読了時間の目安 約25分
文字数 10,188文字
※本作には猟奇的な表現がございます。
 苦手な方はご注意ください。

 いったい僕は子供の頃から、目玉というやつが好きだ。
 どういう意味で好きかと問われれば、断じて特殊な性的嗜好や変態的な物欲あるいは所有欲などではない。食用としての意味である。
 初めてそれを食べたのは、いくつの頃だったろうか。記憶が茫洋と薄れるほどに幼かったのは確かだ。夕飯のおかずとして食卓に並んだアジの開き。兄弟が多く、貧乏な我が家ではごちそうに違いないメニューであった。
 しかし好き嫌いの激しかった幼い僕はさして感動を覚えることもなく、また下手な箸使いであったために身のほとんどを骨からこそぎ取ることができず、大変に面白くない思いをしたことは憶えている。当時僕が好きだったものといえば唐揚げや甘い玉子焼き、鮭味のふりかけくらいのもので、その他の食べ物にはほとんど興味を示さない、わかりやすくありふれた偏食の少年だった。

 そのとき、なぜ目玉などというピンポイントな部分に対して興味を持ったのか。少なくとも〝ウマそう〟だとか〝食べてみたい〟だとかいう思考に至ったわけではない。当時の僕の引っ込み思案な性格を鑑みれば、むしろブヨブヨとした得も言われぬグロテスクな見た目によって食欲減退、卓前逃亡などを引き起こしてもよさそうなものだ。
 たしか、残飯になりかけたアジの開きと睨めっこしていた僕に、祖母か誰かがこんなことを言ったのだ。
 〝それはね、目玉、食べられるんだよ〟
 その言葉に少なからず衝撃を受けたのをよく憶えている。
 平凡な日常生活を営む中で、目玉を食するような猟奇的な行為があろうか。それが当然のような風をして食卓に並ぶ怪奇現象に、思わず総毛立ってしまう。

 いや、幼かった僕がそんな深慮をしたわけではない。これはあくまで現在の僕が考える〝目玉を食す行為〟に対する率直な感想である。
 とかく僕はいたくその行為に興味を持った。下手くそな箸を懸命に使い、散々に目玉の周りをほじくり返し、ようやく真っ白なBB弾のような目玉を取り出した。これは実にはっきりと憶えている。普段は茶碗にへばりついた米粒さえ満足に摘めないのに、なぜかそのときは神がかった技術が僕の指先に宿り、その小さな小さな目玉をしっかと掴んでいたのである。
 僕はそれを食べた。むろん、目玉にさしたる味などなかった。まさに無味無臭、いや少し生臭かっただろうか。歯応えは固く、しかし芯になっているごく小さな筋の周りはすぐに口の中でもろもろと崩れて消えた。

 口に入れて噛み砕き、飲み下すまで五秒とかかっていないだろう。
 しかし、その五秒にも満たない感覚こそ、僕の一生を決定づけた瞬間に相違ない。その瞬間さえなければ目玉の食感が僕をこんなにも魅了することも、度し難い残虐行為に至上の喜びを見つけ出すこともなかったのだ。
 誓って言うが、僕が食したことがあるのは魚の目玉だけだ。他の目玉を食べたことも、ほじくり返したこともない。ただ、そういう衝動が年齢を重ねるごとに強く、大きく、身体と一緒に成長していったのは確かである。
 小学校では大して問題にならなかった。中学校でもまあ大丈夫だった。高校、大学でもなんとか誤魔化した。問題は社会人になってから起きた。
 少々風変わりな趣味を露出することもなく生きた僕に、初めて彼女ができたのだ。

 同僚が地道に取引先や営業先で涙ぐましい努力を重ね、ついに叶った合コンに参加したとき知り合った。顔立ちは地味で小柄、髪は長く化粧は薄め。取引先の印刷会社で事務などをしているごく普通のOLである。
 重要なのは、彼女の目はリスのようにくりくりと丸く黒く、とてもはっきりしていることである。周りに言わせれば小動物のような可愛さがあるらしいが、僕の脳裏には幼い頃に見た、あのアジの開きの目玉がありありと想い出されるばかりだった。
 あれを箸でほじくったらどうだろうか。
 人間の目玉とはどんな味だろうか。どんな食感だろうか。
 呪われた感覚だった。もし本当にそんなことをすればどうなるか。間違いなく彼女は失明する。痛みや恐怖のあまりにショック死するかもしれない。僕だってそんな拷問じみたおぞましい最期は考えたくもない。

 しかし禁断の欲望は日に日に僕の脳みそを蝕んだ。同じベッドで横に眠る至近距離の彼女の顔は、もはや顔ではなく目玉だった。小振りな鼻や瑞々しい口、つややかな髪などはちっとも目に映らない。瞼を閉じてもくっきり浮かぶ眼球の厚ぼったさが、呼吸とともに震える。
 それが僕をどうしようもなく魅了する。見てはいけない。考えてはいけない。そうして目を背ければ背けるほど、甘美で危険な欲求がひたひたと追いかけてくる。 「ねえ、今度の日曜日はどこに行く?」
「そうだな、君はどこか行きたいとこがあるのかい?」
「ううん、じゃあドライブでもどう? 本格的に暑くなってしまう前に、海沿いを走ったら気持ちいいんじゃない?」
「ああ、いいね。じゃあちょっと遠出して、なにかうまいものでも食べに行こう」

「やったあ。あっ、一応日焼け止め買っておかなきゃ。夏より初夏のほうが紫外線が強いらしいから」
 こんな何気ない会話を交わしている間でさえ、彼女の瞳に釘付けだ。
 その視線に暗暗と込めているのは恋情でも愛情でもない。食欲だ。見つめていたいのではない。食べたいのだ。
 運転の最中、視線を前方に固定していても、心が向かっている先は彼女の瞳だけだった。
 初夏を迎えようとする爽やかな陽光がきらめく海沿いの道も、青々と茂る山肌から吹き降ろす土の匂いが混じった風も、僕の感情を少しも動かしはしない。
 目、眼、メ……。ああ、目だ。とにかく、目なのだ。思い焦がれる。
 中古の軽自動車に備えられたエアコンから流れる埃っぽい冷房は、妙に火照った身体をちっとも癒してくれない。

 吹き出る嫌な手汗がハンドルを黒っぽく濡らし、じっとり染み付いていく。まるで涙に濡れた眼球のように。そうだ、こいつも丸っこい。瞳に見えないこともない。なんと狂った妄想だ。自慰の作法さえいい加減なのだ。こんなもので、こんなことで、満たされるのなら、苦悩はない。無駄な抵抗を止め、忘れることだ。
 忘れて、彼女のことを考えるのだ。彼女の、彼女の、彼女の……なんだっけ。
「ねえ、あなたって本当によくわたしを見つめるわね」
 気が付くと、彼女と向かい合ってテーブルについていた。揚げたてらしい大盛りのエビフライが湯気を立てている。僕は意識しないうちに箸を茶碗に突っ込み、白米を口元まで持ち上げているところだった。
 これは僕の日常において、度々起こることだ。自分に夢中になり、思考が現実から遊離してしまう。

 僕の意識は穴が抜けたように不連続的に並べ立てられ、なにかの拍子にはっと我に返ってやっと認識を再開するのだ。
 ドライブをしていたはずの僕たちはどうやら目的地だった海辺の定食屋に辿り着き、名物のエビフライランチ定食を注文していたらしい。彼女の前にも僕と同じ盆が揃えられ、すでにエビフライが一口ほど齧られた形跡がある。
 僕のくだらない才能として、こんなときうまく誤魔化すことができるというのがある。咄嗟の反射神経で薄い笑顔を作り、胸のどこに用意してあったのか定かでない歯の浮くような台詞を臆面もなく吐き出してみせる。
「いや、悪いね。君が可愛くて、ついね」
「うそつき」
「えっ」
「そんなのうそ。わかっているのよ。あなたが本当は、別のこと考えてるって」

 微笑みながら揚がったエビを口に運ぶ彼女の双眸は、そのとき確かに遥か彼方まで続く洞穴のように黒く貫通していた。その奥の奥から、得体の知れない妖気のような、無邪気のような、毒ガスじみた感情がふわりと漏れ出してくる。こんな彼女を見るのは初めてだった。
 僕の数少ない才能はわずかの輝きを見せることもできずに呆気無く崩壊し、情けなく狼狽え始めた。
 大丈夫、大丈夫だ。幽霊の正体見たり枯れ尾花。彼女はなにも知らない一般人だ。
 お化けでもエスパーでもない。なにも恐れることはない。
 僕の頭の中身なんて知りようがない。そのはずだ。そうだよね?
 どんなに自らを鼓舞しても尽きない疑念が笊のようになっていて、振り絞る勇気をちっとも受け止められない。それどころかますます僕の身体を侵食し、次々と伝播していく。

 まさに毒ガスだ。毒が回るのだ。胸の震えはもう、手の震えに連なってしまっている。うっかり箸を転がさないように堪えるだけで精一杯だった。
「ははは、怖いことを言うなあ。別のことって、たとえば?」
 それは果たして確認だったのか、それとも挑発だったのか。どちらにせよ愚かなことだった。自ら窮地に進んでしまったようなものだった。
 どのような答えが返るにせよ、あの目の奥に潜むなにものかに触れてしまうべきではなかった。誤魔化さなければならなかった。全速力で逃げるべきだった。
 でも、もう、おそい。
 彼女は、嫌にゆっくりと口を開いた。
「そう、たとえば、わたしの目玉のこととか」
 僕はついに両手に持っていた茶碗と箸とをいっぺんに取り落とした。
 がちゃんと割れて転がって白飯はちらばり、箸はどこかへ飛んでいった。

 不安の風船に毒ガスが詰まって、一気に膨張する。まるまると大きく大きく、あっという間に僕の心内を席巻し驚慌する。
 この呪われた趣味を、彼女に、誰かに話したことはない。あるはずがない。
 だから誰一人もこのことを知るはずがない。なのにどうして。
 口からでまかせを言っているだけだ。ただの偶然だ。そうに決まっている。ありえない。
 けれど疑念の笊にはもはや完全な大穴が開いていた。奈落の底へ通じる深淵そのものである。勇気も希望も楽観も足を滑らせて残らず落ち込み、闇の中へ見えなくなっていく。
 僕は震えながらテーブルの下にもぐり、引きつった笑いなどを工面しながら、まだ熱い白飯を手で掬った。
「いや、面白いことを言うね、君は。びっくりして落っことしちゃったよ」

 喉が勝手にそんなことを言った。思考はでんぐり返っていて、冷静さを欠いている。
 そこへ彼女の次の一言が、とどめの致命傷を食らわせてきた。
「あら、誤魔化さなくったっていいのに。わたしとあなたの仲なんだから……ねえ?」
 彼女は、どんな顔をしているのだろうか。
 笑っているのか、怒っているのか、蔑んでいるのか、呆れているのか。どうとでも取れる声だった。
 テーブルの天板を透して、僕を射すくめているのが背中にひしひしと伝わってくる。
 掬いかけた白飯が、震える両手の隙間からぼろぼろと崩れ落ちていった。まるで、僕自身の生涯と同じように。
 軽い火傷を負った手の平が随分遠くでひりついている。感覚がさあっと頭の芯のほうへ引っ込んで、にわかに鈍感が埋め尽くしていく。

 なにも感じられなくなった途端。ぐらり世界が揺れる。視界が廻る。酩酊酩酊。強烈な吐き気が全身を舐めまわす。触れていく。気が触れていく。衝動。激動。食欲。貪欲。
 ああ申し訳ない。舐めたい食べたいほじくり回したい。そうですそうです。本当です。ごめんなさい。
 閻魔の前に引っ立てられ、すべての罪を見透かされている気分だった。テーブルの向こうで優しく歪む彼女の微笑みは、どんな地獄に叩き落とそうかと楽しげな鬼そのもの。
「じゃあ、帰りましょう」
 どこへ?
 恐る恐る立ち上がり、そう聞こうとしたとき店員のおばさんがこちらに駆け寄り、あらあら大丈夫ですかなどと言いながら手際よく床を片付けていった。呆然と立ち尽くす僕を尻目に、彼女が笑顔で応対している。僕は完全に取り残されてしまっていた。

 腰が抜けたように椅子に座り直したあとも彼女が定食を平らげてしまうまで、取り替えられた新しいご飯の米粒をずっと睨み続けていた。
「やっと掴まえた」
 ほうほうの体で店を出たとき、後ろに続いていた彼女はそう呟いた。
 理解力も行動力も著しく低下していた僕は、ただ縋るような視線だけで問い掛けた。
 それはどういう意味なんだい。君はそのうまそうな瞳の奥に、まだなにを飼い隠しているんだい。
「これからどうする?」
「どう、って」
「まだドライブの続きをする? それとも……帰る?」
 僕は仮初めの第六感に目覚めたかのような錯覚に陥った。
 彼女の言葉の裏が()える。そんな逆説的錯覚だ。それは盲目に等しい。されども僕にとってはどうあっても事実でしかなかった。狭窄な認識が勝手に補完され、別の言葉になってしまっているのだ。

 まだ茶番を続けるのか、あるいは自分に向き合うのか、と。無情に、いたく脅迫的に。
 なにも言わないまま車に乗り込み、僕はハンドルを家路の方角へと回した。方角を定めた途端、僕を覆っていたゆりかごのような幻想の繭は弾けて消えた。そのとき、僕は初めて彼女の顔を見た気がした。
 アパートに着いた頃にはすっかり日が暮れかかっていて、部屋には柔い西日が差し込んでいるところだった。
 朱色に染められた部屋で、僕は彼女に忌まわしい欲望のすべてを白状した。頬を黄昏色に染めた彼女は僕の話をすべて聞き入れて、しばらく黙り込み、ややあって僕の手を取った。
「あなたのそれを叶えてあげる。その代わり、わたしの言うことも聞いてほしい。絶対約束するって言うなら、いますぐにあなたの望みを叶えてあげる」

 まな板の鯉、とは、このようなときに使う言葉だろうか。この場合、まな板の上に転がっているのは彼女だろうか。それとも僕だろうか。どうでもいいことをぐるぐると考えながら、もう一度まんまるい瞳を見つめる。
 真剣そのものだ。洞穴のような奥行きから、いまは朧なものは一つも感じられない。気体だった黒色は密度を圧縮させ、氷柱のようになって僕の方を向いていた。
 それは彼女自身もまた長い間持ち続けていたのであろう、なにか強い願望を宿しているように思えた。平静を装っているだけで、彼女も緊張していることを微かに震える身体が物語っている。だから、これが最後の選択であることもなんとなくわかった。
 ここで否と選べば、もう二度とチャンスは巡ってこない。今生これっきりだ。

 たった一つしかない選択肢が、僕の心にのしかかってゆく。
 決めなければ。いま決めなければ。でも、誰の為に?
「ねえ、どうするの」
 急かす彼女の声に、心拍数が上がる。つられて気道が閉まる。認識が閉塞していく。
 思考が、嗜好が、まっすぐまっすぐ収束していく。
「さあ、はやく」
 ついに長年抑え続けた僕の心が、ふらりと杖を手放した。
 支えを失って、望む方向へぐったりと倒れこんでいく。
 観念か、諦観か、あるいは。
 僕は遮二無二、細く小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「わかった。君の言うことを聞くよ。だからお願いだ。僕は、君の……」
 すると彼女はにっこりと微笑み、僕の唇に指を重ねた。
「いいの、わかってたから。きっと、そう応えてくれるってことも。じゃあ、始めましょう」
 そう言って立ち上がった彼女は台所に行き、僕の箸を持ってきた。

「わたしはどうしていたらいい?」
「じゃあ、寝てもらおうかな」
 彼女は頷き、ゆっくりと横になった。そして目を見開き、瞼をぴたりと上側に縛り付ける。
 僕は驚いた。
「まさか、このまま?」
「だって、ほかにどうするの?」
 確かに専門的な器具も外科的な知識もない。欲望だけは何十年も持ち続けてきたものの、こと実際の知識に関しては素人だった。まあ〝目玉を食する〟ことの知識など、どこでどう学べばいいのか、という疑問はあるが――。
 しかし彼女の並々ならぬ覚悟は本物に相違なかった。
 僕は深呼吸して、覚悟を決めた。右手に強く箸を握りしめる。
「じゃ、いいかい」
「ええ、いいわ」
 僕は左手を彼女の右肩に添え、覆い被さるような形で上から覗き込んだ。

 石仏のように硬くなった彼女は、しかし生命に独特の躍動感を瞳に残し、揺らいでいる。生きている。喉の辺りがずっとなにかを飲み込むように上下運動を繰り返している。
 僕は震えそうになる手を全力で押しとどめ、鋭い刃のような箸をゆっくりと目に近づけていく。冷静沈着な僕の脳のどこかが、これはどういう種類の拷問だと糾弾する。良心が強い同意を見せながら顰め面をするのを振り切り、ゆっくり箸を彼女の右目に近づけていく。アジの開きの目玉に箸を突き立てた過日を切れ切れに思い出しながら、ゆっくり、ゆっくり。
 ――それはね、目玉、食べられるんだよ。
 あの日、あのとき、僕はどの部分を穿ったんだっけか。
 どのくらいの速さで、どのくらいの強さで穿ったんだっけか。

 彼女が小さい声の混じった息を漏らした。嬌声にも似たそれに僕の浮遊しかけた意識が引き戻されたとき、箸はもう彼女の右目の右側の奥深くに突き刺さっていた。
 その光景を見た途端、靄のかかったような脳内が晴れ渡り、閃光のように古い記憶が駆け抜けていった。
 そうだ、そうだ、あのときも、そうだ。
 僕の右手に、あのときと同じ神様が宿った。
 指がいやらしくも精密な動作で箸を操作し、瞬く間に巧みに鮮やかに、彼女の眼窩から右目を繰り抜いた。
 ああ、なんて美しいんだろう。彼女の血と涙で染められた眼球が箸に挟まれ、綺麗な真円を保ったまま夕陽に照らされ光り輝いていた。間違いなく、なにより美しい宝石だった。この世で最も尊い財宝だった。
 儚く、健気で、嘘偽りのない、まったくの目。目だ。これが目なのだ。

 この感動をどう称えたらよいのか、僕の貧弱な語彙ではとても表せない。その悔しさも、あとから追いかけてきた欲求にすぐさま抜かれてしまった。
 ごくり、生唾を呑みこむ。待ち望み、恋い焦がれた瞬間は、訪れたのだ。
 僕はついに、彼女の右の目玉を口に入れた。
 魚の目玉より遥かに巨大で、柔らかい感触が口の中をコロコロと転がる。
 おそらくは涙の塩分と、赤い鉄の味と思われる風味が同時に鼻腔の奥へ立ち上り、彼女がこれまで映してきた人生のすべてが拡がっていく錯覚に陥る。
 筆舌に尽くし難い、壮大で壮絶な味。これが彼女の味。
 愛しさが全身を駆け抜け、切なさがその後を追い、のたうち回るような、恐怖にも似た感覚が肌という肌を這っていく。

 ゆっくりと咀嚼する。ゼリー状に繋がった視神経が舌にねっとりと絡みつき、弾けた眼球が圧倒的な高速度でぶわっと口中に、脳内に拡散する。いよいよ僕は恍惚として、少しずつ、少しずつ嚥下する。唾液と混ざり合ってとろとろになって、食道をゆったり流れていく感触が心地良い。
 目玉って、こんなにうまいものだったのか。味や風味だけでは語れない、あまりにも茫漠とした、感情のような、世界観のような、色も形もないもの。僕と彼女のなにかが渾然一体となり、わずか一口に凝縮されて、この世の真理を語りかけてくるようだ。
 これこそをきっと〝視る〟と言うのだろう。
 視覚を通せば脳の自己都合的な解釈により、見え方が変わってしまう。すると見るべき側面が変わってしまい、思考はたった一つに限定されてしまう。人間の愚かさの所以だ。

 どれほど理屈を並べても、結局最初に選んだ一面から完全に離別することはできない。先入観の呪縛から自由になることはほとほと難しい。
 けれど、この感覚はどうだ。彼女の見たもの、感じたもの、すべてがいっぺんに僕の中へ入って、あらゆる内臓に浸透し、全身の血管を通して脳に到達する。身体の内側が感じることに齟齬はない。心の揺らぎは嘘を吐かない。これこそ、まさに真実だ。
 僕は目玉を完全に飲み込んだ。ごっくんと食い尽くした。とろとろとした感触は胃にしっかりと辿り着き、消化されていくのさえ手に取るようにわかるようだ。
 目玉はまだ、もう一つある。
 僕は無我夢中になって左の目玉に飛びついた。煩わしい箸なんて投げ捨てた。からんからんと乾いた音が遠くの床で鳴り、ぼけた黄昏の向こうへと消えていった。

 荒々しく蠢く神性の指を眼窩に突っ込み、半分以上を潰しながら目玉を引きちぎった。
 丁寧に取り出した右目と異なり、左目は僕の指先にべっとりと赤く絡みついた。幼子がそうするように、潰れかかった目玉ごと指にむしゃぶりついた。先ほどの高尚な味わいと打って変わり、今度は濃い鉄臭さがツンと鼻を突く。一瞬、自分が鼻血を吹き出したのかと思ったくらいだ。
 二度目は衝撃よりも奥深さが際立った。先程は極めて前衛的な物事の知覚方法を目の当たりにし、今度はついに禁断の欲望が叶った幸福感が実感として認識される。
 やにわに泣き出しそうなくらいに満たされてしまった。とにかく幸福だった。これまでに背負い続けた重責がいっぺんに消え去って、心も身体も軽くなった。

 無重力的な快感に抱かれて、心内から生じた得も言われぬ浮遊感に抵抗なく身を預けた。
 ふと気がつくと、下着が湿っていた。いつの間にか射精したらしい。仕方がない。今日までずっと求めあぐね、叶うはずもなかった願いが成就してしまったのだ。この感動と衝撃を前にすれば、情けなくも生理的な反応が示されるのは当然のことだろう。絶頂とは、このようなときに使う言葉に違いない。
「どう?」
 絶頂の無重力空間に、神の啓示のような彼女の声が響いた。
 僕はそれに無上の喜びで以って答えた。
「最高だ。幸せだよ。目玉の味って、こんなふうだったんだって。宙に浮くような、無限を感じるような……いや、そんなんじゃない。はは、僕は駄目だ。こんな言葉じゃ、この気持ちをとても言い表せない。どう言えばいいのか、全然わからないよ」

「いいえ、それだけで十分わかったわ。よかった、あなたは幸せになったのね」
「うん、そうだよ」
 その通りだった。僕は神に祝福され、確かに楽園の中にいた。
 その次の、彼女の言葉を聞くまでは。
「ああ、見えない。本当に目玉が無くなってしまったのね」
「見えない? 見えない、って?」
 彼女はもう一度、同じことを言った。
「見えないわ。なんにも」
 刹那、無重力だった僕に何千倍もの重力が一条に戻り、地表の現実まで翻った波濤の如く叩き落とされた。そして否が応にも彼女の顔に視線を引きつけられた。
 空っぽな瞳が血の涙を滔々と流し、虚しく瞼だけを瞬かせていた。
 その瞬間、僕はようやく自分のしでかしたことを〝正確に〟認識した。
 ああ、なんてことだ。なんてことをしてしまったんだろう。

 わかりきっていたはずなのに。考えるまでもないことなのに。
 僕の愚かな実験的残虐独善行為により、彼女は永遠に光を失ってしまった。
 楽園の空は暗転し、束の間に訪れた満足や幸福はどこかへ走り去り、濁流のような罪悪感が押し寄せる。
 謝罪の言葉さえ見つけられないまま愕然とへたり込んだ僕に、彼女は妖しく微笑みかけた。
「ねえ、いま、どんな気持ち?」
 どんな? どんなだろう。
 絶望、屈辱、後悔、背徳。知る限りの語彙を並べてみても、合致するものが見つからない。
 宇宙の真理に辿り着いたのだと思われたほどに明晰で清涼だった思考は、いまやどす黒く真っ赤な澱みに塗り潰されていた。無重力だった幸福は反転し、僕を圧し潰そうとする深海の底のような辛苦になってしまっていた。

 なにもわからない。水面近くで死にかけた金魚のように、ただ口をぱくぱくとさせることしかできない。
 そんな憐れな僕を見ることのできなくなった彼女が、ふわりと抱きしめてくれた。
「わたしの目玉はおいしかった? あなたの夢は叶ったのかしら? ねえ、なにか言って。わたしはもう、あなたの顔が見えないのだから」
「……ああ、叶った。うまかった。この上なく、うまかった。けど、なぜだろう。あんなにも感動的だったのに、いまはもうなにもない。どうして? こんなはずじゃなかったのに」
「なにかを得るというのは難しいことだわ。わたしにはわかる。あなたは叶ってもいないし、得てもいない。きっと、その逆だわ」
 彼女の言葉を聞いて、僕はやっと理解した。

 〝目玉を食べたい〟という思いこそが、きっと僕だったのだ。それが僕の正体で、すべてだったのだ。
 それが達成されてしまったいま、もう魂が成仏してしまったのと同じだ。僕という存在は、人生は、このたった一つの目的を果たし、無事に終了した。
 確かに唯一の望みを叶え得た。しかしそれは同時に、僕自身の生きる意味が終わってしまう諸刃の剣だった。生きる目的も、原動力も失ってしまったのだ。もうなにもない。これでおしまい。暗く静かな欲望が満たされ、枯れたいま、もはや為す術がない。
「じゃあ、今度はわたしのお願い、聞いてくれる?」
 いや、望みはまだ残っている。
 彼女が、僕に望むことが。
 暮れないの中、頷いてみせた。目玉を失っているのに、まるで僕のことが見えているかのようにはにかむ。
「わたしが欲しいのはね」
 彼女は優しい両手で、僕の頭をそっと包み込んだ。
「あなたの脳みそ」

 うっかりと孤独になりかけた心がふわりと解れる。見失いかけた幸福と満足が戻ってきて、また僕を満たしていく。
 なるほど。彼女も確かに、僕と同じだったのだ。彼女が僕に抱いていた感情も愛や恋などではなかった。食欲だったのだ。
 いつの間にか用意されていたハンマーが、こつんと頭蓋を叩く音がした。
「ずっと、ずっとよ。わたしもあなたと一緒。ねえ、わたしたち、出会えてよかった。そうでしょう?」
 求めているのは同意ではなく、恭順。
 虜であり、囚人であり、奴隷だった。僕も、彼女も、見えないなにかの。
 決して人のことは言えない。僕だってそうだから。
 けれど、言わずにはおれなかった。言う前に思わず、少しだけ笑ってしまった。
「キチガイだ」
 すると彼女も、満面の笑みを浮かべた。
「そういうこと」

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 いったい僕は子供の頃から、目玉というやつが好きだ。
 どういう意味で好きかと問われれば、断じて特殊な性的嗜好や変態的な物欲あるいは所有欲などではない。食用としての意味である。
 初めてそれを食べたのは、いくつの頃だったろうか。記憶が茫洋と薄れるほどに幼かったのは確かだ。夕飯のおかずとして食卓に並んだアジの開き。兄弟が多く、貧乏な我が家ではごちそうに違いないメニューであった。
 しかし好き嫌いの激しかった幼い僕はさして感動を覚えることもなく、また下手な箸使いであったために身のほとんどを骨からこそぎ取ることができず、大変に面白くない思いをしたことは憶えている。当時僕が好きだったものといえば唐揚げや甘い玉子焼き、鮭味のふりかけくらいのもので、その他の食べ物にはほとんど興味を示さない、わかりやすくありふれた偏食の少年だった。

 そのとき、なぜ目玉などというピンポイントな部分に対して興味を持ったのか。少なくとも〝ウマそう〟だとか〝食べてみたい〟だとかいう思考に至ったわけではない。当時の僕の引っ込み思案な性格を鑑みれば、むしろブヨブヨとした得も言われぬグロテスクな見た目によって食欲減退、卓前逃亡などを引き起こしてもよさそうなものだ。
 たしか、残飯になりかけたアジの開きと睨めっこしていた僕に、祖母か誰かがこんなことを言ったのだ。
 〝それはね、目玉、食べられるんだよ〟
 その言葉に少なからず衝撃を受けたのをよく憶えている。
 平凡な日常生活を営む中で、目玉を食するような猟奇的な行為があろうか。それが当然のような風をして食卓に並ぶ怪奇現象に、思わず総毛立ってしまう。

 いや、幼かった僕がそんな深慮をしたわけではない。これはあくまで現在の僕が考える〝目玉を食す行為〟に対する率直な感想である。
 とかく僕はいたくその行為に興味を持った。下手くそな箸を懸命に使い、散々に目玉の周りをほじくり返し、ようやく真っ白なBB弾のような目玉を取り出した。これは実にはっきりと憶えている。普段は茶碗にへばりついた米粒さえ満足に摘めないのに、なぜかそのときは神がかった技術が僕の指先に宿り、その小さな小さな目玉をしっかと掴んでいたのである。
 僕はそれを食べた。むろん、目玉にさしたる味などなかった。まさに無味無臭、いや少し生臭かっただろうか。歯応えは固く、しかし芯になっているごく小さな筋の周りはすぐに口の中でもろもろと崩れて消えた。

 口に入れて噛み砕き、飲み下すまで五秒とかかっていないだろう。
 しかし、その五秒にも満たない感覚こそ、僕の一生を決定づけた瞬間に相違ない。その瞬間さえなければ目玉の食感が僕をこんなにも魅了することも、度し難い残虐行為に至上の喜びを見つけ出すこともなかったのだ。
 誓って言うが、僕が食したことがあるのは魚の目玉だけだ。他の目玉を食べたことも、ほじくり返したこともない。ただ、そういう衝動が年齢を重ねるごとに強く、大きく、身体と一緒に成長していったのは確かである。
 小学校では大して問題にならなかった。中学校でもまあ大丈夫だった。高校、大学でもなんとか誤魔化した。問題は社会人になってから起きた。
 少々風変わりな趣味を露出することもなく生きた僕に、初めて彼女ができたのだ。

 同僚が地道に取引先や営業先で涙ぐましい努力を重ね、ついに叶った合コンに参加したとき知り合った。顔立ちは地味で小柄、髪は長く化粧は薄め。取引先の印刷会社で事務などをしているごく普通のOLである。
 重要なのは、彼女の目はリスのようにくりくりと丸く黒く、とてもはっきりしていることである。周りに言わせれば小動物のような可愛さがあるらしいが、僕の脳裏には幼い頃に見た、あのアジの開きの目玉がありありと想い出されるばかりだった。
 あれを箸でほじくったらどうだろうか。
 人間の目玉とはどんな味だろうか。どんな食感だろうか。
 呪われた感覚だった。もし本当にそんなことをすればどうなるか。間違いなく彼女は失明する。痛みや恐怖のあまりにショック死するかもしれない。僕だってそんな拷問じみたおぞましい最期は考えたくもない。

 しかし禁断の欲望は日に日に僕の脳みそを蝕んだ。同じベッドで横に眠る至近距離の彼女の顔は、もはや顔ではなく目玉だった。小振りな鼻や瑞々しい口、つややかな髪などはちっとも目に映らない。瞼を閉じてもくっきり浮かぶ眼球の厚ぼったさが、呼吸とともに震える。
 それが僕をどうしようもなく魅了する。見てはいけない。考えてはいけない。そうして目を背ければ背けるほど、甘美で危険な欲求がひたひたと追いかけてくる。 「ねえ、今度の日曜日はどこに行く?」
「そうだな、君はどこか行きたいとこがあるのかい?」
「ううん、じゃあドライブでもどう? 本格的に暑くなってしまう前に、海沿いを走ったら気持ちいいんじゃない?」
「ああ、いいね。じゃあちょっと遠出して、なにかうまいものでも食べに行こう」

「やったあ。あっ、一応日焼け止め買っておかなきゃ。夏より初夏のほうが紫外線が強いらしいから」
 こんな何気ない会話を交わしている間でさえ、彼女の瞳に釘付けだ。
 その視線に暗暗と込めているのは恋情でも愛情でもない。食欲だ。見つめていたいのではない。食べたいのだ。
 運転の最中、視線を前方に固定していても、心が向かっている先は彼女の瞳だけだった。
 初夏を迎えようとする爽やかな陽光がきらめく海沿いの道も、青々と茂る山肌から吹き降ろす土の匂いが混じった風も、僕の感情を少しも動かしはしない。
 目、眼、メ……。ああ、目だ。とにかく、目なのだ。思い焦がれる。
 中古の軽自動車に備えられたエアコンから流れる埃っぽい冷房は、妙に火照った身体をちっとも癒してくれない。

 吹き出る嫌な手汗がハンドルを黒っぽく濡らし、じっとり染み付いていく。まるで涙に濡れた眼球のように。そうだ、こいつも丸っこい。瞳に見えないこともない。なんと狂った妄想だ。自慰の作法さえいい加減なのだ。こんなもので、こんなことで、満たされるのなら、苦悩はない。無駄な抵抗を止め、忘れることだ。
 忘れて、彼女のことを考えるのだ。彼女の、彼女の、彼女の……なんだっけ。
「ねえ、あなたって本当によくわたしを見つめるわね」
 気が付くと、彼女と向かい合ってテーブルについていた。揚げたてらしい大盛りのエビフライが湯気を立てている。僕は意識しないうちに箸を茶碗に突っ込み、白米を口元まで持ち上げているところだった。
 これは僕の日常において、度々起こることだ。自分に夢中になり、思考が現実から遊離してしまう。

 僕の意識は穴が抜けたように不連続的に並べ立てられ、なにかの拍子にはっと我に返ってやっと認識を再開するのだ。
 ドライブをしていたはずの僕たちはどうやら目的地だった海辺の定食屋に辿り着き、名物のエビフライランチ定食を注文していたらしい。彼女の前にも僕と同じ盆が揃えられ、すでにエビフライが一口ほど齧られた形跡がある。
 僕のくだらない才能として、こんなときうまく誤魔化すことができるというのがある。咄嗟の反射神経で薄い笑顔を作り、胸のどこに用意してあったのか定かでない歯の浮くような台詞を臆面もなく吐き出してみせる。
「いや、悪いね。君が可愛くて、ついね」
「うそつき」
「えっ」
「そんなのうそ。わかっているのよ。あなたが本当は、別のこと考えてるって」

 微笑みながら揚がったエビを口に運ぶ彼女の双眸は、そのとき確かに遥か彼方まで続く洞穴のように黒く貫通していた。その奥の奥から、得体の知れない妖気のような、無邪気のような、毒ガスじみた感情がふわりと漏れ出してくる。こんな彼女を見るのは初めてだった。
 僕の数少ない才能はわずかの輝きを見せることもできずに呆気無く崩壊し、情けなく狼狽え始めた。
 大丈夫、大丈夫だ。幽霊の正体見たり枯れ尾花。彼女はなにも知らない一般人だ。
 お化けでもエスパーでもない。なにも恐れることはない。
 僕の頭の中身なんて知りようがない。そのはずだ。そうだよね?
 どんなに自らを鼓舞しても尽きない疑念が笊のようになっていて、振り絞る勇気をちっとも受け止められない。それどころかますます僕の身体を侵食し、次々と伝播していく。

 まさに毒ガスだ。毒が回るのだ。胸の震えはもう、手の震えに連なってしまっている。うっかり箸を転がさないように堪えるだけで精一杯だった。
「ははは、怖いことを言うなあ。別のことって、たとえば?」
 それは果たして確認だったのか、それとも挑発だったのか。どちらにせよ愚かなことだった。自ら窮地に進んでしまったようなものだった。
 どのような答えが返るにせよ、あの目の奥に潜むなにものかに触れてしまうべきではなかった。誤魔化さなければならなかった。全速力で逃げるべきだった。
 でも、もう、おそい。
 彼女は、嫌にゆっくりと口を開いた。
「そう、たとえば、わたしの目玉のこととか」
 僕はついに両手に持っていた茶碗と箸とをいっぺんに取り落とした。
 がちゃんと割れて転がって白飯はちらばり、箸はどこかへ飛んでいった。

 不安の風船に毒ガスが詰まって、一気に膨張する。まるまると大きく大きく、あっという間に僕の心内を席巻し驚慌する。
 この呪われた趣味を、彼女に、誰かに話したことはない。あるはずがない。
 だから誰一人もこのことを知るはずがない。なのにどうして。
 口からでまかせを言っているだけだ。ただの偶然だ。そうに決まっている。ありえない。
 けれど疑念の笊にはもはや完全な大穴が開いていた。奈落の底へ通じる深淵そのものである。勇気も希望も楽観も足を滑らせて残らず落ち込み、闇の中へ見えなくなっていく。
 僕は震えながらテーブルの下にもぐり、引きつった笑いなどを工面しながら、まだ熱い白飯を手で掬った。
「いや、面白いことを言うね、君は。びっくりして落っことしちゃったよ」

 喉が勝手にそんなことを言った。思考はでんぐり返っていて、冷静さを欠いている。
 そこへ彼女の次の一言が、とどめの致命傷を食らわせてきた。
「あら、誤魔化さなくったっていいのに。わたしとあなたの仲なんだから……ねえ?」
 彼女は、どんな顔をしているのだろうか。
 笑っているのか、怒っているのか、蔑んでいるのか、呆れているのか。どうとでも取れる声だった。
 テーブルの天板を透して、僕を射すくめているのが背中にひしひしと伝わってくる。
 掬いかけた白飯が、震える両手の隙間からぼろぼろと崩れ落ちていった。まるで、僕自身の生涯と同じように。
 軽い火傷を負った手の平が随分遠くでひりついている。感覚がさあっと頭の芯のほうへ引っ込んで、にわかに鈍感が埋め尽くしていく。

 なにも感じられなくなった途端。ぐらり世界が揺れる。視界が廻る。酩酊酩酊。強烈な吐き気が全身を舐めまわす。触れていく。気が触れていく。衝動。激動。食欲。貪欲。
 ああ申し訳ない。舐めたい食べたいほじくり回したい。そうですそうです。本当です。ごめんなさい。
 閻魔の前に引っ立てられ、すべての罪を見透かされている気分だった。テーブルの向こうで優しく歪む彼女の微笑みは、どんな地獄に叩き落とそうかと楽しげな鬼そのもの。
「じゃあ、帰りましょう」
 どこへ?
 恐る恐る立ち上がり、そう聞こうとしたとき店員のおばさんがこちらに駆け寄り、あらあら大丈夫ですかなどと言いながら手際よく床を片付けていった。呆然と立ち尽くす僕を尻目に、彼女が笑顔で応対している。僕は完全に取り残されてしまっていた。

 腰が抜けたように椅子に座り直したあとも彼女が定食を平らげてしまうまで、取り替えられた新しいご飯の米粒をずっと睨み続けていた。
「やっと掴まえた」
 ほうほうの体で店を出たとき、後ろに続いていた彼女はそう呟いた。
 理解力も行動力も著しく低下していた僕は、ただ縋るような視線だけで問い掛けた。
 それはどういう意味なんだい。君はそのうまそうな瞳の奥に、まだなにを飼い隠しているんだい。
「これからどうする?」
「どう、って」
「まだドライブの続きをする? それとも……帰る?」
 僕は仮初めの第六感に目覚めたかのような錯覚に陥った。
 彼女の言葉の裏が()える。そんな逆説的錯覚だ。それは盲目に等しい。されども僕にとってはどうあっても事実でしかなかった。

 狭窄な認識が勝手に補完され、別の言葉になってしまっているのだ。まだ茶番を続けるのか、あるいは自分に向き合うのか、と。無情に、いたく脅迫的に。
 なにも言わないまま車に乗り込み、僕はハンドルを家路の方角へと回した。方角を定めた途端、僕を覆っていたゆりかごのような幻想の繭は弾けて消えた。そのとき、僕は初めて彼女の顔を見た気がした。
 アパートに着いた頃にはすっかり日が暮れかかっていて、部屋には柔い西日が差し込んでいるところだった。
 朱色に染められた部屋で、僕は彼女に忌まわしい欲望のすべてを白状した。頬を黄昏色に染めた彼女は僕の話をすべて聞き入れて、しばらく黙り込み、ややあって僕の手を取った。
「あなたのそれを叶えてあげる。その代わり、わたしの言うことも聞いてほしい。絶対約束するって言うなら、いますぐにあなたの望みを叶えてあげる」

 まな板の鯉、とは、このようなときに使う言葉だろうか。この場合、まな板の上に転がっているのは彼女だろうか。それとも僕だろうか。どうでもいいことをぐるぐると考えながら、もう一度まんまるい瞳を見つめる。
 真剣そのものだ。洞穴のような奥行きから、いまは朧なものは一つも感じられない。気体だった黒色は密度を圧縮させ、氷柱のようになって僕の方を向いていた。
 それは彼女自身もまた長い間持ち続けていたのであろう、なにか強い願望を宿しているように思えた。平静を装っているだけで、彼女も緊張していることを微かに震える身体が物語っている。だから、これが最後の選択であることもなんとなくわかった。
 ここで否と選べば、もう二度とチャンスは巡ってこない。今生これっきりだ。

 たった一つしかない選択肢が、僕の心にのしかかってゆく。
 決めなければ。いま決めなければ。でも、誰の為に?
「ねえ、どうするの」
 急かす彼女の声に、心拍数が上がる。つられて気道が閉まる。認識が閉塞していく。
 思考が、嗜好が、まっすぐまっすぐ収束していく。
「さあ、はやく」
 ついに長年抑え続けた僕の心が、ふらりと杖を手放した。
 支えを失って、望む方向へぐったりと倒れこんでいく。
 観念か、諦観か、あるいは。
 僕は遮二無二、細く小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「わかった。君の言うことを聞くよ。だからお願いだ。僕は、君の……」
 すると彼女はにっこりと微笑み、僕の唇に指を重ねた。
「いいの、わかってたから。きっと、そう応えてくれるってことも。じゃあ、始めましょう」

 そう言って立ち上がった彼女は台所に行き、僕の箸を持ってきた。
「わたしはどうしていたらいい?」
「じゃあ、寝てもらおうかな」
 彼女は頷き、ゆっくりと横になった。そして目を見開き、瞼をぴたりと上側に縛り付ける。
 僕は驚いた。
「まさか、このまま?」
「だって、ほかにどうするの?」
 確かに専門的な器具も外科的な知識もない。欲望だけは何十年も持ち続けてきたものの、こと実際の知識に関しては素人だった。まあ〝目玉を食する〟ことの知識など、どこでどう学べばいいのか、という疑問はあるが――。
 しかし彼女の並々ならぬ覚悟は本物に相違なかった。
 僕は深呼吸して、覚悟を決めた。右手に強く箸を握りしめる。
「じゃ、いいかい」

「ええ、いいわ」
 僕は左手を彼女の右肩に添え、覆い被さるような形で上から覗き込んだ。
 石仏のように硬くなった彼女は、しかし生命に独特の躍動感を瞳に残し、揺らいでいる。生きている。喉の辺りがずっとなにかを飲み込むように上下運動を繰り返している。
 僕は震えそうになる手を全力で押しとどめ、鋭い刃のような箸をゆっくりと目に近づけていく。冷静沈着な僕の脳のどこかが、これはどういう種類の拷問だと糾弾する。良心が強い同意を見せながら顰め面をするのを振り切り、ゆっくり箸を彼女の右目に近づけていく。アジの開きの目玉に箸を突き立てた過日を切れ切れに思い出しながら、ゆっくり、ゆっくり。
 ――それはね、目玉、食べられるんだよ。
 あの日、あのとき、僕はどの部分を穿ったんだっけか。
 どのくらいの速さで、どのくらいの強さで穿ったんだっけか。

 彼女が小さい声の混じった息を漏らした。嬌声にも似たそれに僕の浮遊しかけた意識が引き戻されたとき、箸はもう彼女の右目の右側の奥深くに突き刺さっていた。
 その光景を見た途端、靄のかかったような脳内が晴れ渡り、閃光のように古い記憶が駆け抜けていった。
 そうだ、そうだ、あのときも、そうだ。
 僕の右手に、あのときと同じ神様が宿った。
 指がいやらしくも精密な動作で箸を操作し、瞬く間に巧みに鮮やかに、彼女の眼窩から右目を繰り抜いた。
 ああ、なんて美しいんだろう。彼女の血と涙で染められた眼球が箸に挟まれ、綺麗な真円を保ったまま夕陽に照らされ光り輝いていた。間違いなく、なにより美しい宝石だった。この世で最も尊い財宝だった。
 儚く、健気で、嘘偽りのない、まったくの目。目だ。これが目なのだ。

 この感動をどう称えたらよいのか、僕の貧弱な語彙ではとても表せない。その悔しさも、あとから追いかけてきた欲求にすぐさま抜かれてしまった。
 ごくり、生唾を呑みこむ。待ち望み、恋い焦がれた瞬間は、訪れたのだ。
 僕はついに、彼女の右の目玉を口に入れた。
 魚の目玉より遥かに巨大で、柔らかい感触が口の中をコロコロと転がる。
 おそらくは涙の塩分と、赤い鉄の味と思われる風味が同時に鼻腔の奥へ立ち上り、彼女がこれまで映してきた人生のすべてが拡がっていく錯覚に陥る。
 筆舌に尽くし難い、壮大で壮絶な味。これが彼女の味。
 愛しさが全身を駆け抜け、切なさがその後を追い、のたうち回るような、恐怖にも似た感覚が肌という肌を這っていく。

 ゆっくりと咀嚼する。ゼリー状に繋がった視神経が舌にねっとりと絡みつき、弾けた眼球が圧倒的な高速度でぶわっと口中に、脳内に拡散する。いよいよ僕は恍惚として、少しずつ、少しずつ嚥下する。唾液と混ざり合ってとろとろになって、食道をゆったり流れていく感触が心地良い。
 目玉って、こんなにうまいものだったのか。味や風味だけでは語れない、あまりにも茫漠とした、感情のような、世界観のような、色も形もないもの。僕と彼女のなにかが渾然一体となり、わずか一口に凝縮されて、この世の真理を語りかけてくるようだ。
 これこそをきっと〝視る〟と言うのだろう。
 視覚を通せば脳の自己都合的な解釈により、見え方が変わってしまう。すると見るべき側面が変わってしまい、思考はたった一つに限定されてしまう。人間の愚かさの所以だ。

 どれほど理屈を並べても、結局最初に選んだ一面から完全に離別することはできない。先入観の呪縛から自由になることはほとほと難しい。
 けれど、この感覚はどうだ。彼女の見たもの、感じたもの、すべてがいっぺんに僕の中へ入って、あらゆる内臓に浸透し、全身の血管を通して脳に到達する。身体の内側が感じることに齟齬はない。心の揺らぎは嘘を吐かない。これこそ、まさに真実だ。
 僕は目玉を完全に飲み込んだ。ごっくんと食い尽くした。とろとろとした感触は胃にしっかりと辿り着き、消化されていくのさえ手に取るようにわかるようだ。
 目玉はまだ、もう一つある。
 僕は無我夢中になって左の目玉に飛びついた。煩わしい箸なんて投げ捨てた。からんからんと乾いた音が遠くの床で鳴り、ぼけた黄昏の向こうへと消えていった。

 荒々しく蠢く神性の指を眼窩に突っ込み、半分以上を潰しながら目玉を引きちぎった。
 丁寧に取り出した右目と異なり、左目は僕の指先にべっとりと赤く絡みついた。幼子がそうするように、潰れかかった目玉ごと指にむしゃぶりついた。先ほどの高尚な味わいと打って変わり、今度は濃い鉄臭さがツンと鼻を突く。一瞬、自分が鼻血を吹き出したのかと思ったくらいだ。
 二度目は衝撃よりも奥深さが際立った。先程は極めて前衛的な物事の知覚方法を目の当たりにし、今度はついに禁断の欲望が叶った幸福感が実感として認識される。
 やにわに泣き出しそうなくらいに満たされてしまった。とにかく幸福だった。これまでに背負い続けた重責がいっぺんに消え去って、心も身体も軽くなった。

 無重力的な快感に抱かれて、心内から生じた得も言われぬ浮遊感に抵抗なく身を預けた。
 ふと気がつくと、下着が湿っていた。いつの間にか射精したらしい。仕方がない。今日までずっと求めあぐね、叶うはずもなかった願いが成就してしまったのだ。この感動と衝撃を前にすれば、情けなくも生理的な反応が示されるのは当然のことだろう。絶頂とは、このようなときに使う言葉に違いない。
「どう?」
 絶頂の無重力空間に、神の啓示のような彼女の声が響いた。
 僕はそれに無上の喜びで以って答えた。
「最高だ。幸せだよ。目玉の味って、こんなふうだったんだって。宙に浮くような、無限を感じるような……いや、そんなんじゃない。はは、僕は駄目だ。こんな言葉じゃ、この気持ちをとても言い表せない。どう言えばいいのか、全然わからないよ」

「いいえ、それだけで十分わかったわ。よかった、あなたは幸せになったのね」
「うん、そうだよ」
 その通りだった。僕は神に祝福され、確かに楽園の中にいた。
 その次の、彼女の言葉を聞くまでは。
「ああ、見えない。本当に目玉が無くなってしまったのね」
「見えない? 見えない、って?」
 彼女はもう一度、同じことを言った。
「見えないわ。なんにも」
 刹那、無重力だった僕に何千倍もの重力が一条に戻り、地表の現実まで翻った波濤の如く叩き落とされた。そして否が応にも彼女の顔に視線を引きつけられた。
 空っぽな瞳が血の涙を滔々と流し、虚しく瞼だけを瞬かせていた。
 その瞬間、僕はようやく自分のしでかしたことを〝正確に〟認識した。
 ああ、なんてことだ。なんてことをしてしまったんだろう。

 わかりきっていたはずなのに。考えるまでもないことなのに。
 僕の愚かな実験的残虐独善行為により、彼女は永遠に光を失ってしまった。
 楽園の空は暗転し、束の間に訪れた満足や幸福はどこかへ走り去り、濁流のような罪悪感が押し寄せる。
 謝罪の言葉さえ見つけられないまま愕然とへたり込んだ僕に、彼女は妖しく微笑みかけた。
「ねえ、いま、どんな気持ち?」
 どんな? どんなだろう。
 絶望、屈辱、後悔、背徳。知る限りの語彙を並べてみても、合致するものが見つからない。
 宇宙の真理に辿り着いたのだと思われたほどに明晰で清涼だった思考は、いまやどす黒く真っ赤な澱みに塗り潰されていた。無重力だった幸福は反転し、僕を圧し潰そうとする深海の底のような辛苦になってしまっていた。

 なにもわからない。水面近くで死にかけた金魚のように、ただ口をぱくぱくとさせることしかできない。
 そんな憐れな僕を見ることのできなくなった彼女が、ふわりと抱きしめてくれた。
「わたしの目玉はおいしかった? あなたの夢は叶ったのかしら? ねえ、なにか言って。わたしはもう、あなたの顔が見えないのだから」
「……ああ、叶った。うまかった。この上なく、うまかった。けど、なぜだろう。あんなにも感動的だったのに、いまはもうなにもない。どうして? こんなはずじゃなかったのに」
「なにかを得るというのは難しいことだわ。わたしにはわかる。あなたは叶ってもいないし、得てもいない。きっと、その逆だわ」
 彼女の言葉を聞いて、僕はやっと理解した。

 〝目玉を食べたい〟という思いこそが、きっと僕だったのだ。それが僕の正体で、すべてだったのだ。
 それが達成されてしまったいま、もう魂が成仏してしまったのと同じだ。僕という存在は、人生は、このたった一つの目的を果たし、無事に終了した。
 確かに唯一の望みを叶え得た。しかしそれは同時に、僕自身の生きる意味が終わってしまう諸刃の剣だった。生きる目的も、原動力も失ってしまったのだ。もうなにもない。これでおしまい。暗く静かな欲望が満たされ、枯れたいま、もはや為す術がない。
「じゃあ、今度はわたしのお願い、聞いてくれる?」
 いや、望みはまだ残っている。
 彼女が、僕に望むことが。
 暮れないの中、頷いてみせた。目玉を失っているのに、まるで僕のことが見えているかのようにはにかむ。

「わたしが欲しいのはね」
 彼女は優しい両手で、僕の頭をそっと包み込んだ。
「あなたの脳みそ」
 うっかりと孤独になりかけた心がふわりと解れる。見失いかけた幸福と満足が戻ってきて、また僕を満たしていく。
 なるほど。彼女も確かに、僕と同じだったのだ。彼女が僕に抱いていた感情も愛や恋などではなかった。食欲だったのだ。
 いつの間にか用意されていたハンマーが、こつんと頭蓋を叩く音がした。
「ずっと、ずっとよ。わたしもあなたと一緒。ねえ、わたしたち、出会えてよかった。そうでしょう?」
 求めているのは同意ではなく、恭順。
 虜であり、囚人であり、奴隷だった。僕も、彼女も、見えないなにかの。
 決して人のことは言えない。僕だってそうだから。

 けれど、言わずにはおれなかった。言う前に思わず、少しだけ笑ってしまった。
「キチガイだ」
 すると彼女も、満面の笑みを浮かべた。
「そういうこと」

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