箱詰めの本当 読了時間の目安 約10分
文字数 4,032文字

 書店員の僕は、朝から蓼原(たではら)さんと一緒に返本用の荷物作りをしていた。
 暑い夏のちょうど真ん中あたりの日だというのに、スーパーの地下の隅っこでケチくさいテナントとして入っているこの書店のバックヤードには冷暖房がついていなかった。地下だから当然、窓もない。切れかかった蛍光灯の明かりだけで薄暗く、蒸し風呂のような場所で僕たちは煤けたダンボール箱に本を詰め続けていた。
 その暑さだけでも十二分に苛立ちの理由足り得たが、それ以上にまちまちな本の大きさが箱の幅とちっとも合わないことにも腸が煮えくり返っていた。
 色彩も大きさもごちゃごちゃで、どれだけ気を払ってパズルを解いても、次に手に取った本がまるで合わない。次に、次にと別の本を取っても、ちっとも隙間に合わない。
 文庫本には大きすぎる隙間。図鑑には小さすぎる隙間。でも返本作業に割ける時間は限られているから、どう見てもスカスカなその箱を封印するしかない。取次が書店に本を寄越してくるときはぴっちりと隙間なく本が詰まっているのに、僕がやるとてんで駄目だった。
「暑いね、蓼原さん」
  たとえば豚骨ラーメンを食べたときに「あ、豚骨ラーメンの味がするね」とでも言うようななんの意味も価値もない表現を、蓼原さんは無視と沈黙で以って答えた。
「本の大きさが箱と全然合わないや。イライラするね」
「気にしなければいいんじゃない。取次だっていちいち合わせろとは言ってきてないし」

 蓼原さんの手元の箱に目を遣ると、仕事ぶりは投げやりそのものだった。僕のより大きな隙間があっても、気にせず封印している。
 ぼたぼたと流れる汗が、返本しなければいけない本の表紙に点々と落ちた。僕はハンカチもティッシュも持ち合わせていなかった。
「本に汗が落ちちゃった。蓼原さん、なにか拭くもの持ってないか」
「レジのとこにティッシュがあったかも」
 必要なら勝手に取ってこい。振り向きさえしないでティッシュの在り処を語る蓼原さんの細い背中には、黒々とした文字でそう書かれている気がした。周囲に堤を作るようにして積み上げてしまった本の垣根を越えるのが億劫で、僕は自分の失態を忘れることにした。
 僕ははっきり自覚している。別段、書店員としてのプライドをかけてとか、社会人としての仕事ぶりがどうとかで、こんな苛立ちを保っているわけではない。ちょっと心向きを変えればこの程度の暑さが耐えられないでもないし、本の大きさが箱に合わないくらいで癇が立つようなきめ細かい人間でもない。僕の落とした汗で本が多少たわもうが、隙間だらけのせいで配送中に本が傷もうが、知ったこっちゃなかった。
 すべては、背中合わせで同じように手を動かし続けているこの人に話しかけるための弾丸だった。

 僕は毎日毎日、日常の細かなところに目を向けて弾を拾った。それを毎日リボルバー式の口内銃に込めた。
 撃ったらそれまでだ。新しい弾丸は口を開くたびに必要になる。一発でも当たれば機関銃のように連射できるのに、蓼原さんにはその一発さえ当たらない。風に舞う柳の葉のようにふわふわしていて、何発撃っても夾叉してしまう。
「そういえば東区のほうに、新しいショッピングモールができたそうだよ。そこに入ってるなんとかっていうカフェの、ふわふわパンケーキセットっていうのが美味しいらしいんだ。今度行ってみない?」
 蓼原さんは変わらず沈黙したまま。
  ほんの少し前まで、これは一世一代の勇気――引き金を躊躇う最後の弾丸だったもの。
 いまとなっては、もうなんの躊躇もなく撃ててしまう。
 この弾も、やはり当たらないとわかってしまったからだ。
 僕が背後の本を取ろうと振り向いた時、ちょうど蓼原さんもこちらを向いて、膝立ちになっていた。僕の頭上を通り越して、スチールラックの上に置かれた紐切りに手を伸ばしているところだった。
「失礼」
 半袖から覗く上腕の奥にちらと見える腋と、二の腕の青黒い痣。
 その一秒にも満たない時間で胸を締め付けられている間に、蓼原さんはもう背中を向けてビニール紐を切る作業に戻っていた。

 僕は知っている。彼女が暴力を振るわれていることを。
 首筋に、小さな内出血があるのを見つけた。
 僕はそれを指差した。
「ねえ、それ、隠しもしないでさ。少しは淫乱だなとか、恥ずかしいなとか、思わないの? クソ女」
 クソ女――四五口径罵倒弾。ヘッドショット。
 少し前までは、嫌われることを恐れて撃てなかった弾。
 この弾は外れない。
「別に」
 やっと、返答。涙が出るほど――嗚呼。
「どうせ私のことなんか、誰も見ちゃいないし」
 誰も――。
 こんなに見ているのに。
 彼女の世界の中に、僕はカウントされていない。
 彼女の彼女による彼女のための孤独を守るため、都合よくなかったことにされた。
「ボコボコにされるのが好きなの?」
「そういう愛情があってもいいんじゃない。お互いが好きあってれば幸せだと思うし」

「バカみたいだ。そうじゃない平和な愛情もあると思うんだけど」
「私には関係ないみたいだから」
「求めようとしてないだけでしょ」
「どこにもないものを、どう求めるの」
 どんなに食い下がっても、返事は素っ気ない。呆然とする僕を差し置いて、蓼原さんはてきぱきと箱に本を詰めていく。
 彼女は徹頭徹尾、自分の正しい幸福がどこかにあるという事実から目を逸らす。
 あえて破滅的なほうがより確かなものとでも思っているのか、自己犠牲を対価にしてその危うい関係に執着する。
 多くの対価を支払えば、そのぶん高価なものが手に入るとでも?
「僕のは、そういう愛情じゃないけど」
 三八口径直情弾。ハートブレイクショット。
 外れるとわかっていれば、こんな歯の浮くようなことも平然と言える。
「君じゃ、駄目だから」
 好きだと言って、好かれず。
 嫌いだと言って、嫌われず。
 罵倒しても、告白しても、なにも感じてもらえない。

 どんな大きさの本を詰めても隙間だらけなこの箱のように。
 僕じゃ、好きも、嫌いも、なにもかも、駄目なのだった。
 蓼原さんが詰め込みの終わった箱を手早く台車に積み上げていく。
 僕もちょうど全部詰め終わったので、同じ台車に箱を積み上げた。
「ごめんね、変なこと言って」
 心にもなく、謝る。
「いいよ。そういうこと、よく言われるから、慣れてるし」
 ああ、果たして。本日も全弾命中せず。
「私が幸せだと、都合の悪い人が多いみたいだから」
 それを、その異常な状況を、こんなにもきっぱりと幸せと言い切る君は、やはり変態か、酔狂か、いずれにせよひどく猥雑なのは間違いない。
 肉と肉をぶつけ合うことでしか恋情さえ感じられない感情性不感症人間。
 しかしその感覚も、ある側面から見れば、実際正しい。
 なにがさて、蓼原さんは彼女自身と、その男にしかわからない愛情や幸福というものを知っていて、独占している。お互いに身も心もそこへ投げ込み、二人して蜂蜜のようにどろどろと甘い情欲に浸って、悦楽を思うさま堪能しているのだ。
 それは部外者の誰にも――僕には指一本触れられない。

 この世の果てほどに遠い、途方もないものだ。  いつか、打ちどころが悪くなって、うっかり死んでしまったところで、そこは蜜月の園の真ん中なのだから、最も幸福な死に方だ。
 僕の銃は無力だった。弾丸は非力だった。その楽園を打ち崩すだけの威力がまるでない。
 彼女は慣れていると、僕みたいなことを言う人は多いと言った。
 いったい何人の男を、この空虚な迷宮に誘い込んだのだろうか。
「蓼原さんって、どんな本が好きなの?」
 すっかり重たくなった台車を二人で押し出す。取っ手を握る手と手が少し触れ合った。
「別に」
 そのことになんの感慨も抱いていないらしい蓼原さんは、冷ややかに答える。
「本とか、そんな好きじゃないし」
 嘘だ。僕はなにかの文庫本の表紙を、あんなにも優しく慈しむようにして微笑んで、大切そうに棚へ収めていたのを見たんだ。
 それが、なんという本なのか。何十と並んだ背表紙を見るだけでは、その本を見つけ出すのは不可能だった。
 僕は、たったそれだけの真実を掴むことさえ、できない位置にいる。
 そんなくだらない嘘を吐かれてしまうのは、僕が好かれているわけでも、嫌われているわけでもないからだろう。

 一切の興味がないのだ。いちいち自分の中の情報を適切な言語に変換して、声にして、口から出す、なんていうひどく面倒な作業を僕に割り当てるほどの興味が、ない。
 その証拠に僕と蓼原さんは知り合ってそろそろ半年、そのあいだ同じ職場で毎日のように顔を合わせているのに、まだ一度も名前を呼ばれていない。
「じゃあ私、書棚の在庫チェックをしてくるから。君はレジと発注をよろしく」
 台車を所定の位置に据え、去っていく彼女に、ああ、と曖昧な首肯を返す。
 蓼原さんとの共同作業はここまでだ。僕はレジに戻らなければならなかった。
「あの、蓼原さん」
 呼びかけると、立ち止まった彼女が振り向いた。
「僕――佐々木って言います。君って名前じゃないです」
 なにも感じてもらえない。なにも考えてもらえない。
 僕はいないのと同じ。それはなにより耐え難い。
 もはや、僕のことが好きでないのなら。
 せめて、僕のことを嫌いになってくれ。
「いい加減、覚えてくれませんか。クソ女」
 それさえ叶わないなら、せめて、その認識範囲に端っこにいるだけでもいいから――。

「知ってるけど」
 蓼原さんは在庫確認用のボードを小脇に抱えながら、少し笑った。
「じゃあ佐々木くん、レジなら発注お願いしますね」
 まさか、わかっててやってるのか、このクソ女は。
 自分が不幸なことも、そうすることが周りを不幸にすることも。
 だというのに、蜜の甘さに負けて、クソ男にべったり依存しやがって。実に悪質極まる。
 なのに、なのになのに。
「わかりました。やっときます」
 僕こそこんな些細な仕草一つで絆される、クソ男だった。
 果たして、本日も全弾命中せず。
 銀紙を噛んだときのような鋭く渋い味の唾液を飲み込み、本棚の影へ去りゆく蓼原さんの背中を少し見てから、僕はレジ横のパソコンで発注作業を始めた。

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箱詰めの本当 読了時間の目安 約10分
文字数 4,032文字

 書店員の僕は、朝から蓼原(たではら)さんと一緒に返本用の荷物作りをしていた。
 暑い夏のちょうど真ん中あたりの日だというのに、スーパーの地下の隅っこでケチくさいテナントとして入っているこの書店のバックヤードには冷暖房がついていなかった。地下だから当然、窓もない。切れかかった蛍光灯の明かりだけで薄暗く、蒸し風呂のような場所で僕たちは煤けたダンボール箱に本を詰め続けていた。
 その暑さだけでも十二分に苛立ちの理由足り得たが、それ以上にまちまちな本の大きさが箱の幅とちっとも合わないことにも腸が煮えくり返っていた。
 色彩も大きさもごちゃごちゃで、どれだけ気を払ってパズルを解いても、次に手に取った本がまるで合わない。次に、次にと別の本を取っても、ちっとも隙間に合わない。
 文庫本には大きすぎる隙間。図鑑には小さすぎる隙間。でも返本作業に割ける時間は限られているから、どう見てもスカスカなその箱を封印するしかない。

 取次が書店に本を寄越してくるときはぴっちりと隙間なく本が詰まっているのに、僕がやるとてんで駄目だった。
「暑いね、蓼原さん」
 たとえば豚骨ラーメンを食べたときに「あ、豚骨ラーメンの味がするね」とでも言うようななんの意味も価値もない表現を、蓼原さんは無視と沈黙で以って答えた。
「本の大きさが箱と全然合わないや。イライラするね」
「気にしなければいいんじゃない。取次だっていちいち合わせろとは言ってきてないし」
 蓼原さんの手元の箱に目を遣ると、仕事ぶりは投げやりそのものだった。僕のより大きな隙間があっても、気にせず封印している。
 ぼたぼたと流れる汗が、返本しなければいけない本の表紙に点々と落ちた。僕はハンカチもティッシュも持ち合わせていなかった。
「本に汗が落ちちゃった。蓼原さん、なにか拭くもの持ってないか」
「レジのとこにティッシュがあったかも」

 必要なら勝手に取ってこい。振り向きさえしないでティッシュの在り処を語る蓼原さんの細い背中には、黒々とした文字でそう書かれている気がした。周囲に堤を作るようにして積み上げてしまった本の垣根を越えるのが億劫で、僕は自分の失態を忘れることにした。
 僕ははっきり自覚している。別段、書店員としてのプライドをかけてとか、社会人としての仕事ぶりがどうとかで、こんな苛立ちを保っているわけではない。ちょっと心向きを変えればこの程度の暑さが耐えられないでもないし、本の大きさが箱に合わないくらいで癇が立つようなきめ細かい人間でもない。僕の落とした汗で本が多少たわもうが、隙間だらけのせいで配送中に本が傷もうが、知ったこっちゃなかった。
 すべては、背中合わせで同じように手を動かし続けているこの人に話しかけるための弾丸だった。
 僕は毎日毎日、日常の細かなところに目を向けて弾を拾った。それを毎日リボルバー式の口内銃に込めた。

 撃ったらそれまでだ。新しい弾丸は口を開くたびに必要になる。一発でも当たれば機関銃のように連射できるのに、蓼原さんにはその一発さえ当たらない。風に舞う柳の葉のようにふわふわしていて、何発撃っても夾叉してしまう。
「そういえば東区のほうに、新しいショッピングモールができたそうだよ。そこに入ってるなんとかっていうカフェの、ふわふわパンケーキセットっていうのが美味しいらしいんだ。今度行ってみない?」
 蓼原さんは変わらず沈黙したまま。
 ほんの少し前まで、これは一世一代の勇気――引き金を躊躇う最後の弾丸だったもの。
 いまとなっては、もうなんの躊躇もなく撃ててしまう。
 この弾も、やはり当たらないとわかってしまったからだ。
 僕が背後の本を取ろうと振り向いた時、ちょうど蓼原さんもこちらを向いて、膝立ちになっていた。僕の頭上を通り越して、スチールラックの上に置かれた紐切りに手を伸ばしているところだった。

「失礼」
 半袖から覗く上腕の奥にちらと見える腋と、二の腕の青黒い痣。
 その一秒にも満たない時間で胸を締め付けられている間に、蓼原さんはもう背中を向けてビニール紐を切る作業に戻っていた。
 僕は知っている。彼女が暴力を振るわれていることを。
 首筋に、小さな内出血があるのを見つけた。
 僕はそれを指差した。
「ねえ、それ、隠しもしないでさ。少しは淫乱だなとか、恥ずかしいなとか、思わないの? クソ女」
 クソ女――四五口径罵倒弾。ヘッドショット。
 少し前までは、嫌われることを恐れて撃てなかった弾。
 この弾は外れない。

「別に」
 やっと、返答。涙が出るほど――嗚呼。
「どうせ私のことなんか、誰も見ちゃいないし」
 誰も――。
 こんなに見ているのに。
 彼女の世界の中に、僕はカウントされていない。
 彼女の彼女による彼女のための孤独を守るため、都合よくなかったことにされた。
「ボコボコにされるのが好きなの?」
「そういう愛情があってもいいんじゃない。お互いが好きあってれば幸せだと思うし」
「バカみたいだ。そうじゃない平和な愛情もあると思うんだけど」
「私には関係ないみたいだから」
「求めようとしてないだけでしょ」

「どこにもないものを、どう求めるの」
 どんなに食い下がっても、返事は素っ気ない。呆然とする僕を差し置いて、蓼原さんはてきぱきと箱に本を詰めていく。
 彼女は徹頭徹尾、自分の正しい幸福がどこかにあるという事実から目を逸らす。
 あえて破滅的なほうがより確かなものとでも思っているのか、自己犠牲を対価にしてその危うい関係に執着する。
 多くの対価を支払えば、そのぶん高価なものが手に入るとでも?
「僕のは、そういう愛情じゃないけど」
 三八口径直情弾。ハートブレイクショット。
 外れるとわかっていれば、こんな歯の浮くようなことも平然と言える。
「君じゃ、駄目だから」
 好きだと言って、好かれず。
 嫌いだと言って、嫌われず。

 罵倒しても、告白しても、なにも感じてもらえない。
 どんな大きさの本を詰めても隙間だらけなこの箱のように。
 僕じゃ、好きも、嫌いも、なにもかも、駄目なのだった。
 蓼原さんが詰め込みの終わった箱を手早く台車に積み上げていく。
 僕もちょうど全部詰め終わったので、同じ台車に箱を積み上げた。
「ごめんね、変なこと言って」
 心にもなく、謝る。
「いいよ。そういうこと、よく言われるから、慣れてるし」
 ああ、果たして。本日も全弾命中せず。
「私が幸せだと、都合の悪い人が多いみたいだから」
 それを、その異常な状況を、こんなにもきっぱりと幸せと言い切る君は、やはり変態か、酔狂か、いずれにせよひどく猥雑なのは間違いない。
 肉と肉をぶつけ合うことでしか恋情さえ感じられない感情性不感症人間。
 しかしその感覚も、ある側面から見れば、実際正しい。

 なにがさて、蓼原さんは彼女自身と、その男にしかわからない愛情や幸福というものを知っていて、独占している。お互いに身も心もそこへ投げ込み、二人して蜂蜜のようにどろどろと甘い情欲に浸って、悦楽を思うさま堪能しているのだ。
 それは部外者の誰にも――僕には指一本触れられない。
 この世の果てほどに遠い、途方もないものだ。
 いつか、打ちどころが悪くなって、うっかり死んでしまったところで、そこは蜜月の園の真ん中なのだから、最も幸福な死に方だ。
 僕の銃は無力だった。弾丸は非力だった。その楽園を打ち崩すだけの威力がまるでない。
 彼女は慣れていると、僕みたいなことを言う人は多いと言った。
 いったい何人の男を、この空虚な迷宮に誘い込んだのだろうか。
「蓼原さんって、どんな本が好きなの?」

 すっかり重たくなった台車を二人で押し出す。取っ手を握る手と手が少し触れ合った。
「別に」
 そのことになんの感慨も抱いていないらしい蓼原さんは、冷ややかに答える。
「本とか、そんな好きじゃないし」
 嘘だ。僕はなにかの文庫本の表紙を、あんなにも優しく慈しむようにして微笑んで、大切そうに棚へ収めていたのを見たんだ。
 それが、なんという本なのか。何十と並んだ背表紙を見るだけでは、その本を見つけ出すのは不可能だった。
 僕は、たったそれだけの真実を掴むことさえ、できない位置にいる。
 そんなくだらない嘘を吐かれてしまうのは、僕が好かれているわけでも、嫌われているわけでもないからだろう。

 一切の興味がないのだ。いちいち自分の中の情報を適切な言語に変換して、声にして、口から出す、なんていうひどく面倒な作業を僕に割り当てるほどの興味が、ない。
 その証拠に僕と蓼原さんは知り合ってそろそろ半年、そのあいだ同じ職場で毎日のように顔を合わせているのに、まだ一度も名前を呼ばれていない。
「じゃあ私、書棚の在庫チェックをしてくるから。君はレジと発注をよろしく」
 台車を所定の位置に据え、去っていく彼女に、ああ、と曖昧な首肯を返す。
 蓼原さんとの共同作業はここまでだ。僕はレジに戻らなければならなかった。
「あの、蓼原さん」
 呼びかけると、立ち止まった彼女が振り向いた。
「僕――佐々木って言います。君って名前じゃないです」
 なにも感じてもらえない。なにも考えてもらえない。

 僕はいないのと同じ。それはなにより耐え難い。
 もはや、僕のことが好きでないのなら。
 せめて、僕のことを嫌いになってくれ。
「いい加減、覚えてくれませんか。クソ女」
 それさえ叶わないなら、せめて、その認識範囲に端っこにいるだけでもいいから――。
「知ってるけど」
 蓼原さんは在庫確認用のボードを小脇に抱えながら、少し笑った。
「じゃあ佐々木くん、レジなら発注お願いしますね」
 まさか、わかっててやってるのか、このクソ女は。
 自分が不幸なことも、そうすることが周りを不幸にすることも。
 だというのに、蜜の甘さに負けて、クソ男にべったり依存しやがって。実に悪質極まる。

 なのに、なのになのに。
「わかりました。やっときます」
 僕こそこんな些細な仕草一つで絆される、クソ男だった。
 果たして、本日も全弾命中せず。
 銀紙を噛んだときのような鋭く渋い味の唾液を飲み込み、本棚の影へ去りゆく蓼原さんの背中を少し見てから、僕はレジ横のパソコンで発注作業を始めた。

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