、恐ろしくて、ただ恐ろしくて、二度とその人には触れられない。同じ空間にいることさえできない。関係を修復するなり自己弁護で開き直るなり、対処の方法がいくらでもあるのはわかっている。しかし恐ろしさがそれを上回り、どんな手段も実行できない。

 そしてこんな性分を抱えていても、やはり孤独には耐えられず、現実に足を着けて誰かといたい欲求が少なからずある。だから深く潜航するように、人の隙間に潜り込むようにして生きてきたのだ。
 そんな私が、よもや怒られることを恐れなくなるとは。強大なものと信じ込んできた日常が、想像以上に呆気なく瓦解するものだと実感する。
 これはいけない傾向だ。常人相当の感覚を身に着けた結果ならともかく、やぶれかぶれになっているのとさして変わらない。洗面台の鏡に映った自分の両頬をぴしゃっと叩く。
「しっかりしろゾゾエ。いまは現実から逃げてる場合じゃないぞ」
 土日をまるまる潰してKA線について、そしてそれに対する他人の向き合い方について調べたが、ネット上に答えはなかった。やはり当事者のことは当事者にしかわからない。

 なにはともあれ、いまできるのは学校へ行き、いっちゃんと話すことしかない。自分で自分にしっかりと言い聞かせ、台所に向かった。
 自動車用部品製造会社に事務の契約社員として勤めている母はとっくにいなくなっており、テーブルの上にはすっかり冷めたトーストとインスタントの冷製トマトスープ、そして〝昼食代〟とだけ書かれたメモの上に五百円玉が置かれていた。
 即物的に表現された母の愛情を口に詰め込むようにして食べ、五百円玉をポケットに突っ込み、家を出る。そしてマンションの四階からエレベータで降り、駐輪場に停めてある自転車に跨って、いざ走り出そうとした時だった。後輪にガラス片らしいものを踏んだ感覚があり、次いでぱすんと間抜けな音がした。
「げ、こんな時にパンク?」
 降りて確認してみると、やはり空気が完全に抜けてしまっていた。

「ついてないな……」
 溜息を漏らしながら出しかけた自転車を元に戻す。学校へは歩いて行くしかなくなった。
 マンションの敷地を出て左手の方向に向かって歩く。するとすぐにいつもの交差点があって、これも左手に折れて真っ直ぐ行くと、堤防道へ登るスロープに続いている。
 いつもより二時間遅い月曜日の風景は、毎日見てきたそれとひどく違っていた。朝の慌ただしさがなくがらんとしていて、随分と間延びして見える。日曜日の昼下がりのような長閑さに似ている気もするが、もっと寂しさというか、空虚さというか、なにかが欠け落ちたような感覚が強い。
 そんな景色をぼんやりと眺めるうち、当たり前すぎて意識していなかった、決して欠けてはいけない存在がないことに気がついた。
「ああ、これ……いっちゃんがいないのか」

 独り言ちるとともに、思わず息を呑む。なんと凄絶な光景だろう。よく見知っているはずの、親しみを感じてきた通学路なのに、いっちゃんがいないだけであまりにも空々しい。
 いっちゃんはまだいなくなっていないし、きっと学校に行けば会える。いっちゃんが風邪で休んでいた時にだって、いちいちこんなことを考えなかった。
 これが、いっちゃんのいない風景。たまたま一緒にいないこの瞬間が、なによりリアルだった。いつもなにかしらの不安を抱えている私だが、こんなに心細い思いで通学路を歩くのは初めてだ。よりによって自転車もパンクし、さっと駆け抜けてしまうこともできない。
 いつの間にか、私は走り出していた。
 抜けるような秋晴れの青空も、いつもは癒やされる街路樹の百日紅もすべてが恐ろしく、通い慣れた住宅街の路地が迷宮のように感じられた。

 走りながらべそまでかいていたせいか、すれ違った犬の散歩をしているおばあさんが怪訝な顔でこちらを見たが、構っていられなかった。
 ぜいぜい、はあはあ。荒ぶる呼吸が喉や肺を痛めつける。
 どんなに必死に足を動かしても自転車ほどのスピードは出ない。残夏が居座る憎たらしいほどの快晴に照らされたアスファルトの熱暑が、全身をじりじり焼いて私を追い詰める。
 脚を痛めて以来、走ることに抵抗を感じるようになって、元陸上部とは思えないほど走れなくなった。溺れるように息ばかり苦しくて、ちっとも前に進んでいかない。出掛けに詰め込んだトマト味の朝食が、酸っぱくなって喉元まで迫っていた。
 爆発しそうな鼓動の苦しみに耐えてスロープを駆け上がり、堤防のカーブに差しかかったその時、不意に視界が開けてあの砲台が見えた。
「うっぶ――」

 途端、食道に迫り上がる異物感を抑え切れなくなり、ついに朝食を道端へ全部ぶち撒けた。
 半分以上原型を残したままの食パンと真っ赤なトマトスープが、二度三度と拍子をつけながらびしゃびしゃと吐き出され、内蔵を吐瀉しているようなグロテスクを描きながら草むらに染み込んでいく。たまたま誰も通りかからなかったのは不幸中の幸いというほかない。
 咳き込む口元を手の甲で拭い、にわかに熱っぽくなった頭をふらつかせながら立ち上がる。
 すると、またあの砲台が見えた。
 世界の救世主。この街をちゃんと街たらしめるための生命維持装置。それでいて、いっちゃんの死神。
 これからあの砲台を一緒に茶化せる相手が、いない。
 毎日目にしてしまうのに、ふと心に思い浮かんでしまうのに、これからどうしよう。

 泣きべそはすっかり泣き声に変わっていた。どうしよう、どうしようと、いくら考えても、答えはない。いつだってそうだ。私の人生はなにひとつ答えが出ない。いつも一応考えてはみるものの、どうせ答えは出ない。
 わからないことをわからないままでいいと開き直れたのは、いつもいっちゃんが隣にいてくれたからだ。
 たとえ誰とも仲良くなれなかったとしても、いっちゃんだけはずっと一緒にいてくれる。
 私が嘘吐きで逃げ腰で現実逃避ばかりのクソ野郎でも、ケラケラ笑って隣にいてくれる。
 他人との距離感に怯える私は、それでやっと生きてこられたのだ。私にとっての日常とは、そういうものだったのだ。
「ああ、私、やっぱり……いっちゃんがいないと、生きていけないんだ」
 肩で息をしながら、私はふらふらと歩き出した。

 もはや授業なんてどうでもよかった。ただ、そこにいっちゃんがいる。そういう理由だけで、私は学校に向かった。

「きゃあっ! 向島さんどうしたのっ、血まみれじゃないっ!」
 二限目も半ばを過ぎたあたりの教室に入った途端、社会科担当の中山先生が悲鳴を上げた。
 そう言われてから改めて自分を見ると、白い夏服に吐いたトマトスープがあちこちに跳ねかかっていた。
「どうしたゾゾエ、車にでも撥ねられたのか⁉」
 誰より早く、いっちゃんが駆け寄ってきた。
「あ、や、これは大丈夫……朝ごはんで飲んだトマトスープを途中で吐いただけだから……」
 うまい言い訳を思いつかず、もごもごとあったままのことを言うと、中山先生は大きな溜息を吐いて、クラス中がどっと沸いた。

「もうっ、びっくりするじゃないの! とにかく、誰か保健室に……」
「大丈夫です、僕が連れていきます」
 入ったばかりの教室をいっちゃんに連れられて引き返した。背中のほうでまだクラスメイトが何人か笑っているのと、先生が手を叩いて授業を続けますよという声が聞こえた。
 いっちゃんは安堵したように息を吐いて、私の背中を叩いた。
「ったく、びっくりさせやがって。そのザマはどうしたんだ。ヤクザの事務所にカチコミかけた鉄砲玉みてーじゃないか」
「ごめん……」
「いや、まあ、そんな深刻に謝んなくても……。ほんとにどうした? お前がガチな遅刻をするなんて珍しいじゃないか。電話にも出なかったし、心配してたんだぞ」
 悲惨な私の姿をしげしげと眺め回すいっちゃんの後を、俯いたまま黙って歩く。

 あんなに会いたいと思っていたのに、いざ会ってみると今朝方に煩悶した恥や後悔がむくむくと蘇ってきて、なにを言えばいいのかわからない。
 急速に頭が冷えてきて、泣きじゃくりながら吐くまで走った自分がいかにも芝居めいていたように思えて、恥ずかしくなってくる。
 友人一人についてこんなに思い詰めるなんて、やはりおかしいのだろうか。世間のみんなは、こんなふうじゃないのだろうか。
「なあ、ほんとに大丈夫か? どっか悪いんじゃないのか?」
 いっちゃんが訝しみながら心配そうな声をあげる。そこでやっと自分の態度がまた妙な印象を与えかねない失態に気づき、努めて明るい声を捻り出す。
「全然大丈夫! 吐いたのはほら、食べてすぐ猛ダッシュしたからさ」
「チャリで?」
「ううん、自転車は出掛けにパンクしちゃって」

「なら吐くまで猛ダッシュしなくても。どんなに走ったって遅刻じゃん」
「そういえばそーだよね。なんであんな死ぬほど走ったんだろ。ウケるね」
 あはは、と慣れない作り笑いで釣られ笑いを誘ってみたものの、それには応えてくれず、訝しんだ表情を変えられないまま保健室に着いてしまった。
「二年四組の日ノ宮です。向島さんの具合が悪そうだったので連れてきました。あ、この赤いのは血じゃなくてトマトスープらしいっす」
 デスクで書き物をしていた保健の先生も私の姿を見るなり目を丸くし、あらら大丈夫 と声を掛けながら私を丸椅子に座らせて、淀みない手付きで体温計を脇に挟んだ。
 ほどなくして検温の終わりを知らせる音が鳴り、結果を見た先生は私の身体のあちこちを診ながら問いかけてきた。
「うーん、熱はなさそうだけど。身体の具合はどう?」

「平気です。遅刻しそうになって、食べてすぐ走ったから気持ち悪くなっただけで……」
「そう、それは確かに良くないわね。まあ大丈夫そうなら授業に戻ってもいいけど、どうする? 少し休んでいく?」
「あ、それなら戻ろ……」
「いや、休んでったほうがいいと思います」
 私の言葉をいっちゃんが遮った。
 先生は少し不思議そうな顔をしたが、そこで内線の電話が鳴った。どうやら職員室に呼び出されたらしい。
「ごめんね、先生はちょっと行かなきゃいけないから。日ノ宮さん、向島さんのこと、お願いできる?」
 いっちゃんがわかりましたと答えて頷くと、先生は軽く頭を下げて保健室から出ていった。

「どうしたの? 私、ほんとに具合は……」
「そのスプラッタ姿のままじゃマズいだろ。体操服持ってるよな? まずは着替えたら?」
 そう言われて一限目の体育で使う予定だった体操服のことを思い出し、自分の姿に改めて悄然としながら着替えた。そして、精一杯元気そうな表情を取り繕った。
「おまたせ。気遣ってくれてありがとね。それじゃ、戻ろっか」
「いや、戻る前にひとつ聞かせてくれ」
 するといっちゃんが突然ぐいと腕を引っ張った。
「なっ、なに⁉ 急にびっくりするじゃん!」
「なんの意味もなく血反吐を吐くまで走る奴を、大丈夫とは言わねえんだよ。お前、さっきからどうして僕の目を見ないんだ?」

 正面に回り込んだいっちゃんが顔を近づけて、怒ったような表情でじっと見つめる。その視線が無理矢理合わせられるまで、ずっと目を逸らしていたことに気づいていなかった。
「血反吐は吐いてないよ。トマトスープだってば……」
 あんなに会いたいと思っていたいっちゃんの手が恐ろしくなって、私は掴まれた腕を振り解こうとした。するとその握力は余計に強まり、逃げ出そうとする私を許さなかった。
「そのつまんねえネタはもういいから」
 いっちゃんが追求をやめる気配はない。やはり下手な嘘はバレバレだったらしい。私はつくづく衝動的で浅はかな自分に嫌気が差した。少なくともいっちゃんになにを聞きたいのか、この感情は隠しておくのか、それくらいは決めておくべきだった。

 直情的に行動して悪目立ちする羽目になり、いっちゃんにも詰問される。ここに至って恣意的に巧みな嘘を吐けるほど器用でもないのだから、観念する以外に道はない。
 私は黙ったままいっちゃんを指した。それだけで理解してくれたらしく、手を離して呆れたように頭を掻きながら窓の方を向いてしまった。
「ったく、ゾゾエは本当に……バカだなあ」
「バカだよ! だって……もう時間がないんだよ⁉ だから考えて、考えて、考えて……」
「で、なんか答えは見つかったか?」
「なにも……わからなくて……」
「そりゃそうだろ。召集命令はどんなことがあったってひっくり返らない。どんなに考えたって無駄だ」

「無駄って……じゃあなにもしないで、なにも考えないで、静かに待ってろって言うの?」
「だって、しょうがないじゃんよ……」
 そう言いながら、いっちゃんは苦しそうな表情で俯いた。
 昨日母も言っていた〝しょうがない〟という言葉は、どんな絶望もサラリと流す万能魔法だ。その一言を言えば世の理不尽もなにもかも、まさしく〝しょうがない〟のだ。
 それを〝しょうがない〟で済ませることができるようになれば、晴れて大人の仲間入り。
 人生を貫通させるほどの威力を持つ辛さ、悲しさから身を守れる、無敵の装甲板になる。
 でもそうするとあの母のように、どんな重大なこともいつか忘れてしまう。

 〝しょうがない〟から印象が薄まるのだ。そうでなければいつでも心内を辛苦が席巻し、生きるのが辛くなるから、忘却によって薄めるしかない。それこそが賢く生きる大人の処世術なのだろう。
 私はそんな大人に、まだなれそうもない。
「〝しょうがない〟は、嫌なんだ」
「嫌ったって……」
「土日まるまる考えて、わからないってことはわかったよ。いっちゃんのことも、なにもわかってなかったんだと思う。だから……知りたい。死にたいって言い続けてた意味や理由を知りたい。友達なのに目を逸らしてた私が今更言っても、って感じだけど……」
「ゾゾエ……」
 いっちゃんが顔を上げ、悲しげな眼差しをこちらに向ける。

 私は丸椅子に座ったまま、ハーフパンツの裾をぎゅっと握り締めた。
「ごめん……私、変なこと言ってるよね。だからネットで調べたいろんな人と自分を比べてみたけど、やっぱりどうしたらいいのかわからなくて、でもしょうがないで済ませちゃうのだけは、どうしても嫌で……」
 まとまらない考えを口にするうちに、知らず泣き出していた。今日は泣いてばかりだ。いい歳をして情けない。
 こうやって泣き出したくなるほど、他の人と自分の違いも、いっちゃんのこともわからない。だからこそこんなふうに惨めに泣かないよう、考えることをずっと避けていた。
 難しいことを考えなくとも、とりあえず生きていけるのなら、それでもいい――そういう生き方は、やはり間違っていたようだ。
「お前は変じゃないよ。ゾゾエはちっとも悪くない」
 いっちゃんが静かに肩を叩いた。

「僕こそ、ごめん。やっぱり黙ってりゃよかったんだ。こんなに悲しませたり、悩ませたりするくらいなら……」
「そんなこと言わないでよ。もしなにも知らないまま、急に来週いなくなってたら……私、いっちゃんの友達だったのかどうかさえ、わからなくなる」
「ああ、そっか……そうだな」
 それだけ言うと、いっちゃんは黙り込んだ。
 そのまましばらく、私が泣き止むまで待っていてくれた。ほとんど私から目を逸らさずに、でも、私を見ているふうでもなかった。なにか考え事をしているような。
 やがて二限目の終わりを告げるチャイムが聴こえて、ようやく私たちの時間が動き出した。
「授業、戻れそうか?」
「うん、もう平気。三限目が始まっちゃうね。急ごっか」

 まだ少しだけズルズルと音を立てる鼻を啜りつつ、いっちゃんの後に続いて廊下を歩いた。
「あっ、ゾゾエたちが戻ってきた!」
 教室に入るとローちゃんたちがすぐに気づいて、私の席に駆けつけてきた。
「もー、大怪我したのかってびっくりしたわ。ゾゾエ、大丈夫?」
 ローちゃんが体操服の袖を引っ張ったりしながら、私の身体をあちこち眺め回す。
「大丈夫だよ。さっきも言ったけど、あれは血じゃなくてトマトスープだからさ」
 もう何度も使った言い訳をまた繰り返しながら、私は平静を装って笑った。
「やめやめ、ローさん。いっさんが困ってるにゃ」
「そうだぞミチコ。傷病兵は丁重に扱え。それがジュネーヴ条約ってもんだ」
「なにがジュネーヴよ。こんな時までわけわかんないこと言わないでよ、中二病!」

「ローちゃん、私はほんとに大丈夫だから、そんなに心配しなくても……」
 いっちゃんはきっと私を気遣い、努めていつもどおり振る舞おうとしてくれているだけなのだが、私たちのやり取りを知らないローちゃんにはそれが伝わらない。私のせいでいつもの一戦が始まりそうになり、おろおろしていると、なっちゃんがそれを遮った。
「二人ともうるさい。弱り目の望依を挟んでなにやってんの。しょーもない戦争は昼休みだけにしてよね」
 ピシャリと言われた鋭い一言に二人とも押し黙り、ぷいと横を向いた。それに構わず、なっちゃんがプリントを差し出した。
「はいこれ、来週までの宿題だって。中山先生から預かっといた」
「あ、ありがとう」
 そのプリントを受け取ったところで、ちょうど三限目のチャイムが鳴った。
 現国担当の大島先生が入ってきて、集まっていた私たちに怒声を飛ばしてきた。

「ほらあ、いつまで騒いでんだ。さっさと席に着けっ」
 一喝されたローちゃんたちが慌てて席に戻ってゆき、そこで先生と目が合ってしまった。私だけ体操服姿なので、目に留まったのだろう。
 指されたくないと思って慌てて目を逸らしたが、大柄でのしのしと歩き、いつも仏頂面でやたらと意地が悪いことから生徒の不人気を買って〝不機嫌ゴリラ〟などと呼ばれる大島先生が、そんな私を見逃すことはなかった。
「おい、向島!」
「えっ、あっ、はいっ! な、なんですか?」
「なんですかってことはないだろう。お前、この前も今日も遅刻したそうじゃないか。来週から中間テストだっていうのに、そんなんでいいと思ってるのか?」
「は、はあ……すみません……」
 いまにも爆発しそうなほど心臓が跳ね上がり、また猛烈な吐き気が胃から遡ってくる。

 謝罪はなんの効果もなかったようで、大島先生は大きく鼻を鳴らしただけだった。
「学校をなんだと思っとるんだ、ったく……もういい。じゃ、前回の続きから読んでくれ」
 大島先生は不機嫌を隠そうともせず、手元の教科書をパンパンと手の甲で叩いて無慈悲に言い放った。ページ数を指定されず急に前回の続きからと言われて、私は恐慌に陥った。
 ひとまず立ち上がって鞄の中を探り、現国の教科書を探す。
 けれど焦る手は、たったそれだけのことがうまくできない。
「なんだ向島、授業の用意すらしとらんのか。まったく、いったいどうなっとるんだ!」
 先生の怒声に怯え、剣呑な視線を総身に感じ、焦れば焦るほどに目の前が、頭がどんどん真っ白になっていく。

「ゾゾエ、ほれっ」
 その時、前の席に座っているいっちゃんが小声で教科書を差し出しながら、とんとんと読むべきところを指差してくれた。
 それを受け取り、しどろもどろになりながら読んで、ほうほうの体で席に座った。
「ごめん、ありがと」
 まだばくばくと暴れる胸を抑えつつ、教科書を返して小声でお礼を言う。するといっちゃんはニヤリと笑って小さくピースをしてくれた。
 それがまた大島先生に見咎められて、先生の矛先がいっちゃんに向いてしまった。
「おい日ノ宮、お前も油断してると成績が下がるぞ」
「そうですかあ? でもだいじょぶだいじょーぶ、俺たちに明日はねぇからぁ!」

 いっちゃんは剽げた仕草をしながら、流行っているお笑い芸人のフレーズを真似した。
 それでクラス中がどっと沸いてしまい、収拾がつくまでしばらくかかった。
 そのフレーズで心から笑っていなかったのは、たぶん私だけだっただろう。しかしその騒ぎのおかげで私たちへの追求は有耶無耶になり、そこからは滞りなく授業が進んでいった。
 そうして三限目が終わり休み時間になったので、改めていっちゃんにお礼を言った。
「さっきはありがとね。ほんと助かったよ」
「おーけーおーけー、気にするなよ。しかし今日も相変わらずクソゴリラだったな。普通、どう見ても保健室帰りの奴をあんな槍玉に挙げるか? やっぱあのゴリラはサイコパスだ」
 いっちゃんがサイコパスゴリラの真似、と言いながらおかしな表情で大島先生を散々に貶す姿に笑っていると、ローちゃんがするすると近寄ってきた。

「ねーねー、地理の宿題のプリントさぁ、やってきた? あたし、うっかり忘れてたんだよねぇ。お願い、どっちか見せてくんない?」
 両手で拝みながら、八重歯を覗かせつつ悪戯っぽく笑ってみせる。家で勉強しない主義を標榜するローちゃんは、いつもこうして宿題を見せてくれと頼みに来る。
「へっ、こんな時ばっかりメスになりやがって。お前だけにゃ死んでも見せねえ」
「いいよ、ローちゃん。私のでよければ」
「さっすがゾゾエ、話がわかるぅ! じゃ、借りてくね!」
 しかし私がプリントを手渡そうとしたところでチャイムが鳴ってしまい、地理担当兼二年四組の担任である穂積先生が教室に入ってきてしまった。結局間に合わなかったローちゃんは小さな悲鳴を上げ、さも落ち込んだ様子ですごすごと自分の席に戻っていく。

「はい、今日は……っと、人口問題のところからでしたね。みんな、一一六ページを開いて」
 先生が黒板に『先進国の人口問題と、KA線の影響による人口移動の関係』と書いたところで、前の方に座っている女子が手を挙げた。
「せんせー、宿題のプリントはどうするんですかー?」
「あーそうそう、宿題出してましたね。みんな、ちゃんとやってきた?」
 ぐるり、先生が教室を見渡す。すると真ん中あたりに座っているローちゃんが手をこすり合わせて拝んでいるのが目に入ったのか、くすりと笑った。
「どうやらやってきてない人がいるようなので、プリントの回収は放課後にしましょうか。今日の日直は……向島さんと日ノ宮さんね。申し訳ないけどあなたたちで回収して、あとで職員室まで持ってきてくれる?」

 先生は苦笑しながらそう言った。するとローちゃんが大袈裟なガッツポーズをしながら、大声でありがとうございますと声を張り上げたので、またクラスが沸いた。
 そんな笑声の中、日直なのに遅刻してしまったことを思い出した。だから快く了承する意をいっちゃんと一緒に返しつつその背中を突き、こっそりと謝った。三限目のことといい、今日は謝ってばかりだ。実に情けない。
 いっちゃんは気にする素振りも見せず、気障な笑顔でメロイックサインを返してくれた。罪悪感が募る一方、それだけで心が軽くなって、容易く安堵させられた。
 安堵した途端、土曜日からあれこれ考え続けたせいか、それとも単に寝不足のせいか、急に睡魔が襲ってきた。

 授業中に居眠りをする勇気の不在と強い睡眠欲が拮抗し、人事不省のまま操り人形のようにノートを取り続けた。次第に穂積先生の穏やかな声音が催眠術者のそれに変わり、相変わらずエアコンが壊れたままで記録的に蒸しあがった教室に充満する酷暑の中、どんどん教科書の内容が遠のいていく。
 アメリカ南部の大規模な空白地帯が年々拡大を――特災疎開を受け入れた国では治安問題が――KA線によって著しく人口が減ったイギリスの経済基盤は危険な状態で――オーストラリアやカナダにある穀倉地帯の一部がなくなった影響で世界の食糧事情が――。
 ああ、他人事。先週まで海の向こうの出来事だと思っていたこと。
 夢見心地の身体が浮遊感に包まれていく。
 ふわふわ、ふわふわ。

 アメリカだの、オーストラリアだの、誰か見てきたことがあるのかな。教科書に載ってる衛星写真なんて、グーグルマップの画像を適当に加工したんじゃないの。
 ふわふわ、ふわふわ。
 絵空事なんじゃないのか。でも教科書も先生も、KA線は本当にあるのだと言っていて。
 ふわふわ、ふわふわ。
 みんな、こんなふわっとした話、なんで信じてるんだろう――。

「おい、おいっ」
 水の中を揺蕩っていたような身体が揺り動かされて、一気に現実へ引き戻される。

「いつまで寝てんだ。飯食おうぜ」
 突っ伏していた机から起き上がってみると、いっちゃんが肩に手をかけていた。
 四限目は終わっていて、昼休みに入っていた。
「あ……私、今日はお弁当ないんだった。ちょっと購買行ってくるね」
「そうかい。じゃ、待ってるよ」
 パンの袋を開けようとしたいっちゃんに軽く頭を下げて、鞄に突っ込んだ制服のポケットから五百円玉を取り出し、急いで購買に向かった。
 クリームパンとジュースを買って教室に戻ってみると、クラスメイトたちは相変わらず酷暑に耐えながらほとんど居残っていて、めいめいに喧騒を膨らませていた。真っ赤になってふらふら遅刻してきた私のことなんて、もうすっかり忘れている様子だった。

 みんながいつものように集まって私を待っていてくれたので、軽く謝りつつその輪に混ざる。それから揃ってお弁当を開けた時にローちゃんが切り出した話題も、私の遅刻とは無関係のことだった。
「ねえ、さっき授業でKA線の話を聞いてて思い出したんだけど、みんなはこの動画見た?」
「なになに、来クールのアニメ情報とか?」
 ハルちゃんが卵焼きをかじりながら、ローちゃんが差し出したスマホの画面を見遣った。
「じゃなくて、このユーチューバーの動画がガチでヤバイって昨日ツイッターに流れてきてたのよ」
「ユーチューバー? はん、しょうもない動画をシコシコ上げては広告料でケチな稼ぎを続けるアホどもがどうしたって?」

 いっちゃんの毒舌をまったく聴こえなかったかのように無視したローちゃんが構わず再生ボタンを押したので、ひび割れたiPhoneの五・五インチディスプレイにみんなが注目する。(いっちゃんもあれだけ言っておきながらしっかり見ている。)
『どーもー! そこそこ有名なユーチューバー《ヒロヒロ》でーっす! 自分でそこそことか言うなってね! まあまあ、そんなことは置いといてぇ……今回の動画は毎回大好評の、視聴者さんによる投稿協力型企画! 《ヒロヒロ頑張れ! 超頑張れクエスト!》です!』
「なんつーか、このユーチューバー特有のクソ寒い喋りどうにかならんのか、腹立つわー。地味顔がパリピっぽい喋りしてんのが余計に腹立つ」
「まあまあ、ユーチューバーって大体こんなもんじゃない?」
「普段は陰キャないしはキョロ充止まりのお兄さんが、必死にテンション上げて一旗揚げようとしてるんだにゃ。

このいじらしさが可愛い……可愛くない? ねえ、なっさん」
「まあ、せやな」
「ちょっと、静かにして!」
 気がつくと勝手に喋り出す私たちに、ローちゃんが強く注意する。
 動画の再生バーが進むにつれ、徐々にその企画とやらの内容が説明されていく。ようは不定期に視聴者のコメントを参考にして様々なチャレンジをする企画で、時には過激なこともやらかすこのコンテンツを主軸に再生数を稼いでいるらしい。
 そんな前口上が終わったヒロヒロは、派手なテロップとともに今回のチャレンジ内容を高らかに宣言した。
『今回の企画は《ヒロヒロが行ってみた! Z地区ってほんとにあるの?》クエスト~!』

 予期していなかった『Z地区』という衝撃的な単語に、思わず変な声をあげそうになった。
 アルファベットの最後という意味と、この世の最果てという意味をかけ合わせて『指定消滅区域』を指したネットスラング『Z地区』――KA線によって浸食され、地図上で真っ白になってしまった場所のことだ。当然、日本にも何十箇所も点在している。ヒロヒロという青年はそんなZ地区のうち、自宅から最も近い所へこれから向かうと説明している。
 それまでなんの期待感も持たず漫然と見ている風だったみんなも、身を乗り出して小さなディスプレイに食いついている。
「マジで⁉ こいつ、Z地区に行くって言ったかにゃ⁉」
「これはやべえな、やべえよ。Z地区って一般人でも行けるの?」
「ちょっと飛ばしていい⁉ 見てほしいのはこの後だから! Z地区のところだから!」

「やーめやめ、ローさん! ネタバレとかギルティにゃ! ねえ、なっさん!」
「せや……うーん、でも再生時間的に休み時間ギリだし、さっさとオチ見たいかも」
「いーじゃん! ってかさっきまで超くだらねーって感じだったじゃん! なに急にアツくなってんの!」
「これはなんというおまいう。ローちゃんが真っ先にアツくなってたやないかい」
「な、なっさん……結構言うにゃ……」
 三人が動画に色めき立って盛り上がる中、私はこっそりといっちゃんに目配せをした。Z地区の動画を見せるなんて残酷だと思い、視聴をやめさせようかと考えたからだ。
 しかし視線に気づいたいっちゃんは首を横に振り、人差し指を唇に寄せる仕草をした。
 ――黙ってろ、ってこと?

 三人の様子やいっちゃんのサインを見る限り、どうやら招集命令のことをまだ誰にも教えていないようだ。
 どうしてこんな大事なことを隠そうとするのか、その真意は量りかねたものの、この場はひとまずいっちゃんに従うことを選び、なにも言わないことにした。幸いセンセーショナルな動画のおかげで、私たちが妙な動きをしたことに気づく人はいなかった。
 その間に三人が色々と言い合った結果、前半のトーク部分を飛ばして目的地近くの駅に降りたあたりから見ることになったらしい。
『えーここからはですね、Z地区の最寄りのバス停まで行って、そこからは歩いてみようと思いまーす』
 前半を飛ばした動画は、ヒロヒロがバスに乗ってどことも知れない田舎道を進むシーンに差し掛かった。道中はEKA政策やKA線に関する薄っぺらい知識を、彼以外に客のいないバスで延々と喋る様が続いた。

 やがて駅名が読めないほど錆びたバス停で降り、そこからノロノロと山中の道を歩き始める。薄い知識が尽きたらしく、いかにも行き当たりばったりといったふうにアニメやゲーム、芸能情報や最近観た映画のうろ覚えな話を脈絡なく点々として、お世辞にも面白いトークとは言い難い。加えてスマホを手に持って撮影しているようで手ブレがひどく、じっと見ていると酔ってしまいそうだった。
 そんな展開を二分ほど見せられた後、ついに目的の場所に近づいたらしく、鞄からタブレットを取り出してマップを表示する。
『えーとですね、現在僕はこのあたりに来てます。うちから最寄りのZ地区のはずだったんですが、メッチャクチャ遠いですね。超田舎。コンビニすらないとか、マジ二度と来ないわ、こんなとこ。んー、Z地区はもうすぐのはずなんですが……ん?

あ、あれっ、あれ? なんだあれ、看板? あれ看板?』
 なにかを見つけたらしいヒロヒロが走り始めた。元々ブレていた画面はさらに激しく揺れたがすぐに収まり、威圧的な赤い文字が並んだ看板を鮮明に映し出した。
『皆さん、見てください! 《指定消滅区域の為、立入禁止》と書いてあります! えーと《これより先は国際基準値を大幅に超えるKA線が発生しており、防護措置による線量緩和が困難なため、行政による生活管理業務及び施策等が停止された地域です》か……。はい、というわけで、えー、この先がマジのガチでZ地区ということになるっぽいです!』
 動画はついに問題の場面に差し掛かり、私たちの緊張はいよいよ高まっていた。

 ほんの数分前まで世界で一番くだらないものを見ているかのようだったのに、いまは固唾を呑んで画面を見つめ、息苦しくなるほど心臓が早鐘を打っていた。
 横に長い六角形の不吉な看板とともに立てられているのは、工事の時によく見かける橙と黒の縞が描かれたバリケードを並べただけの極めて簡易な境界線で、誰でも簡単に越えていけるものだった。ヒロヒロはおっかなびっくりそれを乗り越えたが、誰が駆けつけてくるでもなく、不気味なくらい容易に奥へ進んでいく。
『えー大丈夫かな。こんなクソ田舎に警察とか来るのかな? でも通報する人……いないよね。まあ誰もいないもんね。うわ、超孤独。やばいやばい。ってか、マジで監視とかしてないのかな? 監視カメラとかなかったと思うけど……誰も見てないのかな?』

 湧き立つ不安に抗い切れないのか、ヒロヒロの口数が加速度的に増えていく。答える人間が一人もいない場所だから、不安を疑問という形に変えて吐き出しているのだろう。
 懸命に自分を正当化したり、励ましたりしながら進んでいくものの、怯えのせいか画面の震えはどんどん大きくなっていく。さながらホラー番組のようなテイストだが、画面の中の時間は真っ昼間、しかも舗装されている国道か県道と思しき道路を歩いているので、お化けはおろか狐さえ出てきそうな雰囲気もない。
 にもかかわらずヒロヒロの怯えようは異様に大きく、しかしなにがそれほど彼を怖がらせているのかがわからない。ただ正体不明の恐怖は画面越しにもはっきりと伝わってきており、みんなの間にじんわりと汗ばむような嫌な空気が立ち込めていた。

 誰かが停止ボタンを押せばいいだろうに、それができない。それは単に好奇心によるものか、あるいは彼のように恐ろしいものを予感しながらも、中途半端のままでは止められなくなってしまった怖いもの見たさ――一種の呪いのせいか。
 唐突にヒロヒロが立ち止まった。
『え……⁉ えっ、えっ、えっ⁉ うわ、うわうわうわ、ヤバイヤバイヤバイ! うわっ、うわっ、うわあああああああああ――っ!』
悲鳴を上げて逃げ出し、判別がつかないほど揺れるシーンが数秒続いたが、急にカットされて自室で締めのコメントを喋るところに切り替わった。喉元過ぎればなんとやら、というものなのか、尋常でない恐怖を発散させながら遁走したとは思えないほど饒舌に喋っている。
 そのあたりでローちゃんは再生を終了した。
「どう? これ、どう思う?」

 ローちゃんはいやに真剣な顔でみんなの顔を順番に伺う。
 ハルちゃんはウインナーを齧って口をもぐもぐさせながら思案顔をしているが、どうにもピンときていない様子だった。
「んー、どうって言われてもにゃー。え、これで終わり、って感じ? 途中まで結構ドキドキしたけど。なっさん、どう?」
「せやなー。結局最後って、なんであんなにビビったの? よくわかんなかったけど」
 私もなっちゃんの言葉に賛成だったので、うんうんと頷く。
 肝心な最後の場面は、Z地区はもちろんヒロヒロの顔すら捉えられないほど乱れたため、なにがなんだかわからなかった。しかしローちゃんはなにかがあると思っているようで、興奮気味に食い下がる。
「それがわかんないからこうして見せたんじゃん!

Z地区に現れた幽霊とかUFOとか、そーゆーヤバイもんが映ってたのかなって思ってさあ……」
「いやだって、幽霊どころか怪奇現象すら起きてなかったし。大体、あれじゃほんとにあそこがZ地区だったのかどうかもわかんないにゃ。ねえ、なっさん」
「せやな。あの看板だけならお金かければ仕込めそうだしね。ユーチューバーならやりそう」
 二人が揃って懐疑的な声をあげたせいで、ローちゃんもそちらの意見に流されつつあるのか、だいぶ拍子抜けしてしまった様子だ。
「んー、そっかー……。一葉、珍しく静かだけど、あんたはどーよ?」
 ローちゃんに水を向けられたいっちゃんは、それまで神妙そのものだった表情をころりと変えて、いつものいっちゃん節をぶち上げた。
「コメント欄を見りゃわかるだろ。ヤラセ以外のなんだっつうんだ。

こんな地味顔のクソユーチューバーが仕掛けた、小遣い稼ぎのための小細工にまんまと引っかかって再生数を伸ばしてしまうとは、いやはやゴーイングマイロードさんは」
「ふーん。ゾゾエは?」
「うーん、私もよくわかんなかったかなー……」
 私も二人の意見に同調し、似たような回答を繰り返した。しかし内心ではコメント欄に散見される〝そもそもKA線自体がヤラセだ〟という言葉を心から信用したい気持ちだった。
 その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、途端にみんなも非日常から日常の中へ帰っていった。まもなく五限目の授業が始まったが、私は平和そのものの授業風景の中で、動画の内容を反芻していた。
 まさか軽率甚だしいユーチューバーなんかに、Z地区らしきものを見せてもらうとは思わなかった。

 それ自体の真偽はどうだっていい。重要なのは、KA線という胡散臭い死神の実在性を疑う人が、さっきのコメント欄に溢れていたことだ。私と同じ思いを持つ人がいる。そこに光明を見出した気がした。
 もしKA線がヤラセ――嘘っぱちだったとしたら。世間が本当のことだと信じ切っている、常識だと思っているそれがもし嘘なら、いっちゃんが死ななければいけない理由はなくなる。まさしく〝世界の真実〟というべきものを暴き出すことができれば、いっちゃんを助けることができるかもしれない。
 しかしそのためには、Z地区へ行く必要がある。教科書に書いてあるとおりの場所ならば、ほんの数十秒で命を落としてしまう場所。安易な思いつきで行くには、あまりにも危険だ。
 そこまで考えて、疑問が二つ浮かんだ。

 まず第一に、本当にヒロヒロがZ地区へ踏み込んだのなら、なぜ彼は死ななかったのか。
 こっそりスマホを取り出し、先生の目を盗んでさっきの動画を調べ、もう一度コメント欄を順番に読む。やはり私と同じ疑問を持つ人は多く、それを以て彼はZ地区に行っていない、ヤラセだと断じている人もいた。
 それより遥かに目立つのは、KA線の実在を疑う人だ。その人たちが疑心を抱く理由は、第二の疑問と同じだった。それはなぜあれほど簡単にZ地区へ行けるのか、ということだ。
 踏み入れば死ぬ危険のある場所に繋がる道を塞ぎもせず、ただ看板とバリケードが置いてあるだけなんて不自然だ。本当にKA線が存在するのなら、誰も入れないようにしなければああいう人がみだりに踏み込んで、なにかしらの事故が起こるはずだ。

 では仮に嘘だとして、なんのためにこんな嘘を世間に信じさせる必要があるのだろう?
 その答えを考えた時、先日いっちゃんが冗談めかして言っていた言葉が脳裏を駆けた。
 〝KA線は少なくとも、戦争という一番重篤な病を掻き消す、なによりの特効薬〟
 まさか、そんな子供じみた陰謀を本気で? でも実際、世界から戦争がなくなった要因としてKA線の存在が語られているのは事実だ。
 たとえばどこかの偉い人が本気で世界中の戦争をなくそうと考えて、誰もが逃げ出すほどの絶対的恐怖たるKA線をでっち上げた。その制度にリアリティを持たせるために、いっちゃんがいじめっ子体質と表現した共通悪を憎む一体感を人類に持たせるために、一人を犠牲にし続けることを選択させたとしたら――こんな陰謀論、まったく馬鹿げているが、一応の辻褄は合っているように思える。

 逸りそうな気を抑えながらマップを開き、小遣いで行けそうなZ地区を探す。しかしどんなに近くても、隣県の山奥にしかないことがわかった。急行電車一本で行けそうではあるものの、その費用は出せそうにない。
 少し落胆はしたが、それでも緊張でどきどきと心臓が跳ね回る。どうにかしてここに行きさえすれば、あるいはいっちゃんを救う手がかりが見つかるかもしれない。
 私の浅はかな考えがどこまで正しいのか、確証は持てない。そもそも私程度が思いつくようなことで〝世界の真実〟が突き崩せるのだろうか。ただユーチューバーに触発されただけの、荒唐無稽な思いつきでしかない。
 でもこういう荒唐無稽こそを超えていかなければ〝世界の真実〟なんて大それたもの、掴みようがないのでは――。

 結局、五限目も六限目も授業を上の空で聞き流し、いろんなことを考え込んでいるうちに放課後になってしまった。
 ハルちゃんとなっちゃんは新刊の漫画を買いに行くと言って先に帰り、猛スピードで私の宿題を丸写ししたローちゃんも急用があると手刀を切りつつ、素早く帰ってしまった。
「あのスイーツ脳、急用なんて絶対嘘だぜ。どうせ彼ぴっぴとデートだろ。そのためにゾゾエを利用しようとはふてえ野郎だ。いっぺんあいつには資本主義ってもんをとっくり聞かせて、世の中は無料サービスばっかりじゃねえってのを教えてやらねえと」
 夕暮れの差し込む廊下を職員室に向かって並んで歩く中、いっちゃんはシャドーボクシングのように何度も拳を突き出す。ここにはいないローちゃんを、打ちのめしているつもりなのだろうか。私は苦笑しながら、崩れかけたプリント束を抱え直した。

「まあまあ、別にいいんじゃない? これでローちゃんが幸せになれるならさ」
「お人好しだなあ。お前、どんなに困ってるって言われても、壺だの絵だのって抜かす奴の話だけは聞くなよ?」
 いっちゃんは真面目な顔をしていたが、妙な絵や壺を持ったローちゃんやハルちゃん、なっちゃん、そしていっちゃんの誰かが本当に困り顔で目の前に現れたら、と想像したら笑ってしまった。さらには四人それぞれに異なる個性で売り込まれたら、断りきれず買ってしまいかねない弱い自分にも想像が及び、怪しげなグッズに囲まれた自分の姿は余計に笑えた。
「おい、なに笑ってんだ」
「別に、なんでもないよ」
「なんだよ、言えよ。気になるだろ」
一人で忍び笑いを漏らしていたのが気に障ったのか、いっちゃんも悪戯っぽく笑いながら執拗に脇をくすぐろうとしてくる。

 プリントを抱える私はかなり不利だったが、なんとか崩さずに避けきって職員室に辿り着き、無事に日直の役目を果たした。それからまたいっちゃんと横並びになって、誰もいない廊下を歩いた。
 野球部の轟かせる金属質なバッティング音や陸上部の掛け声、吹奏楽部の調子はずれなエチュードなんかが感じられる。開けられた窓がぬるい風に吹かれて、カタカタ鳴いている。
 遠い、近くの日常音。世界音。聞き慣れたこんな音が改めて好きというほど特別ではないけれど、もしいきなりシュンと消えてまったく無音になったら、今朝のように不安で居た堪れなくなるに違いない。
 耳腔に僅かだけ後を引く、聞こえているような、聴いていないような音。それは音の空気とでも言うような、あって当たり前、吸えて当たり前で、もしなくなれば死がそわりと這い寄る、満ちていて当然のもの。

 その中には相変わらずごった煮のような言葉を並べ立てる、いっちゃんの騒々しい声もある。
 昇降口を出て、駐輪場に向かういっちゃんと一旦別れた。そして校門を出たあたりで待ちながら、眼下に広がる茜色に染まった町並みをぼんやり眺める。
 私たちが暮らす西山区には、真ん中を貫くように玉緒川という曲がりくねった一級河川が流れている。区の名前が示すとおり元は山だらけだった場所なので、街全体が小高く、坂道も多い。その山々は二本の国道を通す時にかなり削られたので、いまはこの西山高校がある西山周辺の標高が一番高い。
 また近年、隣の中央区において駅ビルやオフィス街の開発が進められた影響と、数十年前に隣の県の一部がZ地区化し、特災疎開してきた人々が移り住んだ影響で、西山・中央区周辺の人口が急増した。

 そのため玉緒川より西側にあった山をさらに切り開いて、ニュータウン化した。だから区内面積の約二割は新興住宅地である。ニュータウンは中央区のベッドタウンとしての機能も期待されたため、一軒家よりマンションやアパートなど集合住宅が多い。
 また古くから町と町とを繋ぐ交通の要衝としてそれなりに栄えていた歴史から、ニュータウン化以前より川の東を縦断する南北の国道、川を横断して東西に続く国道が西山の麓で交わっている。ニュータウン造成の際にこの東西国道へ向けて直線的に道路や地区が区画されたので渋滞が少なく、車所有者にとっては住心地がいいと評判だ。
 反面、玉緒川より東側には古い町並みと旧街道がそのまま残されている。
 だから国道からちょっと脇道に入るだけで、狭い一方通行路や三叉路、五叉路などの煩雑な道が蜘蛛の巣のように巡っていて、地元民以外には非常にわかりにくい。

 数駅向こうの中央区は人も車も建物もひしめくハイセンスで現代的な街なのに、ここはそれに比べれば閑静で、いたるところがどこか暈けていて、川や風の流れる音がよく聞こえる。
 中央区と同じ市にあるとは思えない、奇妙なアンバランスさのある町だ。
「おまたせ」
 いっちゃんが自転車を引きながら戻ってきたので、私たちは並んで高校の前の坂道を下り始めた。
「こんなキツイ坂道を毎日毎日登ったり下りたりさ、無駄の極みだよな。スクールバスとか出ないもんかね」
「そりゃあればいいけど、公立だし無理でしょ。っていうか、こんなちょっとの距離じゃん」
「ちょっとだから余計に面倒なんだろ」

 坂道を下りきったら、右に曲がる。そのまま道なりにしばらく行くと、南北縦断の国道が見えてくるから、これを渡る。
 それから少し進んだ先に見える四ツ辻を左。すぐにぶつかる三叉路は右。そうして左手側に玉川神社が見えてくるこの道を真っ直ぐ行けば、東西横断の国道に繋がっている。
 車がギリギリ二台通れる程度の幅しかないこの道は、国道が通るまで南北を繋ぐ幹線だった旧街道で、昔はそこそこ賑わっていた商店街だったらしい。
 その面影はそこかしこに残っていて、店名が書かれている剥がしそびれたままの看板だとか、色褪せたポスターだとかが、ずっと閉じられたままのシャッターが居並ぶ中にぽつぽつ続いている。いまでも営業しているのは煙草屋と、駄菓子屋と、郵便局くらい。

 国道沿いを行けばこんな入り組んだ道を行く必要はないのだが、私たちはいつもこの道だった。
 飽きるほど通い慣れた、古ぼけた旧街道。割れたバケツ。夕暮れに照らされて佇むくたびれた街灯。使われなくなって風化しかけている三輪車。どこかから響いてくる楽しげな小学生たちの声。無造作に生えているコスモスやヨメナ。からからから、今日はいっちゃんの自転車だけが鳴らす空転。
 私たちは歩きながら、いつものにように他愛もないことを喋り続けた。
 いっちゃんが昨日ネットの掲示板で戦ったニートと思われる男の話。また消費税が上がりそうな話。新作アニメが不作続きで面白くない話。国会で居眠りしていた間抜けな議員の話。ゲームのボスがいつもあと一撃というところで倒せない話。世界の話。神様の話。

 朝、あれほど鮮明だった恐怖をまったく感じない。世界が急に優しくなったかのような安心がちゃんとあって、迷いもせず、気遅れることもなく、足を地面に着けていられる。
 ああ、これなのだ。いっちゃんがいてくれることで、ようやく日常が私の目の前に現れる。
 どうしてか満たされない気持ちを抱えて、話しても話しても次から次に話題が繋がって、少しでも同じ時間を過ごしたいと思ってしまう我儘を、お互いに我儘とも思わず過ごす幸福。いっちゃんのいる世界は活き活きと煌めいて、こんなにも簡単だ。
 古びた商店街を抜けると、東西横断の国道に出る。右手に進めば玉緒川を渡る、玉川橋という大きな鉄橋が見えてくる。そこを渡ってまた右に曲がれば、今朝トマトスープをぶち撒けた堤防沿いの道だ。

 恐ろしさに追われるあまり吐くまで走ったこの道も、いっちゃんさえいてくれたらなんのことはない。
 そう、いっちゃんさえ、いてくれたら――。
 いなくなった後のことは、なるべく考えないようにして歩く。
 そこらに差しかかったあたりで、急に会話が途切れた。
 いっちゃんの視線が心持ち落ち着かない。奇妙な沈黙に心音が少しずつ上がっていく。
 土手道の真ん中でなんの前触れもなく、いっちゃんが立ち止まった。歩調を合わせて歩いていた私は、すれ違うようにいっちゃんを三歩ほど追い抜いてしまった。
 振り返ると、自転車のハンドルをきつく握ったまま、地面を睨みつけるように俯いていた。
「あのさ」

 そう言ったきり、いっちゃんは黙り込んだ。
 胸を締め上げられるような沈黙の間に流れる風と水音。玉川橋を行き交う車のエンジン音。
 妙な緊張に割り込むように、間延びしきった町内放送が流れ始める。
『こちらは――西山区広報です――只今より――五分後――〝てんくう〟による――防護措置が――実施されます――区内上空が――照射範囲に――設定されました――照射より十分前後――携帯電話の周波数帯に――乱れが生じることがあります――通話やネット回線使用の際は――ご注意ください――』
 遠くから響く機械的な女性の声が、うわんうわんと夕空に反響する。南の方向を見遣ると朱色の中に黒々として不吉な砲台が、こちらに向かってゆっくりと旋回していた。
 それからしばらくしてようやく、いっちゃんの一言が零れ落ちた。
「保健室で……お前が言ってたことだけどさ」

 俯いたまま、消え入りそうなほど掠れた声で呟くいっちゃんの姿は、先週の金曜日に召集令状を取り出そうとして、そうすることを迷いに迷っていた時と重なって見えた。高まり続ける心音が一段跳ね上がるのを自覚しながら、ゆっくりと言葉の続きを待った。
 しかし言葉は途切れてしまったまま、繋がらない。そんないっちゃんを嘲笑うかのように二度目の町内放送が繰り返され、私たちに覆い被さってきた。
 小さく口を開いたり、唇を噛み締めたりしているから、なにかを言いたいのだろうということは伝わってくる。私は離れた三歩を詰めて、いっちゃんの横に立った。どんなに小さな一言も聞き漏らしたくなかった。
 川面を渡るぬるい風に打ち鳴る葦原の、ざわざわという音が周囲を満たす。
 暮合の輝きが川面に乱反射して、きらきらと美しいスペクトルを描く。
 その風景の中で拳を握り締めて口を結ぶいっちゃんは、いつもよりずっと小さく弱々しくなってしまったように見えた。

 どうしよう、どうしたらいい。焦燥がちりちりと胸の内を焼く。
 こんな時、私ならいっちゃんにどうしてもらえたら、なんて言ってもらえたら勇気を――そうだ、そう考えたら。
 臆病で決断力に劣る自分を基準にしたって、どうせなにも思いつかない。ならいっちゃんに言われて嬉しかったこと、してもらって助かったことを思い出してみよう。
 その時、今朝方ベッドで浮かべていた煩悶が脳裏をちらと掠めた。羞恥と自己嫌悪。私のようなクズが友達面をする薄ら寒さ。こんな人間に誰かの心へ踏み込む資格があるのか。
 いや――その資格とやらがあるとして、それはいつ私に宿る?
「大丈夫」
 そう、大丈夫。自分といっちゃんに、その言葉を言い聞かせる。

 逃げている場合ではない。目を逸らしている場合ではない。もう明日や明後日の自分になんとかしてもらう状況ではないのだ。いちいち(こぞ)る気怖じに構っていられない。
 騒ぎ出す逃走本能と臆病を必死に押さえつけ、緊張でにわかに痛み出した喉頭を左手でぐっと押し殺し、普段なら決して踏めない選択という名の勇気を、強く踏み込む。
「私は、ちゃんと聴いてるよ」
 精一杯の心を込めて言い、固い拳の上にそっと右の手のひらを重ねた。
 この言葉が優しいものなのか、この行動が本当に勇気を出すきっかけになるものなのか、はたまた、いっちゃんに対してもそうなのか、それはわからない。自信がない。どきどきと心臓が跳ねる。やはり間違っているんじゃないのか。もっと他にいい言葉があるのでは――。

 石ころを詰め込まれたような喉の痛みに負けそうになり、挫けかけた時、やっといっちゃんが顔を上げてくれた。それはいまにも泣きそうで、それでもひどく淡く、些細な衝撃で壊れてしまいそうなほど薄く、笑っていた。
「なんていうか……なんだろうな。どっから話し始めたものやら、と思ってさ……」
 その笑顔は先週の金曜日、告白をしてきた時と同じ顔だった。駄目な自分を、その場を誤魔化そうとする、呪いのような嘲笑い。
 はっきりしない、断定しない、直視しない。そんな曖昧さを、私のようなグズが抱くそれを、いっちゃんもまた抱えている姿を目の当たりにしているようで、悲しくなった。
「それならさ、訊いてもいい?」
 私の問いかけに、いっちゃんは浅く頷いた。
「この前の金曜日に言ってた言葉を思い出して、今朝までずっと考えてたんだけど……

いっちゃんが最近死にたいって言ってたのって、それは言葉の綾っていうか、ほんとはそうじゃなくて……ずっと、消えたいって思ってたんじゃないの? 招集命令のことをみんなに隠すのも、黙って消えちゃうためじゃないの?」
 決死の覚悟で、正解かどうかもわからない答えに踏み込む。
 まるで的はずれなことを言っていたら、触れてほしくないことに触れていたとしたらどうしよう。でも口から出してしまった言葉を、今更飲み込むことはできない。
 臆病で崩れそうになる足へ懸命に力を込め、いっちゃんの答えを待った。
 少しの間の後、いっちゃんは頬を掻きながら、乾いた笑いを漏らした。
「そっか……やっぱゾゾエにはわかっちゃったか」
 その肯定は、今日までいっちゃんが見せてきた言動の意味を理解させるものだった。また私の考えが正しいということでもあった。

 中二病でカモフラージュして言い続けた滅亡の言葉。一緒に下校した後、どう過ごしても最後にはふいと消えてしまう行動。そうしてこの世から自分をもぎ取ろうとする絶縁と消失の欲求。それが誰にも知られなかったとしたら、闇から闇へ、存在が消えてしまうのに。
 そんな消えてしまうための真意なんて、理解したくなかった。
「どうして……? そんなの、わからないよ……。全然、わからない。消えたいだなんて、誰にも自分のことを覚えててもらいたくないってこと? そんなの、怖くないの? 悲しくないの?」
「だからゾゾエには教えたじゃないか」
「それはっ、そうだけど……じゃあローちゃんたちは? どうしてみんなには教えないの?」
 そこでまた、いっちゃんは押し黙ってしまった。

 次はどんな恐ろしい真実が飛び出すのかと思うと、逃げたくて堪らない。
 でも、それを聞くと決めた。いっちゃんがどんな思いを持っているのか、どうしてこんなに追い込まれてしまっているのかを知るために。
 ひっくり返りそうなほど緊迫する鼓動に痛みを感じながら、いっちゃんの言葉を待つ。
「うまく、言えないけど……よくわかってない奴に、妙な同情をされたくないんだ」
 やっと答えたいっちゃんは眉根を寄せながら唇を少し噛み、肩を震わせる。
 そうして千切れそうな言葉を、懸命に紡ぐ。
「召集命令のことを知ったら、僕のことを知らない連中は、これから死ぬことを同情するかもしれないだろ? それがどうしても嫌なんだ。僕の人生は……これから死ぬことが決まったから辛かったんじゃない。そんな軽々しい理由でずっと消えたかったわけじゃない。

令状なんかが届くもっと前から、ずっと、ずっと……消えたかった。安い同情なんかで、僕の人生の辛かったことを全部召集命令にすげ替えられるなんて、絶対に嫌なんだ」
 言葉にしてもらってようやく明瞭になる、複雑な思い。
 確かにいっちゃんが希死念慮を抱いていたことに、召集命令は関係ない。深い事情を知らないローちゃんたちにこのことを知らせても、召集命令を受けたからこその絶望なのかと誤解しかねないだろう。
 そして今日この日まで苦しんできた理由を、どこから話し始めればいいのかわからない。そもそも、積極的に話したいことでもない。だから内緒にせざるを得ない、ということか。
「それに……僕がこれから死ぬ、なんて話をして、あいつらがどんなリアクションをすんのかって考えたらさ、怖くて堪らないんだ」

 いつも真っ直ぐに前を見据える目が、地面ばかり這っている。
 情けなく、弱々しく、孤独なその姿は、あまりにも痛々しかった。
「もし微妙な顔でもされたらどうする? 一生懸命ゆるい励ましのコメントでも考えだしたりしたら? そう考えたら……なにも言えなくなった。僕の苦しさをわかってもらえるかわからない相手には……怖くて、なにも言えなかったんだ」
 怖い。いっちゃんが、怖がっている。その言葉を聞くまで、私はそんな感情をいっちゃんも持ち合わせることを、ぽっかりと失念していた。
 私の中のいっちゃんはずっと頭がよくて、運動神経がよくて、可愛くて、優しくて、電波で、毒舌家で、短気で、自分勝手で、楽しい、超越的な人だった。
 自分のいいところも悪いところもすべてをわかった上で、妙ちきりんな思考と言動を以って日々の退屈を鮮やかに彩ることのできる人。

 人が最も恐れるべき二つの怪物――世間体と退屈を容赦なく思い通りの色に塗り潰す強さを持っている。そんないっちゃんがなにかを恐れるなんて、露ほども考えたことはなかった。
 しかし実際、いっちゃんとて私と同じ、高校二年生の少女だ。趣味嗜好に違いがあるだけの、ちっぽけな存在なのだ。
 どんなに世間体を壊し、退屈を塗り潰そうとも、日々なにかに痛み、苦しみ、怖れる。無敵の超人なんかでは、断じてないのだ。至極当たり前のことに今更気づかされて、同時にいっちゃんの怖れを痛いほど理解した。
 毎日顔を合わせている人々。母親。先生。クラスメイト。ローちゃん。ハルちゃん。なっちゃん。目をつぶってさえ顔が浮かんでくるほど、知りに知り尽くした人々。

 でもそれはあくまで外面だけだ。みんな到底預かり知らない心内のどこかに、魔物や狂信を飼い慣らしているのかもしれない。あるいは清廉な泉のように純粋だけが満ち満ちているのかもしれない。そんなことは、どうやったってわかるはずがない。
 だから自分のことを理解してもらうには、まず自分のことを説明する必要がある。しかしそうしたからと言って、必ずしも理解を得られるとは限らず、その上〝正しい〟――自分が期待する理解が得られるとも限らない。
 語彙の拙さか、弁舌の下手か、あるいは――心の有り様の違いのせい。誰かとすれ違うことへの臆病が、発言の勇気を奪う。そうして怖じけると突き当たりには恐怖の根源、すなわち下手な真似をして嫌われたくないという究極に行き着く。

 かくなればもうおしまいだ。どうにもならない。私の場合は背を丸め、顔色を伺い、同調と保留を使いこなす狡猾さを育てることしかできなかった。
 これはひどく生き辛い。本来望んでいる方向とは逆へ逆へと進んでしまう。理想や願望からどんどん遠ざかっていくのに、それを自分で止められなくなる。本当は幸せに向かって行きたいのに、そうすることはきっと簡単なはずなのに、抗うことのできない引力に引かれてしまうようになる。
 いっちゃんの人生が消えたくなるほど辛い所以は複雑に()り合わさっていて、これはその内のひとつにすぎないのだろうが、これなら私でもわかってあげられる。
 私は重ねた手の上に、もう一方の手も重ねた。
「嫌なこと訊いて、ごめん。誰かにわかってもらえないかもしれないって気持ちは……それだけは、わかる」
「ゾゾエ……」

「それでも聞かせてほしいんだ。消えたくなった理由を、全部。いますぐにはわかってあげられなくても、わかるようになるまで何度も何度も考えるから。だからお願い、教えてよ。このまま一人でなにもかも抱えたままなんて……いっちゃんが辛いままなんて、嫌だよ」
 これはいっちゃんに勇気を振り絞ることを強いる願いだ。言い損になるかもしれないことを言わなければならない残酷だ。
 それでも、私は知りたい。
 毅然の欠片もない、迷いと憂いで揺れる瞳。触れた手からも心の声が伝わってくる。
 どうしよう、どうしよう。些細なことですぐに狼狽える私の口癖と同じもの。答えが出せないことへの焦りによるもの。
 地を這っていた視線が、やっと私と結び合った。
「……わかった。この際だ、全部ぶち撒けちまおう。

もうこんな機会も……ないだろうしな」
 もうこんな機会はない――寂しい物言いだった。
 いっちゃんは土手の下のほうを指した。
「降りようぜ、あそこ。久々に、我らが秘密基地にさ」
 秘密基地。それは名ばかりで、周囲から隠れているわけでもなければダンボールの壁さえない、土手へ降りる階段の最下段のことだ。
 いっちゃんのお兄さんがいた頃、毎日のようにこの河川敷に集まって三人で鬼ごっこしたり、ポコペンしたり、宇宙人を探したりしていた。そうして疲れると決まってそこに並んで座って、ぼんやりと玉緒川や夕日を眺めた。
 しかしお兄さんがいなくなってしまった頃からは、やはり一人足りない感覚がどうにも空々しくてなんとなく寄り付かなくなり、やがて秘密基地ではなくなった。

 階段脇のスロープを利用して自転車と共に降り、並んでそこへ腰掛けた。そこから見る夕日と玉緒川は懐かしく、それでいてやはりどこか空虚な感じがした。
 座ってからしばらく、いっちゃんはなにも言わなかった。
 蒸した草と、土と、少しどぶ臭い川の匂いに満たされながら、その横顔をじっと見つめる。
 言葉を、話の端緒を選んでいるのか、頭を掻いたり、しきりに喉を動かしたり、それでも視線はずっと遠くを見たままだ。対岸で散歩をしているおじさんがいるけれど、きっとあれを視ているわけじゃない。
 どこに思いを馳せているのか不明なまま、いっちゃんはようやく話し始めた。
「昔さ、兄ちゃん、いたじゃん」
「うん、そうだね」
「まあ、いなくなっちゃったけど」
 言いながら、踵でざりざりと地面を削る。その仕草を見て思い出した。

 いっちゃんが座っているところはいつもお兄さんが座っていた場所で、こうして意味もなく地面を削っていた。
 いっちゃんのお兄さんは少し歳が離れていて、私たちが遊んでもらっていた頃にはすでに高校生だった。倍近くも背が違っていたのに優しい笑顔が印象的で、鬼ごっこでもポコペンでもよく負けてくれていた。それが子供心にとても大人びて感じられていた。
 そんな優しいお兄さんは、私たちが中学に上がった頃、忽然といなくなってしまった。
 その時、書き置きのような、メモのような、くしゃくしゃになったチラシの端っこが、居間のテーブルの上に投げ出されていたらしい。殴り書かれていた最後の言葉は『こんなくそみてーないえ にどとかえってくるか』だった。
 たった二十文字になにもかもを詰め込んで、お兄さんはいなくなった。

 この手紙をきっかけに、いっちゃんの口癖に〝クソみたい〟が加わった。
 なんで全部ひらがなだったのか。なにが〝くそ〟だったのか。柔和だったお兄さんが、どうしてそんな激しい言葉を吐いたのか。暗号じみていて、ひどく抽象的で、人が消えるにはあまりに寒々しくて、本当の意味は一切、誰にもわからなかった――。
「っていう、ふりをしてたんだ、あいつらは」
「ふり、って……?」
「メモの〝くそみてー〟の意味がわからなかったのは、僕だけだったんだ。ジジイもババアも兄ちゃんがなんで出てったのか、知ってるはずだった。なのに警察呼んで大騒ぎして、怒鳴ったり泣いてみせたりしてたんだ。たぶん世間体のためにさ。あいつらは、あいつらだけは……全部知ってたはずなのに」
 初めて聞く話だった。いっちゃんが憎々しげに顔を歪ませる。怖い顔だ。

「実は出てってから一週間くらい後になって、僕の携帯にメールが届いたんだ。兄ちゃんのアドレスで、すげー長いのが。携帯は置いてってたから、たぶんネカフェとかから送ったんだと思う。それを読んでやっとメモの意味がわかったんだ」
 いっちゃんはスマホを取り出し、メールボックスを開いて、一通の削除防止ロックのかかったメールを見せた。
 それによると、事の発端は出て行く前日のこと。
 お兄さんは当時ここの最寄り駅から五駅離れたところにある大学に通っていたが、その日は教授が体調を崩してしまい、半日で帰ってよいことになった。
 急な休講だったので遊ぶ友達も捕まらず、特に用事もなかったお兄さんは家に直帰した。
 そこでお兄さんは玄関に見知らぬ男物の靴があること、そしてリビングから聞き慣れない女の嬌声が上がるのを聴いた。

 回数を重ねて油断したのか、はたまた経験によって驕りが生まれたのか。
 いっちゃんのお母さんはよりにもよって自宅で浮気相手とまぐわう愚を犯し、間の悪いことにお兄さんはそこへ鉢合わせてしまったのだ。
 そのままリビングへと上がり込んでいく勇気は湧かなかった。ショックと混乱が大きかったお兄さんは扉を叩きつけるようにして踵を返し、夕飯の時間まで帰らなかった。
 その夜、何事もなかったかのように夕飯を並べるお母さんと、珍しく早く帰宅したお父さんが同席し、久しぶりに家族揃っての食事を摂った。
「僕、嬉しかったんだよ。久しぶりにみんな揃ったなって思ってさ。ジジイはいつもと変わんない仏頂面だったけど、ババアがなんか上機嫌っぽくて、よく笑って、喋って……兄ちゃんだって笑いながら冗談カマしてた。ほんとに楽しかったんだよ、久しぶりにさ」

 その翌日――お兄さんはくしゃくしゃのメモを一枚残し、家を出た。長いメールの前半は、そういうあらましが書かれていた。
 続く後半に、お父さんの浮気についてはその前から気づいていたこと、玄関を飛び出す時、叩きつけるようにして扉を閉めたので、いっちゃんのお母さんは間違いなく誰かにその淫行を気づかれたのを知っているはずだということ、なのに平然と振る舞う姿を見て、とても耐えられなかったこと、それまでお母さんだけはと思って信用しようとしていたが、決定的に裏切られて人間不信に陥ったこと、それゆえに両親がなにを思い、なにを考えているのかまったく理解できず、恐怖し、信じられなくなり、家を飛び出したと綴られていた。
「そのメールのちょっと後に、僕の携帯に一回だけ公衆電話からかかってきたんだ」

 いっちゃんが電話を取ると、相手はやはりお兄さんだった。
 ひどく憔悴しきっていて、ほどなくして泣き出したらしい。
「一葉ごめんな、弱虫な兄ちゃんでごめんなって、何度も何度も謝るんだ。どう答えたらいいのか、なんで謝ってるのかもわからなかった。僕もわけわかんなくなって、ぐしゃぐしゃに泣きながら、とにかく何度も帰ってきてくれって頼んだ。兄ちゃんから真相を知らされて、僕もあいつらを信用できなくなって、もう家族は、僕にとっての家族は……兄ちゃんしかいないと思ったから。でも兄ちゃんは帰るとは言わず、ただあいつらを信じるなって言った。いまの俺は全然冷静じゃない、だから人間不信なのもそのせいかもしれない。でもあいつらだけは本当にどうしようもないクソ嘘吐きだから、信じるなって」
 そしてお兄さんは最後にこう言った。
 必ず迎えに行くから、そこから必ず救い出してみせるから、と。

 しかしその言葉が本当になることは、なかった。
「あれから五年も経つけど迎えになんて来ないし、僕に召集令状が届いたことをメールで何度送っても、なんの返事もなかった。いまどこでなにしてるのか、全然わからない」
 あまりにも凄絶な話に、胸の左に寄ったあたりがぎちぎちと軋んだ。吐き気を伴う緊張と恐怖が内側から刺して、残夏が漂う気温に相反するように手足が冷えてくる。
 他人の心に無尽の闇を感じる私には、お兄さんが感じたであろう混乱や不信がどれほど計り知れない恐怖だったのか想像できる。最も信頼すべき家族がそんな闇を宿していると悟った時、談笑しながらご飯を食べていたりしたら、同じように逃げ出していたかもしれない。
 それでも私は、お兄さんが許せなかった。

 必ず救うとまで約束して、こんなに追い詰められても最後まで信じようとしたいっちゃんを裏切り、呆気なく消えたまま、たった一言すらもないなんて。
「勝手な奴ばっかりだ。普段は法律を振り回して正義の代弁者ヅラで離婚訴訟の弁護を引き受ける立場の奴も、息子がいなくなったのに平気な奴も、約束を破って消えた奴も、きっとハッピーに暮らしてやがる。狂気の沙汰だ。どいつもこいつもあっさり僕を忘れやがって。あいつらにとっちゃ浮気相手や自分のほうが大事なんだ」
 急にいっちゃんが立ち上がった。そして自分の中に決まりきった答えを踏みしめるように、一歩、一歩と、強い足取りで歩み出す。
「だからクソみたいに……僕も消えてやろうと思った。なんでこんな連中にずっと傷つけられ続けなきゃいけないんだって思ったから。

人を人とも思わない、誰かを傷つけたってなんとも思わないクソ人間どもが、他にもうじゃうじゃいる。だからこんな世界、KA線なんか湧いてこなくたって滅ぶに決まってるし、勝手に滅べばいい。でもそんな奴らに、世界に負けたって認めるのが悔しくて死ねなかった。どうせ死んだってあいつらは毛ほども傷つかない。僕が消えるように世界ができてるなんて、認めたくなかった。悪いのはあいつらだ」
 物事にはべったりとした一色じゃなくて、重なりあった曖昧な灰色の部分がたくさんある。
 そんな灰色に白と黒を塗りつけるのは、勇気と決断の差。私に足りないもの。
 いっちゃんだって最初から家族を嫌っていたわけじゃない。
 灰色だった部分が少しずつ黒く染まっていったのだ。家族という形を失った家に帰るたび、少しずつ、少しずつ。

 やがていっちゃんは、苦しみからの決別を選ぶようになった。
 それこそが消失への願望、希死念慮の正体――〝消えたい〟という思いだったのだ。
「なあ、僕はクソ中二病で散々電波なことを言いまくってて、家にもろくに帰らない親不孝者って思ってただろ? でもゾゾエ、これだけはわかっておいてほしい。そうやってはっちゃけてなきゃ、耐えられなかったんだ。勝手に家族をやめてくあいつらがいる家以外に帰る場所もなくて……とても、耐えられなかったんだ」
 川向こうへ渡る視線、いっちゃんの細い背にのしかかる寂寞に夕陽が差し込んでねじれる。ゆるゆると揺れて、私の頬を伝い落ちていく。
 同じなのだ。ふわふわとしている。私とは別の理由で現実から遊離していて、行き場がない。決定的に違うのは死にたいという気持ちの性質だ。

 私もまた、死にたいと思いながら生きてきた。他人と私との間に広がる心の距離はいつでも断崖絶壁に隔てられていて、向こうとこちらの差がわからない。そんな千尋の底からなんの前触れもなく無形の闇が現れては、絶え間ない恐怖と痛みを与える。
 母親。先生。クラスメイト。ローちゃん。ハルちゃん。なっちゃん。慣れ親しんだ誰かのふとした所作に、何気ない一言に、あるいはなんらかの動きがなくてさえ、驚き、恥じ、責められ、動揺し、困惑し、動転し、そこらを叫びながら転げ回りたくなるほど恐ろしくなる。
 むしろ慣れ親しんでいるからこそ、その心の奥底の窺い知れない領域に、得体の知れないなにかが潜んでいるのではないかと思ってしまう。被害妄想と頭ではわかっていても、そうでなかった時を怖じる気持ちが上回ってしまう。

 そんな厄介な性分と本能的な死の恐怖で矛盾する私を支えていたのは、いっちゃんが隣にいてくれる安心だ。
 もう死んでしまいたい。死んでしまうかもしれない。でも明日になれば、いっちゃんがいつもの交差点で待っていてくれる。そう思うから生きてこられたし、あえて死を口にすることもなかった。
 ただこれもはっきりと自覚しているが、私の死にたさの根源はどこまでいっても臆病こそが正体で、現実に暗い影を落とし続けているこの怪物にまったく実態はない。母親もいるし、友達もいるし、帰る家もある。傍目には、そして社会的には、なにひとつ問題がない。
 いっちゃんはまるっきり逆だ。現実を異様なほど面白がるふりをしなければ耐えられないほどの苦痛を与える家族が実在していて、唯一心を許していたお兄さんも行方知れずのまま。

 信じるべきものがわからず、行くあても帰る場所もなく、現実のなにもかもが仇なしていく中で寂しさと絶望に心を磨り減らして、それでも五年もの間、必死で抵抗していた。
 そこへ合法的に死を実現する召集令状が舞い込んだのなら。
「いっちゃんが私にだけ召集命令のことを教えてくれた理由も、召集命令のことをラッキーって言ってた理由も……やっとわかった。頼れる人が誰もいなくて、信じられる人もいなくて……生きたいって気持ちと、死にたいって気持ちに挟まれて、とっくに疲れ果てちゃってたんだ。そんないっちゃんをわかってあげられる人が、他に、誰も……」
 こんなに――こんなにも悲しく、苦しいことが他にあるだろうか。
 あまりの凄惨さに絶望し、あまりに無頓着な自分に悔恨して、涙が溢れて止まらなかった。

 近くにいたつもりで、こんなにもぐちゃぐちゃになっていたことに、まるで気づいてあげられなかった。
 生きるための希望を捨てさせられて、死ぬ理由さえ暈したまま、消え入るように死んでいく。最も残酷で、あまりに空虚な死に方を選んでしまうほど救われず、自己満足と自己完結だけで収束する一生涯。
 そんな逆境で苦しみ、考え抜いた末、ついにいっちゃんが辿り着いたのは〝大人〟になることなどではなく――諦観の境地だったのだ。
 振り向いたいっちゃんは激しい怒りを表情に浮かべ、それでもどこか縋るような気色を瞳に滲ませながら、深く頷いた。
「そう、誰も……。僕を裏切らないと思えたのは、もうゾゾエしか……いなかったんだ」

 その言葉を聞いた瞬間、矢も盾もたまらなくなり、夕闇の寂寥へ消えてしまいそうないっちゃんに遮二無二しがみついた。
「ごめん……! ごめんね、気づいてあげられなくって……。こんないっちゃんに寄っかかってばっかりで、なにもしてあげられなくて、バカで……私しかいなかったのに、本当に、本当に、ごめん……っ!」
 せぐりあげる喉が声にならず、言葉が何度も涙と鼻水に詰まって、上手く謝れない。
 私こそ、いっちゃんを傷つけた残忍な人間のうちの一人だ。
 恐れと、臆病と、現実逃避。そんなもので自分の心ばかりを守って、一番大切な人の心を理解できなかった。その愚かしさに腹が立ち、こんなに傷ついた人が横にいなければ道を歩くことさえままならないほど弱い自分を忸怩して、それでも――後悔は先に立たない。
 そんな私をいっちゃんは優しく抱き留め、頭を撫でながら嘯いた。

「いいんだ、僕だってこうなるような気がして……ゾゾエを悲しませるような気がして、言い出せなかった。これは本当に最後の手段というか……お前を頼るのは万策が尽きた時にしようと思ってたからさ」
「最後の手段って……?」
「やれることはやり尽くそうと思って、悪あがきにこの半年、あいつらに色々言ってみたり、兄ちゃんにメールしたりさ。でも全然駄目だった。一位以外の言葉なんて意味ないんだよ。その一位の席がとっくに取られてるんじゃ、あいつらがどんな生き方してたって、それがどんなに間違ってるって思ったって……僕にはどうしようもなかったんだ」
 いっちゃんは最後まで諦めなかったのだ。
 どうにか自分の生きた証を刻もうと、懸命に努力した。

 しかしそれさえも叶わず、報いるための一矢は外れていった。
 その絶望がどれほど深いものだったか、理解しようとしても余りある。
 いっちゃんの声から、私を撫でる手から、抱き留める腕から、次第に力が失われていく。
「人間、自分が知ってる人物には内心で全員、順位をつけてあるだろ? その中で一位に陣取ってる奴だけが意味のある言葉を言えるんだ。それ以外の、二位以下の言葉は、全部聞き流せる程度の、都合のいいBGMだ。耳触りのいい言葉だけを選って聞くもんだ。一位ってのは、たとえ明日隕石が落っこちてくることになっても……一緒にいる相手だろ?」
 一位ということは、誰よりも大切ということ。
 明日隕石が落っこちてくる――世界が滅ぶことになるとして、誰と一緒に過ごすか。一位とはまさしく、そういう人間を指すのだろう。

「僕は、家族の中の、誰の一位にも……なれなかった」
 いっちゃんの声が、途切れ途切れになって潤んでいく。しがみついた私の腕の中で、消えていこうとしている。どうにかしてあげたいと心から願ったが、どうしてあげたらいいのか、まるでわからない。
 いまこの場において、私のところに来て欲しいなどと無責任なことをほざくべきか否か。
 あるいは、私の一位はいっちゃんであると、出鱈目のようにほざいてしまうべきか否か。
 隕石で頭の天辺から燃えてなくなりたいと願ういっちゃんには、相応の理由がある。口先だけでその絶望を少しでも和らげることは可能なのか。
 なにか言わなくちゃ。なにか言ってあげなくちゃ。気持ちがせっつく。咳をする。
「いっちゃん」

 私はいっちゃんを離して涙を拭い、真正面に立った。
 寂寞に揺れる瞳。悲愴と夕暮れに染まった顔。
 このままでいいわけがない。でもどうする。
 場当たり的に呼んだ名前。先のない言葉。どうすればいい。
 わからない。正しいことなんて、なにもわからないけれど。
「私は――」
 私には、この世に滅んで欲しいと願うその理由も。
 いっちゃんの人生が、消えたくなるほど面倒なことも。
 なにひとつ、どうにもしてあげられないけれど。
「私は、いっちゃんの友達だよ。隕石落ちてもさ」
 家が燃えても。学校が砕けても。空が燻されても。地殻が割れても。海が蒸発しても。
 たとえば目の前でそうやって、世界がうっかり終わっちゃっても。

「もし隕石で全部ぶっ飛んでも、いっちゃんの隣にいられるなら……」
 そんな時でさえ、いっちゃんが中二病のまま、世界なんてくだらないって笑ってくれるのなら。そんなふうに、いつでも、いつまでも、いっちゃんが変わらないでいてくれるのなら。
「私は他に、なにもいらない」
 とにかく、いまの私に言えるすべて。
 いっちゃんは虚を突かれたような表情をして、ぷいと向こうを向いた。
 柔い風が川辺の葦原を撫ぜて、ざわざわと音を立てる。
 ざわつく戸惑い。私の感じる焦りと同じもの。風が止めばなくなる音。焦りは消えない。
 あの葦のようにしっかりと根を張って、次の風までただ待っている。焦燥がじくじくとひりついて、無能な私を責め立てる。

 なにひとつどうにもならないのなら、せめてなにかひとつでもしてあげられたら。
 時間がない。あと数日しか一緒にいられない。
 なにをしてあげられる? なにをしたらいい?
 いっちゃんの人生が、こんなにも痛ましいままで終わってはいけない。
 なにかひとつでも、楽しいことがないといけない。
 楽しいことがないのなら――つまらないことを、面白がってやらないといけない。
 いっちゃんの見つけた〝中二病〟という処世術なら、こんな時どうする。
「そうだ! 隕石が落ちてきて地球がダメになるなら、宇宙に行けばいいんだ。これ、なかなか名案じゃない?」
 普段の私なら決して言うことはない、バカバカしい提案だ。脈絡がなく、意味もない。

 しかし手元にこの鬱屈とした現実を吹き飛ばす術が、他にない。
「宇宙か……。いいな、名案だ。もしこの辺から宇宙の果てまで行ける船が出るなら、乗り込もう。そんで、何万光年でも旅をしよう」
 いっちゃんの雰囲気が少しだけ、和らいだ。
 それを絶やしたくなくて、矢継ぎ早に問いかける。
「旅して、どーする?」
「そうだな……。お空には散っていった偉大なる先人たちがおわすんだろう? だったらそいつらにインタビューして回ろう。きっとどいつもこいつもキチガイばっかだぜ。空前絶後のトンチキな回答がどんなもんか、胸が踊り狂ってしかたねえ」
「よおし、わかった!」
 私はいっちゃんの自転車のハンドルを引っ掴み、サドルに跨った。

「乗りなよ、お嬢さん!」
 私の唐突な奇行に、いっちゃんは口を開けてぽかんとしている。
「いきなりどうした。盗んだバイクで走り出したいの? そういう反社会的な行為に耽りたい年頃なの?」
「そうだよ! そしてこれは、宇宙の果てまでぶっ飛ぶサイコーの宇宙船! 発着は銀河歴で一時間に一本、地球時間換算では百五十三年に一度の超絶レアな定期便だよ!」
「百五十三年に一度ってなに⁉ すげー中途半端! 気持ち悪っ!」
「細かいことはどうだっていい、乗らなきゃ次は一時間後だよ⁉」
「そいつは……大損だなっ!」
 いっちゃんはにわかに明るい顔になってぴょんぴょんとはしゃぎ、大喜びで荷台に飛び乗ってきた。

 背後に心地よい重みを乗せた私は足に力を込め、ぎこちなく自転車を走らせた。
 ふらふら、ふらふら。重たいペダルを懸命に踏み込む。自転車は揺れて、いまにも倒れそうになりながら、もたもたと走る。
「お嬢さん、まずはどこ行く?」
「とりあえず月だ! 月面にあるっつーウサギのモチ工場を社会見学する! ブラックな労働環境になってないかどうか、監査しに行く!」
「それから⁉」
「次はヴァルハラだ! とりま信長に会って本能寺でどういうポーズでくたばったか訊く! 松永弾正が茶釜にニトロを詰め込んだ時の心境も訊きたいしな!」
「からの⁉」
「からーのー、えーっと、えーっと……やっぱ王道を往ってヒトラーもいっとくか! ドン引きするくらい扇情的な衆愚の煽り方を教えてもらう!

そしたらどこでレスバトルしても常勝無敗の最強だ! キング牧師でもいいし、チェ・ゲバラでもいいな! あとオバマ!」
「オバマまだ死んでねえー!」
「とにかくアメリカだ! サンフランシスコを駆け上がってベガスまで頼む!」
「よっしゃ任されようっ! しっかり掴まってて。亜光速ドライブ!」
「うわ遅ええええー! 亜光速なのに風景が止まって見える! ねえ亜光速なの? これ亜光速なの?」
「エンジンがJKなんでね! 目の前に甘い物かイケメンでもぶら下げてくださいよっ!」
「即物的で大変よろしい! じゃあ銀河系の向こうまでどこまでもスイーツ巡りと洒落込もう、一緒にっ!」
 私たちは、てんで勝手にわーわー騒いだ。私たちはまさに、バカそのものだった。

 けれどバカな言動を周囲の目も憚らず垂れ流して、汗びっしょりになって自転車を転がし、がしゃがしゃと駆けていくのは最高に気持ちよかった。
 私はまた泣きかけていた。それをぐっと堪えながらバカなことを叫び、自転車を漕いだ。
 私たちは、あとどれくらいの時間、こんなバカがやれるのだろう。
 本当なら、あとどれくらいの時間、こんなバカがやれたのだろう。
 いっちゃんの声も、だんだんと歪んできている。首筋に垂れてきた水滴は汗なのか、それとも涙なのか、背中越しではわからなかった。
 無駄な抵抗だ。ここで泣くのを我慢したところで、なにひとつ現実は変わらない。
 それでも私たちは、示し合ったかのように涙に抵抗していた。そうすれば本当に、宇宙の彼方まで飛んでいけるとでも錯覚しているように。

 いつだってそうだ。私たちは二人して同じ幻想に迷い込む。そういう日常が好きだった。
 どんなにくだらない妄想でもいい。突拍子もない空想でもいい。私たちは二人して現実に足を着地し続けられるほど強くなかった。だからそういう逃避が必要だった。
 そしていつも迷った。逃避の中では当然、人生の生き方にも、人との関わり方にも答えは出せなかったから。いつまでも堂々巡りしてしまう、二人ぼっちの安く、甘く、軽い絶望。
 そんな絶望が大好きだった。たとえそれが絶望だとしても、それこそが私たちの繋がり方だった。建前だけの美辞麗句より、固くて確かな繋がり方だった。
 しかしいつだって妄想上の絶望でしかなかった不特定多数への不条理は、ついにその身にKA線という大いなる絶望を纏い、現実へと顕現した。

 もう時間がない。なのにどうすることもできない。どうしていいかさえ、わからない。
 ああ、教えてください先生。努力をすればいつか報われるって言いましたよね。頑張ればいつか結果は出せるって言いましたよね。
 なら、いまからどんなことをどれほど頑張れば、いっちゃんは助かるのでしょう。
 あるいは今日までどんな努力を重ねていたら、いっちゃんは助かったのでしょう。
 嘘ばっかりだ。なにをどれだけ頑張ったって、KA線がなにかもを奪って台無しにする。
 そんな世界でどうしてみんなは平然と生きて、なにかの目標に向かって走っていけるのか、心底理解できない。

 私は骨組みのしっかりとした、丈夫な将来が欲しいのだ。シロアリがいつの間にか土台を食い散らかし、建物の基礎が揺るぐように、いつしか私の時間軸の基礎もKA線に蝕まれて、人生という大きな柱はボッキリ折れてしまう。その確率は限りなく低いのだろう。
 けれどその確率にいっちゃんは当たってしまった。たとえ0.00何%の確率であっても、嘘や空想、他人事ではないことが証明されたのだ。
 平穏な毎日がクソだとか、昨日と変わらない今日、繰り返される平々凡々な毎日が退屈だとか、そういうナナメな若者思考は全然肌に合わない。平和が一番。安穏がなにより。昨日と変わらない今日を続けて、何事もなく穏やかに死ねるなら、こんなに幸せなことはない。
 けれど何事もない人生なんて、それこそ異常事態でしかない。

 他人がいて、自分がいて、世界があって、そこに生まれて、誰かと関わって生きていく以上、何事もないだなんてあり得ないわけで。
 それともこの絶望を内包したまま、なお走っていけるほどみんな強いのか。
 それが世間から求められる〝普通〟なのか。
 そんなの、RPGで世界を救う勇者並みの強さじゃないか。
 私はそんなに強くなれない。
 それを標準的に備えていないといけないのなら、私はとても――生きていけない。
 ひとしきり河川敷を駆け回って、飽きて、疲れて、私たちはとぼとぼと家路に着いた。
 楽しい時間は、切なくなるほどあっという間。人の夢と書いて儚いと読む。ああ、これは夢なんじゃないのか。

 ついに中二病を発症してしまった私は、それを唯一の寄す処とするしかない頭は、不思議なほどくだらないことを次々と思いついていく。
 私は、ぽつりと呟いた。
「旅とか、行きたいね。ほんとにどっか……行っちゃいたいね」
 夕日に照らされるいっちゃんの横顔が、少し笑った。
「いいな、それ。ほんとに、行っちゃう?」
 私より重症な中二病患者のいっちゃんは、にやにやしながら言う。
 無理なことだ。たとえ現実を振り切ろうとしたところで、そう簡単に振り切れるものなら、私たちはこんなに悲しい気持ちになっていまい。
 旅。漠然とした願望だ。そうするために必要なのは、なにはともあれお金。私の貯金なんてお年玉の残りが幾ばくかと、財布に入っている小遣いくらいしかない。どこへ行く、ということを考える気にもならないほど、どんな用にも足りやしない。

「行きたいよ。……行けないけどさ」
「行けるよ、今週の金曜まで待ってくれたら」
「金曜? どうして?」
「秘策がある。金曜になったら、僕は『魔法』が使えるようになるからさ」
 いっちゃんは悪戯っぽい笑みのまま嘯く。
 金曜。秘策。魔法。いかにも危ない計画のようで、まるで幼稚でいて、ときめいてしまう。
 残された僅かな時間をただ待つことに使うほど、それは魅力的な策謀なんだろうか。
「ガチだぜ。本気なら、期待してくれていい」
 楽しげな自信満々の顔が、橙色に上気する。

 いっちゃんに期待してくれていいなんて言われたら、否が応にも気持ちが昂ぶってしまう。
「わかった。金曜だね」
 週末に予定された、とっておきの秘策。それがどんなものであれ、私はどこまでもいっちゃんに付き従うことを心の内に決めた。
 二人だけの秘密を共有して、多少の甘酸っぱさみたいなものを感じる。そうしてお互いにふふふと笑い合いながら、またね、といつもの交差点で別れた。

 それから何事もなかったかのように平穏な一週間が過ぎ去り、あっという間に金曜日――十月二日が訪れた。
 みんなにとってはまだまだ日中は暑いのに、せっかく直った教室のクーラーが『十月に入ったため使用禁止』というバカらしいルールに辟易するだけの日だったかもしれないが、私にとっては〝秘策〟がついに発動する日だった。

 秋という季節を無視して未だに居残る暑さは下校時刻になっても衰えず、蒸した教室には誰も残っていなくて、ブレザーを放り出した私たちだけになっていた。
「さあいっちゃん、教えてよ。秘策ってなんなの?」
「よくぞ訊いてくれた。ガチの秘策ここにあり。昨日の夕方に届いたこいつを見よ」
 ででん、と効果音を口で言いながら鞄から取り出したのは、一枚のカードとマッチ箱くらいの白い端末だった。カードにはいっちゃんの顔写真がプリントされていて、学生証や免許証にも似ているが、禍々しく銘打たれた『特配券』という文字が異様な雰囲気を放っている。
 一方、端末はモバイルバッテリーのようにのっぺりとしたボディに赤いランプがひとつ灯っているだけで、なにに使うものなのか検討もつかなかった。
「これ、なに?」

「このカードがいわゆる『スーパーパスポート』ってやつだ。知らない?」
「うん。これがなにに使えるの?」
「なんでもだ。電車、バス、船、飛行機、コンビニ、飯屋、宿屋、他にもあれこれ。政府が提携してるところなら、なにしてもタダ! 応召日までに帰ってこれるなら、監視員付きだけど海外だって行ける。しかも同伴者三人まで有効だ。うちは戸籍上、四人家族だから」
「それってつまり……どこへでも行けるってこと?」
「そうだ。飛行機だぜ、飛行機! あのどちゃくそ高えAKAジェットにだって乗れる!」
 いっちゃんは上気した顔で息巻いた。今の御時世、防護措置による電波障害がいつどこで起きてもおかしくないため、航空機はKA線発生前のように自由には飛べない。

 なので〝AKAジェット〟と呼ばれる特殊な防護加工を施された旅客機だけが市民の翼なのだが、これの運賃は目玉が飛び出るほど高い。それさえも叶うなら、どこへでも行けるという言葉に偽りはないだろう。ならば月曜日に思いついた馬鹿げた考え――隣県の山奥にあるZ地区に行くことも容易いはずだ。
 これさえあれば〝世界の真実〟を掴みに行くことができる。
 私は得意げに差し出されたカードを受け取って、食い入るように見つめた。
「すごい……本当に魔法のカードじゃん」
「と思うじゃん? 残念ながら、世の中そんなに甘くないんだぜ」
 そう言ったいっちゃんは少し肩を落としながら、小さな冊子を差し出した。
 表紙はいかにも役所が作ったことがわかる面白みのないデザインに、ダサいポップ体で『特配券を発行された日からのすごしかた』と書かれていた。

 ペラペラとページを捲ってみると、まず特配券とは『政府提携施設特別配給券』の略称であること、応召日の一週間前が有効期限の開始日であると定められていることが書かれていた。それから開始日の午前零時から国民の三大義務を解かれること、応召日までは犯罪に係ることでない限りなにをしていてもよく、そのために必要な費用は特配券――スーパーパスポートを活用することですべて賄われると記されている。
 ただし、その使用には制限もある。正式名称が示すとおり、政府が提携しているところでしか使えない。使用時には同時に支給されるGPS端末――この白い端末も持っていないといけない。スーパーパスポートを使う施設の座標と端末が発信する座標が一致してないと、使えない仕組みになっているのだ。

 他には事故によって応召者に危険が及ばないように、自家用車などで自宅より三キロ以遠に連れ出すことはできない、旅行などで長距離を移動する際は公共交通機関を利用し、可能な限り安全な選択によって行動しなければならない、スーパーパスポートは応召者本人が応召日までに処分が可能な物品や目的に使用するものとし、他人に資するための使用はできないなど、ずらずらと禁則事項が続く。
 そして最後に、スーパーパスポートによって衣食住はもちろん、あらゆる遊興が無償で提供される代わりに、当人が所有する一切の財産が凍結されると書いてあった。
 つまり自分の口座からお金を引き出せないし、仮に超お金持ちでプライベートジェットやクルーザーなどを所有していたとしても、その使用は禁止だ。

(ちなみに凍結された財産は没収されるわけではないので、通常の手続きで譲渡や売買、相続ができる)
 これらの制限に触れた時やカードの不正利用が発覚した時、GPS端末を破壊して意図的に信号を認識できないようにさせた時などは当局によって直ちに拘束され、応召日まで収容施設で過ごすことになる。
 あくまでもスーパーパスポートが使用できる範囲内での自由。
 どこまで行けたって、これでは――。
「――まるで鳥籠みたいじゃん、こんなの」
 思わず溢れた一言に、いっちゃんが拍手する。
「相変わらずキレの良い詩的センスだ。そう、全財産を取り上げられた上にGPSで居場所は筒抜け。位置情報が同期できなきゃただのプラスチックでしかないもんを一枚持たされて、自由もクソもない。ゾゾエの言う通り、僕はもう鳥籠の中ってわけ。

まあ万が一にも『弾丸』に逃げられちゃ困るからこうなんだろうな。かといって仮にもお国のために命を捧げさせる奴をいきなり拘束するわけにもいかねえ。これがソシャゲでいうところの〝詫び石〟的なもんでさ、政府の最大限の譲歩ってとこなんじゃないか」
「確かにこれは……ちっとも甘くないね」
 冊子には『特配券による決済に限度額はありません』という文言がいやらしいほど強調されていた。確かにこれさえあれば無限の財産を手にしたようなものかもしれない。
 しかしいっちゃんがかつて言っていたように、なにかを引き換えにしなければなにもできないのが世の摂理というもの。魔法を使うならMPを、世界を救うなら生贄を、無限の財産を手にするなら――寿命を引き換えにするだけのこと。魔法のカードでもなんでもない。

 心臓に嫌な痛みが走る。このカードで決済することは、いっちゃんの命で決済するということだ。こんな手を使ってまで半丁博打に出るべきなのか。
「監視なんかされるのは癪だし、クソどもと思い出旅行なんぞまっぴらだったから捨ててやろうかと思ってたけど、そんなことしたら拘束されるし、使えるだけ使わないと損だ。ゾゾエ、明日は暇?」
「そりゃ暇だけど……こんなのを使ってどこかに行くつもりなの?」
 私の逡巡など露ほども知らない当人は、そんな暗澹(あんたん)たる事実を気にする素振りさえ見せず、いつもとまるで変わらない調子だ。
「使えるだけ使わないと損だって言ったろ? さて、どこに行こうかね」
 いっちゃんはチョークを持ち、楽しげに次々と候補地を黒板に書いていった。
 熱海、東京、北海道、沖縄、中国、韓国、北朝鮮、ラバウル、アメリカ、ドイツ、イラク、ソマリア、ヨハネスブルグ、シリア、スーダン、イエメン、月、火星、金星、土星……。

「うーん、ロケットも乗れんのかな。NASAとかJAXAとか行ってさ、このパスポートが目に入らぬか! ってさ」
 ふざけ半分で水戸黄門の真似をしながらけらけら笑っている。どうやら本当にスーパーパスポートを使うことへの躊躇いはないらしい。
 ならば――この提案をしてみる価値はある。
「あのさ、ちょっと聴いてほしいことがあるんだけど」
「お、どうした。なんか面白いとこでも思いついたか?」
 おちゃらけた笑顔のまま渡されたチョークを受け取り、真剣な顔でいっちゃんを見る。するとすぐにその笑顔は消え、困惑したような表情が浮かんだ。
 そんないっちゃんの横で、土星の下に単語をひとつ書き加える。
 Z地区。

「お前……」
 いっちゃんが目を丸くする。私もいざその単語を目にすると、少しだけ震えた。
 妄想にも等しい馬鹿げた思いつきに賭けるなんて、ナンセンスかもしれない。
 それでも、たった一分でも可能性があるのなら、いま行きたい場所は他にない。
 私はチョークを置いて月曜の授業中に考えたことや疑問についてすべて話した。その間、いっちゃんは視線を逸らすことなく、黙って聴いてくれた。
「ほんとに……ほんとなのかなって。KA線なんて、ほんとにあるのかなって。いっちゃんが先週、召集命令のことを教えてくれた時からずっと……ううん、それよりもずっと前から気になっててさ。こんな陰謀論、馬鹿げてるってわかってるけど、でも……」

 しかしそれを目の当たりにした時、私たちはどうなってしまうのだろう。
 たとえ嘘だったとして、こんなにも大きな歯車として実際に動いている社会の仕組みそのものを糾弾する力が、私にあるだろうか。いっちゃんを救うためとはいえ、社会と戦い続けるための力が湧いてくるのだろうか。日常にさえ怯えてしまうほど弱いのに。
 そしてもし、本当だったら。いっちゃんの死はどうしても揺るがすことのできないものと知ってしまったら。世界はやはり、ゆるゆる滅びつつあると実感してしまったら。私たちはどうなってしまうのだろう。
 しかしいっちゃんは不敵な笑みを浮かべ、指をぱちんと鳴らした。
「……いや、面白え。そうだな、それこそまさに〝世界の真実〟ってやつに違いない。確かめてみよう。ネットや大人どもが真実だって騒ぐ、モンスターの正体を」

 いっちゃんはZ地区という文字をピンクのチョークで大きく囲んだ。
「で、どこのZ地区? 国内? 海外?」
「私たちが生まれる前か後かくらいにさ、隣の県の山奥がZ地区になったらしいじゃん」
「あー、その特災疎開のせいでこの辺の人口が一気に増えたって話の?」
「そう、そこがいいと思う。なんていうか……一番現実感があるっていうか。急行一本で行けるみたいだし」
「ふふっ、わざわざスーパーパスポートで行くようなとこでもないな、隣の県なんて。でもまあ、ゾゾエの言うとおりだな」
「そうでもないよ。マップで見ても結構山奥だし、意外と時間もお金もかかるんだよ」
「そっか。じゃ、決まりだな。明日そこに行こう。でもそれだけじゃ地味だよな。他にどっか行くとこないかな?」

 言いながらいっちゃんはスマホを取り出し、うきうきとルートを調べ始めた。まるで休みに旅行へ行く人のようだ。私もそれに習って調べ始めたが、どうも危険地帯に行く意識が欠落している気がしてならない。死にに行くようなものというか、行かなくてもいいような危険な滝や崖、ジャングルに行くようなものなのに、どきどきして、少し怖くて、でも確かに期待があって、とにかく見たいという好奇心ばかりが逸る。我ながらお気楽なものだ。
 そんなことを考えながらにやついていたら、スマホを高速でフリックする指を急に止めたいっちゃんが呟いた。
「っていうかさ、いまから行く?」
「えっ、いまから?」
「なんかさ、常日頃の癖っていうか、つい休みに合わせて行動しようとしちゃったけどさ、そんな必要あるか?

半分、人間やめちゃったようなもんだろ。僕は人間じゃなくて『弾丸』なんだからさ」
 たぶん悪気はなかったのだろう。それでもいつものブラックジョークのノリで自分の命を軽々しく表現するいっちゃんに抗議の意味を込め、慨然とした視線を送った。すると少しだけばつの悪そうな顔をして、前髪の辺りを弄んだ。
「あー……いや、悪い、冗談。いまのナシ。ゾゾエは家の都合とかあるしな。明日行くって話をしなきゃいけないし……行けるとは限らないよな」
 家の都合という言葉にどきりとして、ふと考えた。この先の一生、いつまで、どんなことまで、母に伺いを立てなければいけないのだろう。
 別に反抗心とか、独立心とか、そういった若々しい厚かましさがあるわけではない。怖くなったのだ。私は、私という人間の選択と確立は、具体的にはいつ頃に整うのだろう。

 たとえば、いまみたいに。いよいよ人生最後で、万感を、真実と納得を、そして少しでも――思い出を思い出にするためのたった二日ばかりの時間を勝手に選択し決定することは、反抗的なことなのだろうか。それは許されざることなのだろうか。
 だってもしかすると本当に、いっちゃんとはこれっきりになるかもしれないわけで。
 そう考えたら言葉が自然と口から溢れていた。
「行こっか、いまから」
「や、無理しなくても……」
「ううん、行きたい。なんか、行かなきゃいけない気がするから」
「……マジか」
 いっちゃんが私の顔を覗き込む。視線と視線が合う。少しの間、そのまま見つめ合った。
 これまでの人生、決意というものと実に縁遠く過ごしてきた。

 なすがまま流されるがまま、周りがそうだと言えばそうなのかという気になって、いかにもな説教を聴けばやはりそうだったのかと思い直して、駄目だと言われればどんなに大きな違和感があっても駄目だという考えに変わって、ころころころころ、なにひとつ自分で決めたことなんてない。是非を問うたことがない。是非はいつも請うてきた。
 いつだって足りなかった決然。でも今日だけは、いまばかりは、選ぶということをしたい。
 酔狂で言ったわけではないことが伝わったのか、いっちゃんは小悪魔っぽくにっと笑って、
「よし、行こう。行っちゃおう」
 その一言で、もう全部が決まってしまった。
 二人して鞄の中身を全部ロッカーに突っ込んで、自転車に飛び乗って坂道を駆け下りた。勢いのまま最寄りの駅で電車に乗り、中央駅で降りた。

 夕方の駅ビルはいろんな種類の人々でごった返していた。買い物客らしい女の人や帰宅途中らしいサラリーマンに紛れ、隣接のデパートに入った。
 スーパーパスポートの威力は絶大で、まずは地下でお菓子にジュース、それから階層を上がって下着をひととおり買い揃えたが、どこでもお金は必要なかった。カードを少し見せるだけでみんなハッとしたような表情を浮かべて、黙って袋に詰めてくれた。
 調子に乗ったいっちゃんは、さらに洋服売り場へ行こうと誘ってきた。
「旅行に行こうってのに、このカッコじゃ気分が出ねえよ。好きな服に着替えちゃおうぜ」
 そう言って洋服のフロアに着くなりひょいひょいと複数のショップを渡り歩いて、薄手のGジャン、白のTシャツ、赤のミモレスカート、英字のロゴが入った黒のキャップを買い、更衣室であっという間に着替えてしまった。

 私は必要な物を買い揃えるまでにも多少以上の罪悪感があったので、しばらくなにも選べずにまごついていたが、
「制服のままウロついてたらお巡りに目をつけられるかもしれねえ。偽装工作も必要だ」
 という言葉に圧されて、仕方なく黒地に白ドット柄の膝丈キャミワンピだけ買ってもらった。それが自分に似合うのかはわからなかったが、制服のブラウスに合わせられそうな無難な服が他に思いつかなかった。
「なんだよ、いくらでも選び放題なのに無欲だなあ。アクセとかしないの?」
「や、これで十分だよ。やっぱり気が引けちゃうっていうかさ……」
「ま、ゾゾエがそれでいいって言うならいいけど。さあ、電車に乗っちまおうぜ」
 そうして制服と急ごしらえの旅支度が詰まった鞄を背負い、駅の改札もスルリと抜けて、本当に隣県へ向かう急行に乗ってしまった。

 ボックスシートに並んで座り、買ったばかりの冷えたジュースのペットボトルをしみじみと眺めていると、電車はいよいよ動き出した。
 現実とは、日常とは、こんなにも簡単にぶち壊してしまえる。
 スーパーパスポートがなかったとして、ここまでに必要だったお金は少しばかり贅沢を控えればいつだって工面できる程度のものだ。たったそれだけの条件で私たちは誰にも断らず、縛られず、思いつきのまま、こんなに自由に振る舞えたのだ。それを決めるために話し合った時間だって、正味で数えれば数十分がせいぜいだ。
 時間と、お金。気が遠くなるほど強く日常を締め付けていると思われた条件は、こんなにも呆気ないものだったのだ。
「なんか、すげーよな。なにがすげーのか、わかんないけど」
 いっちゃんが早々と開けたポッキーをポリポリさせながら、満足げに言った。

 揺れる電車の中、私服姿の私たち。
 よもやこれからZ地区へ旅行に行くとは、誰が思うだろうか。
「私たち、どういう人に見えるんだろうね」
「さてね。ま、うちに帰るJKかJDとかじゃね?」
「そうだ、泊まるとこどうする?」
「あー、確かに。まあ、どこでもいいよな」
 いっちゃんはスマホをさくさくと操作し、旅行サイトで見つけた旅館に電話をかけた。
 いつもの中二病や電波発言の一切を封印して、スマートに予約を取る姿に舌を巻く。
「よし、予約おっけー。飯も出るってさ」
「そーゆーの、慣れてるの?」
「別に。なんで?」

「ううん、なんか……大人だなって思って」
「大人、ねぇ……」
 スマホをポケットに収めたいっちゃんは、すとんと背中をシートに預け直したかと思うと、急に私の右肩にしなだれかかってきた。いつも毅然としていて、なにかと相克しているいっちゃんらしくない、甘えた様子だ。
「たぶん、僕に一番似合わない言葉だと思うけど」
 どういう考えがあるのか、その言葉からは読み取れなかった。ただ、私は自分でも気がつかないほど自然に、いっちゃんの頭を撫でていた。
古い学園ドラマでこんなシーンを見たことがある。なんだか、まるで愛の逃避行でもしているかのような。でも私たちは恋人同士でもなければ、行き先は楽園でも未来でもなく、地獄か、この世の果てか。
 どんでんどんでんと揺れる電車のリズムに合わせて、いっちゃんの頭が揺れる。

 僅かずつ変動する肩の重みが、妙に心地よくて、変にドキドキして、薄れていた現実感をよりいっそう遠ざけていく。
 いっちゃんは流れ行く車窓の景色をぼんやり眺めながら、ぽつりと漏らした。
「別に、将来の夢とかもないし。大人ってのは、将来のことを考えないと駄目だろ。後先がないままじゃさ、いま死んだって、五十年後に死んだって、一緒じゃん」
「将来の夢がないと、生きてちゃ駄目なの? そんなの、私だってないよ」
「ゾゾエは追ってた夢がなくなっちゃっただけじゃん。高跳びすごかったのに、怪我しちゃって……泣くほど悔しい思いしてさ。なにも考えてない僕とは違うよ」
 不意な言葉にずくりと胸が痛んで、反射的に撫でていた手を引っ込めた。
 みんなを騙し続けていた中学時代の私。

 やりたくもない陸上部で望まない期待を背負い裏切った、あの夏の苦い思いがまざまざと蘇る。
「あれは……夢でもなんでもないよ。ただやらされてただけ。やりたくないって気持ちを正直に出せなかっただけだよ」
「なら、怪我をした時……どう思った?」
 肩に載ったいっちゃんの頭が僅かに動き、上目がちに私を見た。
 にわかに熱が身体を駆け巡り、顔を火照らせる。
「それは……」
 熱っぽい恥が唇に絡まり、言葉を詰まらせる。
 あの日の欺瞞は解かれることなく、二年以上経ったいまでもそのままで、勝手に消えたりしない。額にぐらりと伸し掛かるような熱い罪悪感が押し寄せてくる。そしてまた、いつもの〝どうしよう〟が脳内を席巻しかけた。
 違う――どうしようじゃない、どうしたい?

 ずっと消えないままの嘘を、このままにしておきたくない。
 本当のことを知ってほしい。そして、謝りたい。
 そうだ、謝らなくちゃ。
「あの頃、いっちゃんもみんなも、ずっと騙してたんだ。本当は、本当は……誰かに期待されたり、応援されたりすることが苦しくて、でもみんなをがっかりさせたくなくて、やめたいのにやめたいって言えなかった。あのジャンプに失敗して倒れた瞬間、ああ、もう頑張んなくていいやって思った。そうしたらなんだか安心して泣いちゃっただけで……全然悔しくなんてなかったんだ。勘違いさせて、ごめん」
「確かにずっと嫌だ嫌だって言ってたもんな。ゾゾエは本当に……陸上部、嫌だったんだ」
「うん……。つくづく情けない話だよね。このくらいのこと、すぐに言えればよかったのに。

とにかくあれは努力とか夢とかじゃなくて、ただみんなをがっかりさせるのが……いっちゃんをがっかりさせるのが怖かっただけなんだ。だから、本当に……ごめんなさい」
「そっか……」
 気の抜けたような返事が、窒息するほど寒々しく感じた。
 脳が溶けそうなほど頭は熱いのに、指先が氷のように冷え切っていく。荒れ狂う恐慌に耐えきれず、自然と身体が震えだす。
 私の人生とは、ただこの一瞬を恐れるだけの時間でしかない。
 死にたい。比喩でもなんでもなく、いますぐ蒸発して消えてしまいたい。
「なら、僕も謝る。ごめん、ゾゾエ」
 いっちゃんの手が、私の手を包み込むように優しく握った。
「え、あ、謝るって……?」
「ゾゾエが重荷に感じてるってのを知りもしないで、無責任に焚きつけてただろ。

僕はただ、学校が離れ離れになるのが嫌なのかなってくらいにしか考えてなくて……ほら、近所だからいつだって会えるじゃん? 大会で活躍するとこも見たかったし、なにより跳んでるところがほんとにカッコいいなって思ってただけで……そんなに辛かったなんて思ってなかったんだ。だから、ごめん」
 いっちゃんの言葉を聞いて、私はまた嘘を吐こうとしていたことに気がついた。
 なにかの折衝、なにかのすれ違い、なにかの願望に対して素直に受け止める力があったなら、謝ることも、反論することも、なにより許容してもらうこともできたはずだ。
 だから〝謝りたい〟なんて殊勝な考えは嘘に違いなくて、本当の願いは〝許されたい〟だったのだ。
 避けることと逃げることが芯から身についてしまっているから、またしても無意識に嘘を重ねようとしていた。

 二年前から私は心底、なにも変わっていない。
「いっちゃんが謝ることなんてないよ。私が悪かっただけなんだ。いつも嘘ばかり吐いちゃう。だから他人の考えも……自分の考えすら、よくわからなくなっちゃうんだ……」
 さっきまでは〝どうしよう〟の嵐から脱却できた自分を、少しだけ見直したような気がしていた。しかしその僅かな前進さえ誤った方向だったのだから、これ以上の馬鹿話もない。
「嘘だなんて大袈裟な。真面目過ぎるんだよ、ゾゾエは。だいたいあの時の連中だって、ノリとか雰囲気とかで応援してただけかもしれないぜ。二年も前のことなんかどうせ忘れてるよ。お前だってそうすりゃいいさ」
 その言葉を聞いた途端、身体中の重圧がすとんと消えた。
 忘れてしまえばいい。なんて気持ちのいい断絶だろう。

 過去は不変のものとして延々と未来に繋がっていて、消すことも変えることもできないから、あの時の失敗を、その時のしくじりを、恥を、恐怖を、いつだって今日に伝えていて、思い出すたびに一歩も動けなくなるほどお腹が痛くなる。その恐ろしき記憶の持続性、連続性は、他人にもあるのだと固く信じていた。
 そうか、他の人は完全とは言わないまでも、忘却と断絶を巧みに操って昨日と今日を分断し、面白くないことは水に流してしまうものなのか。どうせ忘れている。自分の失態も、他人の失態も、なにもかも。
 いっちゃんの言葉がじんわりと心に染み渡る。衝動的に旅へ出てしまったことと、かの夏の苦味で冷え切り、遠のいていた感覚が春風のように舞い戻ってくる。
 ずっと残り続けていたあの夏の残骸は、差し込んできた綺麗な西日の中にふわりと溶けていった。その呆気なさに、思わず笑ってしまった。

「なんか、おっかし」
「なにが?」
「私の人生って、ほんとバカみたいだなって」
「そうかい。でも、いいじゃん。全人類、どうせバカばっかりだぜ」
 この程度の勇気がありとあらゆる場面で出ずに、ずっと生き辛い思いを抱えてきた。それは決して軽いものではなく、この先の人生に対してずっとこらえていけるものなのか、自信を持てたことがなかった。
 しかし思いもよらず、それを克服するきっかけを掴んでしまった。息が詰まるほど恐ろしかった人間関係の機微に、いまなら少しだけ、一歩を踏み出せるような気がするのに。
 このまま日常に帰れるなら、いままでより少しはきっと、明るく生きていける。

 でも、もはや分水嶺は遠く過ぎ去ってしまった。日常というレールは急行のスピードに乗って、どんどん遠ざかっている最中だ。
 いましも列車はカーブに差し掛かり、西日がより強く差し込んでくる。黄金色に染められていく車窓の向こうにごみごみとした街並みが小さく映り、その真中には黒々と聳える砲台がボールペンのような細さで見えた。世界を救う英雄であり、いっちゃんを殺す魔物の正体とは、如何なりや。
 次第にボールペンのような砲台も、影絵のような街並みも車窓の向こうに霞みゆき、風景はどんどんのどかな田園風景に変わっていった。乗客も時たま停まる度に降りて、空っぽになっていった。目的地の三つ手前の停車駅に着く頃には誰もいなくなって、私といっちゃんだけになった。

 列車がレールを踏みつける音以外になにもない空間へ徐々に夜闇が入り込んできて、電灯が自動的に灯った。真っ暗なままでいいのに、と思った。宵に沈み始めた景色はもう闇ばかりで、明るい車内からはなにも見えない。
 そうして終着駅とひとつ手前の停車駅の間にある八つもの駅を飛ばして、急行列車はゆるゆると辿り着いた。
 山間にある終着駅はまだ夜の八時過ぎなのに人影はなく、まばらに見える商店などもほとんど明かりが点いていない。申し訳程度にある小さなロータリーには鈴虫の声が響いていて、駅がなければほとんど真っ暗な場所だった。
「ミスったなー、まさかこんなにド田舎とは。タクシーもバスも、なんもないな」
 駅前に辛うじて立っている錆びたバス停の時刻表を見ると昼間でも一、二時間に一本しか走っておらず、終発は二時間も前に終わっていた。

「まさか旅館ってここからかなり遠い感じ?」
「適当に旅行サイトの一番上に出たとこに予約しちゃったからな……ちょっと待って」
 いっちゃんは件の旅館をスマホで調べ始めた。バスもタクシーも人影もないのに4G回線はちゃんと届いているのだから日本という国はえらいものだ、とどうでもいいことを考えていると、調べ終わったいっちゃんから歩いて二十分程度の距離であると告げられた。
「歩けない距離じゃなくてよかった。せっかく宿を抑えたのに野宿とか、洒落にならんよな」
「めっちゃ自然豊かなとこだよね。鹿とか熊とか出そうじゃない?」
「鹿はともかく熊はヤバいな。スーパーパスポートでショットガンって買えるのかな?」
 虫の大合唱を聴きながら、私たちは暗い田舎道をてくてく歩いた。

 幅の狭い道路に面してひなびた商店がぽつぽつと並ぶ様は、いつも帰り道に通る高校近くの旧街道に少しだけ似ていた。たぶん、この辺りがこの町のメインストリートなのだろう。湿った土の香りが混ざった空気はひんやりしていて心地よく、歩きやすかった。
 途中、赤塗の橋を渡っていると、夜闇の中にぽつんと明かりが見えた。
「あれが旅館だ。いやあ、遭難した人の気持ちがわかるな。文明の光って素晴らしい」
「街灯はちょこちょこ点いてたし、マップの案内どおりに歩いたんだから迷ってないじゃん」
「気分だよ、気分」
 いっちゃんが予約してくれた旅館は想像よりかなり立派で、古めかしい大きな和風の建物だった。門をくぐると灯籠や松の木、小さな池などが暗がりにうっすら見えて、上品な雰囲気に満ちている。

 予定より遅れて到着した私たちを迎えてくれた女将さんに歩いてきたことを告げると、少しだけ目を丸くしたが、嫌な顔ひとつせず荷物を持ち、フロントに案内してくれた。
「お電話いただければ、迎えの者を差し上げましたのに。大荷物で駅から夜道を歩かれて、大変でしたでしょう」
「ありゃー、ちっとも思いつきませんでした。旅慣れてないもんで」
 談笑しながらつつがなくチェックインを済ませるいっちゃんの横で、縮こまってそのやり取りに眼をきょろきょろさせていると、スーパーパスポートを受け取った女将さんの表情が少しだけ曇った。それはデパートのレジで見た人々の表情と似ているような、しかしどこか違って感ぜられた。その意味を計りかねてどぎまぎしているうちにまたにこやかな顔に戻り、慣れない手付きでカード端末とパソコンを操作して、処理を済ませてくれた。

 通された和室は建物の外観から受けた印象に違わない落ち着きがあって、女子高生が二人で泊まるには贅沢なほどの広さだった。
「大変申し訳ないのですが、先にお食事を運ばせていただいてもよろしいですか? 厨房が片付けに入っておりますので……」
「ご迷惑をおかけしてすみません。お願いします」
 戸口に荷物を置いて会釈をし、そそくさと下がった女将さんを見送ったいっちゃんは人心地をつけたのか、大きな溜息を吐きながらぐぐぐと背を伸ばした。
「いーやはや、遠くまで来たもんだ。ま、なんとか無事に着いてよかったな」
 しかし私は女将さんがチェックインの時に見せていた表情がどうにも気がかりで、ちっとも落ち着かなかった。
「ねえ、さっき女将さんがカードを受け取った時さ……なんか、変な顔してなかった?」
「変な顔?」

 脱いだキャップを指先でくるくると回しながら、いっちゃんは不思議そうな顔をする。
「まあデパートで買い物してた時も、レジの人たちみんな変な顔してたけど……なんていうのかな、うまく表せないけど、それとはちょっと違うような……」
「そりゃアレだろ、いきなり『弾丸』が目の前に現れたからビビッたんじゃねえの。常日頃から見るもんでもないだろうしな」
 キャップを部屋の隅へフリスビーのように放り投げたいっちゃんは、にやつきながらスーパーパスポートの入ったポケットを叩いた。
「『弾丸』に出逢うなんて幽霊に遭うようなもんだ。誰だって動揺するだろうさ」
 応召者の誰かと出逢う確率は、街中を歩いていて死亡事故を見かける確率とほぼ同じだ、というふうによく喩えられる。

 これから死ぬか、もう死んでしまったかという後先の違いはあれど、つまりは――〝明白な誰かの死〟に出遭う確率。だから幽霊という比喩は的確ではあるけれど。
「いっちゃんは幽霊じゃないよ。私の目の前でちゃんと生きてるんだから」
 そういう表現がいまは好きになれず、目ざとく否定してしまった。
「……はー、思わぬ長旅でちょっと疲れたな」
 私の言葉を無視して、いっちゃんは藺草が香り立つ畳の上にごろんと大の字に寝転がった。
「ほんとに驚いただけだったのかな。ねえ、パスポートに生年月日って書いてあったっけ?」
「そりゃあね」
「じゃあ、もしかしたら、通報されちゃったりとか……」

「なくはないな。偽装工作は見かけだけだ。パスポートを使えば一発で未成年だってバレる。こんな山奥の宿にガキだけで泊まってりゃ、なんか勘繰られるかもしれねーけど……」
 いっちゃんは「んしょっ」と言いながら起き上がった。
「どうする。タクシーを使えば帰れんこともない。引き返すならいまだぜ。僕はどうとでもなるが、ゾゾエにはまだ明日が続いてる。ここでノリに任せて困るのは……お前だけだ」
 いっちゃんの顔は真剣だった。この期に及んで、選択権を私に預けてくれている。
 明日が続いている。まだ日常を続けなければならない私には、戻るべき道もあるということ。このままいっちゃんに付き従い続けることは、その日常に困難をもたらすかもしれない。

 もちろん、どこまでも付いていく気持ちに変わりはない。別に明日や明後日にちょっとくらい困ったことになったっていい。
 ただ、なんらかの社会的な力――親だの警察だのが動き始めて、それらが本気で私を止めようとすれば、抗うことは難しいだろう。
 ただでさえ残り少ない時間をそんなことで縛られたり減らされたりしたら、悔やんでも悔やみきれない。ならば一旦冷静になって、戻るのも手のひとつなのか。
 現実はどこまでも先回り、暗い影を落としながら覆い被さる。ただいっちゃんと一緒にいたいだけなのに、あれほど執着した日常がいまや宿敵のように立ち塞がる。
 明日を続けよ。壊してはならぬ。その罪は常識という法によって裁かれる――。

 その時、私のスマホが鳴った。
 嫌な予感がして画面を見ると、果たして発信者はお母さんだった。
 時刻はもう九時になろうとしている。  こんな時間までなにも言わずに帰っていないので、用件は聞かずともわかった。いっちゃんも緊張した面持ちで私のスマホを凝視している。
 静かな部屋にコールが重なる。戻れ、戻れと説き伏せるように長々と鳴動する。
 行くも戻るも、決められるのはいましかない。
 ディスプレイの上で親指が震える。決意が揺らぎそうになる。
 このまま行くべきか、それとも戻るべきか。行くか、戻るか――。
「……えい!」
 目を瞑ってスマホの側面に指を滑らせて電源を切り、そのまま鞄の中に放り込んだ。

 心臓が早鐘のように打っている。でも、後悔はなかった。
「大丈夫かよ。それ、家からじゃないの?」
 いっちゃんが恐る恐る尋ねてくる。
 疼痛が響く心臓を右手で抑えながら、ゆっくり頷いた。
「そうだけど、いいんだ」
「ほんとに、いいのか……?」
「どっちにしたってどうせ怒られるし、いまあれこれ言われたら心が折れちゃいそうだし。それにいっちゃんが召集のことを教えてくれた時にも言ったじゃん。一緒にいるよって」
 唐突に思い出した言葉が、自然と口から出た。あの時はでまかせのように言ったものだったが、いまになってようやく実感が湧いてきた。
 一緒にいる、と言ったのはいいものの、あの時はひどく漠然としていて曖昧だった。

 しかしいまは行動が伴っている。捻りもなにもないけど、事実として私はいっちゃんとこの無謀な旅路を共にしている。そうすることを自分で選んでいる。だから……。
「だから……いいんだ」
 自分に言い聞かせるように、噛みしめるように言って。
 うっかり揺らぎかけてしまった決意を再び強固にするように、もう一度深く頷いた。
 すると緊張で強張っていたいっちゃんの顔が、気の抜けたように和らいだ。
「あーあ、どうなったって知らねーぞ。僕なんかに付いてきちゃって、やべーことになるぞ」
「そうかもね。でも、それでもいいかも」
 いいかも、と言った途端、顔が勝手に綻んだ。こういうのも共犯意識というのだろうか。

 一人ではできない悪戯も、誰かと一緒ならできてしまう。悪いことと知りつつ、そんな秘密を共有できるのが嬉しくて、薄笑いを浮かべあってしまう。それもまた繋がり方のひとつ。
 いっちゃんが悪そうな顔で笑っている。きっと私も同じような顔をしているのだろう。
 二人して怪しげにニヤニヤしていると、扉を叩く音がした。
「失礼いたします。お食事をお持ちいたしました」
 返事をすると、若い仲居さんがたくさんの料理が載った盆を持って部屋に入ってきた。海鮮を中心とした見栄えのいい和食が、所狭しと並べられていく。真ん中に鎮座した固形燃料の火が揺らめく小さな囲炉裏鍋には、いかにも上等そうな牛肉やきのこ類がくつくつと煮えている。
 私の人生で一番豪勢な食事かもしれない。

「ちょっと、凄すぎるんじゃないの。こんなの食べていいの?」
 綺麗なお辞儀をして下がっていく仲居さんに憚りながらぼそぼそ問いかけたが、いっちゃんは遠慮する素振りすら見せずに割り箸を割った。
「海外だって行けるカードでこんなド田舎に来てるんだぜ。どうせ将来払う予定だった血税だ。パーッといこう、パーッと」
 わけのわからない論理を展開しつつばくばくと食べ始めたので、私もそれに習って白身魚の刺身を一切れ食べてみた。程よい脂が口に広がり、とても美味しい。こんな山の中で出てきた魚なのに、普段食べている刺身より遥かに美味しいとはどういうことなのか、などと思いつつ、気がつけば食欲の塊のようになってあっという間に平らげてしまった。
 食器を下げてもらった後、はちきれそうなほど満腹だったので動くのが億劫になり、しばらく部屋で暇を潰してから露天風呂に行こうという話になったが、私はスマホの電源を入れられないので手持ち無沙汰になってしまった。

「旅の醍醐味と言えばやっぱテレビですよ。ローカル放送のクソ地味な番組を見ながら夜更しするのって最高だと思いません?」
 誰だかわからないキャラクターを演じながら、いっちゃんはテレビを点けた。いっちゃんはスマホを触れるし、テレビを蛇蝎のように嫌っているから、ちっとも見たいと思っていないはずだ。いつもこうして自然に私を気遣い、合わせてくれる優しさに改めて感じ入る。
「うおお……なんつーチャンネル数の少なさだ。ド田舎ってすげー」
 あからさまに田舎をバカにしながらザッピングし続ける。
 確かに私たちが住んでいる地域に比べて二局ほどチャンネルが少ないようで、同じチャンネルでもこの時間帯にやっているはずの番組がやっていない。おそらくここは『全国ネット放送(一部地域を除く)』という文言の〝一部地域〟に該当しているのだろう。

 いま見られるラインナップはゴルフレッスン、テレビショッピング、芸人たちのバラエティ、ニュース、落語、KA線関連のドキュメンタリー、料理と本当に地味なものばかりで、この中で私たちが見知っている番組はバラエティとニュースだけだった。
「ちっ、マスゴミの中でも最強クラスにクソな地上波のニュースしか見るもんがないとは。うるせえ芸人どもの馬鹿騒ぎなんか見たくないし」
「まあまあ。いっちゃん、気にしないでスマホ見てていいよ」
「たまには地上波ニュースのクソ具合を確認するのも悪くない。さあ、くだらねーことを述べてみろ。BPOに投書しまくってやる」
 不穏なことを言いながら底意地の悪い笑顔を浮かべている。きっと冗談ではないのだろう。
 しかしいっちゃんが噛みつきそうな政治経済の話題はちょうど終わって、今日あった出来事、それからスポーツ特集のコーナーに切り替わってしまった。

そうして三十分ほどぼんやり視聴しているうちにテーマ曲が流れ始め、番組はエンディングを迎えてしまった。
「つまんね。テレビショッピングでテンション高い外人を見てたほうがよかったかも」
「いっちゃんならテレビショッピングのどこにでもツッコミ入れそうだもんね」
「まぁジョージィ、あなたってスゴイのね! あんなに頑固だった油汚れをこぉーんなカンタンに落としちゃうなんて魔法みたぁい! ワーオ!」
 唐突にテンションの高い外人女のモノマネをぶちかまされ、思わず吹き出してしまった。
「ほんとなんでもできるね」
「人間観察が趣味ですから。あ、人間観察が趣味とか言っちゃう奴はもれなく地雷のクソサブカル野郎だからな。覚えておけよ」

「わかった。今度テストで使うね」
「絶対使えよ? 使わなかったら宇宙人に頼んでエリア51まで補習しに行ってもらうぞ」
 くだらないやり取りをしている間に、ニュースはエンドロールを流し始めていた。
 するといっちゃんがなにかに気づいたのか、テレビの音量を上げた。
『では最後に、本日の旬ネタのコーナーです。マミちゃん、今日のネタはなんでしょう?』
『はい、今日のネタはこちら、りゅう座流星群です! 別名ジャコビニ流星群とも言いまして、十月の上旬に接近する流星群なんです。夏の風物詩であるペルセウス座流星群や、冬の双子座流星群に比べると、ちょっとマイナーな流星群かもしれませんね』

『ほお~、りゅう座流星群。初めて聞きましたねえ。それってどこでも見られるんですか? ペルセウスとか双子みたいに』
『流星群が見えやすい時間帯のことを極大という言葉で表すんですが、今年のりゅう座流星群の極大は木曜日の八日、午後四時から翌日の夜明け前までとのことなので、残念ながら極大が日中にかぶってしまっています。そもそも、その二つほど派手な流星群でもないので、街中だとちょっと見づらいかもしれないですね~。ただ、八日夜の天気は全国的に晴れ、そして新月で空が暗めですので、流星群の観測条件としては大変よい、とのことです!』
『ははは、マミちゃんのりゅう座流星群にかける思いが伝わってきますね。それではプライマルニュース、本日はこの辺で』
 ニュースが終わって流れ始めた炭酸飲料のCMをぼんやりと眺めながら、いっちゃんがぽつりと呟いた。

「りゅう座流星群か……。八日ってことは、応召日の前日だな」
 何気なく事実を言っただけで、深い意味はないのだろう。それが却って現実を強く思い知らせるような気がして、逃げ出したくなり、必死に別の情報を探した。
 するとテレビの横に旅館の案内書きがあったので、それに飛びついた。
「大変! 露天風呂、十二時で終わりだって! 早く癒やされに行かなきゃ!」
 無理に大声を張り上げた、わざらしい大袈裟だった。いっちゃんはハッとした顔をして、大仰なポーズをしながら勢いよく立ち上がった。
「そりゃあ大変だ! 総員、第一種戦闘配備! 目標、露天風呂! 突撃ーっ!」
 急に司令官になったいっちゃんに従ってどたばたとタオル、下着、旅館の浴衣を抱えて、部屋を飛び出した。

 露天風呂は別館にあるので、さすがに廊下に出た後はなるべく静かに、足音を忍ばせるようにしてひたひた歩いた。
「一緒にお風呂入るの初めてだね」
「そうかぁ? 修学旅行とかで入らなかったっけ?」
「あれ、そうだっけ」
「適当だなぁ、ゾゾエは」
「いっちゃんほどじゃないよ」
「うっせ」
 十一時を回った浴場には誰もおらず、貸切状態だった。私たちは並んで身体と髪を洗ったが、いっちゃんは髪が長いので洗い終えるまでに時間がかかっていた。少し気恥ずかしいこともあり、私は「お先に」と声をかけて小走りで露天風呂へ飛び込んだ。

 田舎だけあって夜空は透き通るような漆黒にはっきりと星を瞬かせていて、とても綺麗だった。ここへ来る途中に渡った赤塗の橋の下に流れている川の遠いせせらぎは耳に優しく、夜が深まったことでさらにきりりと冷えた風が湯から出ている火照った顔や首に当たって気持ちいい。まさに極上の癒やしといえた。
「よう、湯加減はどうだい」
 後ろからかけられた声に振り向くと、いっちゃんはまるで周囲を憚らず堂々と歩いてきた。いくら誰もいないとはいえ厚顔無恥なその姿は、女子高生ではなくおっさんだった。
「ほーっ、いい景色じゃないか。おっ、こっからさっき渡ってきた川がちょっと見えるぞ!」
 いっちゃんはほかほかと湯気の上がる露天風呂をスルーして、柵から身を乗り出すようにして景色を眺め始めた。

 対岸には民家はおろか明かりひとつない山が黒々としているだけなので、まさか誰にも見られるはずはないのだろうが、『伊豆の踊り子』に出てくる娘のように無邪気な振る舞いに、こっちが恥ずかしくなってしまった。
「ちょっと、いい年してなにやってんの。風邪引くよ」
「だって景色が綺麗だもんよ」
 私が注意すると、ようやくいっちゃんも湯船に入ってきた。
「もう、子供じゃないんだから……」
「ほーら、やっぱり僕は大人じゃないだろ?」
 電車で言ったことを引き合いに出して呆気らかんと笑ういっちゃんを見ていたら、心配や気恥ずかしさなんてどうでもよくなり、なんだか小憎らしく思えて、顔にじゃぶんと湯をかけてやった。
「ぷっは! おいおい、暴力的だなあ」

「お静かに! ここは公共の場です!」
「さっきからなにツンツンしてんの? ほれ、もっと近う寄れ」
 近う寄れ、などと言いながら、いっちゃんのほうが寄ってきた。
 滑らかな肌が肩にぴったりとくっついて、擦れ合う。
「ちょ、ちょっと……」
 洗い上がりの髪を器用に結ったいっちゃんが、にやけ面を貼り付けながらこちらを覗き込んでくる。後れ毛から滴る湯、真っ白な肩と喉元、そして私より数段立派な胸の膨らみ。
 普段は見ることのないところにゆらゆらと濁り湯が絡みついて、女同士なのにひどく官能的な衝動を突きつけてくる。
 とても直視できず、思わず顔を背けてしまった。
「あ、もしかしてダチ同士の裸の付き合いが恥ずかしいのか? ウブだなー、ゾゾエは」

 すっかり調子を狂わされているのを明らかに面白がっている。癪だがそのとおりなので、なにも言い返せない。
 身じろぎをしても、すぐにその距離を詰めてくる。じりじり、湯の中の攻防戦。顔と顔が近い。唇が触れてしまいそうなほど、近い。
「おっ、胸がちょっと成長したんじゃないか? どれ、よく見してみ」
 ついに言うことまでおっさんになってきたいっちゃんに、私はまた湯をかけた。
「もう、他に見るものがいくらでもあるでしょ! ほら、星が綺麗だよ!」
 恥じらいを掻き消すように大声を上げて、空を指した。いっちゃんの視線はそれに導かれるように空を見上げて、生まれて初めて夜空を見たかのような声音で、
「ほんとだ、綺麗」

 とだけ呟いて、からかうのをやめた。それでも身体はぴったりと寄せたまま、離れようとはしなかった。
 調子を狂わせているのは、いっちゃんも同じかもしれない。
 日を追うごとに迫りくる死の影。毎日その輪郭に明瞭さを増していく闇。いったい生贄を求める砲台とやらの正当性は、嘘か真か。
 いや、ともすれば私と同じように、そこには真偽があると信じたいのかもしれない
 〝世界の真実〟とは、世界はKA線に冒され終末を迎えかけていて、故に砲台は人類にとって欠くべからざるものということ。それを疑う余地のないものと認めれば、取りも直さずいっちゃんの死という結末にも、疑う余地がなくなってしまうから。
 いっちゃんが湯の中から右手を差し出し、夜空に高く掲げた。
「流星群、今日だったらよかったのに。八日だなんて……」

 光年の彼方できらめく星々は確かに心を震わせるほど綺麗だけど、その満天は如何ともし難く不動のままだ。もし流星群の極大が今日だったなら、どんなに綺麗だったろうか。
「見れるよ。八日でしょ? 一緒に見に行こうよ」
「そっか……。そうだな」
 ふんわりした返事がどこまで本気なのか、私の言葉がどのくらい届いたのか、わからなかった。それからはお互い無言になり、しばらく夜空を見上げたまま温泉につかった。
 逃げれども逃げれども、追い払っても振り払っても、どんどん追いついてくる現実。
 付かず離れずの距離でせせら笑いながら約定の日を携えて、悪霊のように追いかけてくる。

 もっと速く、もっと遠く、それこそ流星のようなスピードがなければ、どうも駄目らしい。
 温泉から上がり、糊のきいたシーツと清浄な香りのふわふわな布団の中に入っても、いやに火照るばかりでちっとも眠れなかった。
 月明かりが差し込む部屋で、まんじりともせず寝返りを打ち続ける。布団を頭からかぶっても、どこかから聞こえてくる刻々とした秒針の音が、いつまでも眠気の定着を阻害する。 「眠れないな」
 温泉からずっと無言だったいっちゃんが口を開いた。
 もそもそと布団を退けると、月に照らされた浴衣姿のいっちゃんが弱々しい微笑を浮かべながらこちらを見ていた。
「ごめん、ゴソゴソしてたの、うるさかった?」
「ううん、さっき日付を意識したら……ちょっとリアルな感じになっちゃってさ。何度も気にしないようにしたんだけど、やっぱ無理だわ」

「いっちゃん……」
 布団から左手を差し出し、いっちゃんの布団に潜らせて、手探りで探し当てた手を握った。
 するといっちゃんも身を捩らせて、こちらへ寄ってきた。
「死にたい、って言いまくってたけどさ、嘘だよなあ。ちっともわかってやしなかったんだ。本当に……死ぬってことの意味なんてさ」
 明るい調子で言うものの、すぐにその明るさは作り物であるとわかった。
 月明かりに浮かぶ瞳は、風に揺られる水たまりのようにゆらゆらと潤んでいた。やはり不安で堪らなかったのだ。
 かける言葉を見つけられず、どう慰めるべきか迷っていると、突然握っていないほうの手を私の胸に押し付けてきた。
「ちょっ⁉ いきなりどこ触って……」

「なあ、生きてるってなんだ? メンヘラくせー質問だけどさ、心臓を動かすことか? ここをドキドキさせてれば、生きてるってことになるのかな?」
 驚きと緊張で戸惑ったが、すぐに言わんとすることに思い至った。
 『弾丸』にされる人は特殊な手術によって脳死に近い状態されるが、心臓は動いている。それは生きているといえる状態ではある。
 しかし正しい言葉で表すなら、それは〝生存〟であって〝生きてる〟とは違う。私たちが求める〝生きてる〟とはもっと形而上のものであり、心臓や脳が動いていればそれでいいというものではない。それらが正常に働くのは前提で、自分を見つめる自分がちゃんといて、楽しいことも辛いことも認識できる必要がある。
 ここをドキドキさせていれば――なにかを感じていれば〝生きてる〟ということになる。逆説的にはここがなにも感じていなければ〝死んでる〟ということになる。

 ならば生かすことも殺すこともしない『弾丸』とは、そのどちらをも他人の手によって否定する、悪魔的な行為に他ならない。
 いっちゃんが孤独を突きつけ続ける世界に対して踏ん張った意味も、家族の裏切りと戦って悲愴に耐え続けてきた意味も、全部踏み躙られる。
 たった一人にこんな暴挙を振りかざさなければ、こんな苦悩を背負わせなければ、この世界は一日たりとも続いていかない。
 それなのに感謝も謝罪も配慮も同情もなく、なにもかもを奪い、ただ死を告げる。
 仮にそれをすべて伝えたからといって、悲しみは消えないのに。
 でも私とて、別の誰かにそうやって生きている一人だ。そんな世界で生きていく一人だ。そんな冒涜を押し付ける同罪の悪魔だ。いっちゃんがいつか言っていた〝全人類がいじめっ子体質を共有する〟という言葉が切れ切れに思い浮かぶ。

 残酷な――あまりにも残酷な現実に、目の前が真っ暗になる。
「生きるも死ぬも、僕が決められるはずだったのに……。僕は、なんのために生まれてきたのかなぁ……?」
 言い終わらないうちに、水たまりから大粒の涙が流れ始めていた。一度そうなると、堰を切ったように次から次へと溢れ出した。
 いつもの超越した雰囲気も、中二病の刺々しい言葉もなく、身も世もなく泣きじゃくる姿は等身大の少女そのものでしかなくて、あまりに弱々しく、見ていられないほど痛々しく、私まで泣けてきそうだった。
 しかし最後の防波堤を懸命に抑え、ぐっと耐える。私まで負けて泣いてしまったら、こんなに弱ってしまったいっちゃんを誰が支えるのか。
 私ごときが誰かを支えるなんて大それた考え、普段なら及び腰になっているだろう。

 でもいまはそんな〝私ごとき〟しか、ここにはいない。
 明るい言葉を、元気の出る言葉を、希望をもたらす言葉を、頭の中で必死に探した。
「少なくとも、私たちは死ぬために生まれてきたんじゃない。青春するために生まれてきたんだ。そうでしょ? 中二病だっていい。妄想だっていい。楽しければ、なんだっていい。青春って……生きてるって、そういうことじゃないの?」
 心にもないことだ。こんなことを本気で考えていたなら、弱虫の人生なんか送ってこなかったはずだ――そんな弱音をおくびにも出さないよう、強い口調で言ったつもりだった。
 さりとて思いつきで作った美辞麗句では、やはりいっちゃんの悲しみや絶望を和らげられなかった。涙は止まることなく、傷んだ心が溢れ出るかのように滔々と流れ続ける。

「そんな前向きに……なれないよ。死にたい死にたいって言ってみたって、結局は口先だけだったけど、心の中はずっと消えたいとか、逃げたいとか、そういう感情ばっかりだった。生きていきたいって思ってなかった。死ぬ勇気が固まらないだけだった。ただ死ぬのが怖いから……死ねなかった」
 いつも私が考えていることと大差ないことだ。そのはずなのに、棘のない無垢な弱さを曝け出すいっちゃんの声で伝わると、胸が張り裂けそうなくらいに痛かった。私がこんなに痛いのなら、いっちゃんの痛みはいかばかりだろうか。
 それをなんとかしてあげたくて、思いつく限りの言葉を頭の中に並べて、勇気や希望に繋がるものをかき集め、絞り尽くす。
「死にたくないから生きてるだけって、なにが悪いの? そうやってうだうだ生きてるだけだって、別にいいじゃん。辛いことから逃げて、痛いことは避けて、怖くないことだけ考えて、楽なことだけして、仲のいい人とだけ楽しく生きて……それでいいじゃん」

 それでも元々希望の欠片もなく、鬱々と生きてきた人間の浅い限界はここまでだった。
 これ以上はもうなにも思いつかない。なにかを言ってあげたくてもなにも言えない。
 貧弱な語彙を呪い、消極と悲観しか生み出せない性根を悔いた。
 そんな情けない私の左手を、いっちゃんは両手で縋りつくように固く握り締める。
「でも、現実は……こうだよ。死ぬために生まれてきた奴だっているんだ。僕みたいに」
 がたがた震えて、怯えも、絶望も、この一箇所に圧縮されていくかのように縮こまって、指がちぎれてしまいそうなほど握力が強くなる。
 弱まる声と相反するように、強く、強く。
「ゾゾエが友達でよかった。みんなと出会えて楽しかった。それは嘘じゃない。

でも、それでも……生まれてこないほうがよかったって、思っちゃうんだ」
 声も絶え絶えなその言葉に止めを刺され、ついに私の防波堤は破れてしまった。
 私ごときではやはり、いっちゃんの恐怖や絶望を拭い去れなかった。
 当たり前だ。今日までを強く生きて、なにかを成し遂げた人間ならいざ知らず、何事からも何者からも逃げに逃げ、恐ろしいことをひたすらに避け続けた私は無力で無知で、たとえこの場を舌先三寸で丸めたとして、結局いっちゃんを救えやしない。それを自覚した途端、もう駄目だった。私も両手をいっちゃんの手に重ねて、くうくうと泣いた。
 私たちはきっと、世界で一番不幸な人間ではないのだろう。
 当たり前で、当然で、日常で、よくあるあれやこれやのひとつでしかなくて。
 けれど。

 世界で何番目の不幸なのか、わからないけれど。
 だとしたら、これ以上の不幸があるかもしれないこの未来(さき)なんて、生きていく自信がない。
 生きていけない――とても、生きていけそうにない。
 そんな気持ちは〝死にたい〟という気持ちと、どれほどの差があるのだろう。
 急行電車に乗って、夜道を歩いて、こんな田舎まで逃げてきたのに、現実は呆気ないほど簡単に追いついてしまった。
 悲しくて、悔しくて、恐ろしくて、ただただ、泣き続けた。
 何時間泣き続けたか、やがて私たちは泣き疲れて、砂が崩れるように眠ってしまった。

 翌朝、私のほうが先に目覚めた。昨夜泣いた後遺症が頭に残響する痛みとして残っていて、高熱を出した時のようにぐわんぐわんしている。

 朝日がいっぱいに差し込む窓に目を遣ると、青々とした山とよく晴れた空が見えた。
 すぐ隣には、いっちゃんがあどけない表情で眠っていた。涙の跡が残る白い頬を人差し指の背でなぞると、むにゃむにゃと形を変える。握られた左手は寝ている間もそのままだったようで、肘の辺りまで痺れていたけれど、離せなかった。
「んぁ……ゾゾエ?」
 ちょっかいに気づいたのか、小さい子供のような声をあげていっちゃんも目覚めた。
 ぼんやりした表情で私の顔を見て、握った私の左手を見て、その手に少し力が入った。
「おはよ」
「ん……。おは……っふ」
 おはようが途中から欠伸に変わり、空気になって途切れた。

 私も大概朝には弱いけれど、いっちゃんはそれ以上らしい。
 二人して布団の上で上半身だけ起こし、たっぷり五分ほどぼーっとしてから、ようやくのそのそと身支度を始めた。
「昨日の夜は、その……取り乱して悪かった。もう大丈夫だ」
 いっちゃんは恥ずかしそうに口籠りながら、寝癖を直すためにドライヤーを当てている。
 昨夜の弱々しさは一夜の夢のように消えていて、すっかりいつもの顔に戻っていた。
「いいよ、無理に強がらなくて」
「もう少しだけ強がらせてくれ。まだ一縷の望みってもんがあるかもしれない。あ、ゾゾエも考えといてくれよ。もしZ地区がなかったら、その瞬間から僕らは反逆者としての人生を送ることになる。世界中にどうやってこの壮大な嘘を暴くか、算段が必要だ」

「おっけー、とにかく行動あるのみだね。それじゃ、今日はまずどこから行く?」
「んー……」
 寝癖を直し終わったいっちゃんはドライヤーを切り、窓からの光に目を少し眇める。
「行く前は暢気にあちこち行くつもりでいたけど……それってたぶん、目を背けたかっただけだと思うんだよな。平気なふりっていうか、余裕を持ちたかったっていうか。日常を続けようとしてさ」
「現実逃避のプロから言わせてもらえば、それこそ正しい現実逃避の手法ですよ、一葉さん」
「あちゃあ……。じゃあ望依プロには全部お見通しなんじゃないの?」
「スッキリしないままじゃどこに行ったって駄目だろうね。行き先はひとつしかない、か」

 Z地区に行く方法を調べるためにスマホの電源を入れると、約半日ぶりに灯ったディスプレイに母からの夥しい着信とメッセージが怒涛の勢いで表示された。
 一瞬腹のあたりに氷が滑るような感覚が走ったが、ワンタップで通知を消して見なかったことにした。
「その前にご飯食べようか。食堂、八時半までみたいだし」
 遣る瀬無さから逃れようとした私の提案に、いっちゃんが素直に頷いた。
 身支度を終えた私たちは食堂に行き、バイキング形式の朝食を摂りながら手分けしてZ地区へ行く方法を調べた。
 どうやら空白地帯の境界線はこの旅館から十五キロほど北にあるらしく、バスを乗り継いで行けるのは手前十キロ地点までで、そこからは廃止された国道を歩いて行くしかないことがわかった。
「徒歩で十キロかあ……なかなかハードだね」

「いっそタクシーで行くって手も……いや、こんなとこまで行ってくれる運ちゃんなんかいないか。ゾゾエ、行けるか?」
「大丈夫、これでも元陸上部だし心配しないで。真夏じゃないし、頑張れば行けるよ」
「そうだな。よし、そんじゃ、さっさとチェックアウトしようぜ」
 頬張ったご飯をずずずと味噌汁で流し込み、部屋に戻って手早く荷物を纏め、チェックアウトを済ませて旅館を出た。
 すると門を出た辺りで、ぱたぱたと足音が聞こえた。なにかと思って振り返ると、女将さんが息を切らせて追いかけてきていた。
「あ、あのっ!」
 声に応じて立ち止まると、女将さんも少し離れた飛び石の上で立ち止まった。
「あれ、忘れ物とかありました?」

 いっちゃんの問いかけに答えず、女将さんは少し肩を上下させながら俯きがちに言った。
「あの、実は私もお客様たちと同じ年の頃に姉が招集されて……あの時も姉妹でなんの準備もしないで最後の思い出旅行に出てしまったことがあって……。お客様たちを見た瞬間、その時のことを思い出してしまって……」
 急に身の上話を始めた女将さんの言葉は大人のそれとは思えないほど纏まらず、要点らしきところをふわふわと飛び回る。しかしチェックインの時に見せた、不可解な表情の意味を理解できた。私たちの身分について訝しんでいたのではなく、同じ理由で失ったお姉さんをいっちゃんに重ね合わせていたのだ。旅行サイトで適当に決めた先の女将さんがまさか応召者の遺族とは、事実は小説よりも奇なりである。
「こんなことをお客様に、いえ、あなたに伺うのは大変失礼な……酷なことと重々承知しているのですが……

ひとつだけ、お訊きしてもよろしいでしょうか?」
 嫌な予感がした。応召者の遺族であるこの人がこんな言い方でいっちゃんに訊きたいことなんて、どう考えてもろくなことじゃない。
 私はいっちゃんの袖をぐいと引っ張った。
「ねえ、行こうよ、いっちゃん」
「いや、いいよ。なんです? 訊きたいことって」
 私を制しつつも応じるいっちゃんの声が、僅かに固さを帯びた。嫌な予感がしているのはきっと同じなのだろう。
 逡巡しているのか、女将さんは目線をうろうろさせたり、そわそわしたりして、すぐには口を開かなかった。
 ややあって心が決まったのか、衿元の辺りに拳を当てて、思いつめた声で問うた。

「召集されることって、どんな……どんなお気持ちなのでしょうか。もちろんお辛い気持ちでしかないとは思いますが、その中になにか別の思いは……使命感というか、無理矢理にでも納得というか……なにかあるものなのでしょうか」
 予感は的中した。女将さんの無神経さで怒りが瞬時に全身を巡り、かあっと熱くなった。
 横のいっちゃんを見ると、なにかに痛むように顔を顰めていた。
「行こう、いっちゃん」
 怒りを抑え切れなくなった私はいっちゃんの手首を掴み、強引に歩き出した。
「でも、ゾゾエ……」
「いいから」
 いっちゃんは戸惑いを浮かべ、なにかを言いたそうにしていたが、構わず引っ張った。

 いっちゃんは優しいから、こんな問いにも女将さんを安心させるように、納得できるように答えるだろう。  でも心を削ってまで、こんな不躾に身を曝す必要なんてない。
 いっちゃんは正面から襲い来る悪意には強いが、心の隙間を縫うような姑息が絡むと途端に鈍くなる。私はその逆で、後者に対しては人一倍敏感だ。
 そういうものから逃げる心得は私のほうが長けている。
 だからこんな所からはさっさと立ち去るべきだと判断した。後ろで女将さんの短い声が漏れたのも微かに聴いたが、無視してぐいぐい歩いた。
 昨夜布団の中でいっちゃんが泣き縋りながら吐露した恐怖や絶望、そして希死念慮に苛まれながら戦ってきた孤独を知るいま、女将さんの無神経は断じて許せなかった。

 そしてなにより、訊くべきでないことを訊くべきでない相手に訊いてしまう弱さ、そこに情やもっともらしい理由を絡める姑息――それがどうにも言い訳ばかり考える性分に重なって、にわかに湧き出た自己嫌悪に耐えられなかった。
 旅館を出てから赤塗の橋の手前まで、黙ったままいっちゃんの手を引いて歩き続けた。
「落ち着けよ、ゾゾエ。もう大丈夫だ」
 諭すようないっちゃんの静かな声を聴いて、ようやく冷静さを取り戻した。
「ごめん、引っ張ったりして……」
「いや、まあ……気持ちはわかるよ。気にすんな」
 いっちゃんは少し手首を擦りながら、控えめに笑った。
「ごめん、痛かったよね。大丈夫?」
「平気だって。にしても、いきなりぶっこんできたよな? ちょっとビビったわ」

 謝る私に手を振りながら、屈託なく答えるいっちゃんの姿が心に沁みる。
 怒りに任せて行動してしまった結果は、落ち着きを取り戻すほど幼稚に思えた。自分と重なった女将さんの言動に共感性羞恥めいたものも感ぜられてきて、だんだんと空恥ずかしくなってきた。
「なんだったんだろうね。あんなこといっちゃんに訊いて、どうするつもりだったんだろ」
 恥ずかしさを掻き消すように、少し大きな声で言った。
 するといっちゃんは風に攫われかけたキャップを直しながら、ふわりと答えた。
「あの人もいろいろ訊きそびれたことがあったんじゃねえの、お姉さんにさ。なまじ身内だからその時は訊きづらかった、でも他人の僕になら……みたいな」
「そんなの……勝手だよ。ちっとも大人じゃないじゃん」

「大人、ねえ……。難しい問題だよな。実際大人になり損なっちゃった奴って、いつどうやって大人になったらいいのかねえ?」
 いっちゃんは事も無げに言ったが、その言葉で恥や嫌悪が生じた本当の原因に気づかされて、とても他人事とは思えず、暗然で息が詰まった。
 大人になり損なった大人。そのきっかけを失い、大切な人の死を乗り越え損ねた大人は、いつも厭悪する自分とよく似た姿をしていた。
 誰かやなにかを喪うことを受け止める方法。それを自らでは考え切れず人任せに、他人の中に答えを探し求める姿の、なんと情けないことか。
 そうして他人と他人の間を這いずり回るうちに大人になり損なって、何年経ってもなにも見つけられないまま、喪ったその日から一歩も前に進めなくなる。
 私もいっちゃんの死と向き合えなければ、いつかはああなる――恐ろしい未来予知だ。

 さっきより少し膨らんだ自己嫌悪を重く抱えながら、いっちゃんより半歩遅れて歩く。
 昨日通った時は辺りが真っ暗だったので気づかなかったが、赤塗の橋から見える風景はそれなりに明媚なものだった。見知った商店はひとつもないように思われたが、橋を渡りきって少し行った先にある交差点の角にコンビニがあった。そこでペットボトルのお茶を買って、昨日通った道を逆に辿って駅前に出た。
 するとちょうどバスが停車していたので、スーパーパスポートをちらつかせて乗り込んだ。後ろの方の席に座ってデパートで買い込んだお菓子を食べながら、なるべくKA線のこととは遠い話題を選んでおしゃべりをした。
 私もいっちゃんも表向きは上手く誤魔化せていたが、内心は高まり続ける緊張を抑えようと必死だった。
 ついに召集令状という名の死神を生み出す元凶にまみえる。これまで漠然と信じ込まされてきた〝世界の真実〟の真偽がはっきりする。

 親も、先生も、教科書も、テレビも、ネットも、その真偽について問うているところなんて見たことがない。それはつまり疑う余地のないものなのかもしれない。
 しかしいっちゃんの言うとおり、一縷の望みがまだ残されているとしたら。いや、たとえ本当に一分の隙もない完璧な事実であったとしても――諦めるに足る確信を得なければ、観念することはできそうにない。
 空白地帯の最寄りのバス停に辿り着くには二回乗り換えが必要だった。一度目、公民館の前で乗り換えたあたりから、いっちゃんの口数が徐々に減っていった。
 私も高ぶる鼓動で胸が痛いほどになっていたので、なにも言えなくなっていた。

 無言のまま胸の痛みだけに向き合っていると気が滅入りそうだったので、スマホで動画サイトを開いていくつかの動画を視聴してみたものの、気を晴らすより先に乗り物酔いの症状を呈してきたため、いっそう体調が悪くなっただけだった。
 二度目、無人駅の前で乗り換えた後は、もはや完全に無言だった。
 私は猛烈な吐き気や跳ね上がる胸と腹の痛みと戦って、ひたすら遠くだけを見つめようと努めていたが、その横でいっちゃんはスマホをフリックする指を止めなかった。
「いっちゃん、酔わないの?」
「大丈夫。昔からこういう時はずっとゲームとかしてたから」
「へー、すごいね。ところで、さっきからなに見てるの?」
「うん、それは、まあ……」

 私が問うた途端、急に手を止めてスマホを鞄に入れてしまった。
「あ、ごめん、もしかして訊いちゃいけなかった?」
「や、ゾゾエにあの金を遺せないかな、と思って色々調べてたんだ。どうも無理っぽいけど」
 予想もしなかった答えに驚いた。
「あの金って……藪から棒に、どういうこと?」
「昨日見せたあの冊子には書いてないけど、実は僕が死んだ後に『応召者の遺族に対する特別弔慰金』っていう結構な名目で、親に一億出ることになってるんだ」
「一億……」
 思わずいっちゃんの言った金額を諳んじる。
 一億。それが人を空に撃ち出すための値段。

 数字の高低の感じ方は人それぞれだろうし、少なからず衝撃的な金額ではある。けれど親友を暴挙の鉄槌で押し潰して、空に撃つことを許さなければならないと思えば安すぎる。
 どんな根拠があって一億なのだろう。この決まりを作った人は、大切な人を同じように撃ち出さなければならなくなったとして、本当に一億で納得できるのだろうか。
「あのクソどもの手に渡るのをどうにかできないもんかと調べてみたけど、遺言書とかじゃ駄目らしい。どうも支給される前はあくまで政府の金であって、支給された後に個人の財産として認められるんだが、その個人ってのに本人は入ってないから遺言で希望は言えても強制力はないんだと。わけわかんねー話だよなあ、僕の命に支払う金なのに」
「そんなのどうでもいいよ、いらないし。っていうか、死ぬ気満々で喋るの、やめない?」

 死んだ後のことをぺらぺらと話すいっちゃんに腹が立ったのか、それともこんな不条理につけられている値段に苛立ったのか、思いがけず言葉が刺々しくなってしまった。
「ごめん、キツい言い方になっちゃって……」
「いや、こっちこそデリカシーがなかった。確かにどうだっていいよな、こんなこと……」
 別にいっちゃんがわざわざ私を苛つかせようとしているわけではないことくらい、わかっている。喋ったり手を動かしたりしていないと、不安に押し潰されてしまいそうなのだろう。
 あるいはバスの速度に合わせて迫り来る現実からいよいよ目を背けきれなくて、否が応でも考えてしまうのだろう。お互いに余裕をなくしているのは明白だった。

 私たちは再び無言になり、数十分ほど揺られて、ようやく目的の停留所に着いた。
 いっちゃんが先頭に立ち、私はそれに従って歩いた。少し行ったところに分かれ道があり、山の方へ続く道の入り口には『この先、行き止まり』と書かれた大きな看板が立ちはだかっていた。
 確認のためにマップを開いてみると、やはりこの道の果ては空白地帯に吸い込まれるように途切れていた。
「さて、こっからは歩きか。鬼が出るか、蛇が出るか……。ゾゾエ、覚悟はいいか?」
 いっちゃんがキャップの庇を下げて目深に被り直し、鋭い視線をこちらに送る。まるで猛獣の巣食うジャングルにでも挑むような格好だ。
 じんわりと嫌な汗が浮かぶ。手汗がどれだけ拭ってもびしょびしょのままで、震えが収まらない。

 いよいよこの先に揺るがしようのないなにかがある。怖くてたまらない。
 それでも、行かなければならない。
「うん。大丈夫」
「よし、じゃあ行こう」
 お互いに勇気を補うようにして頷き合い、ゆっくり歩き出した。
 廃止された二車線の国道は、日本の道路とは思えないほど荒れ果てていた。
 道の端やアスファルトの割れ目から草が生い茂り、泥や石ころがあちこちに堆積している。手入れをせず、人も車も通らなければこうも朽ちてしまうものなのかと思い知った。
 そんな悪路をローファーで登るのは過酷なことだった。勾配は緩めなものの、時たま落石や倒木などの大きな障害物があったり、泥や砂利に足を取られたりして思うように歩けない。

 曲がりくねる道に遠回りを強いられているような感覚を与えられるのも、精神的にくるものがあった。気温はさほど高くなく、むしろ過ごしやすいくらいの風が吹いているのに、三十分ほどですっかり汗だくになってしまった。
「こりゃあ想像以上だな。コンビニでもっとお茶買っとけばよかった。デパートで靴も変えとくべきだったな。クソ、こんな獣道みてーなとこだとわかってりゃなあ……」
 早々にペットボトルの中身を飲み干したいっちゃんが、苦々しい表情で愚痴をこぼした。
「慣れない靴で歩くほうが辛かったかもよ。こっちもちょっとしかないけど、飲む?」
 残り僅かとなった私のペットボトルを差し出したが、いっちゃんは手を振って断った。

「自己責任だ。いいさ、JKの底意地を見せてやる」
 汗びっしょりの額や頬に黒髪を貼り付けたままにっと笑う。その顔に元気づけられ、私も少しだけ気力が回復した。
 それからは無言になり、ひたすら緩い坂道を登り続けた。元陸上部だから大丈夫、なんていう朝の威勢を足の裏や膝の痛みが嘲笑ったが、とにかく登り続けた。下手なハイキングよりよほどハードな道行のおかげで、不安や絶望といった負の感情が一時的に消えてくれたことだけが唯一の救いだった。
 どれほどの時間を歩き続けたか、最後の急勾配を登りきったところでついにそれは現れた。
 伸び放題の鬱蒼とした木々に囲まれているところに、ぽっかり開いているトンネル。

 その前にはあの動画で見た、不吉な印象を刻みつける《指定消滅区域の為、立入禁止》と書かれた赤い看板が立てられている。
「魔界の入り口だ」
 魔界――いっちゃんの表現は言い得て妙だと思った。
 命の息づきを拒絶し、深い闇を孕んで山腹に開いた冥いトンネルは、まさにこの世ではないどこかに通ずる門のようだ。低く響く唸り声のような風鳴りが止まないのも、その錯覚に拍車をかける。
「行こう、ゾゾエ。〝世界の真実〟は、すぐそこだ」
 言葉こそ強いが、その声は確かに震えていた。
 そうだ、怖いのは私だけではない。いっちゃんはきっとこの何倍も怖いのだ。怖気づいている場合ではない。
 少しでも勇気を出せるようにと強く頷き返し、手を繋いだ。そしてスマホのライトを点け、意を決してゆっくりと闇の中に一歩を踏み入れた。

 山を貫く長い長いトンネルの中は身震いするほど冷え切っていて、季節が逆転してしまっているかのようだった。
 その冷えた空気とは別の冷たさが、魔物のように心を侵していく。不気味に反響する足音が亡霊のように、いつまでも足元をついて回る。厳しい道程の疲労で誤魔化されていた不安が一挙に舞い戻る。なんの障害物もなく平坦なトンネルが、いまはひどく恨めしい。
 このままでは駄目だ。怯えに挫けてしまいそうになる。私は懸命に頭を巡らせ、この苦境をなんとかする方法を模索する。
 そしてひとつだけ思いついた。いまこそ中二病が役に立つ。
「ここマジですごいね、いっちゃん! めっちゃ雰囲気あるよね! なんかこう、ゲームのラスボス前のダンジョンって感じしない? ずっと震えてるけど、MPの残りは大丈夫?」

 這い回る冷たさに心が負けてしまわないよう渾身の空元気を捻り出し、どうにか面白がってやろうという努力を試みる。
 辛い現実と戦うため、いっちゃんが編み出した最終手段。
 妄言でも虚勢でも、この際なんでもいい。
 ただこの歩みが止まらないだけの勇気を二人分、少しでも支えられればそれでいい。
 するといっちゃんも握る手の力を強くしながら、私よりもさらに明るい声を張り上げた。
「そりゃあ震えるさ、さすがに。でもここまで来たら今更取って返すわけにはいかねえ。行こうぜ、ゾゾエ。〝世界の真実〟を知りたいだろ? さっさと二人でラスボスをぶっ飛ばして、このクソゲーを作りやがった長ったらしい戦犯リストを拝んでやろうぜ!」

 しかしその強い言葉とは裏腹に、声は入口にいた時よりも明らかに震えを増していた。
 〝行こう〟と言うのは、きっと〝逃げよう〟の裏返し。だから何度も言っているのだろう。
 そうやって言い聞かせ続けなければ、足を前に進めることができないから。その証拠に握っているいっちゃんの手は、まるで雑巾でも握っているかのようにしとど濡れている。
 心霊的な、超自然的なものに対する恐怖ではない。
 この闇の先に見えるであろう、ただ圧倒的な現実が。揺るがしようのない、どこまでも現実的な現実が、怖くてたまらない。
 でもいっちゃんの言うとおり、ここまで来てなにも見ず帰ってしまっては、貴重な時間をなんのために浪費したのかわからなくなる。どんな覚悟を決めるにせよ、この目で本当のことを見なければなにも受け入れられない。

 私たちは歩いた。何度も虚勢を張り直しながら、おっかなびっくり、永遠にこの闇が続けばいいのにと、くだらない矛盾をひたすら願いながら歩いた。
 やがて、光が見えてきた。
 外の、向こう側の景色が近づいてくる。吹き付ける風が強くなる。
 ドラマや映画の演出でよくある、光が曖昧に差し込んでくるような心優しいオブラートなんてなかった。出口の数メートル前からじわじわと骨身を蝕むような違和感があった。
 それでも歩いて、ついに私たちはトンネルからよろぼい出た。
 そして、息を呑んだ。
「……はは、なんだ、こりゃ」
 隣のいっちゃんが乾いた笑いを漏らした。
 ネットで真しやかに囁かれるZ地区の噂は、誰かが空想した三文SF小説でも、中二病の拗らせた妄想でもなく、やはり現実だった。

 十キロか、二十キロか――高台になったこの場所から彼方まで見渡せる。
 そこから望む景色には、ぽっかりと空いた穴のように無残な灰色が広がっていた。
 私たちが立つ場所と、遠くに見える街との中間くらいに大きな円の境界線が引かれていて、そこまでは緑が続いている。しかしその向こうにあるものは、峻険な峰々も、それに囲まれた盆地の街並みも、なにもかも灰一色だった。荒々しく切り立ったその峰々が、元はどれも青い山だったのだろうと気がつくのに少し時間がかかった。
 あの田舎町は十数年前に打ち捨てられたはずだが、いまもしっかり原型を留めている。しかし遠い距離感のせいか、それともなんの色彩もないせいか、ジオラマのような作り物めいた雰囲気で満ちていて、かつて誰かが住んでいたとは思えなかった。

 灰色で塗り潰された大地には見渡す限り草木一本すらなく、空には鳥の一羽も、雲の欠片さえも見当たらない。
 嘘であってほしい。政府、秘密結社、宇宙人、そういう抽象的な悪による馬鹿げた陰謀であってほしい――そんな他力本願で子供じみた解釈や願望を差し挟む余地はどこにもない。
 目が眩むほどなにもない空の青。
 丸い死の境界線が分かつ、此方の緑と、彼方の灰。
 あまりに不自然な極彩色で描かれた極端なコントラストと、僅かに風の音だけが鳴っている静かな情景は、腹の底を揺するような不安を掻き立て、足を竦ませる。
 一切の生命が排除されて、無機物だけが佇むうらぶれたこの場所は、確かに比類なきこの世の最果て、行き着くべきところに行き着いてしまった最奥の地――〝世界の真実〟という大仰な言葉で語るに相違ない。

 その時、吹き上がった向かい風に乗って漂ってきた、妙な臭いが鼻腔を刺激した。
 トンネルに入るまで噎せ返るほど感ぜられていた土や草の匂いではない。ひたすら不気味な、得体の知れないなにかが香る。
 これは、なに? 燃え尽きた灰のような、何年も積み上がった埃のような――。
 違う。経験の中にこんなおぞましい臭いはない。
 燃えた灰のように煙たく、積もった埃のように黴臭く、それでいてなにかが腐ったように酸っぱくもあり、熟れ過ぎた果物のように甘ったるくもある。
 吸う度にころころと感覚が変わり、纏まりかけたイメージをバラバラに分解されるようで、ひどく不愉快だ。
 まさか、これは世界が死んでしまった時の――あの世の臭い?

「おい、走るぞ」
「えっ……?」
 いっちゃんがやにわに、手を強く引っ張った。
「走れ、ゾゾエ――こんな場所、いちゃいけない!」
 言うが早いか、私たちはトンネルの方へ踵を返し、脱兎の勢いで逃げ出した。物凄まじい恐怖が雷のように身体を駆ける。それが命の危機による脳からの警報ということに気がついたのは、走り出した後だった。
 わけのわからない悲鳴を上げながらもつれそうになる足を懸命に抑えて走る中、あのユーチューバーが動画の最後で見せていた不可解な行動の意味を理解した。
 筆舌に尽くし難いほど奇怪で異質で、ただ知覚するだけで総毛立ち、あらゆる感情を吹き飛ばされる臭い。彼もこれを嗅いだから全力で逃げたのだ。生命を揺るがすほどの恐怖を味わわせる、あの臭いから一刻も早く離れるために。

 写真だの動画だのをいくら見たところでこの恐怖はわからない。あの場所に立たなければ、どれほど恐ろしいものなのかを実感することはできない。
 私たちはトンネルを一気に抜け、入り口に着いた瞬間ほとんど同時に倒れ伏した。
 それからしばらく、お互いに荒れた息を抑えつけるので精一杯だった。
 仰向けで見る空は青く、雲がゆっくり流れていて、柔い風が鬱蒼と茂る木々を揺らす。
 トンネルが隔てる現世と幽世の差に苛まれ、正常なそれらを見ても恐怖が消えない。
「なんでここに警備員もバリケードもないのか、わかった……」
 いっちゃんは荒い息を吐きながら、空を睨みつけるようにして言う。

「そんなもの、必要ないんだ。どんなバカでもこの先に行けばわかる。誰だって引き返してくる。わざわざ塞いでおく必要がないんだ。この看板はバリケードなんかじゃない。この先が〝もう終わった世界〟だってことを示す、ただの……標識なんだ」
 もう終わった世界――皮肉なほどファンタジックなその言葉の意味を、苦く噛み締める。
 人の手を離れた人工物は、自然の状態で放置されれば草木や動物が脅かす。それはここまで歩いてきた国道を見てわかったことだ。
 しかしきっぱりと引かれた死の境界線の向こうは、あらゆる有機物――すべての生物がKA線によって残らず消滅していて、これからも芽吹くことはない。だからなんの力も加わらず、壊れることもなく、時間が止まったように静止していたのだろう。

 ならば、KA線の真の作用とは破壊ではなく、加速なのではないか。
 生きる者に与えられた時間を刈り取り、強制的に死へ、終滅へと導くもの。
 だとすれば、あの光景は終滅まで時間を加速させられ、もう進む先がなくなって静止した世界の姿だ。だからKA線を止めるには『弾丸』を、生きた人の時間をぶつけて、相殺する必要があるのではないだろうか。
 熱っぽく乱れる思考も呼吸も収まらない。嘘も真もくるくる踊り、あらゆる考えが戦慄に染まって、脳裏を掠めて飛び去っていく。
 それでもあの強烈な光景と香りは、いくつかの事実を私に知らしめてくれた。
 世界はやはり、犠牲という名の切り札を必要としていて。
 世界はやはり、ぎりぎりの薄氷の上に成り立っていて。
 世界はやはり、ゆるゆるとした終末の真っ只中で。
 世界はやはり、それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれっきりの場所だった。

 もう、どんな現実逃避も、しようがない。
「どうしようね、いっちゃん」
「どうしような、ゾゾエ」
 それだけ呟いて、お互いに顔を見合わせてみても、考えらしい考えはひとつも思い浮かばなかった。ただ同じ絶望に打ちひしがれていることだけ、わかった。
 やがて整った息を薄く吐いて立ち上がり、私たちは力なく山を降り始めた。
 中二病はなんの役にも立たなかった。面白がれる余地なんてどこにもなかった。
 いっちゃんは死ななければならない。
 あの大いなる絶望を止めるために、世界と人々を救うために死ななければならない。
 苦しみや痛みに抗ったいっちゃんのかけがえのない人生を握り潰すことになろうとも、世界にはそうするだけの理由がある。

 何百万もの人をあの灰色で塗り潰さないようにするには、一人の事情を慮っていられない。
 だから――いっちゃんの死を認める? それを受け入れる?
 頭も身体も疲れ切ってしまっていた。突きつけられた拳銃のような現実から目を背けるのが精一杯で、そんな大事をどう受け入れるかなんて考えられなかった。
 横を歩くいっちゃんの背は丸く、怪我でもしているかのように足取りが重い。キャップの庇はずっと下向きで、小声でなにかを呟き続けていた。
 掛ける言葉が見つけられない。断頭台の上でギロチンが落ちようとしている人に、どんな言葉を掛けたら正解なのか。その解は存在するのだろうか。
 こんな場所来なければよかった。根拠もなく大人と社会を疑い、あてのない希望を抱いて、そんな浅学と浅慮だけで私はなにを見て、なにを覚悟しようとしたのだろう。

 心が弱く頭も悪く、ただでさえ怯えるものの多い世界でこのうえ恐ろしいものを増やしたところで、できることが増えるわけないのに。残り少ないことがわかっている時間を、ただ親友を傷つけるために浪費してしまった。この責任をどう取ったらいいのだろう。
 かつてない罪悪感に震え、申し訳無さで反吐を戻しそうになりながら歩いていると、遠くから虫の羽音のような甲高い音と、男の人の声が聞こえてきた。
 顔を上げると、緩いカーブの向こうに、行きにはいなかったおじさんが二人、それぞれに乗ってきたらしいバイクの傍らで楽しそうに談笑していた。
 いっちゃんもそれに気がついたようで、少し立ち止まった。なにも言わなかったが、表情と視線の動きだけでいまは誰とも関わりたくないという意思が感じられた。

 顎でしゃくって道の反対側を示したので、それに従っておじさんたちを避けるように大回りで歩き出した。
 おじさんたちはガードレールの向こうの方に視線を向けたまま、大声で熱っぽく喋り合っているので、私たちには気づかないようだった。手元を見ると二人ともコントローラーのようなものを握っていて、視線の先には二機の小型ドローンがぶんぶん飛び回っていた。虫の羽音の正体は、どうやらあのドローンの羽音だったらしい。
「いやー、ここほんと穴場っすね先輩。電波感度めっちゃいいから飛ばしやすいですよ」
「だろ? この辺は誰も住んでないから建物もないし、電波を出すものもないからな」
「空白地帯の外縁なんて、目の付け所が通ですよねえ。線量もアプリでちょこちょこチェックしとけばいいですし」

「そうそう、KA線なんかチェックさえしとけば平気だよ」
 KA線なんか? そのKA線のためにいっちゃんが死ななきゃいけないのに!
 軽率な言葉を吐いてへらへら笑う能天気に腸が煮えくり返り、思わず大声を上げそうになったが、拳を握り締めてなんとか堪えた。こんな場所を遊び場にしているような人たちに、私たちの気持ちなんてわかるはずはない。
「まあ今日日ドローンを飛ばすのも、高度制限やら使用制限やらがある街中じゃ一苦労……」
 先輩と呼ばれていたおじさんがドローンを手元に戻し、バイクの荷台からなにかを取り出そうと振り返ったので、私たちに気づいてしまった。やはりこんな場所を他人が歩いているとは思わなかったようで、うおっと声を上げながら少し仰け反った。

 胸の内に湧いた不快感を隠し切れず、眉を顰めながらもその視線を無視して通り過ぎようとしたが、案の定その人に話しかけられてしまった。
「おいおいおい、君たちどっから来たの? まさか、この上まで行ってきちゃったの?」
 その声に反応して、もう片方のおじさんもドローンを操作しつつ、こちらに振り返った。
「わっ、女子大生……女子高生? なんでこんなとこに?」
 私たちが気になるのか、近くを旋回させていたドローンをバイクの側に着陸させて、不躾な視線でこちらをしげしげと眺め回す。
 嫌だ、なにも喋りたくない。そう思いながら横のいっちゃんの顔を見ると、病人のように真っ青な顔をしていた。
 いま他人に構う余裕なんてまったくない。私はいっちゃんの手を引いて足を速めたが、その後ろからおじさんたちはなおも声を投げかけ続ける。

「おーい、こんなとこ子供が来ちゃ駄目だよー。この先が空白地帯だって知ってるだろー?」
「君たち、徒歩かー? よかったら、おじさんたちが麓まで送ってあげようかー?」
 うるさい。その言葉が優しさからなのか、それとも野次馬根性からなのかを判断することさえ煩わしい。どうだっていい。
 私たちはなにも答えず歩き続けているのに、おじさんたちは送ろうかだの、どうしてこんなところにだの、同じ問答を繰り返す。
 うるさい、うるさい。お願いだから構わないで、ほっといて。
 全力で遠ざかろうとしているのに、その意味が伝わっていないのか、無視しているのか。
 いつまでも私たちに話しかけようとし続ける声に、ついにいっちゃんが振り返らないまま、大声を張り上げた。

「うっせーな! てめえらは一生ドローンで遊んでろよ、クソが!」
 その刺々しさはいつもいっちゃんが中二病で演出したものとは違う、本物の怒りによる棘だった。それに刺されておじさんたちはようやく引いていった。後から不満げな声が聞こえたが、無視した。
 いっちゃんの瞳には僅かだが、確かに涙が揺れていた。激しい怒りの表情を浮かべ、ほとんど泣きかけていながら、唇を固く噛んで堪えていた。
 この世の理不尽は暗殺者のようにどこにでも潜み、どこからでも飛びかかってくる。
 なぜ、このタイミングであんな人たちがこんな所にいたのか。
 なぜ、追い詰められたいっちゃんに止めを刺そうとするのか。
 あれに人の心があるのか。もしあるのだとしたら、全人類が無邪気な理不尽を常に孕んでいて、暗殺者足り得る殺傷力を持っていることになる。誰からも、いつでも刺される。

 そんな理不尽に抗う方法も、どん底まで深まった絶望を忘れる方法もわからず、これ以上傷つきようがないほど傷を負ったいっちゃんの手を、ただ引くことしかできなかった。荒れた山道に何度も足元を滑らせながら、黙りこくって歩いた。
 私はやはり、無知で無力だった。無能で無価値だった。
 いっちゃんが秘密基地で絶望を吐露して泣いた時、なにかひとつでもしてあげられたらと思った。たとえ現実を変えることはできなくとも、その心を少しでも救えたらと思った。
 しかし私ではなにひとつ、どうにもしてあげられない。ほんの少し護ることも救うこともできない。あらゆる方向から襲い来る理不尽と相対するには、私は役に立たない。
 私たちは無言のままバスを乗り継ぎ、電車に乗って帰路に着いた。
 たった一日限りの反抗期。非日常。

 思いつきだけで飛び出した日常の外側は、残酷な場所だった。
 夕暮れていくボックスシートに沈み込み、徐々に建物が増えていく車窓の景色をぼんやり眺める。平和な街並みは他人事のように日常を描いていて、平和そのものだ。
 でも元の街に帰ったところで、そこにもう日常はない。行きに分水嶺と感じられた運命の分かれ目に対する感覚は正しかったが、その自覚は遅すぎたようだ。
 この列車に乗った時から、いっちゃんの告白を受けた時から、いや召集令状が届いたその日からいまに至るまでの出来事はすべて決定づけられていて、揺るがしようがなかったのだ。スーパーパスポートの意味を悟った時に浮かんだ、陰惨な二文字がまざまざと蘇る。
 鳥籠。私たちはどこまで行っても、どこにも行けなかった。
 急行列車を降りて中央駅の雑踏を抜けて電車を乗り継ぎ、最寄り駅から自転車を引いて歩く道すがらすれ違う他人が纏う空気は、昨日と変わっていない。

 どこまでも平和で、いつもどおりの光景だ。
 これを薄情と感じるのは筋違いかもしれない。悲劇のヒロインぶっているのかもしれない。
 それでも何食わぬ顔をして談笑し、明日が来ることを当然のものと信じ切って、先々のために行動し続ける無辜の他人にもはや憧憬も羨望もなく、怪物にしか見えなかった。
 希望とは、暴力だ。それに目を窄めることでしか相対することができない弱虫のことなんて考えもせず、真夏の太陽のように容赦なく照りつけてくる。
 さあ、前向きに。ほら、明るく元気に。頑張ろう、頑張ろう、頑張ろう。
 ああ、道行く皆様、この子は今週末に死ななければならないのですが、そういう時はどのように気を持たせたらよいのでしょう。
 私はこの子がいないと、この先に希望を見出すことはできそうにありません。そういう時はどのように希望を探せばよいのでしょう。

 からから、からから。こんな滅茶苦茶な問いに答える存在などあるはずもなく、自転車の空転音だけが虚しく耳に響く。
「なあ」
 玉川橋の途中、後ろを歩いていたいっちゃんに呼び止められた。振り返る。
 怒っているのか、悲しんでいるのかわからない表情のまま、ぬるい風に吹かれている。
 喜怒哀楽が行方不明で、能面のような顔だった。
「僕は――なんのために生まれて、なんのために死ぬんだ?」
 奈落の底から響いているかのような低い声から、ひしひしと怒気が伝わってくる。
 無色透明な表情は感情がないのでなく、ただぶつけどころのない強い怒りが臨界を超え、どのようにも形作れていないだけだった。

「今日まで蹴っ張って生きてきた。一生懸命生きてきたんだ。でも結局クソみたいな家族に負けて、政府や大人に負けて、〝世界の真実〟にも負けて……意味なんてなんにもなかった。そんで誰も彼もにバカにされたままあんなクソ砲台に詰め込まれて、さっきみたいなクソ共が楽しく暮らせる世界を救うために死ぬのか? 僕が生まれた理由はそんなんなのか?」
 いっちゃんはそう吐き捨てるやいなや自転車を放り出し、狂ったように野太い叫び声を上げた。長く、悲痛に、頭を抱えて叫ぶその様を見てはおれず、手を差し伸べたが、鋭く振り払われた。
 理不尽と恐怖に耐えに耐え、叫び出したいのをずっと我慢していたのだろう。
 張り詰めた糸のように細くデリケートになった理性をなんとか保ち、この瞬間まで冷静に振る舞っていたいっちゃんの強さには畏怖さえ感じられる。
 それでも数々の不条理に、ついに耐え切れなくなったのだろう。

 いっちゃんは泣きながら半狂乱になって、欄干を滅茶苦茶に蹴りつけ、喚き散らす。
「限界だ、限界だ、もう限界だ! 全部全部クソだ、クソッタレだ! 死にたいって言や神妙ヅラで駄目だって抜かして、生きたいって言や召集令状! どいつもこいつも僕に背負わせるだけ背負わせて、なのになんの責任も取らないで……なんなんだよ、ちくしょう!」
 金属のごいんごいんと響く音が大切なものの壊れていく音みたいで、ひどく胸が痛んだ。
「僕のこれはただの中二病か、メンヘラか、それとも悲劇のヒロイン気取りか⁉ 誰だってこんな目に遭い続けりゃこんなんにもなるってんだ、そうだろ!」
 奇異の目で通り過ぎていく人々と、じんじん痛む手を見比べながら、触れることすらできなくなった絶望を目の当たりにしても突っ立っているしかない自分に、燃えるほど慚愧した。

 生まれてきた理由を奪われ、死ぬ理由さえ満足いかない人が、ここにいる。
 そこに侘びも感謝もなくのうのうと暮らす人の浅ましさを知って、それが今日までの自分の姿だったことを知って、恥と後悔を散々噛み締めて、その上で相も変わらずただ親友の前に立ち尽くすだけの薄馬鹿には、答えられることも、できることもなかった。
「もういい。なにもかも押し付けられてクソみたいに死ぬくらいなら、バカにされたままこんな世界を救わされるくらいなら……バカの極みを選択してやる。どんなに強い力でも、選ぶ意思までは止められないってことを見せつけてやる」
 バカの極み――それがどんなことを意味するのか。
 そういうことだけはおそらく、私が世界で一番詳しい。
「応召する前に、自殺するってこと?」
 私の問いかけに、いっちゃんはせせら笑った。

「死ぬって結果はおんなじだ。僕の命は誰がどう説教を垂れたって、もう軽くて仕方ない。親も先公も国も世界も、みんながみんな命の尊厳を説くくせに、僕は今週末そんなみんなのために死ねって? 反吐が出る矛盾だ! どうせ死ぬなら、どう死んだっていいだろ⁉」
 烈しい言葉を吐くいっちゃんの頬を伝う涙は、黄昏の緋色に染められて血のように見えた。
 いいも悪いもない。いっちゃんの言うとおり、意思を止めることなんて誰にもできるはずがない。
 ここで引き留めようがどうしようが、死ぬ結末も変えられない。
 しかしその答えが示された途端、私の頭にずっとかかっていた霧がさあっと晴れていった。生まれてこのかた纏まることのなかった思考が、初めて明瞭になる。

 決して望んではいけなかった禁忌の願望。
 でも心のどこかでずっと燻っていて、それこそが救済だと信じて生きてきた、その願望。
 思わず変な笑いが零れた。身体が勝手に揺れて、どうにも止められない。
 私も狂ってしまったのだろうか。それでもいい。答えがひとつだけ、見つかった。
「おい、なに笑ってんだ」
 いっちゃんが鬼の形相で睨みつけてくる。でも確かな答えを掴んだいま、もう怖くない。
 この答えがどんなに間違っているとしても、いっちゃんを一人ぼっちにさせないために。
 私は自嘲を僅かに漏らしながら、夕空を仰いだ。

「本当に自殺するつもりがある人はね、わざわざそれを他人には言わないっていうのが普通なんだよ。引き止められたり怒られたりするのは、心底面倒臭いからね」
「……なにが言いたい」
 腰を低く落としながら、いまにも噛み付きそうな猛獣を思わせる剣呑さを纏ういっちゃんが睨みつけてくる。
 永久凍土のように冷たく凝り固まって、私の希死念慮を防ぎ止めていた枷が失われていく。喉元に刃を突きつけ続けていた絶望も、生温いチョコレートのようにどろりと溶けて心内を満たしていく。
 私が狂っているのか。いっちゃんが狂っているのか。そんなこと、もうどうだっていい。
 この終わりかけた世界で平然と営まれる人間社会だって、十分狂気の沙汰だと思える。

 そこに住まう不可避の最終兵器〝心〟を持つ怪物たちは、誰も彼も理解不能でただ恐ろしく、逃げることもできず、いつ襲い来るとも知れない矛先を変えることすらできない。
 このまま最低な日々を狂うことなく、真面目に暮らしていかなければいけないのなら。
 ここがどんなに恵まれた場所だとしても――地獄だ。
 仰いだ空から視線を降ろし、いっちゃんの瞳を真正面から見据え、微笑む。
「一緒にいる、って言ってるじゃん。いっちゃんがそうするなら、私もそうするよ」
「お前……」
 いっちゃんが目を丸くする。心底驚いたのか、猛獣のような怒りもすっと掻き消えた。
 いっちゃんが絶望に狂うのなら、私も同じ絶望に染まって狂う。

 いっちゃんが世界を憎むなら、私も憎む。
 いっちゃんが死ぬのなら――私も死ねばいい。
 もはや生きていくために必要だった気力も、条件も、現実逃避も、一切を喪失した。
 地獄を一人で生き抜く力は、私にはない。
「私も別に、いっちゃんのいない世界なんて、生きていたくないよ。クソみたいな依存だし、こんなのが友情って言えるのかわからないけど、でも、ほんと、生きてられないよ。だから一緒にさようならしちゃおう。こんな息苦しい場所じゃなくて、もっと遠いところに行こう」
 自分で放ったその言葉は円錐形になって、胸の内の深くにずぶりと突き刺さった。
 恐ろしいことを口にしているはずなのに、怖いとも、嫌だとも感じない。
 打ちのめされ、疲れすぎてしまって、もう感覚が麻痺しているのかもしれない。

 怒りに猛っていたいっちゃんの威勢は急速に失われ、ふらふらとこちらに歩み寄り、ゆっくりと抱きついてきた。
「……やっぱ、生まれてこなきゃよかったなあ、僕なんて」
 絶望の化身になってしまった親友を受け止め、ぎゅうと抱き締め合う。
 痺れるほどの力でこんなにくっついているのに、どうにも空虚が埋まらない。
 ただ悲しくて、寂しくて、辛い。
 足の裏に地面の感覚がない。生きている実感がない。
 なにもかもがもっともらしく、それでいて嘘くさい。
「そんなことない。私はいっちゃんに会えて、よかったよ」
 もはや声だけが確かな感覚だった。
 私たちはすっかり陽の落ちかかった堤防道で自転車を引きながら歩き、家路に就いた。

「応召は金曜の朝六時だ。だから、その直前に死のう」
「わかった、金曜だね」
 そして薄暗くなったいつもの交差点で手を振り合った。
「じゃあ、またね」
「おう、またな」
 私はきっといつものように、自然な挨拶で別れた。
 そうやって別れて、少しばかり寂しくても、ちゃんと明日もいっちゃんも来てくれると無意識に信じていたから。それがついさっき嫌悪した怪物たちと同じ思考回路であることには、気づきもしないで。
 明日は来ても、いっちゃんは来ないことがわかるのは、月曜日になってからだった。

『隕石なんて落ちてこないから、
クソみたいにゆっくり死んでいく』
を購入する

BOOTH売り場